コット、はじまりの夏のレビュー・感想・評価
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原題「The silent girl 」そのままの静かな映画
前評判を読んだことによる期待が高すぎたのか、起伏が自分にとっては無さすぎて、半分寝かけてしまった。原題が「The silent girl」だからかな?預け先の牧場のおじさん(このおじさんとの出会いも素っ気ない)とのふれあいがもう少したっぷり描かれてたら、もう少しおじさんとの牧場仕事のシーンが多かったら、もっとよかったかも。
透明感のあるとても美しい映像でした💛
アイルランド映画って初めてかも。主人公の内気な少女コットが、初めて家族の愛に包まれ、殻を破って成長する姿が、とても美しく描かれてて、じ〜んときちゃいました😃
ある無口な少女コット
両親からネグレクトされた物静かな9歳の少女が、夏休みの間子供のいない親戚宅に預けられ、自分の居場所を見つける単なるビルドゥングス・ロマンとして見たら、この映画面白くも何ともないのです。高々数週間を一緒に過ごしたくらいで、血も繋がっていない叔父さんのことを「パパ」と呼んですがりつく少女の姿にまったく共感できなかったのですが、映画をご覧になったみなさんもきっと「ベルリンでグランプリを受賞するほどの作品か?」という感想をもたれたはず。
80年代アイルランドの田舎が舞台になったこの映画、なぜかイングランド人映画評論家がのきなみ星5つをつけているほどの高い評価を受けているのです。技術的にも未熟な若手無名監督が撮った映画にも関わらず、です。妹に冷たい姉3人、ギャンブル好きで粗暴な父親、いつも不機嫌な妊娠中の母さんに囲まれ、四女のコットは学校にもそして実家にも自分の居場所がありません。精神的に不安定なコットは、そのせいかおねしょ癖がなかなか治りません。そしてある日、母親の従姉にあたるアイリーンとその夫ショーンが営む牧場に預けられることになるですが....
しかし、子煩悩のアイリーンはともかく、夫のショーンの方ががなかなかコットに心を開いてくれません。そんなある日、ショーンがコットに向かってこんなことを言うのです。“Many’s the person missed the opportunity to say nothing.” と。口は災いの元だから何も言わないことはけっして悪いことじゃない、とコットに諭すのです。これってもしかしたら、ことあるごとにアイルランド国内でテロ騒動を起こすシン・フェイン党ならびにIRAに対する皮肉なのでは、とふと思ったのです。
いわゆるアイルランド内戦は、おおまかにいうとカトリック(アイルランド独立派)vsプロテスタント(イングランド帰属派)の紛争であることがよく知られていますが、劇中、それを臭わせる怪しい表現が多々見受けられるのです。食の細いコットが座っているテーブルにクッキーを置く(聖体拝領)ショーン、知人の葬儀では酒(キリストの血)を未成年のコットに飲ませ、極めつけは聖なる人工池に落ちて全身ずぶ濡れ(バブテスト派の洗礼)になるコット。
実はこの映画見かけとは違って、貧乏なカトリック(独立派)の家に生まれ邪魔者にされた少女が脱走し、最終的に裕福なプロテスタント(帰属派)に改宗、新しい神=父親=ショーンを「パパ」と(強引に)呼ばせる、なんともプロパガンダ臭の強いメタファーがしれっとしこまれていたのです。イングランド人の評論家がこぞって本作にをおす理由もご納得いただけると思います。単純に『ハイジ』をパクった映画ではなかったのです。
心が穏やかになる作品でした
とても穏やかな作品で派手な見せ場はなかったですが、心が洗われる良心的な気持ちになりました。
寡黙で大人しい少女コットは夏休みを親戚夫婦キンセラ家の農場で過ごすことになります。
キンセラ家のショーンとアイリンの夫婦の愛情に接し徐々に心を開いていく少女の心を繊細に描いています。
ラストも心地よい雰囲気で終わりおすすめ度は普通のやや上です。
幼少期に田舎に預けられた経験がある自分には懐かしさを感じる作品でした。
綺麗な作品
映像もストーリーの進み方も終わり方も綺麗。
血のつながりだけが全てではない
一緒に過ごして、少しずつ関係が変化して
お互いの心持ちも変化して
心地よい距離感で、心地よく過ごせる人というのは
なかなか出会えない。
そういう部分を、少ない会話と美しい映像で表現していて
とても良かった。
終わり方も全てを語らない感じが良かった。
邦題に込められた、”はじまりの夏”
2024年劇場鑑賞5本目 秀作 67点
繊細で丁寧で、印象的で観客に委ねる様なタッチに、最後の駆けての包容には涙が止まりませんでした
彼女にとって、今後の人生を歩む上でなくてはならないひと時で、この時にこの人達に出会い愛されて良かった、人格形成が好転し自信と個性を備え自分自身で居場所を開拓するきっかけになったと思う
色々な人のレビューや動画で気づかなかった演出に驚愕している箇所が沢山あるので、配信されたら必ず見返したい。静かで集中してないと見過ごしてしまう演出が多く、当方としてはそういったのに気付くのが楽しくて好きなのに、悔しい限りです
ストーリーとしてはベタなのにすごく感動した、これはベタだからなんだかんだ感動したのでなく、どこか新しさを感じたのがその細かな演出や主演の女の子の眼差しというか、目の奥が暗く陰な雰囲気から、彩っていく流れ。周りの人の関わり方も鑑賞しすぎない感じとか、寛容で繊細な親しみ方がわかりやすく愛が伝わるのが素敵でした
是非
オジサンの表情が柔和になってる
ひと夏を過ぎて、心身共に成長したのはコットだけでなく、オジサン(ショーン)も然り。
日々コットと接することによって、口数の少なかったオジサンの表情が柔和になっていった。
派手なストーリーではないけれど、それぞれ立場になって「心の動き」に注目しながら観ると、いろいろな解釈ができると思う。
家にも学校にも居場所のなかった少女のひと夏。まるごと受け止め優しく...
家にも学校にも居場所のなかった少女のひと夏。まるごと受け止め優しく包み込んでくれた親戚夫婦との時間が彼女の心を解放し乏しかった表情を豊かにしていく。子どもにとっていたわり大切にされる経験がいかに大切か。煌めき始めた彼女の姿が愛おしく涙が止まらない。傑作。
ナメててすいませんでした!
この作品、高い評価があるのにもかかわらず、観る前の私は少しナメていたかもしれません。相変わらず疲れが取れずに「眠くなったら」を心配していましたし、子供が題材だと「泣かせ」にかかるのではと構えていたところもありましたが、観終わって全くの杞憂に終わりました。よかった。素直に泣けます。
あらすじにしてしまえばベタに聞こえてしまう内容なのですが、作品の出来は在り来たりとは感じず、一瞬も目を離せない雰囲気があります。それは言わずもがな、コットを演じるキャサリン・クリンチのごく自然な演技で、子供に感じる「危なっかしさ」が絶妙で兎に角素晴らしい。それだけに何故、この作品そのものだと思える原題「An Cailín Ciúin/The Quiet Girl」を変えるのか、余計なことしてる感は否めません。
また脚本も「親には責任がある」という当たり前の正論は程よいバランスで抑え、むしろ「大人にも厄介な事情がある」という現実感があり、話がすんなりと入ってきます。そして、「選択肢のない子供」に対して「不憫だ」と憐れむような欺瞞なところがないのもよく、それはまさしく監督であるコルム・バレードの実績がものを言っているのだな、と。「丹念に、真摯に、」まさに子供に対するような丁寧な作品作りと感じられ、信頼感がありますし、創作物であっても「作り物」と感じさせないリアリティーがあります。
そして、終わり方もいいですね。理想と現実、まぁ、やはり現実なのでしょうが、、、この感じ、いい余韻です。大好き。間違いのない高評価ですね。ナメててすいませんでした!
内気で寡黙な女子が、夏休みに親戚に預けられて過ごす様子。 それまで...
内気で寡黙な女子が、夏休みに親戚に預けられて過ごす様子。
それまではなかなか周囲と打ち解けられず、親からも厄介者扱いされているように見え、うつむきがちだったのが
親戚宅で愛情をたっぷり受け、丁寧に過ごして、徐々に明るく快活になってゆく様子。
表情や目線の変化が、凄い見ごたえ。
叔父に言われて、全力で走ってみるあたりから、笑顔がみえるようになり。感動すら覚えました。
素敵な作品でした。
すっごく良かった いろんな人がいたけど、 少なくとも3人には、 幸...
すっごく良かった
いろんな人がいたけど、
少なくとも3人には、
幸せになって欲しい
ラストが勝負です
寡黙な少女のラストのふたこと、お見事です
アイルランド語の原題名の英語直訳題であるThe quiet girl のとおり、主役の女の子はほとんどしゃべりません。それだけに演技だけ(目線、表情、仕種など)で見事に感情を表現していて素晴らしい。アイリッシュ映画&テレビアカデミー賞の主演女優賞を史上最年少の12歳で獲得というのも頷けます。良い女優さんに育ってほしい。
色々いいたいけど、ひとことでいうと、ラストに彼女が二度発するあるコトバにすべてを載せてきた脚本と監督の手腕、お見事です、感服しました。
蛇足だけど、この邦題名もう少しなんとかならんかったのかなあ。
ここ1年で最も良かった
自信の持てない少女が、足が長いから走るのが得意なのでは、と走って、自信がつく様子がよかった。
脚本が良いというか、一つひとつのシーンが詰め込みすぎずどれもよかった。しっかり話が紡がれている感じがよい。
印象に残った箇所
・農場?でいなくなるシーン
・脚が速いんじゃないか?と、ポストまで走る
・ラストシーン
とても心に刺さりました
この作品、自分は大好きになりそうです。
ラストは心が震えました。
タイトルがなんとなく気に入り
観ただけでした。
まさか、こんな素敵な映画とは思いませんでした。
人生を幸せに生きるヒントになる台詞を感じました。
映像もとても綺麗でした。
劇場で観終わってから
帰宅して
改めて予告編を観て、また泣けてきます。
そうなんだよな
ってとても共感できる作品でした。
子育てを終えて今は少しのんびりされている方
お仕事も第一線から退いた方
そんな方にはぴったりな映画作品だと思います。
シニアさん向けだと思います。
目指せハイジ
1981年アイルランドの田舎町に住む無口で主張しない9歳の少女コットが、親戚の家で暮らす一夏のお話。
母親はまだまともな方だけど、父親がギャンブル三昧で金が無い大家族の牧場の三女コットが、もうすぐ母親と牛が出産する夏休みの間、親戚夫婦の家に預けられることになり…。
大人し過ぎて友達もいないし、父親からはぐれ者呼ばわりされたりというコットだけれど、親父がボンクラクソ野郎だからだぞっ!
なんて感じだけれど、正直観る前からどんな話しか概ね想像がつくし、これと言って大きなイベントがあるでもなく…。
それでも寡黙さが健気さにも感じられたり、大人しいながらもショーンとアイリンへの印象の変化がとても良く判るし、なんてこと無いラストにも泣かされる寸前だった。
どうでも良い個人的印象だけど、主人公の子が子供版ヘイリー・ベネットにみえて仕方なかったw
「沈黙の機会を逃して多くを失う」を肝に銘じよう
ラストシーンでやられた。「怪物」以来,子供が走ると心の汗が染み出してくる。
大人が長所を見出して褒めて好きになることで子供の健全な自我が出来上がる、という当たり前の事をしみじみと納得させてくれる。これと真逆の,粗探しと揚げ足取りに終始する毒親に立ち向かう自信も得てくれたものと信じたい。
語り過ぎないことの大切さ
「The Quiet Girl」という英語のタイトルのとおり、静かで、穏やかな映画である。
説明過多をあえて回避しようとするかのようなこの映画のスタイルは、叔父のショーンによる「沈黙の機会を逸すると、多くのことを失ってしまう」といった台詞に集約されているように思う。
様々なシーンや台詞が省略され、脳内補完を迫られる中で、この台詞が語られる月夜の海辺のシーンが比較的じっくりと描かれるのは、そうした理由があるからだろう。
自分に真摯に接してくれる大人と出会い、生き生きとした表情になっていくコットの姿を見ていると、人間の成長にとって、「愛される」ということがいかに大切かということに気付かされる。
ただ、それ以上に、コットが、叔父と叔母の仲睦まじい様子を覗き見るシーンが、短いながらも強く印象に残った。
彼女は、自分の実の両親とは明らかに異なる夫婦の関係性に衝撃を受けたはずで、そのシーンは、ラストに彼女が疾走する場面でも、フラッシュバックとして蘇ってくる。
最後の最後に、抑制していた感情を爆発させるコットの姿には胸が熱くなるのだが、それと同時に、「両親の仲が良い」ということが子供にとっての幸せで、そういう両親のもとで暮らしたいというのが子供の願いなのだということを、改めて思い知らされた。
コットが走り出したのは、実の両親からネグレクトされているからだけでなく、叔父と叔母の夫婦が愛し合っているからだと思えるのである。
美しいゲール語。美しいコットの瞳。美しいアイルランドで観客も究極のデトックスを共有する。
ゲール語でおおむね全編話されている映画を観たのは、初めてかもしれない。
(初めてではないかもしれないが、意識して聴いたのは初めてだ。)
率直に言って、驚いた。
なんて美しい言語なのだろうか。
鼻から息を少し逃がすような。
口のなかで一呼吸まろばすような。
一言、一言をかみしめるような。
いちおう知識としては知っていたつもりだが、
単語も発音も、英語とはほんとに全然、別物なんだな。
この映画は、どこにでもいるような一人の少女のひと夏の成長を描いた、ちいさくて、慎ましやかな物語だ。
でも、これだけは言える。
このちいさな物語の全編に、
「アイルランド」がしみわたっている。
アイルランドの自然が。
アイルランドの風俗が。
アイルランドの言葉が。
少なくとも、ゲール語で紡がれる物語が、とびきりに稀少な映像体験であることはたしかだ。なぜなら、いまアイルランド広しといえども、「ゲール語で日常会話が成されている地域」は、ほんとうに一握りしか残っていないからだ。
だから、少女コットの物語は、
ありきたりではあっても、特別だ。
彼女の傷ついた心を癒すのは、
単なる親戚夫婦の優しさではない。
アイルランドの風が。
アイルランドの泉が。
アイルランドの歌が。
アイルランドの……アイルランドの「魔法」が、コットを癒していくのだ。
そして、その「癒し」のデトックス体験を、
観客もまたこの映画を観ながら共有することになる。
― ― ―
それにしても、
なんて美しい瞳の色をした少女だろう。
日本では決して見られないような、
コバルト・ブルーの瞳。
光の入り加減では、
そこに深いエメラルド色の翠の翳が差す。
うっすら赤味を帯びた茶色のロングヘア。
真っ白に透き通るようなすべやかな肌。
少し薄目の紅く、くっきりとした唇。
コットはさながら、アイルランドの妖精のようだ。
最初出て来たとき、コットの顔には陰りがある。
硬く張り詰めた表情。少し怯えたようなまなざし。
寡黙で、引っ込み思案で、影の薄い陰キャの少女。
たいして勉強もできず、友達もいない。
家族からは空気のように扱われ、いじめられないかわりに、相手にもされていない。
あげく、母親の出産を機にひと夏のあいだ親戚夫婦のもとに出される。
『オレゴンから愛』の少年・明は、両親を亡くして古谷一行と木の実ナナの叔母夫婦に引き取られた。『赤毛のアン』のアンは、孤児院からプリンス・エドワード島に渡った。コットは、「両親がいるのに」親戚のところに出される。
そのさみしさ、不安、よるべなさはいかばかりだったろうか。
ただ、見逃してはならないのは、コットは「最初から」まっすぐ相手の眼を見て、質問ができる子だということだ。
彼女には、生来の「世界を探求しよう」という「欲」がある。
人をまっすぐに見つめられる、「強さ」がある。
ひねくれずに人の話を受け取れる「素直さ」がある。
なにか一つのきっかけで、この子は「変われる」資質をもっているのだ。
おねしょから始まった滞在1日目(アイリンおばさんは、怒らない)。
コットは、親戚夫婦の素朴な優しさと、無骨ではあっても真実味のある接し方に触れて、だんだんと心を開き、少しずつ笑顔を取り戻してゆく。
最初に彼女のすさんだ心を慰撫したのは、たしかにアイリンおばさんの示した優しさだったろう。
スキンシップ。手つなぎ。肯定感。家事の共同作業。絶対的な認容。
子供は、抱きしめられることで、自分の存在を認めていくものだ。
アイリンおばさんは、こわばったコットの心をゆっくりとほぐしてゆく。
でも、彼女に劇的な変化をもたらしたのは、むしろショーンおじさんのほうだった。
ポストまでの全力疾走をうながす、おじさん。
新しい服を買いに行こう、と言い出すおじさん。
彼は、コットが本当に必要としていることを感覚的に把握し、与えてみせる。
脚が速いこと。美しさ。生来の気性の良さ。
コットの「資質」を真正面から認めてゆく、ショーンおじさん。
それが無骨なやり方であるがゆえに、余計にコットの心にストレートに響く。
ショーンとアイリンのキンセラ夫妻には、秘密がある。
あれだけ「この家に秘密なんかない、秘密があるのは恥ずべきことなのよ」と言っていたアイリンおばさんには、コットに話していない隠し事がある。哀しみの記憶があまりに重すぎて、おばさんはコットに語り聞かせているような正直さを、自分が生きられていない。
おばさんも、おじさんもまた、弱い人間なのだ。
粗野な隣人のぶしつけな質問から、その「秘密」を知ることになるコット。
でも、そのことは逆にコットの心に夫妻への「親近感」を芽生えさせるだろう。
そして、親近感はやがて「愛」へと変わっていくだろう。
自分が、二人の巨大な喪失感を埋めることのできる存在だと、
二人もまた、自分の存在を本当に必要としてくれているのだと知ったコットは、
すでに「与えられる」だけの少女ではない。
― ― ―
『コット、はじまりの夏』は、とてもミニマルな映画だ。
台詞も、イベント数も、登場人物も、最小限。
動きも、説明も、極力抑えられている。
夫婦の抱える悲劇も、おしゃべりな隣人以外だと、壁紙や残された服から間接的に語られるだけだ。
ただ、監督は物語の「リズム」をつくるのがとてもうまい。
出だしこそ、観ていてかなり退屈するし、眠たくもなるが、田舎にうつってからは、静謐な中にも気韻生動するリズムが常にあって、ずっと集中して観ることができた。
常に、カメラの視点を低め(子供の高さ)に設定していて、コットの世界認識と共鳴しながら観られるようになっているのも、ポイントが高い。
ここにも「小津」の影響があるとすれば、『Perfect Days』『枯れ葉』に続くフォロアー作品ということになり、その影響力の高さを感じとることができる。
僕が一番感動したのは、ラストシーンだ。
なんで、こんなにも胸が熱くなるのか。
おじさん、つい「うううう」って泣いてしまいました(笑)。
いや、そりゃあ「別れ」ってのは辛いものだ。
山本太郎だって、イモトアヤコだって、ものの1週間滞在しただけで、部族との別れはいつも涙、涙の愁嘆場になるわけで。
でも、そういう情緒的なことだけじゃないんだよなあ。この感動は。
演出として、驚くべき精度で、これしかないという間合いで、絶妙のバランスで射貫いてきている。そういう感じがする。
これ以上やりすぎたら「ダサく」なるし、
これ以上抑制したら「地味なまま」に終わる。
これは、演出とモンタージュの勝利だ。
僕にとって、『Perfect Days』のラストは「やりすぎ」で気持ち悪かったし、『枯れ葉』のラストも僕にはちょっと戯作味(=監督の含羞)が強すぎた。
このあいだ観た似たテーマを扱った『ミツバチと私』にしても、ラスト近くの「名前呼びイベント」は明らかに「演出過多」で、監督のエゴと傲慢が透けて見えた。
その点、『コット、はじまりの夏』のラストには、最初からこのシーンで終わることを念頭において、徹底的に精査を重ねて、すべてがしっくりくるように計算されつくしているような奇跡的なバランスがある。魔法のようなカメラワーク。二度繰り返される、とある台詞の温度差。でも、「押し付けがましく」なるぎりぎりのところで踏みとどまって、きちんと余情を残して映画を締めている。
ほんとうに優秀な監督さんだと思う。
以下、アイルランドについて、ちょっと思ったことなど。
●原題の『The Quiet Girl』って、やっぱりジョン・フォードの『The Quiet Man』が元ネタなのかな? 映画のなかでも「何も言わなくていい、沈黙は悪くない」って台詞があったけど、「寡黙な誠実さ」ってのは、アイルランド人の生き方の中核にあるものの考え方なのかもしれないね。
●舞台は1981年。まだ携帯やSNSがない時代、というのが物語を「シンプル」にしていて、プラスに働いていると思う。
●ふだん使いでは、ゲール語で会話しているキンセラ夫妻だが、ラジオやテレビから流れてくるのはすべて英語の放送。こうなってくると、ゲール語話者であり続けることは、ある種の誇りと使命感がないと難しいよね。
●アイリンおばさん役のキャリー・クロウリーって、だれかに似てるなあと思ったら、90年代くらいのマギー・スミスに雰囲気がよく似てるのね。
アイリンおばさんに関しては、ショーンおじさんによる「善良すぎて人の悪意をもろに受け止めてしまう」みたいな人物評がとても深くて、ドキッとした。
●この映画は、もともと英語で書かれたクレア・キーガンの「Foster」を原作としながら、敢えてゲール語で撮られている。ここには、「Cine4」というアイルランド語(ゲール語)でオリジナル長編映画を制作する資金提供のプロジェクトがかかわっているらしい。
あえてゲール語を第一公用語にしているくらいのアイルランドで、ゲール語を用いた映画が作られてこなかったというのはむしろ意外な感じもする。ちなみに、パンフの梨本邦直教授の寄稿によると、この映画はアイルランド国内でも大ヒットしているが、英語話者である観客の多くは、「英語字幕を見ながら」この映画を鑑賞しているらしい。もはや、アイルランドに住んでいても、ゲール語を理解できない人間のほうが多数派なのだ。
このあたり、日本人にはまったくわからない感覚だよなあ。
むしろ失われゆく言語と文化という意味では、アイヌなんかに近い感覚でとらえるべきなのかもしれない。
●ちょうど同じ時期に公開されているエスティバリス・ウレソラ・ソラグレン監督の『ミツバチと私』は、本作同様に「小学校中学年のヒロイン(トランスジェンダーだけど)が、ド田舎にある親戚の家でのひと夏の体験を経て成長する」お話で、なにげに共通点が多い。
主人公がオーディションで選ばれた新人さんで、「史上最年少で主演賞を獲得」といった宣伝文句も思い切りかぶってるし(笑)。
本作ではゲール語話者の住む地域、『ミツバチと私』ではバスク地方が舞台に設定されていて、「廃れゆく古い言語と文化によって特別に聖化された地域」で展開する物語であることが、作品内容とも深く結びついているという点でも、両者はよく似た映画だと思う。
●最後に、コットのお父さんが後ろに追いかけて来てたのは、少しは良心にやましいところがあって、多少は気に掛ける思いもあるからだと、とらえてもいいのだろうか?
この作品のなかでは、お父さんだけがゲール語を話さず、英語だけで会話しているあたりに、ここで描かれている「アイルランドの魔法」は、お父さんにはかかっていないことが示唆されている。コットの人生においては、間違いなくこのお父さんは「リスク要因」でしかないので、少しでも更生してくれることを願ってやまない。
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