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「長江哀歌」に感激。早稲田松竹でのジャ・ジャンクー監督の特集上映で、4部作を構成する「青の稲妻」「プラットフォーム」を見て、最後に総集編ともいえる本作を鑑賞した。
1980年から現代までの激動の中国を舞台にした大河ドラマを見終わった大満足感がある。そして、遠くに感じていた中国の人々が、同じ困難な時代を生きる隣人と感じられるようになった。同じ世界で生きていたら、私も同じようにしたーーそう感じさせる人物が描かれている。ジャ・ジャンクーの世界的評価の理由というのは、このあたりにあるのだと思う。
本作では、過去作の2作品「青の稲妻」(2001年の物語)「長江哀歌」(2006年〃)に出演するダンサーのチャオ(チャオ・タオ)と恋人の実業家ビン(リー・チョウビン)のフィルムを利用して、2001年、2006年、そして新撮影の2022年の20年余りの物語に再構成している。
ただし、再利用部分の2001年、2006年の物語は、設定や役名が変わっているようだ。つまり、別人物だったものを、本作では同一人物だとして、再構成しているようである。
2001年、2006年の再利用部分はかなり分かりにくい編集だ。テレビ版のエヴァンゲリオンを再編集した映画版みたいに、イメージを交差させるような編集で、前作を見ていないとよく分からない。というか観ていても、途中ノンフィクション的なインタビューが入ったりして、かなり咀嚼して解釈する必要があった。
なので、自分なりの解釈を交えつつ、この物語を整理してみたいと思う。
この映画は、二人の恋愛映画と捉えると、2001年、2006年、2022年がきれいな三幕構成となるシンプルな物語となる。
第1幕、2001年の山西省・大同。かつて炭鉱産業で賑わった衰退する地方都市だ。
計画経済から、改革開放政策で、一人一人が自分の才覚で稼がなくてはいけない社会になった。国家主導の産業が衰退し、就職先になるちゃんとした会社なんてない地方都市で、自分の才覚で稼ぐのは本当に大変であることが伝わってくる。
青年実業家ビンが考え出したビジネスモデルは、町に溢れる元炭鉱労働者、無職シニアたちの居場所として、無料で女性の歌と踊りを見られる劇場を作ることだ。入場料がタダのおかげもあり大繁盛している。
ビンは舞台に上がる出演者から出演料を取る。「プラットフォーム」で描かれた文化劇団上がりの歌や踊りが上手な女性がたくさんいたようで、出演者には不自由しない。彼女たちは客からチップをもらう。そこからビンに出演料を支払うのだ。
恋人でダンサーのチャオは、そんな女性達と働くビンが他の女に心変わりするのではないかと気が気ではない。チャオはダンサーといっても劇場の舞台に上がるわけではない。様々な企業の商品の宣伝のために踊るのだ。そして、二人の仲はうまくいかない。生き延びることに精一杯だから、愛情を育むことができないのだ。
第2幕、2006年の国家プロジェクト・三峡ダムの建設が進む長江沿いの街・奉節。実際に、このプロジェクトで数百万人が故郷を追われたそうだ。
まだ携帯で繋がっていたチャオとビンだが、ビンは故郷・大同を離れて「一旗あげる。そうしたら迎えに来る」というメッセージを最後に連絡を絶った。チャオは、ビンが奉節にいることを突き止めて、一人で探しにやってくるが、大量の人の中から見つけるのは無理なのだ。彼女は一人町を彷徨い、その過程で20年前の中国の様子が垣間見えて来る。
ビンはこの町でダムに沈む町のビル解体を請け負っていた。有能な女性経営者をパートナーにして儲けしていた。しかし、作業員を掌握するのは難しい。行政側は無理な工期を要求してきて、綱渡りのビジネスだ。
そして、パートナーの女に金を持ち逃げされる。ビンはおそらくこの街から逃げることになるのだろう。チャオは彼と会えなかった。
第3幕、2022年、コロナ禍の大同に舞台は戻る。16年経って大同は開発が進み、都市化された。チャオはスーパーのレジ打ちをしていて、今だ独り身である。
ビンは実業家を続けているが、16年で驚くほど老け込み、体の不自由も抱えている(リー・チョウビンは病気をしたのだろうか…。スターウォーズ第7作のマーク・ハミルくらい変わっていた)。どこでも稼ぐことができず故郷の大同に戻ってきた。どうやらチャオとはずっと連絡をとっていなかったようだ。「稼げる男でなければ、俺には価値がない…」そんなプレッシャーを自分にかけ続けて、ずっと彼は苦しんできたのだと思う(こうした自分にかける〝呪い〟は、僕自身と同じだ。今年退職して初めて、はっきり自覚した)。
そして二人は再会する。すっかり変わってピカピカになった故郷の町を無言で、一緒に歩く。これからは二人助け合って仲良く暮らせばいいのに…と思うけれど、20年の歳月は重く、再会を無邪気に喜ぶことはできない。
チャオはコロナ禍で自粛中の町で、ランニングする人々に混ざって走り始める。かつての私と違う。一人で自立して生きてきたのよ…という姿を見せるようだ。この上なく切ないラストだった。恋には賞味期限があるのだ。20代30代なら恋を実らせれば、生活の中で具体的な手応えに変わる。40代50代になった彼らにはその手段がない(独り身の僕には、ここも切実で、取り返せない後悔でもある)。
ジャンクー監督は、近現代の中国人を描く名人だ。実際、現代中国を代表する映画監督と評価されているようだ。まだ50代で若い監督だから、今後もたくさん作品が出るだろうし、今後の新作の日本上映も実現してほしい。
監督と同世代の、本作の主演の二人は盟友なのだろう。この二人の物語は、まだこれで終わってほしくない。ここからシニア編第2部に進んでほしいというのが個人的な希望だ。
ジャンクー監督がすごいのは、個人的な物語を描きつつ、時代と人々の記録になっていることだ。
最近話題の『ほんとうの中国ーー日本人が知らない思考と行動原理』(近藤大介)という本を読んだ。著者の主張は、日本人とは同じ価値観だとは思わない方が良いということだ。
島国で平和な日本に比べて、常にどこから襲われるかわからない大陸は弱肉強食社会であり「騙す方より、騙される方が悪い」「全てにおいてカネ優先」「愛社精神・絆は理解できない」と言ったことが書かれている。あくまで著者の意見で、偏見も入っている気がする。ただ、ジャンクー監督の作品からは、そうなって当然のタフな経験をしてきたのだということが見て取れた。理解しがたい隣人ではなく、厳しい時代を生き抜いた隣人に見えてくるし、同じ状況であれば、僕も同じように生きただろう。価値観が別の異星人のような人たちではないのだと思う。
文化大革命後のたった40年で日本では考えられないほど、社会は激変し続けた。国家の保護はなく、家族や地域共同体は解体されたまま、その激動の世界に個人が投げ出されたーーそこで生きる人をジャンクー監督は描いている。それは拝金主義といった思想や価値観ではないと思う。彼らは、文化大革命の終了後、お金以外に信頼できるものがない世界で生きてきたのだ。僕自身は、安定した国で、手厚い福祉と安全の中で暮らしているにも関わらず、お金が与えてくれる安心が一番だ。共同体と言える地域や親戚の縁などもう持っていない。
ジャンクー監督の作品は、異国中国の人々への共感と共に、日本や世界で共通する現代の社会状況を理解し、これからを考えさせてくれる格好のテキストでもあるのだ。