「回想シーンが長いとかそうではなくて」劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来 asakitizさんの映画レビュー(感想・評価)
回想シーンが長いとかそうではなくて
猗窩座首切られているのに再生ってどうなんですか?炭治郎が父さんの熊切りエピソードから得た殺気を消すという戦法。よくやったと思ったのにそりゃないよ。首切られての回想シーンで充分では?
お館様は「無惨は首切っても死なないだろう」って言ってたけど、猗窩座は無惨レベルですか。じゃあ上弦の更に上の二人も同じ?
倒すの無理ですよね。
猗窩座がなぜ首切られても再生できるのかの説明も欲しかったですね。納得できないなぁ。同じ感想の人いませんか?
答えは首切っても簡単にやられない方が面白いからです。
煉獄さんがあれだけ戦っても勝てなかったんですから。
あっさり勝てたら拍子抜けでした、だからあれでいいのです。
鬼殺隊がアザで覚醒するのだから、鬼が覚醒しても全然おかしくないですし。
鬼は自らの思い描く形に自身の肉体を変貌させている事。また、鬼滅の刃の鬼は怪異の類ではなく、生物として描かれている。
その為、生物として進化や突然変異もあるものとして考えられているとみられます。
無惨は首を斬っても死にませんし、禰豆子も太陽を克服していることを踏まえると。
猗窩座が急所の首を克服するのは、話としてあってもおかしくはないかと思います。
ジャンプは「努力」「友情」「勝利」なんだよね。
猗窩座はその条件を満たしていたので奇跡を起こして良いことになったんじゃなかろうか。
そもそも上弦残り2体も割と普通に首切られて死んだって感じじゃなかったように思うし、万全ならあいつらも首切りで死んでないんだろうなとか思って読んでた気がする。
とはいえ、この辺は自分も原作では「上弦も無惨もいい加減しぶと過ぎて面倒臭い」とか思ってた記憶があるので、やっぱりおっしゃる通りだと思います。
原作でも説明はないから個人で勝手に想像するしかない あのまま猗窩座が自◯していなければ、もしかしたら禰豆子のように太陽を克服していたかもしれないし、全く違う進化をしていたかもしれない あくまでもマンガやアニメは作り物なんですからそういう物の見方をしなければ楽しめませんよ
猗窩座は強い想いと精神力であの土壇場で進化したんだと思います
だからその時は首を切っても死なないなんてことは誰も知らない。
明確に説明のしようがないし、しようとしたら天の声みたいに「説明しよう!猗窩座はこうなったのだ」とするしかなくて興醒めしちゃいますから
童磨編を見れば対比でより分かると思います
無惨と同格とかそういうことではないです
こんにちは。原作ファンで、内容はかなり理解していると思っている者です。
たしかに原作を読んでいない方にとってはそこひっかかりますよね。もう少し説明が必要だったと感じた部分で、至極まっとうなご意見だと思います。妓夫太郎や魘夢は首がそこ(だけ)ではなかったという理由であって首切りを克復している鬼ではないですしね。
せっかく切ったのに、そりゃないでしょ!ですよね(笑)
猗窩座は、弱いもの(病人、貧乏人、子供、女、善良だが権力を持たない者など)はそれだけで踏みつけられる、人間の頃に自分が弱かったせいで大切な人を誰も守れなかった、一生守りますと誓った婚約者も守れず、自分の精神が弱かったせいで師匠の「守る拳」をも殺人によって汚してしまったという自責の念と計り知れない絶望をもって鬼になっています。
鬼になり人間の頃の記憶をなくしてもなお強さを求め続け固執してきたのはそのためで、その気持ちのみで無残しか克復できていない首切りをも、あの時に克復しようとしていたということです。
ですから、首切りの克服という点では、私利私欲のみの壱や弐をあの時超えようとしていた。
ほぼ不可能であるはずのことを、強くなければ!の一心で進化しようとした、それだけの強い想い。
それが猗窩座の強い絶望や悲しみ苦しみの深さを象徴しています。
ただ、炭治郎との戦いで、自分がなぜ強さに固執してきたか、強くなってももう誰も守る人はいないのに無意味な殺戮を繰り返してきたことを思いだし、同時に本当は他の誰でもない、弱い自分のことがどうしようもなく嫌いだったのだと理解しました。
それ自体がとても悲しく、そんな風に思わなくて良いことで、猗窩座は本当はとても優しくて強い人間であったことがわかります。
あそこで猗窩座が思い出さなければ、義勇と炭治郎は倒され、無惨討伐もできなかったと思います。
どういう原理で首切りを克服したかの詳細までは原作でも語られてはいませんが、語る必要がなく、上弦の壱も克服したかったのにできなかった領域の進化を(のちに黒死牟が語ります)、あまりにも強い気持ちで克服しようとしていたという本当に哀しくて切ない話です。
長文失礼しました。
皆さん御意見ありがとうございます。
なぜ猗窩座が首切っても死なないのかの説明はないのですね。原作でも。それはそれで考察するのは楽しいですね。う〜ん。
他の鬼も首切られても生きていたじゃないかという意見ですが、ちゃんと理由がありました。(首は機関車だとか、同時に切らないといけないとか、本体は別だとかで、それを踏まえて首を切れば死にました)今まではその謎を解明して倒してきたから納得できるのです。でも今回は解明する前に猗窩座が自死で終わりですからモヤモヤなんです。
上弦の参がはじめて、首切られてもタヒなない鬼として出てきたのならまだしも、今までの上弦も4(分裂).6(兄妹)も切られても実質生きてた今更でしょ。
てか原作ありきの映像化作品で今更原作の文句言われてもね。
同じジャンプ作品でも同様に文句言ってよ、ワンピのシャンクスの片腕クソザコ生物に持っていかれてます。失せろ→喰われる前にその覇気とやらで追い返せよw
NARUTOの日向は木の葉にて最強と白眼は写輪眼の源流→日向も白眼もうちはと写輪の劣化。
ドラゴンボールは界王拳と超サイヤ人組合せしない理由等。
ブラックキャットの主人公が回数制限ある必殺技を空にブッパ、もうこれは使えないと舐めプからの最後に何故か発動w
突っ込めばいくらでもあるわ、
答えは童磨が言ってましたよね。
「何か別の生き物になった様な気がした」と。
無惨も最初から無敵だったのではなく、段階を経て今のような化け物になったんじゃないでしょうか。
猗窩座も人間から変えられた眷属から、無惨のような真祖に変わろうとしていたんじゃないでしょうかね。
鬼を倒す方法は本来〝太陽の光〟だけだと思うんですよ恐らく
日輪刀はこの〝太陽の光〟の代用に他ならない
日輪刀を作る為には太陽の光を沢山浴びた特殊な鉱物を使っていたはずです
これを使って首を斬ることで、〝太陽の光〟と同等の効果を発動できるのだと思います
普通の鬼にはこれら が通用するが無惨には代用の行為なんてのは当然通用せず、始めから太陽光でしか倒せない奴なのでしょう
上限はより無惨に近いので首を切っても死なないのはこの影響かと思います
そんな事言ったら、無限列車の魘夢もそうですよ。首切ったのに死なない!!って。基本、鬼は首を切るか太陽の光で滅されます。首切っても亡くならないのは、執着があるからだと思います。猗窩座に関しては、人間時代では武道家ですし、大切な人を守れなかった、悔しい気持ちが怒りとなりそのまま鬼にされたはずです。だから負ける事は恥なので、その執着が強すぎて首切られても亡くならなかったんだと思います。
asakitizさま、初めまして🙂
「遊郭編」や「刀鍛治の里編」にも、首を斬っただけでは死なない上弦の鬼が登場しました。
「遊郭編」は兄妹の鬼を2体同時に首を斬るとか、「刀鍛治の里編」は別にいる本体の鬼の心臓の中にも鬼がいるとか、炭治郎たちが戦いながら答えに辿り着きました。
猗窩座の場合は自滅してしまったため、答え合わせが出来なくてモヤモヤしますが、炭治郎と冨岡さんが気を失ったままのラストなので、第二章で納得できるのかな!?と期待しています🫡
猗窩座が首を落とされても死ななかった理由は「進化」じゃないですかね。そもそも鬼舞辻があれほど鬼を増やしていたのは、自身の「弱さ」(または生物としての限界)を克服するという目的もありました。禰󠄀豆子が太陽を克服したことも理由はともあれ、「進化」であり、鬼舞辻はその特質を受け継ぐために禰󠄀豆子を取り込もうと躍起になっていました。
首を切られれば(/太陽の光にあたれば)死ぬというのは、鬼舞辻の血を介した鬼たちの限界でした。同様の限界を鬼舞辻も抱えています。しかし血を与えられた鬼のうちいくつかの個体は特異な仕方で鬼舞辻の血に適応し、各々の「進化」を遂げることもある。禰󠄀豆子の太陽光克服や、猗窩座の首再生もその「進化」と捉えられるのではないかと思います。猗窩座があの戦いに勝っていたら、おそらく鬼舞辻に吸収されていたのではないですかね、たぶん。
猗窩座が頭無しで体が崩壊しなかったのは、体の中に脳があるからだと思います。なぜかというと、無惨の最終戦で悲鳴嶼さんが至高の領域に入るシーンがあります。その時、無惨の体の中には、いくつかの心臓と脳がありました。なので無惨は首を斬られても頭を修復できたのてしょう。そのため、猗窩座も体に脳があったのではないかと思います。
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。


