「なぜダメなのか、に答えた作品」コンセント 同意 うぐいすさんの映画レビュー(感想・評価)
なぜダメなのか、に答えた作品
編集者である母と参加したパーティーで中年の作家ガブリエル・マツネフに見初められた少女ヴァネッサが、彼との恋路と関係解消後に傷つき、再起する姿を描いた作品。ヴァネッサが交際から30年以上を経て出版した告白/告発本を基に、本人の監修のもと脚色をした物語である。
年齢や立場の差がある恋愛、特に若い側が10代や20代前半にある関係は、前世紀なら障害を越える純愛としてドラマチックにさえ描かれた題材である。現代においては、パートナーシップの下にある搾取構造や不均衡が指摘され、不道徳なものとして位置づけられている。
本作はヴァネッサの心の動きだけを見れば、ローティーンにありがちな背伸びした恋による火傷の体験にも見える。しかし本作の主題に則り、ガブリエルとヴァネッサの関係のバランスに注目すると、ガブリエルが洗脳に似た手法でヴァネッサをコントロールしていた実態が見えて来る。
ヴァネッサを特別な子と言い続けることで思春期特有の他己評価に飢えた自尊心を満たし、多数派の価値観や彼女の学友達の幼稚さを貶して孤立させ、彼から離れれば無価値で孤独な14歳の子供に戻ると植え付けていく。そうしてガブリエルが愛を捧げる側から捧げられる側へ変貌する様は手慣れたものだった。仮に劇中で別離の決め手となる出来事がなくとも、この不均衡により2人の関係がじきに破綻していたことは想像に難くない。
彼の口車に惑わされないためには、ヴァネッサには人生経験が圧倒的に不足している。ヴァネッサだけの問題ではなく、大人、それもある程度の人生経験を持つ大人と対峙した若者全般に言えることだろう。
ヴァネッサには相談相手がおらず、ガブリエルに本音をぶつけることもできないため、物語の中ではヴァネッサの気持ちがあまり言語化されない。そのため観客はティーンの頃の感性を思い出しながら、微かな表情の変化から彼女の動揺を汲み取らねばならない。また、恋の傷を新しい恋で上書きしようとするのは実にフランス映画らしいが、手放しには共感しにくい行動だった。
二人が交際していたのは80年代で、既にガブリエルは小児性愛を公言しその体験や海外での買春記を本にしていた有名作家だった。表現の自由の名のもとにインモラルな表現や尖った存在が持て囃されていた、時代の徒花とも言える。ヴァネッサが書店で「まだ早い」として店員からガブリエルの著書の購入を止められるエピソードがあり、ガブリエルがどんな作品を書いているのか知らないまま彼と関係を持ってしまうのが、何とも皮肉だった。現代なら、ネットで検索してガブリエルが何者かを知ることができただろうか。それとも、求愛に舞い上がった少女には相手のスキャンダルなど関係なかっただろうか。
ヴァネッサが告発本を書いたのは反論や補償が目的ではなく、彼が属する文章の世界で同じ土俵に立ちたかったからだという。時間はかかったようだが書き出す行為が一種のケアになった面もあるだろうし、ペンに傷つけられた体験にペンで向き合う姿勢は見事である。彼の作品と違いヴァネッサの著書は世界中で翻訳され、映像化までされた。次の30年後の価値観では、どちらが世に残っているだろうか。
なお本作はヴァネッサの物語であるためか、ガブリエルが一つの題材に拘る理由や、後年価値観の反転により梯子を外されどうなったかについては触れられていない。前者については、ガブリエルもまた大人によって彼の言うところの「手ほどき」された存在だったというから、彼にとって性愛とはそういうものなのかも知れない。
一番気になったのはヴァネッサの母親である。別れた夫や世の男達のことを愚痴り、娘に不倫を隠さない母親は、ヴァネッサにとって反面教師らしい。ヴァネッサが読書家なのも、母が本に子守りをさせていたからではないのかと勘繰りたくなった。
ガブリエルとの交際については、当初は彼の為人を知っているため反対するが、ヴァネッサが反発して家を出ようとすると容認したり、外泊は許しても旅行は許さなかったり、ガブリエルが権力者に顔が効くことを知って後押ししたりと、一貫しない。
自分の価値観が芽生え一人で行動するようになった子供をどう監督するかというのは、いつの時代も頭の痛い問題である。年頃の子供や、その手前の年代の子供を持つ親が本作をどう観たのか知りたくなった。
若者と大人の恋愛のタブーについては年齢差ばかりが取り沙汰されるが、何歳差までなら許される、というものではなく、アンバランスなリレーションシップが形成される限り立ち止まるべきだ、という一つの回答をはっきりと主張した作品だった。