「シンメトリーで「真正面」からとらえられた、北国の風物と三者三様の切なくピュアな想い。」ぼくのお日さま じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
シンメトリーで「真正面」からとらえられた、北国の風物と三者三様の切なくピュアな想い。
一見して印象的なのは、
映画のほとんどの構図が、
シンメトリー(左右対称)
を意識して撮られているということだ。
グラウンドに立つ少年。
路傍に立つ郵便ポスト。
双耳峰と沸き立つ白雲。
少年とホッケーゴール。
スケートリンクの少女。
建物も、人物も、風景も、
この映画は常に真正面から、
衒いなく見据えようとする。
それは、曇りなき視点であり、
どこまでもフェアな視点である。
相手のことをまっすぐに見つめる視点である。
その潔さ、清々しさが、奥山大史監督の視座なのだ。
画面の奥のど真ん中にひとり佇むとき、
右にも、左にも、等間隔で何もない空間で、
被写体は、どこまでも孤独でよるべない存在だ。
その一方で、対象をど真ん中からまっすぐ見据えてぶれることのない、監督の真摯な眼差しが、キャラクターをある種の孤独からすくい上げているのもまた確かだ。
本作において、会話する二人は、常に左右に並んで意見を述べ合う。
積み重ねられてきた「二人のシンメトリー」は、終盤の三つのショットに結実する。
ベッドに横たわる、池松壮亮と若葉竜也の会話。
想い出の湖のほとりと車中で並ぶ少年とコーチ。
春の通学途上で、新たに出会い直す少年と少女。
ここにたどり着くために、敢えてシンメトリーを積み重ねてきた、という言い方もできるだろう。
そのへん、ビクトル・エリセの『瞳をとじて』あたりの作劇を少し想起させる。
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一方で、この物語は「二人のシンメトリー」がなかなかに成就しない物語でもある。
少年と少女とコーチ。
スケートリンクでは、常にこの三者が三様にひきつけ合い、微妙なバランスを保っているからだ。
リンクで向き合う二人を、残る一人が外から眺めている。
最初は少女とコーチが練習するところを、少年が外から見つめている。
それから今度は、少年とコーチが練習するところを、少女が外から見つめている。
さらには、少年と少女が練習するところを、コーチが外から見つめている。
それぞれの胸に去来する想いは、一方通行だ。
少年の慕情。少女の慕情。コーチが二人に託したい想い。
ベクトルはかみ合わず、憧れの視線はいつも誤解とためらいに満ちている。
そんなとき、カメラは必ずといっていいほど、外から見つめる人間を「真横」から捉える。
被写体の横顔を映しながら、その右側に向けられる羨望の眼差しをひたと見つめる。
眼差しの先は遠く、見つめる者の想いは常に伝わらない。
それでも、三人の幸せな時間は、しばらくのあいだだけ共有される。
そのとき、三人の視線はほどよい感じで絡み合い、三人で分かち合う大切な瞬間が積み重ねられる。
この映画は、そうやって、ほんのわずかな時間だけ保たれた「奇跡のような関係性」の「尊さ」と「多幸感」によって、他にない特別な作品となり得ている。
男二人と女一人。
青春の輝きを、最も際立たせる取り合わせだ。
『ぼくのお日さま』は、この黄金パターンのヴァリエイションだと言っていい。
すなわち、映画としての『ぼくのお日さま』は、
ジャン=リュック・ゴダールの『はなればなれに』や、
フランソワ・トリュフォーの『突然炎のごとく』や、
ロベール・アンリコの『冒険者たち』や、
ジョージ・ロイ・ヒルの『明日に向って撃て!』や、
ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の
精神的な後継作にあたるとも言えるのだ。
上記の映画群にはいずれも、「友情以上、恋愛未満」の関係性で結ばれた三人が、童心に返って「わちゃわちゃ」してみせる、底抜けに幸せなシーンが象徴的に存在する。
『ぼくのお日さま』にとってのそれは、言うまでもなくあの、氷結した湖上での練習風景だ。
あの一連のシーンをフィルムに収められただけでも、この映画が作られた意味はあった。
そのくらいに良いシーンだと思う。
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それでも。だからこそ。
三人の奇跡のような幸せな時間は、
結局は、かりそめのものにすぎない。
幸せ過ぎる魔法は、やがては解けてしまう。
雪のように。はかなく。容赦なく。
その背景にあるのは、とても哀しい無理解と一方的な断絶であって、映画によればそこを「深掘り」してみせる作品だってありそうなものだ。
でも、この映画は、敢えてそちらに踏み込まない。
この映画は、偏見を持ってしまった者を断罪しない。
起きてしまった哀しい結末を、あえて蒸し返さない。
背負うマイノリティの辛さを、剥き出しで描かない。
下した決断の重さを、無理やり強調しようとしない。
すべてを、冬から春への季節の移り変わりのなかで、
あるがままに描いて、教訓や結論を見出そうとしない。
それでいい。
僕は、この映画に関しては、このオープンエンドで良かったのだと思う。
これ以上でも、これ以下でも、きっと説教臭くなった気がする。
このくらい、語り切らず、これから起きることを観客にゆだねて、そのまま潔く終わるくらいで、ちょうどよかった。僕はそう思う。
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とにかく、美少年と、美少女と、池松壮亮の存在がまぶしい。
ただ傍観者として観ているだけでも、ほっこりした気持ちになれる、どこまでも美しい映画だった。
決して、器用に撮られた映画ではない。
監督が映画青年のように「ショットの強度」と「視線の交錯劇」にこだわりすぎて、自然なナラティヴを欠いている面は否めないし、屋内ショットは逆光にこだわりすぎて、全体に白くけぶっていて画面の精度が低い印象も免れない。
もう少し少年の様子は、くねくねしていないほうが良かったかもしれないし、
ヒロインについても、多少は演技経験のある女の子だったほうが、あの「気持ち悪い」のシーンなどはもっとうまくいったかもしれない(きわめて重要な楔となるシーンだけに、どうしても現状の仕上がりには物足りなさと唐突さが残ってしまう)。
三人の関係性の進展に関しても、淡い憧れを抱く女の子と突然アイスダンスの「ペア」をやってみろと言われたタクヤの困惑や動揺、興奮や昂揚をろくに描こうとしていないし、いきなり見知らぬフィギュア未経験らしい少年と二人でアイスダンスの練習をやらされる羽目になったさくらの動揺や嫌悪感、怯えといった感情も、ほとんど描かれない。
あれっ? と言いたくなるくらい、二人はスムーズにペアになることを受け入れ、異性に触り触られることを受け入れ、二人で練習することを受け入れていて、その辺は個人的にはどうしても不自然に思えてならなかった。
とはいえ、子役は二人とも「透明感」があって、何より「存在感」があった。
役者自身の朴訥とした素直な人柄が伝わって来て、心からの愛着が持てた。
愛着が持てたからこそ、起きてしまった哀しい展開も、ぐっと吞み込むことができた。
無理なコーチの要求を、すんなり受け入れるような純朴で素直な女の子だからこそ、あそこでは裏切られたと思ったのだろうし、少女特有の潔癖さが、コーチの在り方を赦せなかったのだろう。自分のコーチに対する(本人が自覚しているとはいいがたいある種の)慕情が踏みにじられた気がしたのだろう。
むしろ、そこで彼女に生まれたような残酷な「負の感情」を、大上段に「道徳」によって一刀両断するような映画でなくて、本当に良かったと僕は思う。
同様なことはマイノリティの描き方にも言える。
敢えて題材として自分から取り入れているだけあって、監督は(カメラワークと同じように)真正面から、衒わず、ぶれず、障害や性的指向について扱っている。だが、そこに「かくあるべし」論は持ち込まない。あくまで、自然な当事者感覚の延長で作品に取り込んでいる。そこの見識がしっかりしていて素晴らしい。
特に「吃音」については、構えれば構えるほど言葉の冒頭が出にくくなる感じや、コウセイとの気の置けない何気ない会話だとスムーズに言葉が出ている感じが、実に生々しい。
お父さんが明快に吃音だというのも、だいぶ踏み込んだ表現の導入だと思う(たとえ最近は吃音になるかどうかは遺伝的要素が大きいということに学術的になって来ていたとしても、なかなか公けの場では設定として明確にしづらい部分を、敢えてぶっこんできている感じ……)。
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その他、雑感を箇条書きにて。
●若葉竜也はホントに良い役者。
●きょうび、北海道では現代でも犬は外飼いなのだろうか(あんなに冬は寒いのに)。都市部だと大型犬でも室内飼いにするのが一般的になってきている感じがあるので、ちょっと気になった。まあ、コーチがガラケー使ってたし、ガンガン煙草吸ってたし、カセットテープ使ってたし、時代設定自体かなり古いのかもしれないけど。
●まあなんにせよ、北国の淡い光線と雪で覆われた風景には、クロード・ドビュッシーの「月の光」がドンピシャで合うんだよね。この取り合わせの妙を見出した時点で、この作品はすでに半分成功を約束されていたと言えるのではないか。
●キャッチボールで「投げ損ねた」ことを「口実」に、湖畔に連れ出してまで本当に伝えたかった言葉(「ごめん!」)をようやく口の端に載せるコーチ。さくらが試験会場へ来なかった本当の理由も、きっとうまく話せてなかったんだろうね。で、タクヤはずっと自分が嫌われたと思ってたという。辛い。
●主人公3人を追い詰める環境と状況を作るために、友だちや大人たちがちょろっと出てきては、揃いも揃ってかなり感じの悪い「毒」を吹き込んで回るという作劇は、ちょっと安易な感じもしないでもない。とくにさくらのお母さんをああいう設定にすると、本人まで親のコピーみたいな人間に育ちつつあるって話になっちゃうわけで……。
●監督はフィギュアを描いた映画がほとんどない(野球のようにダブルが使えず、演技者がスケートが出来ることが前提になるのがネックとなる)から、ぜひ撮ってみたかったといったことをパンフで語っていた。個人的に「少女×フィギュア」だと、倉本聰の初監督作で『時計』という映画があったのを覚えているが、主演の中嶋朋子が上手かったかどうかはもはや思い出せない。そういやこの監督さんは、ガンガンに滑れることは十分判っていても、敢えて小芝風花や本田望結で映画を撮りたいとは思わなそうではあるな(笑)。
ちなみに洋画だと、『冬の恋人たち』という、とても後味の良いペアスケートのラブコメがあって、お薦めです。
●ラストシーン。監督としては、『第三の男』や『ロング・グッドバイ』の有名すぎるエンディングを映画ファンの観客が勝手に想起して、おやそのまますれ違うのか?と脳内でシミュレーションしたあと、「ああそうじゃなかったか」と落ち着くまでの思考過程を最初から期待しているのではないか。
●エンドクレジットの、歌詞をしっかり文字起こしして呈示していくつくりは素晴らしい。
思った以上に「そっち」を念頭に置いて作られた映画だったんだな。
しかも、あのシルヴァスタインの絵本のようなカーブの線が、フィギュアのスケート痕だと気づいていなかったので、最後にシューズの絵が出てきて、なんかちょっと感動した。
●ちなみにパンフは装幀・内容とも素晴らしい作りで感心した。巻末のカンヌ凱旋ロング対談では、池松くんや監督が、いかに子役ふたりと親密で和やかな関係性を築けていたかがよく伝わってきて、胸が熱くなった。
●この映画、結局僕は渋谷でNHKホールの帰りに観たのだが、実は前日夜の時点では、川崎のラゾーナにある109で観るつもりで、レイトショーのチケットを現地で購入していた。ところがラゾーナの3階で時間をつぶしていたら、20時半ごろ、まさかの「全館停電」が勃発、館内の照明が一斉に落ちて、非常灯に! 空調もエスカレーターも止まり、慌てて映画館に行ってみたら、ロビーに観客が吐き出されていて、払い戻しの列を形成している。僕が観ようと思っていたレイトショーも、結局予定の21時35分までには館内電気が復旧せず、払い戻しも当日中は無理とのことで、まずはタダ券だけ一枚もらって帰途についたのだった……。こんな映画みたいなこと、本当にあるんだなあ……。