「テーマの扱いがあまりにも迂闊で、エンタメ性に乏しく説教臭い」顔を捨てた男 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
テーマの扱いがあまりにも迂闊で、エンタメ性に乏しく説教臭い
【イントロダクション】
極端に変形した顔を持つ男が新薬の実験によって新しい顔を手に入れるが、かつての自分に似た顔の男が現れる事で人生の歯車を狂わせていく不条理スリラー。
主人公エドワードの変形した姿と変身後の姿を『サンダーボルツ*』(2025)のセバスチャン・スタンが演じる。かつてのエドワードに似た容姿を持つ男オズワルドには、実際の神経線維腫症の俳優アダム・ピアソン。
監督・脚本は新進気鋭アーロン・シンバーグ。
【ストーリー】
神経線維腫症の俳優エドワード・レミュエル(セバスチャン・スタン)は、その特異な容姿から社内教育ビデオ等に出演しながら生計を立てている不器用ながら心優しい男。
ある日、自宅のアパートに劇作家志望の女性イングリッド(レナーテ・レインスヴェ)が越してくる。最初はエドワードの特異な容姿に驚くが、2人は次第に親しくなっていく。エドワードの中にはイングリッドへの恋愛感情が芽生え始めるが、自信のなさから行動に移せずにいた。
そんな中、治療の経過観察で病院を訪れた際、医師から開発段階の新薬による治療を提案される。エドワードは治療を受け、次第に顔の皮膚が少しずつ剥がれ落ちながら回復していく。そして、遂にある晩を境にエドワードは新しい顔を手に入れて完全回復する。
エドワードは新しい自分を“ガイ”と名乗り、自宅に訪れた医師に「エドワードは自殺で亡くなった」と嘘を吐き、過去の自分を捨て去る。
しばらくして、ガイはその端正な容姿を生かした不動産販売の営業で成功を収め、裕福な暮らしを手に入れていた。
ある日、彼は偶然街でイングリッドを見かけ、彼女の後を追って舞台のオーディションに参加する。彼女が手掛けた脚本は、かつての自分との体験が如実に反映されたものであり、ガイは「自分の為の役だ」と思いながら演じ、主役に抜擢される。
かつて医師から新薬の治療の際にもらったマスクを付けて稽古に参加するガイだったが、稽古中の劇場に、かつての自分と似た容姿を持つ神経線維腫症の男オズワルド(アダム・ピアソン)が現れる。
オズワルドは社交的な性格ですぐに周囲の人々と親しくなっていくが、ガイはそんな彼の姿に次第に嫉妬心を募らせていく。
【感想】
まるで70年代作品のリマスター版を観ているかのような、意図的に画質を少々荒くしたルック、ジャズミュージックに彩られた雰囲気自体は良い。
しかし、「美醜」というデリケートな問題を扱っていながら、あらゆる面において迂闊な印象を抱いた。
似た題材として、今年はデミ・ムーア主演の『サブスタンス』も公開されたが、年齢による“衰え”という「美醜」を扱い、痛快なまでのエンタメ性をも盛り込んでいた『サブスタンス』と比較すると、本作はよりダイレクトな“見た目”の「美醜」というデリケートな問題を扱いながらも、エンタメ性に乏しく説教臭く感じられ、エドワードに降り掛かる様々な不幸が、単に彼の「自信の持てない性格」を責め立て、惨めにさせるばかりのように感じられた。ブラックユーモアという単語で表現するには、あまりにも鼻持ちならない。
また、上映時間に関しても、あちらが140分に対してこちらは112分なのにも拘らず酷く長く感じられた。
本作は、見様によっては「美容整形や薬剤治療によって、自分の容姿を修正する事は悪である」と言っているようにすら感じられてしまうのだ。なぜなら、エドワードは俳優としての仕事をこなし、人々からの好奇の目に耐えながら、慎ましやかに生活している紛れもない善人だからだ。彼の「自信のない」性格も、自身の病状によって形成されていった後天的なものであるだろう。
そして、そんな生活の中で公園で恋人とデートする男性を羨ましく思う事も、恐らく初めて自身に優しく接してくれた女性であるイングリッドに恋心を抱きつつも、自身の容姿から踏み出せずにいる事も、ごく自然な反応のはずだ。
だからこそ、彼はリスクを伴う新薬による治療を受ける決意をしたのだ。
作中、「辛いのは、本当の自分を受け入れないから」というレディ・ガガの人生観に関する台詞が引用されるが、「ありのままを受け入れて、自信を持って生きていく」事が人生なら、「ありのままの自分から変わって、自信を持てるようになりたい」と願う事もまた人生ではないだろうか?美容整形や薬剤治療とは、その為に存在しているのではないのか?
これが、エドワードがイケメンに生まれ変わった事で、周囲に対して傲慢に振る舞うようにでもなっていれば、オズワルドとの出会いで破滅していく様にも説得力が生まれたと思う。非モテを拗らせて山ほど女性に手を出すとか、営業成績で自分に勝てない同僚を見下す等だ。だが、エドワードはガイとなってからも、根底にある「自信のなさ」を払拭出来てはいない。一度形作られた性格は、容易には変えられないのだ。
そして、本作のラストで、エドワードはオズワルドから「君は変わらないな」と言われてしまう。オズワルドに悪気はないが、我々観客にとっては、この台詞は痛烈な皮肉として突き刺さるようになっている。先述した、まるで「容姿を変化させる事は悪」だと感じられるような作品全体の主張に対して、「性格を変える事は善」だと言っているようにも聞こえる。最後まで変われなかったエドワードに対して、「変われば良かったのにね」とトドメを刺しているかのようだった。
そもそも、オズワルドはエドワードの対比とはならない人物なのだ。オズワルドは若い頃に株で大当てしたからこそ、就職せずに趣味に没頭出来、それ故に様々な技能を獲得している。仕事をこなしつつ慎ましやかに生きてきたエドワードとは、人生のコースがそもそも違うのだ。それは、本作の原題である『A Different Man(違う男)』というタイトルにも現れている。監督の狙いとしては、そうした別人に自己投影して嫉妬し、破滅していく様をこそブラックユーモアとして描いたのだろうが、極端過ぎるオズワルドのキャラクターは、現実味が無さすぎてかえってエドワードを惨めにさせるだけのキャラクターになってしまっている。
また、エドワードがオズワルドにかつての自分を重ねて破滅していく以上、エドワードにとってオズワルドは「別の世界線の自分」なのだ。そういう意味では、エドワードとオズワルドを対比させる事は必要不可欠になってくる。だからこそ、オズワルドはあくまで「容姿のせいで辛い経験もするけど、それでも明るく生きた方が楽しいよ」というバランスのキャラクターに留めておくべきだったのではないだろうか。例えば、バーで歌を披露するシーンも皆が皆彼の歌に聴き入るのではなく、野次を飛ばす人間だっているのが自然だ。だが、オズワルドは持ち前のポジティブさで野次にジョークで返して爆笑をさらう等だ。エドワードが善人であり続けた以上、オズワルドの存在によって極端に惨めな思いを経験すべきではなかったのだ。
本作の狙いを的確に表現するならば、あくまでエドワードは自らが育んできた歪んだ自意識や嫉妬心から、周囲の善意や真意を受け取り損ねて破滅していく物語にすべきだっただろう。
また、一晩で劇的に顔立ちが変わってしまった以上、周囲に自分の正体を告げられないのは「信じてもらえないかも」というマインドが働くのが当然なので、徐々に変化させて周囲に変貌を周知させた上で、その上で尚も過去の自分に対する未練を捨てられずに破滅させるべきだったのではないだろうか。
勿論、エドワードにも問題はある。過去の自分を捨て去って、ガイとしての新しい人生を手に入れたのだから、イングリッドを追う事はせずに、新しい人生を謳歌し続けておけば良かったのだ。しかし、このイングリッドという存在こそが、本作の癌であり、ヴィランであるとすら言える。彼女の存在があるからこそ、エドワードは被害者だと言えるのだ。そして、本作の女性の描き方には、アメリカの抱えるミソジニーの歴史が深く根ざしているように感じられる。
【イングリッドという女性に見る、アメリカンミソジニーの歴史】
劇作家志望のイングリッドは、エドワードと親しくなりつつも、恋愛対象としては見ていない。それは勿論、彼の特異な容姿が原因だからだ。一見親しくなりつつも、イングリッドはエドワードが自室での社内教育ビデオ鑑賞の際に恋愛ムードを醸し出した途端、彼の部屋を後にする。これが、エドワードの中で「やはり、容姿が優れていなければ」という思いを強化させたはずだ。
しかし、この時点では、まだ私はイングリッドを悪く言うことはしない。男女の仲になる以上、性格や経済力、そして容姿は立派な判断基準となるからだ。それは、綺麗事では済まされない事実である。
問題なのは、イングリッドがガイと恋仲となり、肉体関係になった際のやり取りだ。彼女は、ガイにマスクを付けて挿入するよう指示する。しかし、彼女はかつてのエドワードのマスクを「やっぱり無理。間抜けに見える」とバッサリと突き放す。これにより、ガイは決してイングリッドに自分の正体を明かす事は出来なくなってしまう(本人に明かす気があったかは定かではないが、作劇としての可能性は潰されたのだ)。
しかし、オズワルドの登場によって、イングリッドは自身の考えを改め、手掛けていた脚本を書き直したり、仕舞いにはオズワルドとは結婚して子供を儲けている。本来、その役割は自分自身を取り戻した(それこそ、薬剤の効果が切れて元の自分に戻ってしまった)エドワードが担うべき役目だったはずだ。しかし、エドワードが全てを失っていくのに対して、イングリッドは全てを手に入れていく。そして、そんな彼女の姿に、観客は少なからず悪印象を抱くはずだ。
こうして、観客の悪印象の矛先を、完璧超人として描かれているオズワルドではなくイングリッドに向けさせる巧妙さに、ハリウッドの抱えるミソジニーの歴史が垣間見える。
先日、内田樹著『映画の構造分析-ハリウッド映画で学べる現代思想』という著書を読んだのだが、その中の項目にハリウッドの抱えるミソジニーの歴史についての項があった。そして、本作のイングリッドの立場は、まさしくそこで言及されている「男を誘惑し、自己実現を妨げる悪役(意訳)」という特徴に当てはまるのだ。
アダム・ピアソンという神経線維腫症の俳優(しかも男性)の扱いには配慮しつつ、全ての貧乏くじをイングリッドという女性キャラに巧妙に背負わせるのは、製作側の根底にあるミソジニー意識の発露に他ならないだろう。また、こうした配慮こそが作中で指摘された“ポリコレ”ではないだろうか。
【総評】
「美醜」というデリケートな問題を扱いつつ、その描き方のズレから酷く退屈で説教臭い印象を受ける作品に陥ってしまっていた。
ただし、セバスチャン・スタンとアダム・ピアソンは好演しており、その一点においてのみ、本作の点数が辛うじて担保されている。