「エドワードを批判できるほど自分は強くなれるのか…」顔を捨てた男 あさんの映画レビュー(感想・評価)
エドワードを批判できるほど自分は強くなれるのか…
エドワード(主人公)と同じではないが、自分も外見から分かる障害がある身なので、ヒリヒリした気持ちで見ていた。
本作の主要人物の多くは、顔に障害のあるエドワードに悪意を持って接しているわけではなく、むしろ友達としてそれなりに好感を持っている人もいる。
しかし、エドワードの顔ではSEXできないわwと悪気なく話したり、エドワードの顔はヒロインの愛を試すための「試練」だと話すなど、「自分の顔が化け物のように扱われたらどう思うか」ということはあまり想像していないようで、デリカシーもない。
エドワードが出演していた、障害者への理解促進用ビデオのメッセージ「外見に障害がある人を見て、ゾッとしてしまうのは仕方のないことです。コミュニケーションを重ねて少しずつ慣れていけばよいのです」が、エドワードの周囲の人間の偽善を象徴しているようにも思う。
「ゾッとされるのが自分だったら、仕方のないことと納得できるのか」と相手の気持ちを想像することは一切せず、「障害者を差別しない善人の自分」を一方的に押し付けるという。
(エドワードに感情移入しながら見ていたので、こうゆう偽善的なキャラクター達にムカついたが、自分が偽善者側にまわる可能性もあるな…とも思った)
「自分の顔が化け物のように思われる痛み」を嫌と言うほど味わってきたエドワードと、その痛みがわからない周囲の人間のディスコミュニケーションが辛い作品だった。
悲しみを周りと共有できないまま、孤独を募らせていくエドワードの姿はとても痛々しい。
エドワードが必要としていたのは、単に「仲良い人」とか「優しくしてくれる人」ではなく、「痛みを理解し、共感してくれる人」だったのかもしれないと思う。
顔に囚われて卑屈になるのではなく、オズワルドのように他者に心を開いていけば自然と他者からもリスペクトされるようになる、というのは真実だと思うし、幸せになるにはそうせざるを得ないのかもしれない。
しかし、自分はそうなれるのか…自分の顔がゾッとされるのは仕方がないと主張するような理不尽な社会を受け入れて、憎まず、心を開いて人と交流しようと思えるほど強くなれるのか。
異なる人生を歩んできた他者に、自分の痛みを完全に理解してもらうことはできないような気もする。経験や価値観の違いにより、時に傷つけ傷つけらてしまうことも受け入れないと、生きていけないとは思う。しかし難しいことでもある。
その痛みを乗り越えて他者と共に生きていこうとできたオズワルドは強い人だと思うが、それができなかったエドワードを責める気にはなれなかった。
見ていて辛いが、色々考えさせられる作品だった。