雨の中の慾情のレビュー・感想・評価
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現実のふくらみ
最初のシーンで、義男ー成田凌と夢子ー中西柚貴がカメラを無視したかのように全裸になって、それを自主映画ではないからとモザイク処理するあたりにこれは片山監督作品であり、とても期待できる作品とも思った。ただ監督は片山慎三がやって、原作はつげ義春、主演は成田凌ぐらいにしか事前情報を入れていなかったから、どこまでが片山監督のオリジナルな部分なのか分からなかった。そしてエンドクレジットで、脚本協力に大江崇允の名前。大江さんは濱口監督作品『ドライブ・マイ・カー』に脚本としてクレジットされている。そこから、本作もまたつげ義春のいくつかの作品を重ね合わせた脚本なのではないかと推測された。
そんなわけで、パンフレットと原作が所収されているちくま文庫の『ねじ式/夜が掴む』を購入した。パンフレットから本作が「雨の中の慾情」の他に「夏の思いで」と「池袋百点会」、「隣りの女」の要素を重ね合わせたことが分かった。そして戦争を描いたのは、片山監督のインタビューでロケハンのために金門島を訪れたことがきっかけとのこと(p.14)。尾弥次ー竹中直人が、片手と片足がないことは衣裳デザイン・扮装統括の柘植伊佐夫の提案であった(p.22)。この尾弥次の人物造形は、戦争の苛烈さと本作の主題になる現実と夢のアンバランスさを表現するため、脚本が要請したと思っていたから驚きの発見であった。
さらに原作を読んで驚いた。「男が雨宿りをしているうちに女に慾情する」ただそれだけの短編だったからだ。もちろん高野慎三の「解題」によると絵コンテの段階で発表されたものであり、エロマンガを描いて生活苦から逃れるために下書きとして試みられた作品ーただエロマンガの依頼はなかったーであること(p.334)が分かった。だから原作の良し悪しはここでは評価しない。だが本作の始まりである「戦時中、義男が雨宿りをしているうちに夢子に慾情し、それは夢であった」ということは、かなりオリジナルな要素を含んでいることが分かる。
ではなぜこのオリジナルな要素が追加されているのか。原作の3コマ目には次の文章が書かれている。
「(前略)ただ、こんな空想をしたというだけのことです」(p.85)
「ただ、こんな空想」ができる現実。それがいかに夢物語であるかを本作は描いているように思えるのだ。
ーーー
再び高野の「解題」によれば、原作が所収されている『ねじ式/夜が掴む』は、「「ねじ式」にはじめる“夢の作品群”と、それらとあたかも並行するように発表された。マンガ家の若夫婦を主人公とする“日常もの”が収録」(p.330)されている。その分類に従えば、「雨の中の慾情」は“夢の作品群”、同じく所収され義男がマンガ家であることとひき逃げの出来事で翻案される「夏の思いで」は“日常もの”といっていいだろう。これらからこの2作品を折り重ねた本作は夢と日常が並行して語られていると言えるはずである。
マンガ家の義男は、未亡人の福子に惚れ込み一緒になることを夢見ている。しかし福子は義男の知人で小説家の伊守と既に付き合ってしまっている。そんな現実に嫉妬し、羨望するしかない義男は彼らのセックスを窃視するしかできない。この窃視による義男と福子の隔たりは、夢が決して果たされない不条理さを物語っている。
さらにその現実もまた夢なのである。「マンガ家の義男が、福子に惚れ込み一緒になることを夢見つつ、それが実現できない現実」は、戦争で片腕と片足を失った義男が病室でマンガにして空想した夢なのである。義男は福子と一緒になれないばかりか、その一緒になれない現実さえも夢なのである。
しかもここで終わらないのが片山監督である。「「マンガ家の義男が、福子に惚れ込み一緒になることを夢見つつ、それが実現できない現実」を戦争で片腕と片足を失った義男がマンガで描き夢見るしかない現実」もまた夢なのである。残された現実とは何かと言えば、戦場で現地の人びとが無残に殺され、爆撃が轟くことに怯えるしかない義男が、現地の少女に撃たれて死ぬ逝くことである。福子もまた戦地に連行された娼婦であり、義男と福子の関係は娼婦と客の関係でしかないのだ。
義男は娼婦を運命の人≒福子と空想し、戦争が終わったら平穏な日常を共に生きることを夢見ている。しかしそんなただの空想さえもできないままに死ぬ、現実を生き延びられない。そんな現実の幻≒虹を描く本作はかなり残酷である。
本当は私たちだって、つげ義春の世界観のようなただの四角い部屋で夢をみていたい。しかし部屋の外から現実がふくらんでくる。夢が果たされない〈私〉の残酷な日常が、腐敗した政治が、資本の論理で駆動する経済が、終わらない戦争が。だから「ただ、こんな空想」ができる現実も大きな隔たりを伴った夢なのである。
そんな現実から背かず目を見開ける?それを問うているのが本作であり、片山監督であり、原作に戦争を導入しながら夢と日常を並行して語った翻案の素晴らしさなのだ。
参考文献
『『雨の中の慾情』公式パンフレット』(2024)カルチュア・パブリッシャーズ
つげ義春(2008)『つげ義春コレクション ねじ式/夜が掴む』筑摩書房
「超大作」の体をなした「猛毒映画」か
あながち関係ない話でもないのだが、映画「ルックバック」について、ちょっと触れる。
映画「ルックバック」は確かに興味深く観させていただいたが、やっぱりオレは原作の「間」や感じるアングラ感が好きで、音楽や声も本当に必要なく、静止した画に十分感じる躍動感を動く絵で表現するのは映画なので仕方ないとは思うものの、どんなに斬新であろうとも「ああ、そうするんだ」と冷めて観てしまった。
つげ義春。オレは映画「ねじ式」(’98)から入って、原作を眺めた程度だが、原作を見るまでは、映画は非常に面白く観させてもらったが、原作を読むと、映画のほうは、役者の演技、映像表現、録音そして音楽と、目いっぱいアングラ感が出ているものの、原作の一コマのパワーの前では、「ああ、ここをこういう風に映画はやりたかったのね」と冷めるわけだ。
こればっかりは漫画と映画の決定的な「文化の差」として映画を見る側としては、割引くしかない。この辺はオレが言わずとも、誰もが、そして映画関係者が一番感じることだろう。(そして原作者。)
なので、原作とかどうとかは、これが最後でここでは触れないようにしたい。
「雨の中の慾情」
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・
それでは、どうしてわざわざ原作と映画について、前置きを置いたかというと、まさかこんな超大作にしてしまうなんて思ってもみなかったからだ。
すごい!!
「さがす」で一躍名を馳せた片山慎三監督のこれまでのキャリアが爆発。
オープニングの雨のシーンから撮影がすごい。そこからアングラの真逆を行くロケ撮、カメラワーク。時に大自然、夕日、海を大作感たっぷりに美しく撮り、戦場での1カット長回し、時にあえての手振れを起こす手持ち撮影、新旧合わせ技のトリック撮影、まさしく「総動員」。
大枠は「ねじ式」と同じく、いくつかのストーリーを足し合わせての構成だが、うまいのはちゃんとラストが収まるように、つまり「超大作」としての体をなすべく物語を完結させている点。
映画なので、集客はしなければならないため、戦場シーンを予告にいれたのは、ちょっとばかし驚きを殺してしまってはいるが、それでもそんなシーンがあんなところで、と鑑賞中でもインパクトは絶大。
ただ公式で「あの作品」を参考にしている、と監督が発言されたらしいが、それを言ってはダメ!!(主人公の顔のぐるんぐるんして逃亡するカットもこれのオマージュですかね)
ということだから、というわけでもないだろうが、「ラブストーリー」ということで宣伝はされているが、必然的に「反戦映画」としての一面も持ち合わせている。天井のシミが「あれ」になって「始まる」のだから、絵描き志望の想像力か、童貞の想像力か、ともあれなんとも切ない。
ただしちょっと物議を醸しだす設定、描写もあるため、批判も多いとは思う。
だけど、激しい性描写も含め、「超大作」の体をなした「猛毒映画」というバランスが、オレはとっても心地よかった。
序盤は我慢しなさい。
追記
中盤、「アマポーラ」が流れることからも、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」、個人的には、ジャコ・ヴァン・ドルマルの「ミスター・ノーバディ」('09)あたりの語り口の良さも感じていい気分で帰った。
追記2
同時に「ルート29」のことをちょっと思い出した。「詞」を「詞的」に映像表現することもそりゃあ、もう大変なことだ。ただ森井監督には次作はスコーンと観られるものをお願いしたいなと。
いずれにせよ、片山監督と森井監督には今後も大注目。
胡蝶の夢
本作については当サイトの新作映画評論の枠に寄稿したので、ここではまず前半で補足的なことがらと、後半で評論では触れなかったネタバレ込みの映画の仕掛けに関することを書いてみたい。
【前半:参考資料やトリビアなど(ネタバレなし)】
・映画の原作となった短編漫画は、評論でも紹介したように4編ある。いずれもeBookJapanの電子書籍シリーズ「つげ義春作品集」に収められていて、執筆前にすぐ読むことができて大いに助かった。作品集#8『リアリズムの宿/下宿の頃』に「夏の思いで」、#12『近所の景色/少年』に「雨の中の慾情」、#13『隣りの女/ある無名作家』に「池袋百点会」「隣りの女」がそれぞれ収録。興味のある方はぜひ。独立した4編を巧みに継ぎ合わせて映画の本筋を構成していることが確認できる。
・義男の作業スペース(芸術空間)の壁には「目」だけを描いた絵が多数貼られている。つげファンなら、すぐに代表作「ねじ式」の印象的な一コマ、大けがをして医者を探している主人公が迷い込んだ目の看板だらけの通り(吹き出しの文字は「ちくしょう 目医者ばかりではないか」)へのオマージュだと気づくだろう。この通りの景色はかつて実在し、台湾の写真家・朱逸文が地元の台南で撮影したものが1963年に日本の写真雑誌に掲載され、それを見たつげが漫画の一コマに描いた。台湾の古い街並みにあった「多数の目のイメージ」をつげが日本の漫画に描き、半世紀以上を経て、台湾でロケをしたつげ原作の日台合作映画のシーンに再登場したことは、ちょっとした奇縁のように思われる。
【後半:映画の仕掛けについて(ネタバレあり)】
ここからは本作を鑑賞済みの方を想定して、映画の重要な仕掛けに関連することを書く。もし未見の方が読むと鑑賞時の新鮮な驚きを損ねてしまうので、この先には進まず観たあとに再訪してもらえるとありがたい。
また、関連作として2005年の「ステイ」、2007年の「コッポラの胡蝶の夢」、2010年の「レポゼッション・メン」についても触れる。この3作を未見の場合、やはりそれらのネタバレになってしまうので読み進めるのはおすすめしない。3作とも面白いので、ぜひ事前情報少なめで先に鑑賞していただきたい。
では、ここから本題。評論のテキストでは少しぼかして、「映画『雨の中の慾情』は、先述のつげ漫画をベースにしたパートのほかに、予告編で示された戦場の場面を含む映画オリジナルのパートがある」と書いた。すでに鑑賞済みの方なら、つげ漫画をベースにした本筋が、実は戦場で瀕死の状態にある兵士が見ている夢だったと気づいただろう。死の間際の一瞬に人生が走馬灯のようにフラッシュバックするのはよく聞く話だが、最近の研究でも死の間際に脳内麻薬のエンドルフィンが出て苦痛を緩和することがわかってきたそう。本当の人生の代わりに、願望の日々の夢をリアルな出来事として一瞬のうちに体験することもあり得るだろう。
先に挙げた「ステイ」「コッポラの胡蝶の夢」「レポゼッション・メン」はいずれも、この「雨の中の慾情」と同じ仕掛けが使われている。つまり、本編で主人公の実体験として観客が受け入れていたストーリーの相当部分が、終盤で実は主人公が見ていた夢だったと明らかになる。3作の中でも、「ステイ」が特に「雨の中の慾情」に近いと思う。推測だが、片山慎三監督がつげ漫画4編で組み立てたプロットと、台湾でのシナハンで追加した戦争の要素を含むオリジナルの筋をどうつなげるかを検討した際に、「ステイ」の仕掛けが使えると思いついたのではないか。「ステイ」ではユアン・マクレガー演じる主人公が死の間際に見た看護師(ナオミ・ワッツ)が、夢の中では恋人になっているなど類似点も多い。
紀元前の中国の思想家・荘子の有名な説話「胡蝶の夢」のように、現実だと思っていたら夢だった、あるいは夢なのか現実なのかよくわからない境地といった考え方、アイデアは古くからあるが、現代も多くのクリエイターたちを惹きつけてやまないテーマでもある。とりわけ映画というメディアは、暗闇に映し出された他者の人生や非現実的な出来事に没入するという、映画を観る行為そのものが夢を見ることに似ていることから、これからも「夢と現実」を扱う映画は手を変え品を変え作り続けられるのだろう。
つげ義春先生はご存命
短編がほとんどとは言え膨大にあるつげ義春作品は大昔にねじ式を読んだだけ。幻想的でよくわからなかった上、今となっては魔太郎みたいな顔の主人公とメメクラゲしか記憶にない。その程度のつげレベルで本作を観たのだが、話をどう解釈するかは人それぞれでも、夢と現実を行き来する構成は原作ほどの意味不明さはなくけっこうわかりやすい。
福子がポーンと車に撥ねられるシーンや子どものつむじから液体を吸いとるエピソードなど、所どころで違和感ありありのつげ義春世界を、壁のシミを福子の裸体と被らせたり日常から惨劇の戦場に突然切り替えたり、片山慎三監督の演出で見応えある映像にしていたと思う。夢と現実との交錯は、思えば序盤から女子中学生のぎこちない日本語からすでに始まっていたのだろうけど、鑑賞したのがすでにひと月近く前なので、オレの記憶もどこまで本当なのかあやしくなっている…。
様々な時代、夢と現実を往来するつげ義春原作の映画化作。 「欲情...
つげ義春の、というのではないエロスと平和と戦争
2025年最初の映画。思いの外と言っては失礼かもしれない力作にしてそこそこの大作風。タイトルが小品感を醸しているのと、予告編はこれまたまったくそれとも違う感じで派手な感じもしたのだが、見ればもっとずっしりな野心作。まあ片山慎三なのでそりゃそうだ。エロスを包み込む戦争と平和。なんじゃそりゃ、と思うが本当にそういう出来。但しパーツパーツは野心みなぎるが物語設計は夢物語風味だからか大きな推進力に欠ける。最も単純なふたりの男とひとりの女の構図だけでも決して巧みに見せきれてるとは言い難い。成田凌はとてもいいし、なんとなく昭和エロス的シチュエーションはあるが長編を引っ張るほどのスリリングなアイデアはない。かといってつまらないかというとそんなこともなく、断片断片ははっとさせられる表現はてんこ盛り(雷、雨、車ですっ飛ぶ女体、シームレスに入ってくる日本軍の攻撃) 片山真三はサービス精神の塊なのかもしれない。力技でそうはなっているけれど、本来短編で強いエッセンスのものは短編のままのほうが強い印象を残すんだな、とは思った
なので予告編的要素とはぜんぜん違う面白さではあった
幸せへの執着
今年一のイミフ映画。
片山監督のクセが全面に出ている。いくら何でもとっちらかり過ぎて2時間強画面を見続けるのがやっと。にしても設定と構成に対して尺が長すぎるって笑
成田凌目的での鑑賞だったけど、「スマホを落としただけなのに」に引き続き理想の成田凌が見れたからこれは満足。目をかっぴらくだけで狂気を演じれるのズルいって笑 怖い超えて笑っちゃうもん。まともじゃない彼が大好き。どんどん映画出てくれ頼む。
まぁ、とにかく中身のない映画。
ストーリーとかも何もなくて、ただひたすら犯罪行為を繰り返したり、男女の交わりを繰り返したりして時間が経過していくだけ。しかも描写が土臭くて全然綺麗じゃない。狙ってるんだろうけど、せめてモザイクはやめて欲しい。R15+に留めておきたいならカメラワークで見せないようにして欲しいし、全体をうつすならR18+にして本気でやって欲しい。この中途半端な感じがどうも気に食わず、同じく成田凌主演「窮鼠はチーズの夢を見る」が見たくなった。男同士のBLだったけど、あの生々しさは一周まわって綺麗で非常に上手い撮り方だった。
しかも全てにおいて肝心なシーンが短くて、どうも面白味に欠ける。特に、共同生活を始めるくだりがこの映画ではいちばん大事なはずなのにあっけなく終わってしまうし、そこからの展開も尾弥次が首を突っ込んでくる以外はほとんど動きがないもんだから、奇天烈なカットのおかげで飽きはしないけど、絶望的にワクワクがない。
そこからの現実と夢?の行き来の下りもなんかよく分からないし、ようやく映画っぽくなったと思ったら中身は相変わらずでお色気シーンが続くばかり。戦争の描写もあったけど、主人公の立ち位置が理解出来ず、一体誰に向けたなんの映画?って感じでどうもハマれなかった。
まあでもキャストは良かったし、全シーン台湾ロケというのもあって全体的な質感はなかなか引き込まれるものがあった。ただ、予告とイメージが違いすぎて、正直期待はずれ。色々やってるけど結局は枠内に収まったことしかやってないし、ぶっ飛び具合もあんまり。成田凌の怪演を見るだけのための映画。「さがす」みたいなオモロエンタメはなかなか作れないよねぇ。
片山慎三ワールドを堪能
相変わらずいい表情するねー
2024年の日本映画のベストワン候補となる傑作
「何か」が足りない
タイトルなし(ネタバレ)
土砂降りの雨、バス停。
激しい雷雨。
佇む女(中村映里子)。
通りかかった男(成田凌)は、「雷に打たれないためには金物(かなもの)を取ること」と忠告し、ふたりはやがて全裸近くになる。
慾情した男は泥田のなかで女を襲う・・・
それは、夢だった。
夢を見ていたのは、売れない漫画家・津部義男。
隻腕隻脚の大家(竹中直人)から頼まれた引っ越しの手伝いで、義男は夢の女と出逢う。
女は福子という名の未亡人で、いつしか義男の友人で小説家の伊守(森田剛)と懇ろになっていた・・・
といったロマンス含みの幻想譚。
元となったつげ義春の短編のいくつかは読んでいて、前半かなりの尺で描かれる「南町百点」は、ほぼ漫画どおり。
交通事故に遭った女性の下着をずり下すエピソードも漫画に近い。
これらのエピソードがあるので、かなりの可笑しさが加味されているが、全体的なモチーフは「胡蝶の夢」か。
エピローグのみ第三者視点で時制の現在地がわかるわけだが、考察することにあまり意味がないと思わせる作品。
考察は他に譲ることとする。
全編台湾でロケしたことで美術や台詞に幻惑・幻想めいた雰囲気が漂い、もうそれだけで観客を選ぶだろうと思う。
つまり、つまらないと感じるひとには、とことんツマラナイ。
面白いと感じるひとには、とことんオモシロい。
それにしても、いつから、つげ義春が「難解」で「要解釈」な作家(漫画家)になったのかしらん。
『ねじ式』の影響大だけど、ま、それはそれ。
A274 ガッチャーン、吹っ飛ぶ女 おお!ゴンズ様新記録!
2024年公開
一歩引いていても成田凌カッコええわ
中村映里子ってこんなに艶やかやった?
森田剛、俳優ぽかったよね。
竹中直人胡散臭くていいねえ。
出演者に演技オーラが光っているので
話の筋がぐちゃぐちゃなのは気にならず。
普通に考えると大東亜戦争遠方の国で
現地娼婦と仲良くなり日本に帰ろう
という矢先に負傷。
夢の中でも貧乏生活。
が繰り返される。
夢の中ならもう少し華やかな夢を見たいが。
観衆にえ?いったいどういうこと?
わからんやろ、それが狙いよ
と監督が思っているなら巨匠気どりは
やめてほしいけどね。
60点
初鑑賞 2024年12月13日 イオンシネマ桂川
配給 カルチュア・パブリッシャーズ
つげ義春漫画と映画の根本性の見事な止揚
つげ義春は現実とも夢ともつかない混沌世界を描いた作品を数多く執筆した。『ねじ式』や『ヨシボーの犯罪』、『コマツ岬の生活』、あるいは本作の原作『雨の中の慾情』もそれに当たる。
これらすべてに共通しているのは、現実と夢の間に、あるいは正気と狂気の間に決して境界線を引かないことだ。すべてはシームレスに繋がっている。さっきまで目医者を探していたはずの男は気がつけば機関車に乗っている。犯罪の証拠隠滅に街を奔走していた青年は山中に雰囲気のよい旅館を発見して小躍りする。
原因と結果が論理を媒介することなく結びついている彼の漫画世界は、ある意味で統合失調症的とも形容しうる危うさはあるものの、我々の論理的な思考体系に揺さぶりをかけてくれる。その揺さぶられる快感こそがつげ義春漫画の妙味だ。
以上を踏まえた上で本作についてチョロチョロ書いてみたい。
物語はとある村を舞台に、義男(成田凌)、福子(中村映里子)、伊守(森田剛)の3人の人間関係を描き出していく。義男は福子に想いを寄せるが、友人の伊守が福子とくっついてしまう。福子の媚態を目の当たりにしながらそれをものにできない不能感が逆説的に福子のコケティッシュさに拍車をかける、という官能物語がしばらく続く。
しかし中盤以降、それまでの世界に変調が訪れる。さっきまでラフなシャツ姿で漫画を描いていた義男は、気がつけば軍服を纏って戦争地帯を逃げ回っている。どうやら本作の舞台となる世界は「村」と「戦場」に大別できそうだ。しかしそのどちらが「現実」であり「夢」であるのかはなかなか明らかにされない。
というのも、それぞれの世界が互いに断絶しているわけではないからだ。互いが互いを参照し合い、どちらにも決定的な優位性は与えられない。このあたりはつげ義春っぽいなと思った。ワンショットの中で「村」「戦場」が切り替わるシーンはことさら強烈だった。
村の外れで轢き逃げされたはずの女を見かけ「大丈夫だったんですね」と声をかける義男、唐突に悲鳴を上げる女、カメラが右側にパンすると、逃げ惑う群衆とそれを追う日本兵たちが迫ってくる。さながらテオ・アンゲロプロスやエミール・クストリッツァのような叙事詩的ショットだった。
とはいえ2つの世界の混線ぶりの中に、次第に一筋の最も妥当な「現実」の可能性が浮上する。それは、義男は戦場で少女に射殺され、福子は娼婦のまま義男に再会することができないというものだ。つまり「戦場」が「現実」であり、「村」は「夢」であるということ。
原作であれば何もかもが宙ぶらりんのまま完結しているところだが、そこに敢えて明確な(それでいて内容を著しく毀損することのない)境界線を引くというオチのつけ方に、監督・片山慎三の作家性を見た。片山の代表作『岬の兄妹』が雄弁に語るように、彼の視線は常に突飛な空想の底を走る揺るぎなくどうしようもない現実を眼差している。
正直つげ義春作品なんだから宙ぶらりんのまま終幕してもらった方が原作ファンとしては嬉しかったのだが、それでは映画である意味がない。「現実」と「夢」に明確な境界線を引くという本作の結末は、本作が一個の映画として屹立するための必然性だったのだろうと思う。
思えば石井輝男『ねじ式』は一言一句原作通りに原作を再現しているにもかかわらず決定的に退屈な作品だった。やはり「この世界のどこかに実在しているもの」を撮って繋げるという映画芸術の性質上、現実をまったく無視することはできない。無理やりしようとすれば、それは嘘臭さとして表出してしまう。
本作は「つげ義春っぽさ」を最終的には放棄しているにもかかわらず、つげ義春の映画作品を観たという圧倒的な読後感が味わえる。それは、つげ義春漫画の性質と映画の根本性が見事に止揚された結果だと言える。年末に思わぬ傑作が観られてよかった。
思いがけない傑作
予告編のほうがよかった?
愛と幻想のねじ式
つげ義春が1981年に描いた短編エロ漫画のタイトルなのだが冒頭に繰り広げられるシュールコミカルなシーケンスがその漫画を執筆中の成田凌(義男=つげ義春)の妄想というだけででこれが原作というよりつげ義春的漫画家そのものを描いた愛と幻想のねじ式である。片山慎三監督と撮影の池田直矢のタッグは相変わらず強力で移動撮影が圧倒的に上手く、今回の台湾ロケが「つげ風ワールド」を見事に再現していて角を曲がると一気に戦場へと連れて行ってくれるダイナミズムがたまらない。クリストファー・ノーラン的な時系列行きつ戻りつの中に夢想の過去が混ざって来るので決してややこしくはないのだがややもすると真面目に筋を追う気持ちを失わせる危険な映画である。しかし132分は長すぎでうんざりの一歩手前。戦場との行ってこいをあと一回カットしてくれれば良かったのに。
夢のマトリョーシカ
どこからが
夢で、どこまでが妄想か、もう少しカットして良かったと思う。
カラミにためらいが無くてイイネ、光る汗。
ヒヒの交合、田んぼに出来る深い穴、バッタ目線、ワンバウンド轢死と小ネタも良いんですが、ちょっとダレてしまった感。
成田凌くん、いい顔するねぇー、太宰治か眠狂四郎なんかどう?
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