劇場公開日 2025年8月1日

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美しい夏 : 映画評論・批評

2025年7月29日更新

2025年8月1日よりYEBISU GARDEN CINEMA、シネスイッチ銀座、アップリンク吉祥寺ほかにてロードショー

若者の承認欲求、何者かになりたい心の弱みや生活苦につけこむ危険な影

「しじゅう楽しいお祭り騒ぎが続いた」その頃、人生の“美しい夏”。16歳のヒロイン、ジーニアのその頃―大人への入り口を振り返るチェーザレ・パヴェーゼの中編小説を再読し「感情に訴える映画になる」と直感したと監督ラウラ・ルケッティは述懐する。ただしくっきりとしたプロットを欠く原作の映画化の難しさをも見て取った。プレス資料でそう語る監督はしかし、その難しさを逆手にとるようにしなやかに枝葉を延ばす闊達な脚色をものして、つんと鼻の奥を突くような懐かしさに満ちた快作を差し出している。

「もう子供じゃない」と背伸びの心をもて余しつつジーニアは、洋裁店のお針子として、共に田舎から出てきた兄と実直に日々を暮らしている。華美を排した装いで市電の窓辺に身を置く彼女は、空の高みに目をやり薄く微笑む。曇りないその顔、その姿に、はみ出すことに憧れながらはみ出せずにいる少女の心がふわりと感知される。

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そんなひとりの前に現れるアメーリア。ピクニックの日、ボートからいきなり下着姿になって湖に飛び込むという原作にない鮮烈な登場の仕方でまさにしなやかな脚色の力を印象づける彼女を、ヴァンサン・カッセルモニカ・ベルッチの愛娘にしてトップモデル、その名も“ディーヴァ”・カッセルが体現する。そこにいる誰もの視線をくぎ付けにせずにはいない美貌と肢体。銀幕の大きさを存分に味方につけて誇らかに華やかに君臨する美神は、くしゃりと鼻にしわを寄せた笑顔でふっと脆さと不安、哀しさを垣間見せ、ジーニアの無垢に救いを見出しつつ、その無垢を傷つける世界への導き手を務めてもしまう。

原作では彼女がモデルを務める画家たち、そのひとりへの恋心がジーニアをめぐる記述の芯ともなっていくけれど、映画は性急に大人への仲間入りをした体を横たえた彼女が、壁を這う黒い甲虫に手をやりうんざりと期待外れの時間を噛みしめる心の方をこそみつめ、アメーリアとの惹かれあう気持の切なさに焦点があわされていく。カッセルの天然の美を利した配役に対し「語らず語るのが好き」という監督の映画術を裏打ちする表情、瞳の色でものいうジーニア役イーレ・ヴィアネッロの映画的演技の力も見逃せない。その力があってこそ、都会の森で田舎の自然を想って枯葉に身を埋め浄めの儀式とするような彼女の姿を引きに引いた遠景にからめとる映画の沈黙の雄弁も活かされる。

原作に縛られない脚本の成果はヒロインの周りに配した面々の色づけ方、その雄弁さでも確認できる。とりわけジーニアの才を認めつつ厳しく見守り育てる洋裁店の女主人と勤労学生の兄。「女は知的じゃないとね」とぽつりともらす言葉に、エレガントに佇む今を闘い取った自負をしのばせる前者。そこでルケッティの映画がさらりと示すエンパワメントの質の好ましさ。

かたや傷心の妹が雪の季節を経て少しだけ春の兆しを見せた時、「(喫えるの)知ってるよ」とたばこを差し出す兄のやさしさ。その彼さえも取り込まれていそうな黒シャツの群れ―ファシズムのひたひたとした侵攻もルケッティはぬかりなくトリノの街のそこここに匂わせる。若者の承認欲求、何者かになりたい心の弱みや生活の苦しさにつけこむ危険な影。それを1938年トリノと地続きの、世界の(欧米の、日本の)今に見るような映画は静かに確かに警鐘を鳴らしてもいるだろう。

川口敦子

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