「「強さ」を求めた「弱い」鬼」劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来 和製タフィローズさんの映画レビュー(感想・評価)
「強さ」を求めた「弱い」鬼
「お前も鬼にならないか?」
前作で登場し、我らの煉獄さんを奪った、あの憎き鬼「猗窩座」…。今作はその猗窩座が堂々の主役だ。だがしかし、劇場で待っているのは憎しみでも、悲しみでもない、、、他ならないあなたの「罪悪感」である。
猗窩座の背景はとにかく切ない、そして胸を打つ…。猗窩座の過去で、あなたが見るのは、罪を犯し、父を失い、最愛の人を失い、自分を失った猗窩座ではない。あなたはあなた自身を見ることになる。猗窩座の犯した罪は、多かれ少なかれ、誰しも犯したことのある、一般化された罪だからだ。
人は、誰かを守るために誰かを傷つけことがある。その守るための行為が、また誰かを傷つけ、ときには取り返しのつかない悲しみを生む。あなたにもあるはずだ。友達を、家族を、恋人を守るために言った言葉が、大切な誰かを途方もなく傷つけたはずだ。猗窩座も父を守るため、盗みを働く。その結果待っていたのは、最愛の父の自死であった。
人はその原因を弱さに求める。強さがあれば、弱いものを十分に守れ、誰も悲しませずに済むからだ。だからこそ、人は弱いものに苛立ち、時に責める。仕事のできない同僚に、スーパーでぐずる赤ん坊に、横断歩道を渡れない老人に、、、本来守るべきものに、心は逆立つ。猗窩座は言う「弱いものには、腹が立つ。虫唾が走る」ー炭治郎は答える「お前は間違っている。お前も弱かったころがあったはずだ」ースクリーンに映る激しい戦いの中で呼び起こされるのは、弱かった、そしてきっと今も弱い、あなた自身だ。
猗窩座は、強さを求める。強者を見つけては、「お前も鬼にならないか?」と誘う。強くなりたいという一心で強者との戦いに興じる。ただ、それは全くの裏返しである。大切なものを守れなかった、弱い自分から目を背けるため、猗窩座は何百年も戦いに身を置いた。弱者を屠り、強者を求め続けた。
「なぜ強くなりたかったか?」を猗窩座が思い出した時、猗窩座は自らの命を断つ。再生する身体を自らの拳で破る。そして、その最中、夢現の中で、猗窩座は最愛の人たちと再会する。彼らは猗窩座を赦し、猗窩座は強さを求める「鬼」をやめ、弱くとも誰かを愛し、抱きしめることができる「人」に戻る。
誰しも心の中に「鬼」をもつ。誰かのための戦いが、取り返しのつかない悲しみを生む。そして、目を背けるために拳を振るう「鬼」となる。「お前も鬼にならないか?」ー強者を仲間に迎えたがる猗窩座の性質は、1人で目を背けられない弱さに他ならない。あなたもきっとその1人だ。誰かを弱者にし、そして自己を正当化するために、強者たちと群れる。あなたがいつも悪人扱いしている、あの人は、本当に敵なのだろうか?あの人を傷つけなければいけないのは、あなた自身が「弱い」からではないかー。
あなたには出来るだろうか?誰からも褒められも、認められも、慰められもせず、猗窩座のように、これ以上誰も傷つけないために、自死を選ぶことを。
選ぶことが出来ずとも、明日からはきっと新しい自分になれる。なぜなら、「強さ」を求めて弱いものを虐げる「弱い」鬼は、猗窩座と共に死んだのだから。
誰よりも「人」として死んだ猗窩座という「鬼」に敬意を表したい。
本題からは逸れるので、最後にまとめて作品構成について。
本作は、胡蝶忍と童磨の戦い、善逸と獪岳の戦い、炭治郎・富岡と猗窩座の戦い、を含む。
原作未読勢としては、満足いく内容だったが、原作既読勢ならば、冒頭2つの戦いを物足りなく思うかもしれない。というのも、猗窩座戦が本作の主題となっており、他2戦は淡々と進まざるを得なかったように思う。両キャラともに、とても人気のキャラであるので、もう少し心情の掘り下げ、アクション、演出があっても良かったのではないか。とはいえ、猗窩座戦を劇場作品として十分にまとめるには、こういう構成にならざるを得ない。そうした制約の中で、テンポよく、内容に疑義を抱かないように上手にまとめている。この点、前作は無限列車→猗窩座襲来の分量が劇場作品として適切だった分、前作の方が作品、エンタメとして良質であったと評価される。
でも、猗窩座、めっちゃ感動したわ。前作も素晴らしかったけど、今作もそれに並ぶ出色の出来である。
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