「救えなかった者、救われた者」劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来 asyuliさんの映画レビュー(感想・評価)
救えなかった者、救われた者
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複数ある戦いの中で、あえてタイトルを「猗窩座再来」とする――それほどまでに猗窩座戦は、この物語において決定的な意味を持っていた。映画の大半を占め、そして回想も含めて伝えたいことが丁寧に描かれていたのは、本当に良かった。
鬼になるか、ならないか。それは実は紙一重であり、日常の中に潜んでいる。
もし炭治郎があの時、妹・禰󠄀豆子まで奪われていたら? 彼もまた鬼になっていたかもしれない。言わば猗窩座と炭治郎は表裏一体なのだ。
狛治(猗窩座)も炭治郎も、努力家でひたむきで、守る者がなければ生きられない――(ともに名前に「治」を持つことも含め)共通点は多い。
炭治郎は禰󠄀豆子が生き残ったことで希望を繋ぎ、さらに義勇に救われた。あの日が、彼にとっての運命の分岐点だった。
一方で、狛治はすべてを失ってしまった。帰るのが遅れたのは二人とも同じだが、
ただ一つ違ったのは――守りたい人が生き残ったか。その差が、二人の運命を大きく分けてしまった。
「誰しも、当たり前だと思っていた日常は、ふと失われてしまう。」
善逸や胡蝶しのぶの言葉や回想は、まさにその現実を突きつけてくる。
心が満たされない――それだけで鬼になる者がいる。鬼になる可能性は、実は誰の隣にも潜んでいる。
獪岳と善逸の対比が、その危うさを一層際立たせる。そして猗窩座と炭治郎の鏡像関係を、より鮮明に浮かび上がらせる。
猗窩座が首を切って死ななかったのも、根本の解決にならなかったからだ。猗窩座に必要だったのは刀ではなく、拳での制裁であり、救済でもあったのだろう。
救うための拳。「生まれ変われ」と告げるために。
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