「胡蝶の夢」雨の中の慾情 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
胡蝶の夢
本作については当サイトの新作映画評論の枠に寄稿したので、ここではまず前半で補足的なことがらと、後半で評論では触れなかったネタバレ込みの映画の仕掛けに関することを書いてみたい。
【前半:参考資料やトリビアなど(ネタバレなし)】
・映画の原作となった短編漫画は、評論でも紹介したように4編ある。いずれもeBookJapanの電子書籍シリーズ「つげ義春作品集」に収められていて、執筆前にすぐ読むことができて大いに助かった。作品集#8『リアリズムの宿/下宿の頃』に「夏の思いで」、#12『近所の景色/少年』に「雨の中の慾情」、#13『隣りの女/ある無名作家』に「池袋百点会」「隣りの女」がそれぞれ収録。興味のある方はぜひ。独立した4編を巧みに継ぎ合わせて映画の本筋を構成していることが確認できる。
・義男の作業スペース(芸術空間)の壁には「目」だけを描いた絵が多数貼られている。つげファンなら、すぐに代表作「ねじ式」の印象的な一コマ、大けがをして医者を探している主人公が迷い込んだ目の看板だらけの通り(吹き出しの文字は「ちくしょう 目医者ばかりではないか」)へのオマージュだと気づくだろう。この通りの景色はかつて実在し、台湾の写真家・朱逸文が地元の台南で撮影したものが1963年に日本の写真雑誌に掲載され、それを見たつげが漫画の一コマに描いた。台湾の古い街並みにあった「多数の目のイメージ」をつげが日本の漫画に描き、半世紀以上を経て、台湾でロケをしたつげ原作の日台合作映画のシーンに再登場したことは、ちょっとした奇縁のように思われる。
【後半:映画の仕掛けについて(ネタバレあり)】
ここからは本作を鑑賞済みの方を想定して、映画の重要な仕掛けに関連することを書く。もし未見の方が読むと鑑賞時の新鮮な驚きを損ねてしまうので、この先には進まず観たあとに再訪してもらえるとありがたい。
また、関連作として2005年の「ステイ」、2007年の「コッポラの胡蝶の夢」、2010年の「レポゼッション・メン」についても触れる。この3作を未見の場合、やはりそれらのネタバレになってしまうので読み進めるのはおすすめしない。3作とも面白いので、ぜひ事前情報少なめで先に鑑賞していただきたい。
では、ここから本題。評論のテキストでは少しぼかして、「映画『雨の中の慾情』は、先述のつげ漫画をベースにしたパートのほかに、予告編で示された戦場の場面を含む映画オリジナルのパートがある」と書いた。すでに鑑賞済みの方なら、つげ漫画をベースにした本筋が、実は戦場で瀕死の状態にある兵士が見ている夢だったと気づいただろう。死の間際の一瞬に人生が走馬灯のようにフラッシュバックするのはよく聞く話だが、最近の研究でも死の間際に脳内麻薬のエンドルフィンが出て苦痛を緩和することがわかってきたそう。本当の人生の代わりに、願望の日々の夢をリアルな出来事として一瞬のうちに体験することもあり得るだろう。
先に挙げた「ステイ」「コッポラの胡蝶の夢」「レポゼッション・メン」はいずれも、この「雨の中の慾情」と同じ仕掛けが使われている。つまり、本編で主人公の実体験として観客が受け入れていたストーリーの相当部分が、終盤で実は主人公が見ていた夢だったと明らかになる。3作の中でも、「ステイ」が特に「雨の中の慾情」に近いと思う。推測だが、片山慎三監督がつげ漫画4編で組み立てたプロットと、台湾でのシナハンで追加した戦争の要素を含むオリジナルの筋をどうつなげるかを検討した際に、「ステイ」の仕掛けが使えると思いついたのではないか。「ステイ」ではユアン・マクレガー演じる主人公が死の間際に見た看護師(ナオミ・ワッツ)が、夢の中では恋人になっているなど類似点も多い。
紀元前の中国の思想家・荘子の有名な説話「胡蝶の夢」のように、現実だと思っていたら夢だった、あるいは夢なのか現実なのかよくわからない境地といった考え方、アイデアは古くからあるが、現代も多くのクリエイターたちを惹きつけてやまないテーマでもある。とりわけ映画というメディアは、暗闇に映し出された他者の人生や非現実的な出来事に没入するという、映画を観る行為そのものが夢を見ることに似ていることから、これからも「夢と現実」を扱う映画は手を変え品を変え作り続けられるのだろう。