「「未知」は怖い。が、「既知」は…」エイリアン ロムルス たけろくさんの映画レビュー(感想・評価)
「未知」は怖い。が、「既知」は…
「よく頑張った!」と(偉そうにも)思いました。
同時に、1作目がいかに優れた「怖い!」作品なのかを再認識しました。
1作目の「怖さ」は、「未知の生命体(めっちゃナゾ!)」との接触が、人間社会と空間的に隔絶された(めっちゃ遠い!)、かつ閉じた空間内(宇宙船内)でおこなわれることに起因しているように思います。一方本作は、事件現場と「人間社会」はさほど空間的に離れていません。ここで言う「空間」とは「実際の距離」と併せて「意識上での空間」双方の意味を含みます。
例えば、某惑星での労働のシーン(登場人物たちの動機を示すために必要だった?)やアンドロイドからの逐一の指示(1stへのオマージュを込めてなのかアッシュの再登場)などのシーンを見ると、トラブルの渦中にある面々のすぐそばに「人間社会」は存在していると(鑑賞者は)認識してしまいます。
一方1stでは、ノストロモ号のAI「マザー」の答えは無機質で(モニターに文字が出てくるだけ)、肝心なところは「分かりません」だし、アッシュも会社の代弁者として無機質に「同情するよ…」と言うだけなので、乗組員たちには、自身の近くに「社会」が存在していることを直接認識・確認する術が無いのです。その状況下で、正体の分からない「化け物」と相対峙せざるを得ないという、まさに「In space, no one can hear you scream...」という状況、これが「怖い!」のです。
また、乗組員たちが放り込まれた「空間」にも違いを感じました。1stのそれはとても「静か」で「わちゃわちゃ」しておらず、艦内で食事をするシーンなどは「日常性」を感じさせます。しかしその日常性を「化け物」がぶち壊すわけです。これにより乗組員たちは「非日常」に放り込まれますが、艦内の設備そのものは「平穏」なまま(化け物は1匹だけだが、どこにいるのか、どんな姿で「居る」のかは不明)で、ようやく艦内が平穏でないことが可視化されるのは、リプリーが「本体を切り離して爆発させる」という手段を取って以降です。リプリー以外はもう誰もいない無機質な空間に「爆発まで、あと何分…」という機械的なアナウンスが警告音とともに流れる様子に、視聴者の内側に閉じ込められていた緊張感が一気に外側に露出する…という経験を記憶しています。一方今作では、基地内の描写が最初から「わちゃわちゃ」しており(最初からエイリアンが沢山いすぎ?)、「日常性の中に『非日常』が潜んでいる」という感じがしませんでした。
エイリアンという存在を人間社会の中に「取り込もう」とする企てが、そもそもの悲劇の始まりなのですが、「社会の中に取り込む=既知の存在」となってしまうと、そこに恐怖はありません。ラボで実験していたとか、「間の子(あいのこ)が誕生する」とか、正直興ざめでした。
散々悪口を書いてしまいましたが、1stへのリスペクトのもと本作を完成させた制作陣には「よく頑張りました!」と言えますし、相応に楽しみはしました。機動戦士ガンダムになぞらえて言えば、「1stが最高なんだけど、ユニコーンもよく頑張った!」みたいな感じ…でしょうか。