「富を生み出す工場」ラ・コシーナ 厨房 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
富を生み出す工場
観光客向け大型レストラン「ザ・グリル」の厨房での一日の出来事を描いた本作。
ロブスターが入れられた水槽を挟んで向かい合う主人公ペドロとジュリア、このフライヤーの絵の構図が本作を如実に物語っている。
ロブスターはその調理法や運搬方法が確立するまでは肥料などに使われる貧者の食べ物と言われた。しかし今やそれは富を生み出す高級食材に。ラテンアメリカの貧しい国々では命を失うリスクを背負いながら生活のために深い海に潜るロブスター漁をやめれないのだという。
いまや貧しい国の人々が一切口にできないロブスターを富める国の者たちが口にする。資本主義社会とは富める者が貧しい者を搾取することで成り立つ。同じ構図は富める国の中でも存在し、不法移民や貧乏白人、黒人奴隷を搾取することで資本家はその富を築いてきた。レストラン「ザ・グリル」はまさにそんな資本主義社会の縮図である。
清潔で落ち着いた店内の客席とは対照的に雑多な人間たちであふれかえった厨房。彼らは分業体制でそれぞれの担当する仕事を任されている。
産業革命以降機械の発明により農民や職人たちは仕事を奪われ単純作業のみを繰り返す単純労働者となった。単純労働だからいくらでも交換が効くし、経営者は低賃金で雇うことができた。
劇中でもペドロは料理長から腕のたつ料理人だがほかにいくらでも代わりはいると言われる。その通りで彼のように仕事を求めてアメリカに来る不法移民は後を絶たない。
彼ら従業員はまさに機械に使われるがごとく、常に客からの注文が送信されるキッチンプリンターの指示通りに働かされる工場労働者だった。そこはまさに料理を作る厨房ではなく口に入る物を製造する工場。
すべては富を生み出すために作り上げられたシステム。しかしそこで働く従業員たちは機械ではなく人間だった。
オーナーはこのシステムに油をさすのを忘れなかった。彼は常に不法移民たちにビザ取得をほのめかした。そうすることで彼らのモチベーションを維持しこの低賃金重労働体制を維持した。
彼らの夢実現という餌をぶら下げて彼らを搾取し続けた。そんな完ぺきと思われたシステムにほころびが生じていく。
厨房には貧困から抜け出すためにやってきた移民たち、黒人奴隷の子孫、貧乏白人、そんな従業員たちを束ねるのも移民であるマネージャーや料理長である。それは奴隷制度の時代、奴隷を束ねていたのも黒人奴隷であったことを思い起こさせる光景だ。オーナーはもちろんアメリカ白人。
ビザを取得して不法移民という立場を脱すれば今より楽で賃金のいい職場に移れる。そのために今は耐えていた不法移民の彼ら。しかしその同じ職場にいるのはまさに彼らが目指す立場のアメリカ人たちだった。
彼らが憧れるはずのアメリカ人が今の自分たちと同じ過酷な職場で働いている現実に彼らは気づいていたであろうか。所詮自分たちは富を生み出すための機械の一部でしかないことに。
ペドロは恋人ジュリアとの将来を思い浮かべていた。共に故郷で観光客向けの商売をして楽しく暮らしたいと。だから自分の子供を堕ろしてほしくなかった。
同じ労働者の二人。愛し合ってはいるもののその二人には隔たりがあった。ロブスターの水槽のように。
アメリカ白人のジュリアは自分の体が蟻に侵食される夢を見るのだという。それは漠然たる不安。今や白人が少数派になるというくらい有色人種が多くを占めるアメリカで移民であるペドロを愛しながらも自分たちの居場所が移民たちに奪われるのではないかという漠然たる不安を抱いてるのだろうか。けして良い仕事ではないウエイトレスの仕事さえも奪われるのではないかという。
アメリカンドリームはいまやただの「ドリーム」だ。一握りの富裕層が大半の富を独占する超資本主義社会で自分の夢をかなえるのは不可能に近い。よほどの才能と運でもない限り。渡ってくる移民たちにはもう食べ残ししか残っていない、それをアメリカ人の貧困層と奪い合うのだ。
ジュリアが自分の子を堕胎したことを知り絶望するペドロ。どんなに愛し合っていても、やはり移民の自分は受け入れてもらえないのか。ジュリアが堕胎したのはこれ以上子供を持つ余裕がないことも理由の一つだったが、ペドロは自分が移民のせいなのかと思い込む。事実ジュリアには移民への漠然たる不安もあったが。
ビザ取得もオーナーによるリップサービス、それに加えて金を盗んだというあらぬ疑いをかけられ、今までたまりにたまっていた鬱積が爆発する。
彼が暴れて無茶苦茶にされた後、静寂に包まれた厨房には今もなお働けと言わんばかりに壊されたキッチンプリンターの音だけが響き渡る。オーナーは自分が作り上げた製造ラインがストップした状況に呆然とする。彼の資本主義システム、富を生み出す製造工場が止められて怒りを顕わにする。
ピューリタンの子孫さながら神の許しを得たのかとペドロを問い詰める。勤勉さ、効率的という彼らの神の教えがこの資本主義社会を押し上げてきた。仕事を止めることは神の教えに反する。だからこそ彼はペドロに言う、神の許可を得たのかと。
職も食事も与えてやった、これ以上なにを望むのかというオーナーの言葉に押し黙る従業員たち。そこには対等な雇用関係というものはない。まさに支配者と被支配者という関係があるだけだ。搾取する側される側、産業革命初期の資本家と労働者の関係。それに気付いていないのはオーナーも同じだ。
ペドロは悟ったのかもしれない。ここは自分のいる場所ではないと。自分の神ではないと。自分たちを搾取するだけの神、この神は自分を幸せにしてくれないと。改めて資本主義社会は自分たちを幸せにはしないと気付いたのかもしれない。
緑色の光に包まれるペドロ、緑の光は幸せの光だという言い伝えがある。彼は間違いなくこの場から去るだろう。そして光に連れ去られた彼は知らない場所で普通に平穏な暮らしをしてるのかもしれない。どちらにせよ今のアメリカにいても幸せになれることはないだろうから。
ペドロは資本主義の搾取システムである富を生み出す工場を停止させた。それは彼の意図してのものではないだろうが、それは搾取され続けた労働者によるサボタージュでありプロレタリアートによる抵抗運動を象徴してもいる。
かつては資本主義はその暴走の恐れからそれを補完するためのニューディール政策の様な社会主義的政策が取られた。しかし冷戦終結後、社会主義国が軒並み崩壊して資本家たちは社会主義への脅威は去ったとして、労働組合の勢いが衰えたのを機に社会主義的福祉政策をどんどん切り捨てていまや産業革命当時の資本主義社会に逆戻りした。労働者は貧しい不法移民などで事欠かない。新自由主義の下で富める者はますます富を得て貧者はますます貧しくなった。
超資本主義社会の搾取システムの中で生きる人々。その中で最も搾取される不法移民たちをメインに描いた物語だが、メキシコ人監督はけして不法移民たちをただの被害者とは描かなかった。それは障害者を聖人として描かないのと同じく、あくまでも移民をフラットに見てもらいたいという思いからなのかもしれない。
移民を受け入れるということは彼らの文化や習慣もある程度は受け入れることを意味する。ただ外国製の機械を導入するのではなく血の通った人間を受け入れるということは生半可なことではない。だからこそ移民を受け入れるということはどういうことなのか綺麗ごとだけではないということを観客に問いかけたかったのかもしれない。
厨房での従業員たちの傍若無人ぶりや衛生面の描写はさすがにやりすぎな気もしないでもないが、ただ学生時代バイトしていた有名ビアレストランのドリンク用製氷機の中にはよくゴキブリの死骸が混じっていたな。まあ大昔の話だから今はそんなことないだろうけど。
映画チケットがいつでも1,500円!
詳細は遷移先をご確認ください。