コット、はじまりの夏のレビュー・感想・評価
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映画の後はどうなる?
ラストでコットがショーンたちのところに走っていって、抱きついて、その後ろから飲んだくれの実父が向かってくるというラストだった。
この先どうかなるのかな?
かなうならば飲んだくれ実父とショーンとアイリンが、ちょっと喧嘩になって、コットを連れ帰って育てる流れを妄想した。
1981年が舞台らしいけど映像からは読み取れなかった。一言も聞き取れる単語がないアイルランド語の映画。人々はアイルランド語を話すが、テレビやラジオは英語。そんな生活があるんだなって思った。
コットのきょうだいは、姉3人、弟?1人いて、もうすぐもうひとり生まれるっぽい。夫婦仲は良くないのに子ができるのは、夫婦間のレイプが常態化しているか、お互いに性欲をぶつけ合ってるかのどちらかだろう。子が欲しくて作った訳ではなさそうな雰囲気してた。ヤッたら(やられたら)できたし仕方なく、みたいな。
父親は多分ショーンと同じ農夫のはずだけど、ギャンブルと酒に溺れてちゃんと働いてはない。多分暴力も振るってる。
コットは9歳なのに夜尿症で、それを自宅ではかなり責められてるっぽい。うまく話せず、本を読むのも苦手、友だちもいないし、姉の同級生から変な子と言われる。
そんならコットは母の出産のため、親戚夫妻に預けられる。そこの夫妻は優しく、夏の間のびのび暮らせる。
汚れた体を洗い、髪をとき、男の子の洋服を着せる。コットの夜尿症も責めずに見守る。家事を教え、運動もさせ、女の子の洋服も買い、本を(ハイジを読んでた)読ませ、お小遣いもあげる。
自宅とは違い、家は明るくて清潔。
夫婦仲もよい。
ここで一時癒されても、あの自宅へ帰るんかと思うと、ハラハラした。
アイリンとショーンには、息子がいたけど亡くなってるということが、コットが着せられていた男の子の服、電車?の壁紙などからわかる。決定的になるのは、近所の人の葬式(かお通夜)の間、コットを預かった近所の女が、アイリンがお菓子に入れるのはバターかマーガリンかなど、人の家庭を子どもから根掘り葉掘り聞き出し勝手なことをいうなかで、息子の死を、敬意なく暴露した時。
この女の家も、暗く(外も暗かったからしゃーないかもだけど)、清潔感がなく、居心地悪そうだった。
井戸が見たことない形だった。
コットが着てたケープが、グラニーステッチで、アイリンが編んだのかなって思った。あたし、あれ編めるってなった。
街に行った時、アイリンの世間話のネタになってた赤ちゃんも、グラニーステッチのブランケットとボンネットかぶってた。
かぎ針編みの基本中の基本の模様だけど、2024年の日本でも普通に使う技法で、それが1981年のアイルランドの生活にもマッチしてることに、なんか嬉しくなった。
つか、アイルランドは夏でも毛糸のものを着たり、夜はコートがいるくらい冷えるのかな?寒い夏は体験してみたいなぁ。
それなりに悲惨だけど、それなりに大切に育てられたかつての子どもであるわたし。
7-8才の時、夢の中でトイレにいっておしっこしたら、夢だけじゃなくて現実にもおしっこしてしまって、布団を汚したことを思い出した。
覚えてる限りでは、おむつ外れてからおねしょしてなかったはず。そして、これ以降おねしょはしてないはず。
その時、そこそこ大きくなってるのにおねしょしちゃって、すごく狼狽えた。
でも、母に責められなくて、ほっとした。
手伝おうとして迷子っぽくなって怒られたり、手伝おうとして井戸に落ちて寝込んだり、コットの行動にかつての自分が重なった。重なりはするけど、共感性羞恥で居心地悪いとかではなく、とても冷静に観られた。大人側の事情の方が、身近になったからかな?
夢中になって観た。いい映画だった。
家にも学校にも居場所のなかった少女のひと夏。まるごと受け止め優しく...
家にも学校にも居場所のなかった少女のひと夏。まるごと受け止め優しく包み込んでくれた親戚夫婦との時間が彼女の心を解放し乏しかった表情を豊かにしていく。子どもにとっていたわり大切にされる経験がいかに大切か。煌めき始めた彼女の姿が愛おしく涙が止まらない。傑作。
ナメててすいませんでした!
この作品、高い評価があるのにもかかわらず、観る前の私は少しナメていたかもしれません。相変わらず疲れが取れずに「眠くなったら」を心配していましたし、子供が題材だと「泣かせ」にかかるのではと構えていたところもありましたが、観終わって全くの杞憂に終わりました。よかった。素直に泣けます。
あらすじにしてしまえばベタに聞こえてしまう内容なのですが、作品の出来は在り来たりとは感じず、一瞬も目を離せない雰囲気があります。それは言わずもがな、コットを演じるキャサリン・クリンチのごく自然な演技で、子供に感じる「危なっかしさ」が絶妙で兎に角素晴らしい。それだけに何故、この作品そのものだと思える原題「An Cailín Ciúin/The Quiet Girl」を変えるのか、余計なことしてる感は否めません。
また脚本も「親には責任がある」という当たり前の正論は程よいバランスで抑え、むしろ「大人にも厄介な事情がある」という現実感があり、話がすんなりと入ってきます。そして、「選択肢のない子供」に対して「不憫だ」と憐れむような欺瞞なところがないのもよく、それはまさしく監督であるコルム・バレードの実績がものを言っているのだな、と。「丹念に、真摯に、」まさに子供に対するような丁寧な作品作りと感じられ、信頼感がありますし、創作物であっても「作り物」と感じさせないリアリティーがあります。
そして、終わり方もいいですね。理想と現実、まぁ、やはり現実なのでしょうが、、、この感じ、いい余韻です。大好き。間違いのない高評価ですね。ナメててすいませんでした!
内気で寡黙な女子が、夏休みに親戚に預けられて過ごす様子。 それまで...
内気で寡黙な女子が、夏休みに親戚に預けられて過ごす様子。
それまではなかなか周囲と打ち解けられず、親からも厄介者扱いされているように見え、うつむきがちだったのが
親戚宅で愛情をたっぷり受け、丁寧に過ごして、徐々に明るく快活になってゆく様子。
表情や目線の変化が、凄い見ごたえ。
叔父に言われて、全力で走ってみるあたりから、笑顔がみえるようになり。感動すら覚えました。
素敵な作品でした。
すっごく良かった いろんな人がいたけど、 少なくとも3人には、 幸...
すっごく良かった
いろんな人がいたけど、
少なくとも3人には、
幸せになって欲しい
ラストが勝負です
寡黙な少女のラストのふたこと、お見事です
アイルランド語の原題名の英語直訳題であるThe quiet girl のとおり、主役の女の子はほとんどしゃべりません。それだけに演技だけ(目線、表情、仕種など)で見事に感情を表現していて素晴らしい。アイリッシュ映画&テレビアカデミー賞の主演女優賞を史上最年少の12歳で獲得というのも頷けます。良い女優さんに育ってほしい。
色々いいたいけど、ひとことでいうと、ラストに彼女が二度発するあるコトバにすべてを載せてきた脚本と監督の手腕、お見事です、感服しました。
蛇足だけど、この邦題名もう少しなんとかならんかったのかなあ。
コットの体験は、「もしも自分が」の先を垣間見る、予知夢的な出来事だったのだろう
2024.1.30 字幕 アップリンク京都
2022年のアイルランド映画(94分、G)
原作はクレア・キーガンの小説『Foster(2010年)』
母の出産を機に親戚に預けられた9歳の少女を描いた青春映画
監督&脚本はコルム・パレード
原題は『An Cailín Ciúin』、英題は『The Quiet Girl』でともに「無口な女の子」という意味
物語の舞台は、1981年のアイルランド・ウォーターフォード州リン・ゲールタルト
大家族の末っ子として育ったコット(キャサリン・クリンチ)は、母メアリー(Kate Nic Chonaonaigh)の出産のために、母方の親戚アイリン(キャリー・クロウリー)とショーン(アンドリュー・ベネット)の元に預けられることになった
ショーンは牧場経営者だが寡黙な人物で、アイリンは気さくに話しかけ、家事などを丁寧に教えてくれる
コットはまだおねしょをしてしまう年代で、それをずっと気にしていたが、アイリンは家のはずれにある井戸水には不思議な力があると言い、コットに飲ませることにした
映画は、淡々と日常を切り取る作品で、田舎暮らしを通じてコットが成長する様子が描かれていく
また、その中でアイリンとショーンが抱えていた問題にふれていくことになり、コットは多くの経験を重ねていく
アイリンの友人シンニード(Grainne Gillespie)の父ジェラルド(Martin Oakes)の葬式に立ち会ったりするのだが、葬式には無関係だったコットは、シンニードの隣人ウナ(Joan Sheehy)の家にお邪魔することになった
そこでコットは、ウナからアイリンたちには子どもがいて、幼くして亡くなったことを知るのである
コット目線だと劇的なことが起きていて、人の死が理解できた頃に遭遇すると、その意味を深く考えるようになる
彼女の日常から死は遠く、どちらかと言えば「生」の方が充満しているのだが、アイリンたちの方角には「息子の死」「隣人の死」などが身近にあって、しかも息子が死んだ場所もリアルに感じられる
死を超えた先にある家庭と、そうではない家庭との温度差があり、コットにとっては強烈な体験だったのではないだろうか
自分の幼少期を考えても、祖父母は早めに他界して記憶がほとんどないけど、母は克明に覚えているし、成人してから妻の死を受けた時には「死に近い場所で仕事をしている」ためか、かなり鈍くなっている感じがする
これらの体験はいずれは積んでいくものだが、どの時点で理解に及ぶかはそれぞれの人生によって違う
コットがアイリンたちの悲しみを理解するのはもっと先のことなのだが、自分が溺れたことによる余波というものを先に体験しているので、命について深く考えるようになるのではないだろうか
いずれにせよ、9歳で主演女優賞を獲るだけの存在感はあり、完成されたように見えて純朴さが残っているというのは奇跡なんだと思う
これからさらに活躍の場が出てくると思うが、この時期の変化はとても早いので、彼女のフィルモグラフィーにこの映画が残ることも奇跡なのだろう
そういった意味では「はじまり」ではあるものの、邦題は飛躍し過ぎているので、もう少しなんとかならなかったのかな、と感じた
ここ1年で最も良かった
自信の持てない少女が、足が長いから走るのが得意なのでは、と走って、自信がつく様子がよかった。
脚本が良いというか、一つひとつのシーンが詰め込みすぎずどれもよかった。しっかり話が紡がれている感じがよい。
印象に残った箇所
・農場?でいなくなるシーン
・脚が速いんじゃないか?と、ポストまで走る
・ラストシーン
とても心に刺さりました
この作品、自分は大好きになりそうです。
ラストは心が震えました。
タイトルがなんとなく気に入り
観ただけでした。
まさか、こんな素敵な映画とは思いませんでした。
人生を幸せに生きるヒントになる台詞を感じました。
映像もとても綺麗でした。
劇場で観終わってから
帰宅して
改めて予告編を観て、また泣けてきます。
そうなんだよな
ってとても共感できる作品でした。
子育てを終えて今は少しのんびりされている方
お仕事も第一線から退いた方
そんな方にはぴったりな映画作品だと思います。
シニアさん向けだと思います。
目指せハイジ
1981年アイルランドの田舎町に住む無口で主張しない9歳の少女コットが、親戚の家で暮らす一夏のお話。
母親はまだまともな方だけど、父親がギャンブル三昧で金が無い大家族の牧場の三女コットが、もうすぐ母親と牛が出産する夏休みの間、親戚夫婦の家に預けられることになり…。
大人し過ぎて友達もいないし、父親からはぐれ者呼ばわりされたりというコットだけれど、親父がボンクラクソ野郎だからだぞっ!
なんて感じだけれど、正直観る前からどんな話しか概ね想像がつくし、これと言って大きなイベントがあるでもなく…。
それでも寡黙さが健気さにも感じられたり、大人しいながらもショーンとアイリンへの印象の変化がとても良く判るし、なんてこと無いラストにも泣かされる寸前だった。
どうでも良い個人的印象だけど、主人公の子が子供版ヘイリー・ベネットにみえて仕方なかったw
「沈黙の機会を逃して多くを失う」を肝に銘じよう
ラストシーンでやられた。「怪物」以来,子供が走ると心の汗が染み出してくる。
大人が長所を見出して褒めて好きになることで子供の健全な自我が出来上がる、という当たり前の事をしみじみと納得させてくれる。これと真逆の,粗探しと揚げ足取りに終始する毒親に立ち向かう自信も得てくれたものと信じたい。
語り過ぎないことの大切さ
「The Quiet Girl」という英語のタイトルのとおり、静かで、穏やかな映画である。
説明過多をあえて回避しようとするかのようなこの映画のスタイルは、叔父のショーンによる「沈黙の機会を逸すると、多くのことを失ってしまう」といった台詞に集約されているように思う。
様々なシーンや台詞が省略され、脳内補完を迫られる中で、この台詞が語られる月夜の海辺のシーンが比較的じっくりと描かれるのは、そうした理由があるからだろう。
自分に真摯に接してくれる大人と出会い、生き生きとした表情になっていくコットの姿を見ていると、人間の成長にとって、「愛される」ということがいかに大切かということに気付かされる。
ただ、それ以上に、コットが、叔父と叔母の仲睦まじい様子を覗き見るシーンが、短いながらも強く印象に残った。
彼女は、自分の実の両親とは明らかに異なる夫婦の関係性に衝撃を受けたはずで、そのシーンは、ラストに彼女が疾走する場面でも、フラッシュバックとして蘇ってくる。
最後の最後に、抑制していた感情を爆発させるコットの姿には胸が熱くなるのだが、それと同時に、「両親の仲が良い」ということが子供にとっての幸せで、そういう両親のもとで暮らしたいというのが子供の願いなのだということを、改めて思い知らされた。
コットが走り出したのは、実の両親からネグレクトされているからだけでなく、叔父と叔母の夫婦が愛し合っているからだと思えるのである。
美しいゲール語。美しいコットの瞳。美しいアイルランドで観客も究極のデトックスを共有する。
ゲール語でおおむね全編話されている映画を観たのは、初めてかもしれない。
(初めてではないかもしれないが、意識して聴いたのは初めてだ。)
率直に言って、驚いた。
なんて美しい言語なのだろうか。
鼻から息を少し逃がすような。
口のなかで一呼吸まろばすような。
一言、一言をかみしめるような。
いちおう知識としては知っていたつもりだが、
単語も発音も、英語とはほんとに全然、別物なんだな。
この映画は、どこにでもいるような一人の少女のひと夏の成長を描いた、ちいさくて、慎ましやかな物語だ。
でも、これだけは言える。
このちいさな物語の全編に、
「アイルランド」がしみわたっている。
アイルランドの自然が。
アイルランドの風俗が。
アイルランドの言葉が。
少なくとも、ゲール語で紡がれる物語が、とびきりに稀少な映像体験であることはたしかだ。なぜなら、いまアイルランド広しといえども、「ゲール語で日常会話が成されている地域」は、ほんとうに一握りしか残っていないからだ。
だから、少女コットの物語は、
ありきたりではあっても、特別だ。
彼女の傷ついた心を癒すのは、
単なる親戚夫婦の優しさではない。
アイルランドの風が。
アイルランドの泉が。
アイルランドの歌が。
アイルランドの……アイルランドの「魔法」が、コットを癒していくのだ。
そして、その「癒し」のデトックス体験を、
観客もまたこの映画を観ながら共有することになる。
― ― ―
それにしても、
なんて美しい瞳の色をした少女だろう。
日本では決して見られないような、
コバルト・ブルーの瞳。
光の入り加減では、
そこに深いエメラルド色の翠の翳が差す。
うっすら赤味を帯びた茶色のロングヘア。
真っ白に透き通るようなすべやかな肌。
少し薄目の紅く、くっきりとした唇。
コットはさながら、アイルランドの妖精のようだ。
最初出て来たとき、コットの顔には陰りがある。
硬く張り詰めた表情。少し怯えたようなまなざし。
寡黙で、引っ込み思案で、影の薄い陰キャの少女。
たいして勉強もできず、友達もいない。
家族からは空気のように扱われ、いじめられないかわりに、相手にもされていない。
あげく、母親の出産を機にひと夏のあいだ親戚夫婦のもとに出される。
『オレゴンから愛』の少年・明は、両親を亡くして古谷一行と木の実ナナの叔母夫婦に引き取られた。『赤毛のアン』のアンは、孤児院からプリンス・エドワード島に渡った。コットは、「両親がいるのに」親戚のところに出される。
そのさみしさ、不安、よるべなさはいかばかりだったろうか。
ただ、見逃してはならないのは、コットは「最初から」まっすぐ相手の眼を見て、質問ができる子だということだ。
彼女には、生来の「世界を探求しよう」という「欲」がある。
人をまっすぐに見つめられる、「強さ」がある。
ひねくれずに人の話を受け取れる「素直さ」がある。
なにか一つのきっかけで、この子は「変われる」資質をもっているのだ。
おねしょから始まった滞在1日目(アイリンおばさんは、怒らない)。
コットは、親戚夫婦の素朴な優しさと、無骨ではあっても真実味のある接し方に触れて、だんだんと心を開き、少しずつ笑顔を取り戻してゆく。
最初に彼女のすさんだ心を慰撫したのは、たしかにアイリンおばさんの示した優しさだったろう。
スキンシップ。手つなぎ。肯定感。家事の共同作業。絶対的な認容。
子供は、抱きしめられることで、自分の存在を認めていくものだ。
アイリンおばさんは、こわばったコットの心をゆっくりとほぐしてゆく。
でも、彼女に劇的な変化をもたらしたのは、むしろショーンおじさんのほうだった。
ポストまでの全力疾走をうながす、おじさん。
新しい服を買いに行こう、と言い出すおじさん。
彼は、コットが本当に必要としていることを感覚的に把握し、与えてみせる。
脚が速いこと。美しさ。生来の気性の良さ。
コットの「資質」を真正面から認めてゆく、ショーンおじさん。
それが無骨なやり方であるがゆえに、余計にコットの心にストレートに響く。
ショーンとアイリンのキンセラ夫妻には、秘密がある。
あれだけ「この家に秘密なんかない、秘密があるのは恥ずべきことなのよ」と言っていたアイリンおばさんには、コットに話していない隠し事がある。哀しみの記憶があまりに重すぎて、おばさんはコットに語り聞かせているような正直さを、自分が生きられていない。
おばさんも、おじさんもまた、弱い人間なのだ。
粗野な隣人のぶしつけな質問から、その「秘密」を知ることになるコット。
でも、そのことは逆にコットの心に夫妻への「親近感」を芽生えさせるだろう。
そして、親近感はやがて「愛」へと変わっていくだろう。
自分が、二人の巨大な喪失感を埋めることのできる存在だと、
二人もまた、自分の存在を本当に必要としてくれているのだと知ったコットは、
すでに「与えられる」だけの少女ではない。
― ― ―
『コット、はじまりの夏』は、とてもミニマルな映画だ。
台詞も、イベント数も、登場人物も、最小限。
動きも、説明も、極力抑えられている。
夫婦の抱える悲劇も、おしゃべりな隣人以外だと、壁紙や残された服から間接的に語られるだけだ。
ただ、監督は物語の「リズム」をつくるのがとてもうまい。
出だしこそ、観ていてかなり退屈するし、眠たくもなるが、田舎にうつってからは、静謐な中にも気韻生動するリズムが常にあって、ずっと集中して観ることができた。
常に、カメラの視点を低め(子供の高さ)に設定していて、コットの世界認識と共鳴しながら観られるようになっているのも、ポイントが高い。
ここにも「小津」の影響があるとすれば、『Perfect Days』『枯れ葉』に続くフォロアー作品ということになり、その影響力の高さを感じとることができる。
僕が一番感動したのは、ラストシーンだ。
なんで、こんなにも胸が熱くなるのか。
おじさん、つい「うううう」って泣いてしまいました(笑)。
いや、そりゃあ「別れ」ってのは辛いものだ。
山本太郎だって、イモトアヤコだって、ものの1週間滞在しただけで、部族との別れはいつも涙、涙の愁嘆場になるわけで。
でも、そういう情緒的なことだけじゃないんだよなあ。この感動は。
演出として、驚くべき精度で、これしかないという間合いで、絶妙のバランスで射貫いてきている。そういう感じがする。
これ以上やりすぎたら「ダサく」なるし、
これ以上抑制したら「地味なまま」に終わる。
これは、演出とモンタージュの勝利だ。
僕にとって、『Perfect Days』のラストは「やりすぎ」で気持ち悪かったし、『枯れ葉』のラストも僕にはちょっと戯作味(=監督の含羞)が強すぎた。
このあいだ観た似たテーマを扱った『ミツバチと私』にしても、ラスト近くの「名前呼びイベント」は明らかに「演出過多」で、監督のエゴと傲慢が透けて見えた。
その点、『コット、はじまりの夏』のラストには、最初からこのシーンで終わることを念頭において、徹底的に精査を重ねて、すべてがしっくりくるように計算されつくしているような奇跡的なバランスがある。魔法のようなカメラワーク。二度繰り返される、とある台詞の温度差。でも、「押し付けがましく」なるぎりぎりのところで踏みとどまって、きちんと余情を残して映画を締めている。
ほんとうに優秀な監督さんだと思う。
以下、アイルランドについて、ちょっと思ったことなど。
●原題の『The Quiet Girl』って、やっぱりジョン・フォードの『The Quiet Man』が元ネタなのかな? 映画のなかでも「何も言わなくていい、沈黙は悪くない」って台詞があったけど、「寡黙な誠実さ」ってのは、アイルランド人の生き方の中核にあるものの考え方なのかもしれないね。
●舞台は1981年。まだ携帯やSNSがない時代、というのが物語を「シンプル」にしていて、プラスに働いていると思う。
●ふだん使いでは、ゲール語で会話しているキンセラ夫妻だが、ラジオやテレビから流れてくるのはすべて英語の放送。こうなってくると、ゲール語話者であり続けることは、ある種の誇りと使命感がないと難しいよね。
●アイリンおばさん役のキャリー・クロウリーって、だれかに似てるなあと思ったら、90年代くらいのマギー・スミスに雰囲気がよく似てるのね。
アイリンおばさんに関しては、ショーンおじさんによる「善良すぎて人の悪意をもろに受け止めてしまう」みたいな人物評がとても深くて、ドキッとした。
●この映画は、もともと英語で書かれたクレア・キーガンの「Foster」を原作としながら、敢えてゲール語で撮られている。ここには、「Cine4」というアイルランド語(ゲール語)でオリジナル長編映画を制作する資金提供のプロジェクトがかかわっているらしい。
あえてゲール語を第一公用語にしているくらいのアイルランドで、ゲール語を用いた映画が作られてこなかったというのはむしろ意外な感じもする。ちなみに、パンフの梨本邦直教授の寄稿によると、この映画はアイルランド国内でも大ヒットしているが、英語話者である観客の多くは、「英語字幕を見ながら」この映画を鑑賞しているらしい。もはや、アイルランドに住んでいても、ゲール語を理解できない人間のほうが多数派なのだ。
このあたり、日本人にはまったくわからない感覚だよなあ。
むしろ失われゆく言語と文化という意味では、アイヌなんかに近い感覚でとらえるべきなのかもしれない。
●ちょうど同じ時期に公開されているエスティバリス・ウレソラ・ソラグレン監督の『ミツバチと私』は、本作同様に「小学校中学年のヒロイン(トランスジェンダーだけど)が、ド田舎にある親戚の家でのひと夏の体験を経て成長する」お話で、なにげに共通点が多い。
主人公がオーディションで選ばれた新人さんで、「史上最年少で主演賞を獲得」といった宣伝文句も思い切りかぶってるし(笑)。
本作ではゲール語話者の住む地域、『ミツバチと私』ではバスク地方が舞台に設定されていて、「廃れゆく古い言語と文化によって特別に聖化された地域」で展開する物語であることが、作品内容とも深く結びついているという点でも、両者はよく似た映画だと思う。
●最後に、コットのお父さんが後ろに追いかけて来てたのは、少しは良心にやましいところがあって、多少は気に掛ける思いもあるからだと、とらえてもいいのだろうか?
この作品のなかでは、お父さんだけがゲール語を話さず、英語だけで会話しているあたりに、ここで描かれている「アイルランドの魔法」は、お父さんにはかかっていないことが示唆されている。コットの人生においては、間違いなくこのお父さんは「リスク要因」でしかないので、少しでも更生してくれることを願ってやまない。
初めて自分に向き合ってくれる大人が見つかる
9歳の少女コットは、母親の従姉妹であるアイリンと、その夫ショーンの元に、夏休みの間預けられる。アイリンは温和で優しく、ショーンは昔気質でやや寡黙。コットは今まで家庭にも学校にも居場所が無く、誰にも見向きもされなかった。その中で、アイリンとショーンは初めて自分に真摯に向き合ってくれる大人だった。アイリンと共に料理を作ったり、ショーンと共に農場の仕事をする中で、彼女は人の温かさを感じるようになる。
コットはショーンに農場の案内をされているとき、勝手にショーンの元を離れ、大きな声で「勝手に離れるな。分かったな」と怒られるシーンがある。その後自宅に戻った2人の間に沈黙が流れる。ショーンは大きな声で怒ったことを申し訳ないと感じているらしく、謝罪の言葉の代わりに、無言でビスケットをコットの前に置いていく。ここに彼の不器用な優しさが表れていてぐっと来る。
夏休みも終わり、最後にコットはショーンに対してハグをしながら別れを惜しむ。実父が前方から歩いてくるシーンでコットは「パパ」と言い、すぐに次のシーンでショーンを映しながら「パパ」と言う。コットが認識している父親は実父ではなく、ショーンなのだということを暗に伝えていて、秀逸な表現だと感じた。
陽光に照らされ輝く自然や、済んだ空気が伝わってくる映像美も素晴らしい映画。
成長に大切なものとは
関心を持ってもらえるって子どもの成長過程でとても大切。家庭の事情で親戚の家に預けられるコット。必要以上に手をかけるわけでもないが、丁寧に日常を一緒に過ごしてくれる叔母夫妻のお陰で、コットは笑い、自分から話し、自然の中でのびのび走るようになる。そして悲しい過去を背負う叔母夫妻もコットの存在によって癒やされていく。お互いへの絆が生まれ始めたころにやってくる夏の終わり。
ラスト、車を走って追いかけてきたコットをショーンが抱きとめるシーンは涙が止まらなかった。エンドロール、音楽が止みさえずりが聞こえる。どうあったらハッピーと思えるだろうか。
小さなビスケットひとつ
《コット、はじまりの夏》
目に見えるものが全ての幼いコットに見えない光が差した夏休み。献身的に寄り添う叔母と、不器用な叔父と解きほぐされる関係。静かな情景はいつも断片的。そう"大事な事は目に見えない"から。日々の生活の中で癒しながら癒やされている。
丁寧に髪をとかす、爪を整える、おさがりの服、小さなビスケット、じゃがいもの皮むき、新しい服、チョコアイス、大きなバケツ、粉ミルク、全速力で走る、死と隣り合わせに日々がある、相手を尊重する、気にかけること。生活をするということ。
出来すぎた感のある叔母叔父の"建前"的な生活と親戚の"本音"的な生活の両面をコットに見せているところが綺麗事で終わらせずコット今後の実家の見え方の変化するだろうと思わせる。ビクトル・エリセや杉田協士を思わせる作品世界がシンプルなストーリーに光を与えている
ラストありゃ泣くわよ年ベス有力候補。
傑作。。
24-013
なんだか考えさせられる作品でした。
我が子を愛しているだろうか❓
我が子に愛情は伝わっているだろうか❓
家族の輪から外れていると感じる。
生まれてくる弟の前に存在感がかき消され、
学校では浮いている。
父に疎まれ、母とも通じ合っていない。
この世の不幸を背負っているような姿に心が痛む。
知らない土地で、
知らない親戚夫婦から受ける愛情は、
ゆっくりと確かに心に届く。
最後に父さんと呼んだのは、、、
与えるだけ・受け取るだけでない相互の愛情がここにはあった。
シンプルな進行で物語に入り込みやすく、カメラは顔のアップと引きのぼかしや風景の扱いも素晴らしい。
オープニングの木々の間からこぼれる陽射しはコットの揺れ動く気持ちを表わし、風景も全体の雰囲気を盛り上げている。
実家の薄暗く寂しい食卓と比して明るい光が差し込むキンセラ家のダイニング。そこは大切に使い込まれた食器や家具に囲まれ暖かなた家の中心で、秘密ではなくよりよく生きるコツと愛情が溢れている。
労働と愛ではぐくまれた両手はコットの存在を受け入れ包んでくれる。すべてのシーンがみずみずしくまぶしくストレートにしみ込んでくる。
広々とした田舎の風景や近隣の人々の「人間らしい」暮らしの中で、自分の居場所と役割を見つけたコットは、夏の終わりに自分の家に戻ると、食べかすの残ったテーブルに気づきぞんざいな暮らしぶりを目の当たりにする。
今までと違う自分がいる。
ラストは心に強く響く。安心できる環境。大切にされていると言う実感。子どもが健やかに成長するのに必要なことがすべて描かれている。
コットは「子ども」としての、夫妻は「親」としての「生き直し」の物語だ。
ゲール語⁉️初めて聞きました。
ラストシーンは思わず泣きそうになります。
途中経過がどうあろうとも。
(あと、もしかしてその後に、〝歩いてくるもう一人のダディー〟による不穏な状況もあるのかないのか、心配でもあります)
コットを演じる少女がシアーシャ◦ローナンのようで、まるで白い妖精。
寡黙な演技が自然体そのものなので、見ているこちらまで、ここはどう接したらいいのだろう?と本気で身構えてしまいます。
外部からの音と言えば、のどかに漂ってくる牛の鳴き声、風に共鳴する梢の揺らぎや小川のせせらぎ…
ヒーリングビデオのようでもあります。
なので、お疲れの方、睡眠不足の方は、体調を整えてからの鑑賞をお勧めします。
風邪を引いたの?とまるで犯罪を責めるような厳しい口調で問いだだす親が、私は嫌いです。かつて、かなり身近でそういう一種の虐待の現場を経験したことがあります。
(子どもが、親に叱られるのを怖れて体調が悪いことすら言えなくなるほどに追い込むのは虐待です)
作品全体の流れとは別に、引っかかってしまいました。
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