朽ちないサクラ : インタビュー
杉咲花、心の機微を手繰り寄せながら突き進む俳優道
「市子」「52ヘルツのクジラたち」と、観る者から感情を引きずり出すような熱演をみせ、ますます覚醒した感のある俳優・杉咲花。彼女の次なる主演映画は、「孤狼の血」で知られる柚月裕子による異端の警察小説の映画化だ。「帰ってきた あぶない刑事」がスマッシュヒット中の原廣利監督が手掛けた「朽ちないサクラ」(公開中)は、警察の広報職員を主人公にした物語。
学生時代からの友人であり、記者の千佳(森田想)との談笑中、うっかり警察の内々の話を漏らしてしまった泉(杉咲花)。口止めするも、その後に千佳が勤める地元新聞からスクープ記事がすっぱ抜かれ、署内は大混乱に陥る。「私じゃない」という友の言葉を信じられない泉だったが、別れた後に千佳が遺体で発見されたと聞き愕然。悔恨と喪失を抱えながら、真相究明に乗り出す。
聖人君子的なものとは一線を画す人間くさい主人公を杉咲花はどのように捉え、演じていったのか。そして彼女自身はいま、何を想いどこに向かおうとしているのか。二つの側面から話を伺った。(取材・文/SYO)
――杉咲さんは「朽ちないサクラ」に寄せたコメントの中で「いつの日か失敗してしまったことのある誰かにも、他者の失敗を許してあげられない誰かにも、この映画が届いてほしい」と書かれていました。「楽園」「52ヘルツのクジラたち」ほか、過去のある意味で無意識の失敗を引きずる人物もこれまで演じてこられましたが、惹かれる要素なのでしょうか。
確かにそうした共通項はあるかもしれません。ただ、改めて「自分がどこに惹かれたか」を考えたときに出てきたポイントという感覚のほうが強くて。判断の基準にしていたわけではありません。どちらかとうと、演じるうえでは「一人の人間として気持ちや行動に筋が通っているか」ということに重点を置きたい気持ちがあります。物語を動かすきっかけになる(役割を持った)セリフやアクションであったとしても、そこに人物の軸がブレずに存在して、血が通っていてほしいという気持ちがあるので、極力客観的な眼差しを持つことを心がけていたくて。
「朽ちないサクラ」は、失敗してしまったことを肯定も否定もせず、正面から描いているところが私は好きです。泉という人物のことを好きになれない方もいるかもしれませんが、「好き」や「嫌い」ではないところで、どういう風にこの人物を見つめるのかということを問われている作品なのではないかなって。
――「泉という人物を好きになれない方もいるかもしれない」という点について、確かに彼女は斬り込み方が少々危なっかしかったり青かったりして、それが生々しさにつながっているようにも感じます。
泉は、じりじり燃えていくというよりは一気に発火するような瞬発的な気持ちの変化で、行動を起こさずにはいられなくて、違和感を覚えたときや何かが小骨のように引っかかった感覚になったときにどうにかせずにはいられない人ではないかと、私自身は捉えていました。そうした彼女の本質が、千佳(森田想)に起こった事件等がきっかけであぶり出される数カ月を描いたのが「朽ちないサクラ」という物語という意識でした。
そういったなかで、富樫さん(安田顕)との終盤のシーンはもう少しだけ冷静になって対話をしに行こうとするシーンだと思っていて。
――観る側も緊迫するシーンですが、杉咲さんご自身もそうだったのですね。
撮影では原廣利監督がシーンの最初から最後まで一連で通すというやり方をされていたため、テイク数も重ねました。私は同じお芝居を繰り返すことで鮮度が失われていってしまうタイプだという自覚があるので、すごく緊張していました。
――本作には、個人VS組織、世代間の断絶、パワーの不均衡、世の中の理不尽さやある種の搾取といった諸々がサブテキスト的に含まれているようにも感じます。
そうですね。自分自身も、ある種の当事者である感覚があります。今現在の社会は本当にたくさんの情報であふれていて、これからどうやって生きていきたいかを突きつけられている時代だと思っていて。考えなくても事が運ばれていく現状に不便を感じずに生きることもできるかもしれませんが、立ち止まって考える必要性を抱いています。
――「立ち止まって考える」象徴が、泉の「沈黙する」「見つめる」シーンの多さかなと感じました。これらについて、原監督から何か演出はあったのでしょうか。
原さんはもっと引いたところから、一枚絵で見たときに美しいかどうかに注力されている印象がありました。内面的なものに関しては、各キャストに託されていたように感じます。
――冒頭のお話にもありましたが、映画「市子」「52ヘルツのクジラたち」、ドラマ「アンメットある脳外科医の日記」、そして「朽ちないサクラ」と近年はより作品への関わり方が深くなってきた印象を受けます。「52ヘルツのクジラたち」では、約1年間に及ぶ脚本の改稿作業に参加されましたね。
こういった関わり方は自分にとって最近のことなんです。近年関わる作品や人との出会いから自分がどうものづくりに関わっていきたいかが少しずつ明確になってくるなかで、本作はそのはじめの一歩を踏み出そうとしていた時期、という感覚です。
物語に関わっていると、自分自身がこれまで経験してきたこと、価値や怒り、孤独を感じたことを頼りに物事を考える機会がたくさんあって。いま入っている現場でも議論が生まれますが、そんな中で誰かの言葉を聞いてハッとさせられる瞬間は、同時に自分の未熟さを実感する時間でもあって。作品に関わることで自分の人生にもフィードバックがある。大切な気づきをいただいてばかりだと感じます。
――そうした杉咲さんの新たなる姿勢が徐々に浸透していっているようにも感じますが、周囲の変化はいかがでしょう。
効率がいいとは言えませんが、そちらを選んだ方が作品がよくなるのならとことん時間を割きましょう、と言って下さる方が自分の周りに残って下さっているような気がします。
――クリエイティブの出口としては極めて健全かと思いますが、きっとそちらに進んだからこその新たな痛みも生まれるのでしょうね。
そうですね。でも、それを知らなかった頃には戻れませんし、恐れずに進んでいきたいです。自分自身がそちらを望むなら、まずは私自身がもっと変化していかないといけない、という焦りもあります。
――物語を作っていくうえで、劇場映画やテレビドラマといったメディアの違いに対する意識はいかがですか?
自分の表現方法としては、ほとんど変わりはありません。
――ちなみに、観る側として杉咲さんの物語に対する意識は、変わってきているのでしょうか。
変わってきていると思います。受け手のことを信じてくれているように感じられる物語に出合えた時は嬉しいですし、自分もそんな物語に携わっていきたいという気持ちが増してきていて。
最近は「アンメット」の現場で実際のお医者さんのお話をお聞きしたり、ドキュメンタリー映像を観るなかで、やっぱり実在する人々に敵うものはないなと改めて感じて。たとえば緊迫しているときに、人はどれくらいその状態を言語や感情で表すのだろうと考えると、抑え込もうとすることのほうが多いように感じます。そういった生活者たちの心の機微をキャッチしながら、手触りを感じられるものづくりにこれからも関わっていきたいです。