「男と女の壮絶なマウント合戦の行方とは? ニキ・ド・サンファルに捧げる発掘スリラー!」男女残酷物語 サソリ決戦 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
男と女の壮絶なマウント合戦の行方とは? ニキ・ド・サンファルに捧げる発掘スリラー!
予告編を観て、久しぶりに「こいつは絶対観とかないとまずいぜ!」と食いつきました(笑)。
予想以上に面白かった部分もあり、
予想に反して退屈だった部分もあり。
もっとクルクルパーの狂ったモンド映画かと思いきや、
意外にマジメな、性癖とフェミニズムをめぐる思索的な一面もあり、
思いがけず、ジャッロっぽい仕掛けもあったりして。
まあ、総じてふつうに愉しめました!!
あれだけくっだらないゴミ映画も含めて、ピンからキリまで片端から日本公開されていた60~70年代に、なお各社にスルーされ公開にこぎつけられなかった映画が「そんなに面白いわけがない」という大前提となる基本認識からすると、じゅうぶんに「予想を覆す面白さ」だったといっていい。
悪い面から先に上げておくと、とにかく前半戦がのんびりしていて、退屈。
1969年の映画であることを考慮してなお、あまりにテンポが悪すぎて、だんだん飽きて来る。カット割りも冗漫でセンスがない。もっとガンガンファンキーな音楽をかけてくるかと思いきや、無音のシーンが多くて間延びしている。
これはさすがに寝る。結構な確率で寝ちゃう映画だ。
とはいえ。
美術&セットの美的なセンスは確実にぶっ飛んでるし、
男女二人の精神的闘争に絞ったシンプルな展開も良い。
フェティッシュで忘れがたいアイディアもてんこ盛り。
くるった白日夢のような後半戦は、十分に堪能できた。
おまけに、ジャッロの影響下にあるミステリ映画としても、意外に気がきいている。
冒頭のなんで用意されているのかよくわからない自動車のシーンや、執務室のシーンが、実はラストシーンに向けての壮大な伏線だったことに気付いたときには、結構仰天した。
「なんだよ、思ったよりちゃんと考えてあるんじゃん!!」
あと、本作の男性側のかかえるとある隠しネタは、ほぼそのまま、あの珍作ゴダール風ジャッロ『殺しを呼ぶ卵』(68)(詳しくは過去の感想をご参照下さい)と「まんまおんなじ」ネタなのだが、単なるびっくらかしの捨てネタみたいに扱われていた『殺しを呼ぶ卵』と異なり、本作では冒頭にあの娼婦を登場させることで、きちんとミステリとして機能させている。
要するに、どんでん返しにつながる生きたネタとして、「実は彼は●●●していない」という真相が、ちゃんと活用されているのだ。
ノリとしては、ファンキーなモンド映画やイケイケの艶笑譚というよりは、同時代で言うと『殺人捜査』(69)のエリオ・ペトリ監督の狂ったセンスに結構近い気がする。
頭のおかしい作りと悪趣味さとマジメさと社会派性とミステリ味とがごた混ぜになったような、キッチュな感覚。その大前提として「インテリで文学的素養のある反権威主義者の俺が作ったB級の大衆向け娯楽作」という「居直り」が随所に垣間見られるところ。まあ当時のイタリアに限らず60年代~70年代って、こういう手合いのチープ&キッチュで偽装した頭でっかちな監督さんが多い気がするけど(笑)。
本作の設定自体は、聞けば誰しもがウィリアム・ワイラーの『コレクター』(65)を想起するものだと思うが、ピエロ・スキバザッパ監督自身はその関係性を全面的に否定しているようだ(ホントかどうかは知らないが)。
あるいは、その原型としてのマルキ・ド・サドの諸作品や、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』に想を得ていると言いたいのかもしれない(ボンテージ人形部屋は『青髭公』の秘密の部屋をも想起させる)。
なんにせよ、サドマゾヒスティックな「監禁調教もの」の範疇で物語は展開し、いつしか恋愛要素がSM趣味を覆い尽くし、さらにはそれがミステリ的趣向で塗り替えられるというのが、本作の組み立てである。
逆転劇という意味では、『バーバレラ』(68)や『女性上位時代』(68)のような、女性が活躍するフェミニズム的機運も受け止めて作られているといえる。
主人公のフィリップ・ルロア演じるセイヤーは、ダニエル・クレイグみたいな男前な風貌の大富豪でありながら、その心性はチー牛の弱男そのもので、ミソジニスト&サディストとしての男のロマンを、勝気なジャーナリスト、メアリー(ダグマー・ラッサンダー)を監禁・調教することで満たそうとする。
折檻はするけど凌辱はしないところがミソで、ホースによる水責めのシーンなどは、当時勃興しつつあった女囚もの(ジェス・フランコの『99 Women』が1969年)との影響関係を感じさせる(個人的には、吉行和子が『愛の亡霊』(78)で大島渚に水責め喰らって殺されかけた話を思いだしたw)。
当然ながら、この映画のクライマックスの一つともいえる「髪切り」のシーンは、カール・テオドア・ドライヤーの『裁かるるジャンヌ』(28)へのオマージュだろう。
カメラでの撮影に執着するさまは、先述した『殺しを呼ぶ卵』とも通底するが、もとをたどっていけばジャンルの始祖としての『血を吸うカメラ』(60)に行き着く。
その他、アホ丸出しのそっくりさん人形のシーンなど、深読みをすればいくらでも性的な隠喩と倒錯性への解釈が可能な作品でもあるが、別になにも考えないで観ていても、中盤以降はじゅうぶんに愉しい。
対するメアリー役のダグマー・ラッサンダーは、清楚さとコケティッシュさを併せ持つ良い女優さんだ。ドイツで数本出演したあと、これが海外進出一本目らしい。新人らしからぬ脱ぎっぷりと堂々たる演技で、「サソリ」「カマキリ」と称されるキャラクターを演じ切っている。こういう、メアリーみたいに徹底的に最初は「受け」から入って、相手の技をすべて受け切ってから、おもむろに反撃に転じるタイプって、ときどき小説とか映画とかでも出て来るよね。土曜ワイド劇場とか。潜入捜査官ものとか。あと、くっ殺(ころ)ヒロイン系の二次ドリコミックとか(笑)。さんざんひいひいいってたのに、最後の1ページで逆転して高笑いしてるやつ。
ちなみにこのあとダグマーは、マリオ・バーヴァの『クレイジー・キラー/悪魔の焼却炉』(69)やルチオ・フルチの『墓地裏の家』に出演することになる。どちらも映画館で観てるのに、言われるまでまったく気づかなかったぜ……(笑)。てか、フィルモグラフィを見ると本当に可哀想になるくらいカスみたいな映画にしか出させてもらえてなくて、初期のキャリア形成に失敗するとこんなきれいな女優さんでもこういう扱いになっちゃうんだなあ、と暗澹たる気持ちになります……。
この映画の場合、男性からの攻撃がメインの前半戦と、女性による反撃が描かれる後半戦のあいだに、表面上は「ラブラブ」に見える(その実、壮絶な心理戦とマウント合戦が水面下で展開されている)屋外デートシーンが延々と続くところが、ある意味で新鮮だ。
というか、個人的にはここのデートシーンがとにかくいちばん素晴らしいと思う。
(ちょうど『ゾンビ』で、ゾンビが出て来るシーンより、無人のスーパーマーケットで主人公たちが遊び興じる中盤の息抜きシーンが一番素晴らしいのと同じようなものだ。)
菜の花畑でのドライブと写真撮影会。
ニセアカシアの森での追いかけっこ。
疾走する水陸両用車(アンフィカー770)。
海岸べりに立つサンタセヴェラ城。
甲冑武者とこびとと秘密通路のバロッキズム。
すべてが素晴らしい。
あと、一両立ての蒸気機関車にのってやってくる女性だけの音楽隊とか、フェリーニじみていてドキドキする。縦笛を深くくわえた女たちはオーラルセックスを暗示する性的なモチーフとして機能するが、そもそも列車も煙突も旗も男性器の象徴であり、この列車は両者の性欲が昂ぶりはじめていることの視覚的表現として登場している。
マウント写真撮影。マッサージ。じらし。拘束。
終盤戦で、「女性上位」が確立した後のシーンで、律儀に「前半でセイヤーがマウントをとるためにメアリーにやった愚行」を逆転した形で反復するのは、監督が意外にマジメにこの映画を作っている証でもある。
プールに向かってメアリーが向かって投げる「アレ」は、印象としては最高にイカしているが、実際にアレをしたままで気づかれないはずはないよね(笑)。なんでセイヤーが●●じゃうかも含めて、あくまで「象徴的」なシーンとして考えるべきだろう。
最後まで観ればわかるとおり、物語自体は明快にこの戦いの勝者と敗者を分かつ。
だが、はたしてあの「中間地帯」で展開されたラブラブデートが「本当にうわべだけのもの」だったのかと言われると、僕はおそらく違うと思う。
あの瞬間、たしかにメアリーはひとときの逢瀬を楽しみ、仮面のラブアフェアを満喫したのではなかったか。知略と策謀のただなかで、ふといまそこにある愉しい時間を味わった部分もあったのではなかったか。偽りの駆け引きのなかで、ごみクズ男とカマキリのあいだには確かな交情も存在したのではなかったか。
そんな気持ちにさせてくれるからこそ、僕はあの他愛のないデートシーンが一番好きなのだと思う(そういや、二人の関係は『華麗なる賭け』(68)を少し想起させるところがあるし)。
― ― ―
本作の一番の特徴としては、当時のモダンな美術作品や、007の秘密基地めいた監禁調教の館、生き人形など、アーティスティックな呪物や建築で映画全体が彩られていることが挙げられるだろう。
キービジュアルとしてのニキ・ド・サンファル(元モデルのフランス人の画家・彫刻家。日本では箱根彫刻の森などで作品が常設展示されている)の「Hon」の衝撃性(もともとは「胎内巡り」として企図された「Hon」が、「ヴァギナ・デンタタ」(歯のある女●器)に「魔改造」されている!!)もさることながら、さらっと背景にルーチョ・フォンタナの「空間概念・期待」(キャンバスに切れ目を入れることで、基底材の既成概念に文字通りメスを入れたアルゼンチンの画家)が掛けられ、ジュゼッペ・カポグロッシを模したパターン装飾が壁面を飾る。あと、誰が描いているか僕は知らないが、ラストで次々と映し出される人物と建築や家具が融合したようなデッサン画も味わい深い。
その他、金歯が光る財団創設者の笑顔の銅像とか、日本の石庭のような鍛錬部屋とか、部屋中に飾られている現代芸術とか、なんだか現代美術館でアホ映画を観させられているような妙な錯覚にとらわれる。
とくにニキ・ド・サンファルからの引用(盗用?笑)は、作品の主題と密接なかかわりがある。
ニキ自身、モデル出身のきわめて美しい女性で、雰囲気が本作主演のダグマーと似ていなくもない。けっして鼻っ柱の強いタイプではないが、「射撃絵画」で攻撃的な制作手法を見せたり、フェミニスト的な連作「花嫁」「ナナ」などをつくったりと、「折伏してみたい、なまいきな女」の幻想を搔き立てるアイコンであることは確かだ。
しかも、彼女は幼いころに父親から度重なる性的虐待を受けていたことをカミングアウトしている。そもそも、スキバザッパ監督が本作のアイディアをひらめいたのは、ストックホルム美術館でニキ・ド・サンファルのアート作品を目撃したからだった。
それは、単に「Hon」の形状とフェミニズム的なメッセージに衝撃を受けたからだけではあるまい。ニキ・ド・サンファルという「美しきミューズ」を「こらしめ、調伏し、支配したい」という男性的な内なる欲望に駆られたという事実が、本作の核となって膨らんでいったのではなかったか。
パンフレットによれば、本作の美術セットはすべてスタジオで組まれていて、装飾品から壁の色調、メカニカルな装置まですべて監督の明確なアイディアのもと、美術班が忠実に作り上げたという。それだけスキバザッパ監督が(少なくとも)アート・ディレクションに関しては優秀だったということだろう。
なお、ステルヴィオ・チプリアーニによる美麗な音楽については、詳しい人がたくさんいると思うのであまり深入りしないことにするが(笑)、主題曲「メアリーのテーマ」は、旋律の出だし5音が、『続・夕陽のガンマン』(66)の「戦士の物語」を短調にしたものだし、スキャットの使いかたも含めて、やっぱりエンニオ・モリコーネの影響は大きいよね。