「兎に角鬼凄い鬼メーションや!!」劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来 Starseekerさんの映画レビュー(感想・評価)
兎に角鬼凄い鬼メーションや!!
まさに期待に違わぬ現時点で出来うる限りの全てを詰め込んだ最高レベルの鬼メーションならぬアニメーション作品やなと認めざるを得ない出来やった。
原作再現度ハンパない、無間城の表現アンビリーバボーやわホンマ。
漫画読了で物語知ってても関係なく、というか寧ろ知ってるほうがより没入できて映像と音声音楽、声優陣の渾身の演技などで泣けるほど感動するし。まったく脱帽するわこりゃ。前作の無限列車編から更にグレードアップしつつ物語的にも猗窩座へのリベンジやら炭治郎や善逸の成長やら忍やカナヲの無念やらで盛りだくさんやし。まあ回想がやや冗長に感じなくもないがこれは単に敵の鬼を倒すだけの悪役というだけではなく多面的に描くために外せない要素ではあるし。
まあ大満足な出来やが、もう少し遊び心とか?アニオリ要素なんかを入れられたらって気もしたな。しかしこれ以上要素を増やすと上映時間長すぎて視聴者も流石に限界を超えるというか、自分のお尻の痛みが限界を超えてしまうので無理やがな。
ただ物語全体を通して鬼や鬼殺隊の様相を見て感じるのは理不尽な状況をどの様に意味づけしてどう生きるかによって、鬼と鬼殺隊のどちらかの立場の世界へ分かれて行くということだね。何故こんな過酷な運命が我が身に降りかかるのかを考えるよりそれに対してどう反応し行動するかということが肝要てことなんやな。
鬼殺隊最強クラスの剣士だった巌勝が上弦の壱黒死牟となった様に鬼と鬼狩りは正反対の立場ながら紙一重の差しかない陰陽表裏一体の存在であることが作中で描かれているように。
それからよくよく考えるとやっぱり人が鬼となる過程は、厳勝や童磨や半天狗、玉壺など例外もあるとは言え大抵はまず何らかの災難に見舞われ、自分に起こったその現象に対してネガティヴなリアクションをとったことが原因で、心が先に鬼になってしまったということが全ての鬼の共通点やと思う。先ず心が鬼になった後その鬼の心の波動が鬼舞辻無惨の血を引き寄せて鬼化することになったということで、畢竟鬼は目に見えない人の心の中にあるネガティヴでダークな抑え難い奔流のような感情のエネルギーで、それに飲まれてしまった者が鬼となるということなんやと思う。
そして炭治郎が遺伝的に鬼としての最も優れた資質を持っていたにも関わらず、そんなダークエナジーに飲まれず無垢で澄んだ心のままでいられたのはやっぱり家族愛という無条件の愛に近い純粋なエネルギーをその根幹として持っていたからということなんやろな。長々とした考察みたいなものまで読んでもろてえらいすんまへんな〜。😅
しかしホンマに素晴らしい作品を作ってくれたスタッフキャストの皆さんおおきに!!😁ほな続編も期待してるでぇ〜。てか期待しかないわ!😆
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