顔を捨てた男のレビュー・感想・評価
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現実の捉え方の違いで分かれた人生の明暗
アダム・ピアソンを寡聞にして存じ上げず、彼自身がいわばリアル・オズワルドと形容したくなるような俳優であることを後で知って本当に驚いた。
正直な話、物語序盤のエドワードを見ながら「この風貌で俳優として働いてる設定なんてシュールだな」などと思い、オズワルドについては、特殊メイクだろうという先入観で見ていた。あの見た目であそこまで陽キャなのも主題を語るための誇張に見え、非現実的だと感じていた。
今は、ピアソンに土下座したい気持ちだ。セバスチャン・スタンもすごかったが、振り返ればこれは神経線維腫症当事者であるアダム・ピアソンありきの映画なのだ。
不条理スリラーという惹句の本作、確かに前半はその言葉通りの印象だ。雨漏りする天井から何か(ネズミ? もっと大きなものも落ちてきたような)が落ちてくる場面や、謎の薬によってエドワードの顔がベロンと剥がれて変わってゆくところなどは本当に気味が悪い。顔を捨てるって整形手術じゃないんだ……いや手術にしてくれよ。
ところがオズワルドが登場してからは、じめじめしていた物語の湿度が彼の明るさによって下がり、同時にエドワードの苦悩の描写がどこか皮肉めいたものに見えてきた。オズワルドのトークや行動は小気味よく魅力があり、そのかたわらであれこれ足掻いて包帯グルグル巻きになったりするエドワードを滑稽にさえ感じた。
容貌が変わる前のエドワードは、俳優という人前で表現する仕事に就いてはいたものの、与えられていたのは企業向けの人権教育動画における障害者のステレオタイプのような役だ。彼の仕事への向き合い方もどこか受け身に見える。治験(だったか?)で顔の腫瘍を改善する治療を受ける決断でさえも、エドワード自身が熱望して、という様子ではなく話の流れで、という印象だった。
治療で顔が変わった彼は、エドワードは死んだと偽ってガイと名乗り、一転して不動産営業で成功した。だが、隣人の劇作家イングリッドが彼との交流を題材にして書いた劇を介してオズワルドに出会ってから、彼のアイデンティティは揺らぎ始める。
イングリッドとのごく私的なエピソードを劇作品に仕立てられ、その上後から来たオズワルドの提案でその結末を変えられるなど、エドワードにも同情したくなる点はある。
ただ、彼がオズワルドとの出会いにより不安定になっていった本質的な理由は、過去の自分を彼と比較してしまったからではないだろうか。
序盤、レディー・ガガの「現実を受け入れない限り幸せにはなれない」といった言葉が紹介される。これはポジティブな受容を指すように思われる。
元のエドワードは端役で細々と暮らし、天井から雨漏りがしネズミが落ちてきて、それが不快でもなかなか修理を頼まない。死にたくなるほど現実を拒絶するわけではないが、我慢することで現実に自分を馴染ませようとする、それが治療前の彼の生き方だったように見える。
ただ、治療でイケメンになり営業で成功した以上は、オズワルドに出会おうが今の自分を肯定しておけばよかったのだが……。
「配られたカードで勝負するしかないのさ……それがどういう意味であれ」というスヌーピーの名言がある。手持ちのカードの強みを理解し、ポジティブに向き合い積極的に活用して人生を謳歌しているオズワルド。一方、既に手放したカードに後から執着を見せるエドワード。どちらが賢明な生き方かは言うまでもない。
一見ルッキズム批判の話のようでありながら、実は外見の問題のみにとどまらず「自分が今置かれている現実をどう捉えるかで人生は変わる」というテーマが語られているようにも思えた。
SNSの普及で自分の幸福を他人との比較で測る傾向が強まっている現代だからこそ、オズワルドのような生き方を実践するピアソンの言葉が刺さる。
「みんな、小さなデバイスを持ち歩いていて、まるで低い自尊心を養う装置みたいに、Instagramをスクロールしながら、他人が輝いている姿と自分の現実を比較してしまっています。」
「壊れていてもいい。自分の不完全さを受け入れて、でもその中で美しく、素晴らしい存在でいようとすることを大切にしてほしいです。」
(The Hollywood Reporter Japan インタビュー記事より)
どこまでいっても寄る辺のない心の迷宮
本作でオズワルドを演じているアダム・ピアソンが主演した監督の前作『Chained for Life』が日本で観られないがとても残念なのだが、アダム・ピアソンで繋がった姉妹編、もしくは精神的続編と呼ぶべき関係性にあって興味深い。ただ、前作がルッキズムから逃れられない価値観や社会がテーマだったのに対して、本作はもっと主観的なアイデンティティーの話になっている。極論すれば、本作の主人公やオズワルドの外見は果たして本当にその通りなのかすら疑わしく、実際、なにかしら疾患がありはするのだろうが、周囲の人たちもさして強烈に反応はしていない。つまり全シーンが「主人公の脳内で見えているもの」というフィルターを通す必要があり、平たく言えば人間はどんな姿や性格や能力を持っていようと、主観と自己評価がすべてという解釈もできる(もちろんそれだけの話ではないが)。劇中で憧憬の対象となるオズワルドのキャラも、客観的に見ればずいぶん無神経でいい加減な人物でもあって、羨ましいという感情も突き詰めれば自分の写し絵で、実態はない。どこまでいっても寄る辺のない心の迷宮。一度迷い込んだら出口はない。そんな怖さがみごとに映像に置き換えられている。
外面(ルッキズム)か、内面(性格)か、究極の選択を投げかける映画。
平日に突然の休みができたので、適当に映画を物色していたところ、「顔を捨てた男」のタイトルが目に入った。ミステリーっぽいのかなぁ、と思って鑑賞した。
その思いはほぼ外れたものの、人間の外面(ルッキズム)と内面(性格)がその人の人生(観)に多大な影響を与えている(く)様子を、見事に描写している良質な映画だった。
主人公のエドワードの顔面は、疾病による腫れものによって、醜く膨れ上がっていた。性格は、控え目で、物静か、波風を立たせないよう気を配って人生を静かに送っている。それは、その風貌から成るべく目立たないように、他人の目に触れないように、陰に潜んだ生活ぶりだった。
そんな状況のなかで、治験による新薬の投与によって、エドワードは、見事に本来の自分の顔を取り戻す。その後は、自分を「ガイ」と名乗り、不動産会社のトップセールスマンになるなど、彼の人生は、180度変わったかのように見えたが、ある日、ガイの前に、以前の彼の醜い顔とそっくり瓜二つの顔をした、オズワルドが現れる。
オズワルドは、以前のエドワードとは違って、その風貌とは裏腹に、明朗快活で、前向きな性格、人生を心から謳歌している。そして、思いを寄せていた女性、イングリッドまでが次第に、オズワルドに心を引き寄せられるようになる。挙句の果てには、俳優業もしていたガイの役をも奪われてしまう始末。
ここ以降からが、この映画の本質を表現していく、重要なチャプターになっている。
このオズワルドの出現によって、ガイは恐らく、自分自身を否定されたように感じたに違いない。ガイは、以前のその顔の風貌に、非常に苦しみ、コンプレックスを抱いてきたにもかかわらず、全く同じ顔をしているオズワルドは、その事を気にしている素振りもなく、むしろ、他人以上に自由奔放に人生を楽しんでいる。それを目の当たりにしたとき、ガイの心の中にあった何かが、ことごとく崩壊していったんだと思う。
そして、その崩壊が、その顔とともに、真に生まれ変わるきっかけになれば良かったが、残念ながら、そうはならなかった。
ガイは、次第にオズワルドを妬み、疎ましく思うようになる。その状況は、以前の自分の顔に対するエドワードの性格そのものとそれほど変わらない。
オズワルドは、ガイに言う。屈託のない、けれど、本質をついた、少しトゲのある言葉、「キミは変わらないなぁ。」。すなわち、「せっかく本来の顔を取り戻したのに、ネガティブな内面(性格)も変わらなければ、その後の人生に意味はないよ。」という、オズワルドのこの何気ない言葉は、何とも考えさせられる。
本来の顔をやっとの思いで手に入れたものの、内面(性格)を変えられずに、その後の人生が開けなかったエドワード(ガイ)と、自分の顔のことは一切気にすることなく、明るく振舞うオズワルド。
この二人の人生描写の対比を通して、いやがうえにも鑑賞する者に、外面(ルッキズム)以上に重要なものは何かという普遍的な問いを投げかけている。
時間つぶしのために適当に選んだが、心の奥底にいつまでも残りそうな、忘れられないような映画だった。人生には、人それぞれ程度の差こそあれ、理不尽なこと、不平等なこと、納得できないこと、様々なことがあって、ストレスが溜まる毎日だと思うが、この映画は、そんなストレスを多少なりとも浄化してくれる、鑑賞して損はない映画だと思う。
【パンフレットを読んで】
エドワードの隣にたまたま住んでいる女性(イングリッド)が、都合よく話しかけてきて、そんなに親しくなるか? とか、オズワルドのような、そんなベリースーパー陽キャラみたいな人間なんているわけないよなぁ。とか、映画「あるある」っぽいことも考えながら鑑賞したのち、購入したパンフレットを読んだら、なんと、このオズワルド役の俳優、アダム・ピアソンさんは、この映画に「素顔」で出演していることがわかり、軽い衝撃を受けました。
てっきり、相手役セバスチャン・スタンと同様に、「特殊メイク」かと思っていて、最後まで気づかなかった。
正直、自身のレビューの最後のほうで、「鑑賞する者に、外面(ルッキズム)以上に重要なものは何かという普遍的な問いを投げかけている。」などと、青臭くて綺麗ごと過ぎる言葉を書いてしまったな、と思ったのですが、オズワルド役の人生を「地で行く」、アダム・ピアソンさんの存在を知ったら、いやいや、「青臭くて綺麗ごと過ぎる」、どころか、至極当然な問いかけであると思い直しました。
反ルッキズムは流行りなのか?
この作品で思い出した映画が2本あります。「エレファントマン」(1980年)と「マスク」(1985年)です。この「マスク」は、ジム・キャリーが出演している映画ではなく、ライオン病という病気を患ったロッキー・デニスという実在の青年の半生を描いた映画の方です。ともに感動作で特に「マスク」はハンディを負とせず明るく生き抜く姿に胸が熱くなった記憶があります。
「顔を捨てた男もそのような作品かしら?」と予備知識無しで鑑賞しましたが、違ってました。
今年公開された「サブスタンス」と同様に反ルッキズムをテーマにした映画という感じがしました。
新しい顔を手に入れたエドワード(セバスチャン・スタン)が、ガイと名乗り別人としてイキイキと活躍していく姿は良いのだが、変形した顔を持つオズワルド(アダム・ピアソン)が現れたことによってエドワードの内面が徐々に崩壊していく姿がある意味恐ろしく感じました。
外見にとらわれずありのままの自分を受け入れて生きていくことが大切かもしれませんが、なかなか難しいことかもしれませんね。
これを書いていて邦画の「ハンサムスーツ」を思い出しました。
醜い顔の二人の真実「格差」
平日の昼にもかかわらずヒューマントラストシネマ有楽町のシートは
7割ほどうまっていた。
やはり今話題性があるのか。タイトルがキャッチ―なのか。
そんな中私も何がスクリーンに映されるのか期待して見に行ったのです。
結果的には大いに満足した映画でした。見終わった時より地下鉄で
文章の草稿を書いているとき、ふつふつと満足感があふれてきた
そんな映画でした。私の感想文を読んでください。
【映画感想文】
見終わったとき、オズワルドがエドワードに「君は変わらないね」と発する一言がうまく消化できず、映画を見終わったとき悶々とした。
「人は見た目が9割」というタイトルの本がかなり売れたように「そうだよな」と納得したことがあった。エドワードは疑いなくそう考えて生きてきた。自分の顔が醜いことに負い目を持って生きていた。自信がなく何かにチャレンジすることなく「社会の迷惑」にならないように生きていくことが、彼の信条だった。
顔の醜さを矯正する手術を決断し、ハンサムな顔になり別人として生きていく。彼が今まで経験したことのないこともできて万々歳ではなかった。ハンサムになり人気者になっても彼には過去を払拭できずにいた。そしてオズワルドが彼の目の前に現れたのだ。
オズワルドは、以前のエドワード同様、顔が醜かった。ただ二人には圧倒的な違いがある。オズワルドは、誰とも議論し、ジョークを言い、歌を歌い、楽器を演奏し、教養も多種にわたり、ひろい人間関係を構築している。
この違いは、エドワードは引っ込み事案で暗い性格だからであろうか。オズワルドは、エドワードに話したことがある。「大学在学中に投資で大儲けした」という一言だ。オズワルドは、大学に行ける環境下にあり、そこで莫大な財力を手に入れたことに目を向けないといけない。オズワルドには、顔の醜さを覆い隠してしまう知力と財力があったのだ。
顔が醜い男でなくても同じだ。学歴、育った環境、人はそれぞれ同じでなく、平等ではない。このことを今の社会は「格差」という。この映画は、一見特殊な人間を扱いながら、人間普遍の問題をテーマにしている。
エドワードとオズワルドの「格差」にしてしまえば「変わらないね」ではなく「変われない」のがエドワードのいる世界だ。それゆえ見終わったとき、消化できず悶々とした感覚は、まさにそこに答えがあったのだ。
今属している「世界」を変えるには、フルモデルチェンジが必要だ。エドワードは「世界」を変えた。彼が過去をすべて払拭さえすれば、人生は皮肉だ。
鏡の話
ラストの主人公の表情 この作品の全てを物語っている演出に唯々、ひれ伏すばかりである
結局は性格や性質、能力も又加味される事なのだろうけど、持って生まれたモノは仕方がない 変えることができないならば羨ましがらずに、淡々と自分の人生を生きる "諦める"事の大事さを教えてくれる作品である
エドワードを批判できるほど自分は強くなれるのか…
エドワード(主人公)と同じではないが、自分も外見から分かる障害がある身なので、ヒリヒリした気持ちで見ていた。
本作の主要人物の多くは、顔に障害のあるエドワードに悪意を持って接しているわけではなく、むしろ友達としてそれなりに好感を持っている人もいる。
しかし、エドワードの顔ではSEXできないわwと悪気なく話したり、エドワードの顔はヒロインの愛を試すための「試練」だと話すなど、「自分の顔が化け物のように扱われたらどう思うか」ということはあまり想像していないようで、デリカシーもない。
エドワードが出演していた、障害者への理解促進用ビデオのメッセージ「外見に障害がある人を見て、ゾッとしてしまうのは仕方のないことです。コミュニケーションを重ねて少しずつ慣れていけばよいのです」が、エドワードの周囲の人間の偽善を象徴しているようにも思う。
「ゾッとされるのが自分だったら、仕方のないことと納得できるのか」と相手の気持ちを想像することは一切せず、「障害者を差別しない善人の自分」を一方的に押し付けるという。
(エドワードに感情移入しながら見ていたので、こうゆう偽善的なキャラクター達にムカついたが、自分が偽善者側にまわる可能性もあるな…とも思った)
「自分の顔が化け物のように思われる痛み」を嫌と言うほど味わってきたエドワードと、その痛みがわからない周囲の人間のディスコミュニケーションが辛い作品だった。
悲しみを周りと共有できないまま、孤独を募らせていくエドワードの姿はとても痛々しい。
エドワードが必要としていたのは、単に「仲良い人」とか「優しくしてくれる人」ではなく、「痛みを理解し、共感してくれる人」だったのかもしれないと思う。
顔に囚われて卑屈になるのではなく、オズワルドのように他者に心を開いていけば自然と他者からもリスペクトされるようになる、というのは真実だと思うし、幸せになるにはそうせざるを得ないのかもしれない。
しかし、自分はそうなれるのか…自分の顔がゾッとされるのは仕方がないと主張するような理不尽な社会を受け入れて、憎まず、心を開いて人と交流しようと思えるほど強くなれるのか。
異なる人生を歩んできた他者に、自分の痛みを完全に理解してもらうことはできないような気もする。経験や価値観の違いにより、時に傷つけ傷つけらてしまうことも受け入れないと、生きていけないとは思う。しかし難しいことでもある。
その痛みを乗り越えて他者と共に生きていこうとできたオズワルドは強い人だと思うが、それができなかったエドワードを責める気にはなれなかった。
見ていて辛いが、色々考えさせられる作品だった。
もっと狂気じみた物語と思っていたのだが…(微エロあり)
結末がどうも自分的には納得できなくて、この手の映画ってもっと振り切ったほうが観客の心に刺さると思うのですが中途半端に終わった感が否めません。
エドワードとオズワルドは正に陰と陽、エドワードはビビリで周囲に対して控えめに生きているのに対してオズワルドは明るく積極的でお茶目なところもあり真逆。薬のおかげでエドワードは普通の顔を取り戻しそれが自信となって人生を謳歌していくがオズワルドの出現で歯車が狂っていく。
オズワルドは自身の醜い顔に関係なく周囲を魅了していきエドワードの 領域まで侵食。やがて悲劇が訪れるのですが期待していたほどではなく「えっ」で感じ。エドワードが(殺人未遂であろう)刑期を終えて出所したところでオズワルドとイングリットと再会しほのぼのしたところで劇終。なにコレっていうのが観た直後の感想です。
エドワードがもっとオズワルドに羨望と嫉妬で狂っていき、オズワルドを殺してかつての自分をオズワルドに重ねて後悔にとらわれ自殺するか廃人になるというような結末はいかがでしょうか?
余談ですが、最後3人でレストランに入るのですが和食のメニューを日本語で頼んでいて(メニューが日本語)オドロキ(向こうでは当たり前なのか?)でした。それとヒロインのイングリットのおっぱいが拝めます。
エドワードハンサム 顔に囚われた男
エドワードのアパートの雨漏りする天井の穴からはずっとどす黒い水がしたたり落ちている。その天井の穴は徐々に大きくなり、そこからなにか得体のしれないものが零れ落ちてくる。
何か内臓の様なもの、そして次には無数のガラクタのようなものが落ちてきてエドワードの顔面に直撃する。
天井裏で増殖したその得体のしれないものはまるでエドワードが今まで溜め込んできた鬱積であり、それが積もりに積もって零れ落ちてきたかのようだ。
新薬の力により顔が変わったエドワードはガイとして別の人生を歩みだす。エドワードであった過去は捨て去ったはずだった。
しかし彼の手元にはいまだにエドワードのマスクが後生大事に置かれていた。そして街で再会したイングリッドに誘われるがままに彼は過去の自分に引き戻されていく。
顔が変わり今までの劣等感にまみれた人生に別れを告げたはずだった。女性にも不自由しない暮らし。これこそ待ち望んでいた人生。
エドワードの頃の忌まわしき人生など忘れ去りたいはずだった。しかし、彼はそんな過去に決別できてはいなかった。
自分の過去、あのエドワードの顔と共に生きてきた人生において培われたアイデンティティは顔を変えても断ち切ることはできない。たとえガイになっても忌まわしきエドワードとは地続きのままでいた。むしろ新たな人生を送るはずがイングリッドへの思い、過去の自分の人生の方へと引きずり込まれて行った。
エドワードの顔でも分け隔てなく接してくれたイングリッドは彼にとっては母親同様忘れ去ることができない存在だった。。
そのイングリッドの手によるエドワードの物語。それはまさに自分の物語であり、ほかの誰でもない自分だけが演じられるもののはずだった。
しかし、かつての自分と同じ顔を持つ男、オズワルドが現れてエドワード人生の歯車は狂いだす。オズワルドはイングリッドも自分の物語をもすべてをエドワードから奪い取ってしまう。
自分の人生を奪おうとするオズワルド。しかし彼にはエドワードと同じ様な苦悩がみじんも感じられなかった。同じ顔でありながら常にポジティブ思考で、周りの人を魅了する存在。
同じ顔でありながら、その人生においてただ鬱積を溜め込んできた自分とのあまりの違い。自分の苦しみを理解できてないように見えるオズワルドが自分の人生を奪おうとしてることに対して強い憤りを感じていた。なぜその顔で明るく生きられるのか。何より顔に囚われていたのはエドワード自身であった。
かつて自分が住んでいた部屋にオズワルドが移り住んだ時、天井の穴はきれいに修繕されていた。いくら棒で突っついても、そこからどす黒い水も得体のしれないものも落ちてはこない。天井裏には何もない、きれいなものであった。それはオズワルドの心の中を表しているのだろうか。自分とは違う何の鬱屈したものもない彼の心を。
しかし、エドワードの頭上には常にあの天上の穴が存在していた。それは積もりに積もった鬱屈した彼の思いが限界に達してついには彼の頭上に覆いかぶさり彼の体を押しつぶしてしまう。己の溜め込んだものが己の人生を破滅させてしまう。まさにイングリッドの舞台に乱入した彼の頭上に舞台の天井が落ちてきたのだ。
顔を変えても今までの人生がきれいに消え去るわけではない。今まで心の中に溜め込んできたもの、劣等感、卑屈さ、社会への憎悪。それらを抱き続けて生きてきた人生が顔を変えたとたんに雲散霧消するわけはない。
オズワルドに向けられた侮蔑の言葉は、エドワード自身に向けられた言葉でもあった。そんな言葉を発した作業療法士の男に対して凶行に走るエドワード。
たとえ顔を変えても別の人生を歩むことが出来ず、かつての顔で生きてきたのと同じような鬱屈した人生を刑務所の中で長く暮らすこととなる。
「君は変わらないねえ」オズワルドの何気ない一言がエドワードに発せられる。エドワードはたとえ顔を変えてガイとなっても中身はエドワードのままであった。結局はエドワードから決別出来なかった。
原題はデイフェレントマン。エレファントマンと韻を踏んでいることから、かの作品を意識して作られたと思われる。しかし個人的には「ジョニーハンサム」を思い出した。
生まれつき顔に障害があるジョニーはまともな人生を送ることができず犯罪に手を染める。共犯者の裏切りにより親友を亡くし、自身も刑務所で生死の境をさまよう。
医師の提案で一大整形手術により生まれ変わったジョニーであったが、彼は新たな人生を送ろうとはせず、亡き親友のために復讐に走り破滅してゆく。
かつての醜い彼を普通に親友として接してくれた友人との過去から決別出来なかったのだ。
本作のエドワードもジョニーと同様に過去との決別が出来なかった。エドワードの顔と共に生きてきた人生。その間に培われたアイデンティティはまさに彼の今までの人生において形作られたもの。彼のアイデンティティはエドワードの顔とは切っても切り離せなかった。
かつて顔に障害があった監督が自身の思いを込めて撮り上げた本作が観客から共感を得たというのが意外だったという。
エドワードの物語は誰もが他人事とは思えない。エドワードの物語は誰にとっても自分の物語になりうる。だからこそ本作は多くの観客から共感を得られたのだろう。
誰もが持つであろう天井の雨漏りの穴。そこには誰もが抱く鬱屈した思いが溜め込まれていて、何かのきっかけで自分に覆いかぶさってきてその人生を破滅させてしまうのかもしれない。
ざっくり言っちゃうと
高尚な感じがしますが
まあ
ざっくり言っちゃうと
「見てくれより社交性」
という教訓話なのね。
(ざっくりし過ぎだぞ)
と、身も蓋もない気分です。
(このお話で大衆性をくわえていくと「トワイライトゾーン」(TVシリーズの方)に出てきそうですね。
元に戻らない「サブスタンス」
「サブスタンス」に近い印象です。あちらは、謎の薬とずっと付き合わないといけない状況で、元の自分と変わった自分がトラブルを起こす話ですが、こちらは謎の薬が1回で効いたので元に戻ることはなく、元の自分を捨てて見た目のいい新しい自分で生きようとし、それで成功がつかめると期待していたら、元の自分と似た見た目なのに、それを卑屈に思わない男が登場し、その彼がもてはやされることに嫉妬して、ドツボに、はまっていくという話。どちらも見た目が解消したのに、欲張ったために自滅していくという点は共通していますね。日本昔ばなしや、イソップ童話にありそうな話だと思いました。
もう1人の彼の役割は、自分が思うほど、他人は見た目を気にしていない、見た目よりも内面で人付き合いって成り立つということを示しているんだと思いました。
拍手をよろしく
こないだ鑑賞してきました🎬
容姿を気にし一歩踏み出せない男が、試験薬によって新しい顔を手に入れる話。
※久々に映画を通常価格でみましたが、2000円は高いですね😔
主人公エドワードにはセバスチャン・スタン🙂
新しい顔になってからの彼を演じますが、音に敏感なのは昔のまま。
誰しもそうだと思いますが、外面が変わったからといって、内面も急に変わるわけではありません。
そこへ、捨てたはずの自分とそっくりな顔を持つオズワルドが現れ、彼は動揺を隠せなくなります。
ここからはスタンの真骨頂でしたね。
段々と憔悴していく演技は引き込まれました🤔
隣人イングリッドにはレナーテ・レインスヴェ🙂
エドワードにも分け隔てなく接する彼女に、彼が惹かれるのもわかります。
一方で、捨てた男は数しれずとは本人の弁。
二面性にも思えますが、誰しも長所と短所がありますからね。
その辺りの微妙な雰囲気は、うまくでてました😀
オズワルドにはアダム・ピアソン🙂
彼は自分の容姿を気にしすぎず、誰にでも気さくに話しかけ、人前で歌ったり。
それを複雑な表情で見つめるエドワード…ここは一つのハイライトでしたね😀
ピアソンの演技は手堅く、役に深みを与えてました。
A24作品なので期待してましたが、後半はやや駆け足な印象🤔
エドワードとオズワルドがなぜ出会ってしまったのかも、明かされず。
(私が理解してないだけかも)
しかし映画的な面白さは健在で、余韻が残るラストもこれはこれでありでしょう。
私は
「エレファント・マン」
を意識していると感じました🤔
まさに不条理スリラーというべき1本です👍
彼が捨ててしまったのは、顔だけではなかったはずだ
2025.7.17 字幕 アップリンク京都
2023年のアメリカ映画(112分、PG12)
顔面の神経繊維腫症を患う男性の天国と地獄を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本はアーロン・シンバーグ
原題の『A Different Man』は直訳すると「別の男」という意味
物語の舞台は、アメリカのニューヨーク
社員教育用ビデオに出演しているエドワード(セバスチャン・スタン)は、ある時から顔面神経繊維腫症を患い、顔面のほとんどが奇形となっていた
そう言った人が職場にいた時の接し方のビデオに出演することになったが、大した実入にはなっていなかった
ある日のこと、彼のアパートの隣の部屋にイングリッド(レナーテ・レインスヴェ)という劇作家志望の女性が引っ越してきた
彼女の訪問に驚いて怪我をしたエドワードは、それを機に彼女との距離を縮めていく
だが、エドワードは自分の容姿にコンプレックスを持っていて、このままではうまくいくわけがないと思っていた
そんな折、主治医のヴァーノ医師(ジョン・キーティング)から、この病気の専門医フレックスナー(マラカイ・ウィアー)が治験を行なっていると知らされる
エドワードはすがる思いでそれに参加し、その効果があったのか、顔の腫瘍が取れて、元の顔に戻ることができた
その後、フレックスナーがエドワードの自宅を訪れるのだが、彼はエドワードが自殺をしたと嘘をついてしまう
イングリッドはそれを聞いてショックを受けるのだが、エドワードは自身を「ガイ・モラッツ」と改名(以下エドワードのまま表記)して、別の場所で生きていくことを決めた
そして、それから数年後、エドワードは不動産のトップセールスマンとして活躍し、街角でイングリッドを見かけるのである
映画は、エドワードのことがわからないイングリッドとの再会によってうまくいく様子が描かれるのだが、そこにかつての自分と同じような容姿をした男オズワルド(アダム・ピアソン)が現れるところから動き出す
イングリッドは「エドワードと自分の馴れ初め」などを劇にしていて、エドワードを演じる俳優を探していた
そのオーディション会場に偶然足を運んだエドワードが役を勝ち取るものの、そんな彼女の前に理想の俳優が現れてしまう
オズワルドはなんでもこなせる男で、劇のセリフもあっさりと覚え、何をさせても期待値以上のことをしていく
エドワードはやがて劣等感を抱き、イングリッドはそんな彼から距離を置き始める
そして、決定機となる事件が起きてしまうのである
わかりやすい「完全上位互換」の登場によって地位を脅かされる様子が描かれるのだが、この時点でエドワードは普通の人間として暮らしている
なので、エドワードがオズワルドに嫉妬を覚える必要はないのだが、彼にかつての自分を重ねてしまっている
何もできずに逃げた過去を悔やみながら、同じ容姿をしながらも全く違う人生を歩んでいるオズワルドは、エドワードにとっては雲の上の存在にも思える
そして、エドワードは精神的におかしくなって奇行が増え自滅してしまう
テーマとしてはルッキズムのアンチテーゼを描いていて、人は見た目以上に内面を重視しているというメッセージが込められている
エドワードは常に自分と他人を比べるのだが、オズワルドはそんなことは気にしない
だが、オズワルドから差し伸べられる手はエドワードにとっては屈辱的なもので、彼がいかにして横暴で不寛容かということがわかる
顔が元に戻ったことで性格が一変しているのだが、ある意味、悪い方向に振り切れている感じがして、容姿に自信があっても性根がおかしいと人格も歪んでしまうのだな、と感じた
いずれにせよ、オズワルドが登場するまでにかなりの時間を要するので、展開がかなり遅いように感じる
彼の登場後にようやく本格的に話が始める感じなので、前半をもう少しテンポ良くしても良かっただろう
あっさりと顔が治りつつ、同じ容姿をしている人が街で嫌がらせされているのを見るというものでも描ける部分が多かったように思えた
テーマとしてはかなり尖っているのだが、ルッキズムの追求が人を幸せにはしないという一方で、やはり内面は表面に現れていることを描いていた
前半のエドワードは悲哀に満ちているが、オズワルドはそんなことがなく、むしろマーベルに出てきそうなヒーローに見えてしまう
そう言った意味において、ルッキズムを否定するだけでは世の中は良くはならないのかな、と感じた
捨てる顔あれば拾う顔あり
言いたいことは分かるのだけど、引っ掛かりが多過ぎて刺さらなかった。
序盤はイングリッドとの出会い以外は語ることもなく、非常に退屈。
顔が治るまでに苦しむ描写は要らないし、それこそモロに特殊メイクを剥がしてる感じで興醒め。
だったらエドワードの生きづらさやイングリッドに惹かれる様子をもっと描いてほしい。
せっかく顔が治ったのに、イングリッドにアプローチせず別人として生きるのも理解できん。
下地もなく数年で不動産営業として成功するのも舐めすぎだし、そもそもどうやって身分偽ってるの?
オズワルドが出てきて少し面白くなるし、同じ“顔”への捉え方の対比というのも分かる。
でもいくらなんでも彼への偏見なさ過ぎないかな。
何でも出来る上に金まであり、エドワードに対しても一切の悪意なく気遣ってくれて…
ここまでくるとファンタジー感が強くて、寓話としてもあまりに極端。
「劣等感なんて必要ない、前向きに生きてればみんなあなたを好きになる」みたいな楽観思想に見えてしまう。
イングリッドは脚本に動かされてる印象で人間味を感じないし、主人公に共感も同情もできない。
終盤に刺すべき相手はそいつじゃないし、台詞で「変わってない」なんて皮肉オチも直接的で捻りゼロ。
天井の破損が伏線なのかメタファーなのか最初の方では分からないし、意味の判然としない描写も多数。
なんだか喩えにならない下手クソな喩え話をずっと聞かされた気分です。
救いが無さすぎる
ルッキズムなんてダメ!話し合えば人間なんだし、多様性の世の中だよ。それが、理想。わかる。
見た目が大事、人は見た目、それがストリートだ!
良いとか悪いじゃ無くてこれが、これが現実でリアルなんだ。
と、逃げる事無く、躊躇することすらない作品であったと感じた。
そして、世間にその貼られたレッテルを、なんとも思わないか、被害者となるか。
この時点で始まる事が、本質なんだと感じた。私だったら、後者だろうし、もう共感してました。いや、ムカつくよ。取られたと思うよ!老害とか言われる世の中だよ。持ってた物が大事じゃなかったのに、それを取られて良く使われたらそりゃ、悔しくてしょうがないだろう!
私は、包丁までは持ち出さないにしても。いや、どうなのだろう。
嫉妬、憎悪、妄想、これは始まった時から決まっている。
変わってないなーと言われることに絶望した。
野獣、その後
野獣は王子様になり、お姫様と結ばれてめでたしめでたし、と思いきや。。
理想の外見を手に入れさえすれば人は幸せになれるのか?というのがテーマですかね。
エドワードは野獣の顔を捨て、新たな顔を手に入れましたが元のシャイでやや卑屈な性格は変えられなかったのが敗因?
オズワルドは野獣ですが性格は自信たっぷりでおしゃべり好き、自己開示力に優れており出会う人皆がオズワルドを好きになっていく。
私、エドワードの性格は嫌いじゃないですけれどね。
むしろ容貌関係なく、オズワルドみたいに初対面からグイグイくる方が苦手かも…
アメリカではミステリアスなイケメンてだけじゃ人の心を掴めないのでしょうか。
イングリッドは移ろいやすい人心をやや誇張して書かれたキャラクターですが、コロコロ変わるあり得ない言動もなぜか説得力がありました。
男性におけるルッキズムについて新しい知見が得られるかなと思って鑑賞しましたが、もう少し掘り下げて欲しかったようにも思います。
セバスチャン・スタンの特殊メイクと、メイクの下から覗く自信なさげな演技、さらに変身後の陰のある演技が大変良かったです。
Contents
A24作品はここ最近不発続きで、今作への期待値もそこまで高くは無かったんですが、セバスチャン・スタンが出てるならなんとかなるかも…?というところに期待を込めて鑑賞。
そんな事はなかったです。いつもの苦手なA24でした。
顔に変形を持つエドワードが治験を受けて全く違う顔を手に入れて人生をやり直していく…といった感じの作品で、決してハッピーな方に行く事は無いだろうなと思いましたが、それでもそういう方向に向かってしまうのか…という期待外れな感じが個人的にはありました。
性格が大人しいからこそ普段の生活で自分をあまり出せないエドワードが隣人に優しくされたりしながら些細な変化があるのかなと思ったら本当にジャブ程度なのでもっと深掘りしてほしかったなーとは思いました。
エドワードもといガイをそこまで辱める必要性はあったのか?ってくらいオズワルドが登場してからの展開は苦しいものがありました。
エドワードと同じように顔に変形を抱えているオズワルドは出会いの時から自身満々で陽気に振る舞っており、事あるごとにエドワードに近づいてきたりと相反する性格のキャラクターを描きたかったのは分かるんですが、シンプルに絡みすぎてウザいというのが強かったです。
顔を変えたはずなのに元の顔に執着してしまったがために、変形した顔の男の舞台にそのまま出てしまったり、かと思いきや変形した顔のまま過ごしているオズワルドに全てを奪われていき、脚本家のイングリッドもオズワルドの中身と見た目にどんどん惹かれていくという中々にNTRな展開に転がっていってしまいます。
ここではイングリッドの中身の薄さ、都合が良すぎる考えがかなり嫌いで、そのせいもあって絶対にガイの方が良いだろうとガイ応援隊になっていったのでその後の展開には目も当てられず。
全体的に演劇に繋がる描写がご都合すぎるのも個人的には引っかかりまくりでした。
ガイとしての個人の戸籍をどこで手に入れたのか、まずエドワードの顔面手術の内容がどこから漏れたのか、なぜオーディション会場に吸い込まれるように入っていったのか、オズワルドはなんで勝手に入ってきて受け入れられているのか、偶然とはいえそんなにオズワルドと会えるか?とか作品内のコミュニティが狭すぎるのが違和感につながりっぱなしで仕方なかったです。
まぁガイ自身も立ち振る舞いにそこそこ問題があり、自暴自棄になって自分の元の顔の仮面を被って仕事をしたり、職場で大暴れしたり、演劇に突撃してセットに叩き潰されたりと惨めな目に見事に遭っていてうわぁ…ってなりました。
ルッキズムをメインテーマに据えた作品では直近に「サブスタンス」があり、あちらはエンタメ極振りかつ、整形をする、もとい自分の体を必要以上に弄る事に対しての極端なまでのアンサーを叩きつけてくれていたのに対して、今作は顔を変えたとしても元の顔に縋りたくなるという逆転現象を描いてはいるのですが、どうにも要所要所が淡々としつつ、それでいて内容が回りくどいというWパンチが個人的には相性が悪かったです。
終盤の展開もまぁ蛇足かなといった感じで、介護士をブッ刺して刑務所にぶちこまれたり、出所したかと思ったら偏屈な爺さんに絡まれたり、また偶然オズワルドと会って飯に誘われて引っ越すことを伝えられて、オズワルドの何気ない一言が悪意全開に聞こえて笑って終わるという、この一連の流れでエドワードが何も報われてないのが本当に心苦しかったです。
整形しても良いことは無いという痛烈なメッセージとしても受け止められますが、全体通しても辛気臭い作品だったというのが最終的な印象です。
役者陣の演技やメイクあたりは良かっただけに残念。
鑑賞日 7/14
鑑賞時間 13:10〜15:05
捨てるものを間違えたね。
当事者の気持ちを上手いこと表現しているし第三者の思っている事もよく捉えているね。
色々捨てたかったり手に入れたかったりするけどそんなに簡単に行かないのが人生。
誰もが考えた事があるテーマに向き合い問いかけた作品。
ガガ様のお言葉が全てやね。うん。
まぁ自分の事をキッチリ理解出来たら悩んだり苦労することもないからな。
観ている人にも問うてるよね。顔が醜いのか心が醜いのか自分に無いものを持っている人に思う妬みなのか。
そして本当の自分とは何かを。
すごく面白い
あとから現れる顔が崩壊しているオズワルドの人柄が最高にポジティブで、やっぱり人柄だなとしみじみ思う。人柄がよくそして、気分がいいこと、確かに彼は投資で成功してお金の苦労はしていないと言うが、あの人柄なら貧しくても楽しく暮らしているのではないだろうか。
主人公はそもそも悪い感じはなかったのに、オズワルドの人柄がよすぎるせいで揺さぶられて狂っていく。それはそれで気の毒だ。
もし自分があの外見でほがらかにいられるかと言うと無理だ。つらい。
5階の住人
「よく他の人に間違えられる」と主人公が言っていて、最初はからかわれているだけだろうと思ってた。
イングリッドが言うようにあの顔で間違えられるはずがない(失礼)
しかし後から出てくるオズワルドと間違えられているとすれば辻褄が合う。そして5階の住人が彼だとすれば「5階に住んでなかったっけ?」みたいに言われてたのも合点がいく。
と思ってたが全然そうではなかった。
5階の住人とはなんだったのか。途中までは↑のような設定にしていたがさすがに無理があると思ったのか。それとも特に意味はないのか。それは謎のままだ。
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