瞳をとじてのレビュー・感想・評価
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私には合いませんでした
何か月も前から楽しみにしていた今作でしたが、私には残念ながら合いませんでした。
老いや過去、記憶の喪失に対する考え方に違和感がありました。
大変良かったとおっしゃる方が多く、うらやましいような、悲しいような…まぁ仕方ありません。
設定も、若人あきらさん→我修院達也さんのように、人気俳優なら顔も知られているし、生きていればすぐに見つかると思うのです。その辺りが許容できませんでした。
役者の顔にズームしていかず、ショットの切り替えでアップにしていく技...
役者の顔にズームしていかず、ショットの切り替えでアップにしていく技法に引き込まれる。
同じ映画でも自宅で観るより映画館で観る方が評価が上がると感じる人は多いのではないだろうか? 私は顕著にそれがある。そしてこの映画は特にそれに当てはまる。冒頭から引き込まれっぱなしだ。
出来るだけ映画館で観たいと思う個人的3つの理由が
1.一時停止も巻き戻しも出来ない状況に体調を整えて着座し 映画に向き合う事で作品価値が上がった様に感じる事
2.自宅では不可能な大画面、大音響で観れる迫力と臨場感が得られる事
3.待ってられない
と3つあるが、今作はやはり1番目である。
ビクトル・エリセの前の作品達とある要素が凄く似ていて、全く違うストーリー展開である。知っとくべきは監督の名前とアナ・トレントが出演する事だけでチラシに記載のストーリーすら事前に調べずに鑑賞したかった。だから内容は語りません。
エリセ監督作を2本観れたお得な気分。
人生における喪失を抱え追い求める
始めは映画のテンポに馴染めなかったが、丁寧な描写こそ良いと感じてから、ゆったりとした時の流れに身を委ねる
解決を示さない結末も余韻が納得いく
大人になったアナに会ってしまっていいのかという戸惑いと、自身の老いに震えた
失われた二人の人生と記憶が紡いだものとは
失踪した人気俳優を巡るミステリー!ではない
完成間近だった映画撮影中に突然失踪したフリン。それがきっかけで監督を辞めて作家や翻訳家としてその後の22年間を生きてきたミゲルに舞い込んだ未解決事件を扱うテレビ番組の収録。ミゲルの中で止まっていた時間が動き出す。それでも事件にかくされた陰謀を明かすかのような素振りを見せるのはほんのしばらくで、誰も死んでいないし、誰も殴られない。
3時間の長編映画
長い映画だ。そして見た直後にははっきりしない結末にストレスが残る。でもなぜか後からわかってくる。映画が展開するテンポはゆっくりだ。それがために目に焼き付けられた登場人物が見せた様々な表情が甦り、この映画の伝えたかったものをじわりじわりと伝えてくれた。
掘り返される過去がミゲルに与えるもの
腑に落ちない過去に思い掛け無い形で向き合うことになったミゲルは、フリンの消息を掴もうと過去の人間関係に再び向き合う。そうして出会う人々もまたそれぞれがフリンに対する想いがある。それは語られる言葉だけでなく行動や表情という形で表現される。浮世離れしたような生活をしていたミゲルも、ミゲルに接する人々も淡々としているようでどこか優しい。それぞれが22年もの長い時間のなかでフリンのいない人生を築いてきた。いろんな関わり方でフリンと関係した人々に再会するミゲルは淡々としているようで何か心地良さを感じているかにも見える。
心の中の人生の記録とは
誰もが人生の記録を心に刻む。それを思い出と言ったり記憶と表現したりする。思い出は美化されると言う人もいるが、そのなかには決して美化されない誰もが忘れたい、閉じ込めたいものを持つ。それでもその記憶の中でも関わった人たちがいて今もどこかで生きていている。何も思い出を雄弁に語る必要なんかない。寄り添い合って生きていくだけで価値がある、そんなメッセージが届いた気がした。
全文はブログ「地政学への知性」で
映画の奇跡
原題:Cerrar los ojos(仏語)には、思わず目を瞑る、見て見ぬふりをするといった意味合いがあり、邦題である「瞳をとじて」は〈とじてください〉の指示語ではなく、〈とじてしまう〉と解釈するのが正しいと思う。このタイトル、エンドロールの直前まで何が何だか。だがそのシーンを見た途端、普遍的なテーマでありながら監督が31年振りに長編のメガホンを取ったことが瞬時に理解できるほど、とんでもなく綺麗で、その反動から涙が出てしまった。ビクトル・エリセ作品初挑戦だったから身構えていたけど、これはやられた...。
169分とかなりの長尺だけど、退屈ゼロ。こんなシンプルな人生ロードムービーなのに、巨匠の凄腕に永遠と入り込んじゃう。主人公・ミゲルの監督映画と本編の両方でじっくりと描かれる、喪失と再会。たった数日の物語。それでも、ミゲルにとっては一生分の物語。彼のような経験をすることは中々無いだろうけど、ふと自分が生きていることに価値を見出すことって、誰しもあると思う。後半からのミゲルの表情はまるで少年のようで、自分にしか出来ないと行動する姿はカッコよすぎてハッとさせられた。
何万とあるコマのどのコマも、部屋に飾りたくなるほど魅惑的。タバコを吸うシーンや、スープをスプーンで少しずつ飲むシーンだって。流石としか言えない。新作なのに往年の名作を見ているよう。劇中でも昨今の映画事情について、フィルムについて言及される場面があるように、監督自身31年間、カメラを持たなかった間に映画について思うところが沢山あったのだろう。本作のノスタルジックな雰囲気には、古臭さは感じず、フィルム時代の良さを継承したまま、現代の映画にも影響を与えるような目新しさがあった。だから、惹かれちゃうんだろうな...。
語りたいところは山ほどあるんだけど、中でも好きなのは、いくつかあるミゲルらが歌を口ずさむシーン。ギターと共に海辺で、古屋の外のベンチで、そして映画の中で。自分の映画史に残り続けるだろう、かつてない名シーンたち。ここまで食らってしまうとは思ってもみなかった。映画ってなんていいものなんだ。映画は奇跡を起こす。彼らにその奇跡が降りかかったように、私にもまた映画という魔法にかかった。ありがとう、また撮ってくれて。
もう二度と観られない巨匠作を是非に
ほとんど神格化された「ミツバチのささやき」1973年、日本公開1985年の作品自体そして監督ビクトル・エリセご自身も。果たして映画監督と呼んでいいものか悩ましい程の寡作家。もとより本当の寡なのか、撮りたくても撮れない状態もあれば、本当に31年ぶりに新作をここ数年で作ったのか、30年間費やして作ったのか? 真実が見えないから余計に神がかってきた。
「ミツバチのささやき」をいったいどれだけの日本人が鑑賞したのでしょう? 念のため調べたら一部の有料配信で観られる現況、アマプラでは2500円支払っての購入しか選択肢がない。そして正直に言いましょう、クレイジーな程の映画鑑賞ですが、私は(まだ)観ておりません。岩波ホールを頂点としてごく一部の単館系での公開だったはずですから、チャンスがなかったと言い訳しておきます。
よって人生初体験のビクトル・エリセ監督作品を映画館のスクリーンで鑑賞したわけです。重厚かつ静逸な雰囲気を覚悟したもので、失踪した俳優フリオを求めての意外やミステリー仕立ての口当たりの良さに驚いた次第。フリオを探す映画監督ミゲルが本作の主役ですが、明らかにエリセご自身を重ね合わせているでしょう。失踪により映画制作が中断したまま20数年、物書きとして湖口を凌ぐ設定。全編を覆うのは映画への愛おしい程の情景が匂い立つ。デジタルとかの映画を取り巻く環境激変への軋轢から、カール・ドライヤーの名まで出しての映像への追憶、そして「ニュー・シネマ・パラダイス」1989年よろしくフィルム映写室を登場させ映画を慈しむ。
撮影途中で主演男優が失踪で、カギとなるのが撮影済みのラッシュ・フィルムとなり、編集者マックスが保管していたフィルムが本作後半の主役となる。そもそもラッシュなのに、クライマックスでの上映では編集も音入れもなされているのはちと不思議ですが。なにより本作冒頭で始まるのはフランス郊外の古城の所有者である老人の依頼を受けた中年男の登場である。正面からフィックスで撮ったような舞台様式で始まる静寂のドラマは、緊張感を維持しミステリアスに包まれ、やがてバストショットの切り替えしとなり、肝心の人探しの要件が明かされる。怪しげな中国人の執事と言い、中国人とのハーフとなる美少女を上海まで探しに行け! と展開されれば「インディ・ジョーンズ」かと期待が膨らんでしまった。示された少女の写真の妖艶なこと! 時1947年の設定ですから無べなるかな。依頼を受けた男が館から出てくるショットで、画面は止まる。「この撮影の後主演役者は失踪した」とモノローグが入り、映画の二重構造が明かされる。
戦後の混乱期の上海での探偵ごっこはお預けとなった代わりに、テレビ局からの「未解決失踪事件」への出演依頼に繋がり興味は途切れない仕掛け。もとより、冒頭の「悲しみの王」は果たして本作の入れ子構造のための映像なのか? ひょっとするとエリセが以前に撮りだした別作品のラッシュだったかも知れない。これを活かして本作を構築した可能性もあるわけで。いよいよもってミゲルがエリセと重なる構造。
ミゲルが動き出し、映画としてのベクトルも明確となり、関係者への聞き込みが続く。切り返しの連続が続き単調に陥ったきらいはあるものの、マックスとの会話シーンでは流石の描写を紡ぎ出す。ソファに座ったマックスと立っているミゲルとの視線が合わないカットバックが続く、まるで噛み合わない会話のように。実はマックスの座ったソファのすぐ後ろにミゲルは立っていた訳で。劇中映画が起承転結の「起」となり、マドリッドでの調査が「承」となり、ミゲルの現在の住まいに移動しての海沿いのミニ・コミュニティが「転」となるが、ここのシーンが実に心地よい。多分スペイン南部の地中海の大海原が望める景勝地での平和な暮らし、ここで遂に「フリオ」の消息情報がもたらされ、一挙にクライマックスの「結」に突入する。ボルテージ爆上がりです。
しかし、そんな簡単に明かされない「結」です。そもそも本作のタイトルからして、ラッシュ・フィルムを見せられた失踪者本人であるフリオは静かに瞳を閉じて映画は終わるのですから。いじわるかも知れませんが、この余韻も佳きものです。果たして映画により記憶喪失の復活と言う奇跡は起きたのでしょうか? ご丁寧にエリセはヒントまで観客に用意していました。冒頭の劇中映画の館の庭に据えられた「ヤヌスの像」は、エンドタイトルでも延々と全体像とアップを繰り返される。ローマ神話の出入り口と扉の守護神で、前と後ろに反対向きの2つの顔を持つのが特徴の双面神。だからどうなの? なんて聞かないで下さい、各自の解釈で十分で、決めつけられない多様性の社会なのですから。
それにしても「ミツバチのささやき」に当時5歳で主演にした純真無垢な少女アナ役を演じたアナ・トレントが、同じ役名でフリオの娘として本作に登場の事実に驚愕しても、本作にとって何の意味も持たないわけです。これを以って妙な解析は馬鹿馬鹿しい限りと思います。
多分、次作は望めないわけですから、是非ご鑑賞をお薦めします。
二度目の囁き
寡作にもほどがある。
本作は実に三十一年ぶりの新作。
監督の『ビクトル・エリセ』は
1967年から五十六年間の活動歴で撮った長編は僅かに四本。
そのうち一本は{ドキュメンタリー}なのを勘案すれば
もう呆れるほかはない。
もっとも、先の二本
〔ミツバチのささやき〕〔エル・スール (1982年)〕は
何れも佳作なのだが。
本作は映画〔別れのまなざし〕の撮影場面から始まる。
監督の『ミゲル(マノロ・ソロ)』にとっては二本目の長編。
しかし旧友であり主演俳優の『フリオ(ホセ・コロナド)』が突然に失踪したことから頓挫、
作品は未完に。
それから二十有余年、『ミゲル』が未解決事件を取り上げるテレビ番組に出演したことから
物語りは動き出す。
『フリオ』らしい男が海辺の施設に居るとの情報が寄せられ
『ミゲル』は現地に向かう。
三時間に近い長尺も、刈り込めば二時間程度に収めることは可能だったろう。
しかし先の劇中映画の撮影場面も含め『ビクトル・エリセ』は多くの要素を盛り込む。
とりわけ狂言回しとなる『ミゲル』の過去の記憶については
執拗との表現があたるほどに。
とは言え、それらは何れも直接的ではなく、
あくまでも婉曲に。
二人と関係のあった女性とのエピソード、
『ミゲル』の家族が壊れてしまった理由やイマイマの彼の生活、
或いは互いが知り合うことになった経緯について。
潤沢にとられた時間の中で
主人公たちの今と昔に仔細にふれることで
あたかも彼らが実存するようにすら感じてしまう。
ここで存在感を発揮する登場人物がもう一人。
『フリオ』の娘『アナ(アナ・トレント)』は
長い間行方不明だった実の父が見つかったとの報に
最初は半信半疑ながら施設に赴く。
しかし『フリオ』は過去の記憶を喪失してしまっており、
旧知の『ミゲル』をも認識できない。
では『アナ』と会うことで記憶は蘇えるのか、が
新たに提示されるサスペンス。
そして、もう一つの謎、
なぜ彼は失踪したのか?の疑問も
解き明かされるのだろうか。
ここで昔からの映画ファンは
〔ミツバチのささやき〕のあの科白が
おそらく発せられるだろうと予感し期待する。
そのために役名を『アナ』として統一したのだろうと。
劇中劇の〔別れのまなざし〕は
生き別れとなった娘を父親が捜すとの真逆の構成。
完成版はないものの、数巻のラッシュは残っており、
それもストーリーに強く関係させるのは
やはり監督の映画愛なのだろう。
1972年の制作の〔ミツバチのささやき〕が日本で公開されたのは
1985年のこと。
スクリーンでは五歳の姿も
1966年生まれの『アナ・トレント』は既に十九歳だったわけで。
それから幾年月、再び本作で姿を見せた彼女は
いかにも年相応の外見。
過ぎた年月の永さを想わずにはいられない。
ミツバチの遺言
ビクトル・エリセも今年で84歳、おそらく本作が遺作となることだろう。本人もその点は十分承知の助で、この『瞳を閉じて』を通して映画人生の集大成をやろうとしている。が、困った点が一つだけ。なにせ半世紀以上のキャリアの中で本当の意味で完成にこぎつけた長編作品は『ミツバチのささやき』の1本だけなのだ。次作『エル・スール』はプロデューサーに後半1/3をカットされ、本作におけるエリセの分身であるミゲル同様、本人の中では未完成作品のままなのではないか。エリセと同じく反フランコの立場をとり佳作を連発し続けているアルモドバルとは正反対なのだ。
『エル・スール』後は短編制作やドキュメンタリー作品にも手をつけてはいるが、それ以降31年間の長きにわたって沈黙を守り続けていた映画監督なのである。実をいうと私はビクトル・エリセの過去作を観たことがない。本作がビクトル・エリセの初体験で、かつおそらくは最後となることだろう。この映画、何十年もメガホンを握らなかった監督の言い訳にもなっているわけで、“静謐の魔術師”の異名をとるエリセにしては、かなり饒舌な作品に仕上がっている。
『ミツバチ』撮影中実在のフランケンシュタインを相手にしているとすっかり信じこんでしまったアナ・トレントが、失踪した映画俳優の娘役で登場している。記憶を失った父親に向かって「私はアナよ」と囁くシーンは『ミツバチ』のオマージュだそうだ。が、セルフオマージュ作品として本作を成立させるためには絶対数が足りなさすぎる。そこで苦肉の策として盛り込んだのが、ニコラス・レイの『夜の人々』やハワード・ホークスの『リオ・ブラボー』等のマイ・フェイバリットだったのだろう。
日本の映画監督溝口健二についての論考を書いたことでも知られるエリセだけに、(劇中あまり効果は発揮していないものの)溝口お得意の水平移動カメラを随所に発見できる。要するに、自らの映画人生を映画で語る時、他人のふんどしで相撲をとらざるを得ない、それほど寡作の人なのである、エリセは。映画全体の構成(&辿った経緯)がテオ・アンゲロプロスの壮大な失敗作『ユリシーズの瞳』とクリソツなのも気になるところ。
映画内映画『悲しみの王』のラスト・シーンで、中国人ハーフ少女の無垢な眼差しをカメラ目線で映し出すエリセ。批評家連中の心ない突っ込みを拒絶するズルい演出をして見せている。その無垢な眼差しで見つめられた我々観客は、記憶を失ったフリオ同様にやはり瞳を閉じて(心を無にして)、エリセの数少ない過去作品に思いを馳せるのだろうか。ていうか実際、瞳を閉じたら映画を観ることができないんですけどね。
失踪への一時的な憧れ
2023年。ビクトル・エリセ監督。20年前の映画撮影中に主演俳優が失踪した。監督は撮影を中止し、その後はいくつか小説を書いて話題にもなったものの、現在は海辺の村で静かに暮らしている。そんななか、失踪者を扱うテレビ番組に出演したところ、放送後に失踪した俳優が記憶を喪失した状態で見つかった、と連絡があり、、、という話。
主人公にとって、俳優は兵役を共にした親友でもあり、テレビ番組を機会にその関係者に会うことは、自らの過去を振り返り、老いと直面することでもあるが、その過程で、若いうちに姿を消した俳優について、この世の外へと羽ばたいたように感じられている。老いを前にしてこの世界から抜けだした俳優への憧れのようなものを否定できないのだ。それでも、生きる喜びを感じないらしい現在の俳優の姿はやはり求めるべきものではなく、この世界で、記憶とともに、生きるための「奇跡」(カール・ドライヤー)へと挑戦していく。一時的ではあるものの失踪への憧れ、それでもこの世界を捨ててはいけないという倫理。この展開が切ない。それが映画と記憶に関わる倫理なのだ。
映画を監督する、映画を保存する、映画に出演する、映画を鑑賞する、さまざまな人々の映画への関わり方が丁寧に描かれている。
現実と映画の中の現実、そして劇中映画のシンクロが面白い
”スペインの巨匠”ビクトル・エリセ監督の31年ぶりの長編映画ということで、評論家の評判が頗る高かった本作を、ニワカの私も観に行ってみました。スペインを舞台にした映画と言えば、先月「サン・セバスチャンへ、ようこそ」を観ましたが、本作とは実に対照的でした。「サン・セバスチャンへ、ようこそ」は陽気なコメディ作品であり、当方の勝手なスペインのイメージに合致する作品でしたが、本作はかなり暗く、静かで、低いトーンで物語が進んで行く作品で、同じスペインの映画でも、こうも違いものかと意外に思ったところです(まあいろんな映画があるのは当たり前と言えば当たり前の話ですが)。
お話としては、映画監督である主役のミゲルが、20年前に映画の撮影中に失踪した当該映画の主人公であるフリオを探すというミステリー仕立ての作品でした。しかし人探しそのものに重心を置いた作品ではなく、ビクトル・エリセ監督の長編デビュー作である「ミツバチのささやき」(1973年)で子役として主演を務めたアナ・トレントが、本作でもフリオの娘のアナとして登場したり、劇中映画と本作の登場人物の置かれた父娘の離別と再会という状況や心理との関わり、そして何よりも20年間映画を撮っていないミゲルと、31年ぶりに長編映画を創ったビクトル・エリセ監督が重なるなど、非常に重層的に創りこまれた作品でした。しかしながら基礎知識のないニワカな私としては、物語中盤辺りまで正直消化不良に陥ってしまいました。
しかも3時間近い長編とあって、何度か寝落ちの危機が訪れましたが、記憶喪失になってしまいガルデルと名付けられて老人ホームで働くフリオの所在が明らかになり、ミゲルがそこを訪れる辺りから、俄然面白くなって来ました。そしてフリオと娘のアナの再会、さらには20年前にフリオの失踪で撮影中断を余儀なくされた映画を、最近閉館された映画館に集めて上映するというドラマチックな展開に至り、ビクトル・エリセ監督の神髄を垣間見たような気がしました。
特に感心したのは、先にも触れた劇中映画と映画の中の現実がシンクロしたところ。父娘の再会はハッピーエンドとなるのか?劇中映画では、再会を果たした直後に父親が亡くなりましたが、果たしてフリオは記憶を取り戻すのか?そんな観客の期待と不安が集中する中で迎えるエンディングは、まさに映画らしい映画だったと思います。
そんな訳で、面白い作品ではあったものの、私にとってはちょっと時間が長かったのが残念と言うところでした。そんな本作の評価は★3.5とします。
すさまじい余韻に浸りながら涙した
ビクトル・エリセ、31年ぶりの長編映画とのこと。期せずして「ミツバチのささやき」、「エル・スール」、そして今作を一週間で観ることに。
TV番組の出演依頼がきっかけで、元映画監督ミゲルは自作の撮影中に失踪した主演俳優フリオの記憶をたどった。それはミゲル自身の半生を追想することでもあった。
まさに過去を補完するが如き169分。豊穣な時が流れた。エリセにとって初めて思うように撮れた作品ではなかろうか。
エリセ考
ビクトル・エリセ 31年ぶり新作
31年もの間エリセは何してたんだろうか?
何故今更新作なんだろうか?
この映画のポイントはそこかなと思いつつ鑑賞。
主人公はリタイヤした映画監督、ふむふむ、この時点でもう、エリセはリタイヤしてたんだな、でも何かがあってカムバックしたんだなと考えた。だが肝心の話は遅々として進まない、スローにもほどがある。ミステリー要素はあるがミステリーではなく、どちらかというと主人公がひとり悶々として、その悶々とした主人公の分身が疾走役者なのかな、二人あわせてエリセなのかな、じゃエリセはこの映画で何が言いたいか、またさらに考えた。やっぱり判然としない、疾走役者親父がスクリーンを羨望?懐疑的?な眼差しで見つめるとこで話は終わる。結局、事件が解決しようがしまいがどうでもよく、エリセの映画に対する思いの丈をフィルムに描き起こしただけなのかなと思ってしまった。あれこれ詰め込んでたら3時間になっちゃったのかな?他人の人生観を淡々と見せつけられても途中であきちゃいますよ、本音で言えば。フェリーニの8 1/2もそうだけど映画監督の私映画はなかなか理解に苦しみます。自分のために映画作るなよ。ちなみに映画館で瞳を閉じたら、寝ちゃいますよ 笑
私には敷居の高い上級者向け作品
普段あまり観ることのないスペイン映画で、しかもヒューマンミステリーということで、ちょっと興味を惹かれて鑑賞してきました。でも、自分にはちょっと難しい作品でした。
ストーリーは、撮影中に主演俳優フリオ・アレナスに失踪された映画監督ミゲルのもとに、失踪事件の謎を追うテレビ番組から出演依頼が届いことをきっかけに、ミゲルが昔の仕事仲間のマックス、フリオの娘のアナ、かつての恋人のロラを訪ね歩き、フリオの行方をたどる中、彼に似た人物が海辺の高齢者施設にいるとの情報を受け、そこで久しぶりの再会を果たすというもの。
冒頭から重厚さが漂う作品であり、その雰囲気は全編で貫かれ、長い年月を経たミゲルとフリオの邂逅をじっくりと描いていると感じます。しかし、そこに再会を喜び合う二人の姿はなく、この行方探しの旅路はどのような結末を迎えるのかと、クライマックスに向けてフリオの動向から目が離せなくなります。
ただ、最後まで明確な結末が描かれることはないので、自分なりに想像して余韻に浸るのか、訳がわからずモヤモヤしたまま終わるのか、観る者によって受け取り方はさまざまになろうかと思います。私はもちろん後者で、本作から何をどう感じればいいのか、なかなか理解できませんでした。
いったいミゲルは何がしたかったのでしょうか。自分の中に引っかかっていた思いをなくしたかったのでしょうか。そのために、未完のままお蔵入りした映画を決着させたかったのでしょうか。それとも、長年行方不明で記憶も失った親友との大切な思い出を取り戻したかったのでしょうか。すれ違いから失った親子の時間を取り戻させようとしていたのでしょうか。そもそもフリオはなぜ失踪し、どうして記憶をなくしてしまったのでしょう。さまざまな思惑が錯綜しているように見え、しかもその結末がどうなったかもわからず、モヤモヤしてしまいます。もしかすると、どんな結果を招こうと、今やるべきことをやりきったという、その思いこそが大切だったのかもしれません。
というわけで、観る者を選ぶ上級者向けの作品という感じで、自分のような若輩者には敷居の高い作品でございました。この日4本目の鑑賞でやや疲れもあり、タイトルに誘われたわけではないですが何度も瞳をとじてしまい、いろいろ大切なセリフを聞き落としたせいで理解が不足していたのならご容赦ください。それにしても、ゆったりしたテンポで延々と続く、聞き慣れない名前と地名が目白押しの会話劇は、なかなかつらい時間でありました。
主演はマノロ・ソロ、脇を固めるのはホセ・コロナド、アナ・トレント、マリオ・パルド、エレナ・ミケルらで、一人も存じ上げませんが、落ち着いた演技が本作の雰囲気によくマッチしています。
喪われた記憶とアイデンティティ。ビクトル・エリセが31年ぶりに問う「映画についての映画」。
あのビクトル・エリセが、31年ぶりに新作を撮った!
そういわれて、さすがに行かないという選択肢はない。
僕は世代的に『ミツバチのささやき』と『エル・スール』の公開時には間に合っていない。物心ついたときには、両作とも既に「オールタイムベスト級の伝説的作品」として祀り上げられていて、自分はTSUTAYAで借りたVHSで視聴した。
それから、大学生のときに『マルメロの陽光』(92)が封切られた。
スペイン人画家アントニオ・ロペス・ガルシアの制作風景を収めたドキュメンタリーで、一般の映画ファンにはちょっと地味な題材だったかもしれないが、ちょうど1991年に東京高島屋で開催されたマドリッド・リアリズム(いわゆる「魔術的リアリズム」)の展覧会を鑑賞して、人生が変わるほどの激しい衝撃を受けた美術史学科の学生――僕としては、まさに「渡りに舟」のような映画だった。
それから30年。ビクトル・エリセは沈黙を守り続けた。
(本当は、いろいろと企画を立ててたけど何度も流れてしまっていたようなのだが。)
で、今度の『瞳をとじて』である。
まさか僕が生きている間に彼の新作が観られるとは、正直思ってもみなかった。
テーマは「老い」と「記憶」。
キャッチコピー通りでいうと「記憶を巡るヒューマン・ミステリー」とのことで、若干、警戒心を呼び起こすような前宣伝(笑)。
もしかして「今の感覚だともはや受け入れられないような退屈な映画」なのではないか。
若干の危惧を内心抱きながら、観に行ってみた。
いざ観だしたら、出だしこそかなり眠たかった(実際、ドキュメンタリー番組のスタジオ収録のあたりで、膨大な会話のやりとりを聞き流しながら、つい寝落ちしてしまった)が、主人公がアナに会いに行ったり、ロラに会いに行ったりし始めてからは、緊密な画面作りと知的な吸引力の強度でぐっと引き込まれ、海辺の家への帰宅から老人福祉施設訪問、ラストの映画館での上映と、最後まで集中力を切らさずに観ることが出来た。
いかにもビクトル・エリセらしい話法とモチーフで組み立てられながらも、『ミツバチのささやき』や『エル・スール』よりは今風の撮り方や照明の感覚をも取り入れている。思いのほか「旧来のエリセらしさを残した作風」を維持しているのに、「今の観客が観てもそれなりによく馴染む」映画に仕上がっていたと思う。80代の老人にしては、エリセにしても、宮崎駿にしても、作風を「保ちながらリファインする」清新さを持ち合わせているのは凄いことだ。
ここで言う「エリセらしさ」とは、以下のようなことを指す。
まず主たるテーマとして「父の不在」と「父娘の絆」について扱っている。
父親がきわめて父権的なキャラクターであること、娘のほうがもともと父親に対して抱いていたイメージの喪失が描かれることなど、彼の手による劇映画三作品は「語り口」からしてよく似ている。
今回の新作では、映画内映画である『別れのまなざし』のなかの王と王女、現実世界におけるフリオとアナの二組の「父娘」が、別れと不在~再会を体験することになる。
それから、二重・三重の「時制」の異なる物語がイレコ構造になっていて、過去への遡及的な言及が語り手のモチベーションとなっている点も「エリセらしい」。
本作では、「作中映画内の時制(1947年)」と「作中映画が撮られた過去完了時制(1990年)」と「映画内の現在時制(2012年)」が存在していて、お互いに影響しあっている。いずれの登場人物も「過去」に執着しながら現在を生きており、「俳優の失踪と完成しない作品」という「永続的な宙ぶらりんの状態」に今もからめとられている。
主人公のミゲル・ガライ監督は、不承不承ながらも過去と対峙する勇気を振り絞ることで、事態は思いもかけない新展開を迎えることになる。
映画の中に映画が登場し、その「映画を観る」ということ自体が作中で重大な意味を持つという点でも、三作品は共通している。特に今作の場合、明らかにビクトル・エリセ本人がモデルであろうと思われる映画監督が主人公として話を紡いでいくわけで、これはまさしく「映画を撮る」ということの意味と機能について考察する映画であるともいえる。
しかも、本作における「映画の効能」というのは、「映画の魅力」とか「映画の魔力」といった芸術的な次元の話ではない。「記憶を喪った俳優」がいて、「彼が主演している幻の作品の断片」が残っている。この映画を観せたなら、さすがに男の記憶も回復するのではないか? という、なんというかえらく明け透けで、直截的で、実利的な効能である。
要するに、本作において映画は何よりも「記録装置」であり、「記憶の形見」であり、「不確かな人間の脳を補完する映像の証拠」としてその姿を現すのだ(そういえば、形見箱に大事に取ってある「電車が近づいてくるパラパラ写真本」も、リュミエールによる「最初の映画」を容易に連想させる代物だ)。
エリセは、おそらく最後となるかもしれない自身の映画で、自分の人生そのものともいえる「映画」というメディアと直面し、「映画は人を動かせるか」という命題に真摯に向き合うなかで、その芸術性ではなく、あえて再現性と記録性に焦点を当て、愚直なまでにストレートに「映画の力」について問うてみせたのである。
スペイン絵画に伝統的な「魔術的リアリズム」を、映画を通じて継承する美学を有している点も、昔と変わらない(パンフに掲載されているビクトル・エリセのアー写は、どこからどう見てもディエゴ・ベラスケスの描く肖像画のパロディになっている!)。
今回の映画は、むしろマリア・モレーノを思わせるような「軽やかさ」まで身にまとっている感があるが、夜のシーンや室内のシーンになると、スペイン絵画特有の背後を埋め尽くす「薄闇」と、赤味を帯びた黄色灯で照らされて浮かび上がる人物というバロキッシュなハイライト表現が支配的になる。そこには間違いなく、ベラスケスやリベーラ、17世紀ボデゴン絵画、あるいは後年のゴヤから、現代のアントニオ・ロペス・ガルシアやミケル・バルセロに至るスペインの絵画史的伝統の反映と、それを引き継いでいこうと自覚的に模索するエリセの意志を見てとることができる。
今回特に印象的だったのは、ここぞというシーンでは、必ずシンメトリーのレイアウトが採用されていたことと、今時珍しい場面転換におけるフェイドが多用されていたことだ(最近だとギャスパー・ノエの『ヴォルテックス』が意図的にフェイドを用いていたけど)。
いずれも「単にやってみた」というだけでなく、きちんとした目的と意図があってのことで、たとえばシンメトリー構図は、ラスト近くの二つのシーンを最終的に際立たせるための布石だろう。すなわち、ミゲルとフリオによる漆喰塗りの共同作業のシーンと、老人福祉施設の門のところで二人が佇む、未来だか過去だかを鉄格子で封じられたようなショットの二つを「出来るだけ効果的に」見せたいがために、序盤からみっちりと「仕込んで」あるわけだ。
フェイドの多用にしても、アナの「私はアナよ」という問いかけからの「瞳をとじて」と、オーラスにおけるフリオの映画鑑賞からの「瞳をとじて」を成立させ、呼応させるための入念な下準備として、全編を通じて企図されていることがよくわかる。
(そういえば『ヴォルテックス』のフェイドも、ダリオ・アルジェントとフランソワーズ・ルブランがそれぞれ天に召されるシーンに最終的に焦点を合わせるための施策だった。)
二人を横並びに座らせるセッティングを多用しているのも、本作の「キモ」ともいえる演出で、あらゆるシーンで徹底的に「どのように座らせ、どのように視線を交わさせるか」が考え抜かれているのは、カール・テオドア・ドライヤーの演出技法を強く想起させるところだ(とくに『ゲアトルーズ 』(64))。この印象は、観ているうちにちゃんと答え合わせがあって、ミゲルの友人のマックスが、「ドライヤーの『奇跡』以降、映画はその魔法を喪った」といったことを述べるシーンが出てくる。すなわち、本作における「フレーミングと視線」に徹底的かつ執念深くこだわる演出術は、ドライヤー由来のものであることを、こういう言い方でしっかり「種明かし」してくれているわけだ。
ちなみに、ドライヤーの『奇跡』(54)は、そこまでずっとリアリスティックで抑制的な演出に徹してきた映画に、終盤になって唐突に「モンタージュとカット割り」が導入されることで、映画内でも「奇跡」の復活劇が引き起こされる(ことが認容される)という構造を持つ映画である。
本作のラスト近く、ミゲルは映画の断片を関係者向けに上映するにあたって、この映画において初めてといっていいくらい能動的に、生き生きと指示を皆に出しながら、映画館内での「二人の横並び」の座り方とその場所を綿密に「指定」してゆく。
映画監督が能動的に「演出」を施すことで、映像はその魔法を発動することができるという信念が、ここではドライヤーの『奇跡』を引用することで、改めて語られているのだ。
●引用といえば、この映画で最大級にびっくり仰天したのは、中で『リオ・ブラボー』(59)の主題歌「ライフルと愛馬」がフルコーラス(しかも替え歌で)歌われること。まんま映画のパロディなのだが、ビクトル・エリセってこんな生々しい楽屋落ちやるタイプだったっけ?? でも、パンフの濱口竜介監督によると、エリセはこのシーンについて「私が今まで撮ったなかで一番素晴らしいシーンだ」と言っていたらしい(笑)。
実は僕にとっても、『ライフルと愛馬』はカラオケの愛唱曲でして……いやあマジでびびった。
●楽屋落ちといえば、アナ・トレントに宛て書きで「アナ」の役をやらせて、映画の一番の決め所で「私はアナよ」と言わせるというのも、壮大な楽屋落ちで、これがやりたくて30年ぶりに映画を作ったといってもいいのかもしれない。
正直、あまりに「あからさま」な楽屋落ち過ぎて、僕個人としてはいまだ消化しきれていない部分がある。めちゃくちゃ堂々と正面からやってのけているから、これはこれでいいんだろうとは思うんだけど、こんなダサい自家撞着的なネタをやりたいがために、映画を一本作っちゃってホントに良かったんかいな?って疑念はどうしても頭から拭い去れない(笑)。
●「過去」と「記憶」を探求的に扱う本作では、「記憶」の欠片&断片として、カンカンの中やノートの栞など、さまざまな形で保管されてきた「スーヴェニア(想い出の品)」が大量に登場する。若き日の写真、パラパラ写真本、映画の小道具、フィルム、ひも、チェスのコマ、古本で見つけた自筆の恋の献辞、そして、二人だけが知る秘密の歌とメロディ。
ちなみに、本作で重要な役割を果たす「キングのコマ」に、エンドクレジットで映される「ヤヌス神」の像との明確な「形状的なアナロジー」があることは見逃せない。
過去と未来をつかさどる、双面の門番神ヤヌス。
フリオの心の内で閉ざされていた「門」の鍵は、果たして「映画の力」によって開いたのか? ヤヌス神が新たに指し示すのは、過去の記憶へといたる旅なのか、それとも(娘との)未来へといたる道程なのか。
映画は、あのラストシーンから先のことを描いていない。
果たして記憶は戻ったのか? 戻らなかったのか?
でも実のところ、僕はそこに関しては確信がある。
僕個人の映画観からすれば、あれで記憶が本当に戻ったりするような映画なら、それは明快にただの「駄作」だと思うからだ。
あそこで、フリオの記憶は戻らない。
ちゃんとした映画なら、戻るわけがない。
エリセの作品としても、戻ってほしくない。
でも、映像として残る記録を見せつけられて、外堀はたしかに埋め尽くされた。
それは厳然たる事実だ。
フリオの「心」は元に戻らなくても、フリオの「理性」は、自分がフリオであることを「確信せざるをえなくなる」。
その状況下で、フリオは一体どんな選択を下すのか。
そここそが、本作に残された真の「余韻」の部分――観客それぞれが考えなければならない部分なのではないかと思う。
将来に亘って何度も見るだろう不朽の名作と思う。
この作品は169分の長時間をゆったりとシネマを愉しむ心の余裕が必要だろう。
計算された画面構図に見事なライティングに、
静寂と音楽のバランスと画面との調和が何気に自然に流れて進む。
失踪した友人のフリオの記憶の消去と忘却の再生に奮闘するミゲル自身が再起へ進み、
それは封印した未開封の処女公演により父娘の愛憐がスクリーンに静粛に投影されたからだ…
ところで、フリオはなぜ失踪したのだろうか?
(^◇^)
瞳をとじて
「ミツバチのささやき」などで知られるスペインの巨匠ビクトル・エリセが31年ぶりに長編映画のメガホンをとり、
元映画監督と失踪した人気俳優の記憶をめぐって繰り広げられる物語を描いたヒューマンミステリー。
映画監督ミゲルがメガホンをとる映画「別れのまなざし」の撮影中に、
主演俳優フリオ・アレナスが突然の失踪を遂げた。
それから22年が過ぎたある日、ミゲルのもとに、かつての人気俳優失踪事件の謎を追うテレビ番組から出演依頼が舞い込む。
取材への協力を決めたミゲルは、親友でもあったフリオと過ごした青春時代や自らの半生を追想していく。
そして番組終了後、
フリオに似た男が海辺の施設にいるとの情報が寄せられ……。
「コンペティション」のマノロ・ソロが映画監督ミゲル、
「ロスト・ボディ」のホセ・コロナドが失踪した俳優フリオを演じ、
「ミツバチのささやき」で当時5歳にして主演を務めたアナ・トレントがフリオの娘アナ役で出演。
瞳をとじて
Cerrar los ojos
2023/スペイン
DIRECTOR'S NOTES
そういう意味で、「瞳をとじて」では
映画の2つのスタイルが交錯する。
1つは舞台と人物において幻想を創り出す
手法による、クラシックなスタイル。
もう1つは現実によって満たされた、
現代的なスタイルである。
別の言い方をするなら、
2つのタイプの物語が存在する。
一方は、伝説がシェルターから現れて、
そうだった人生でなく、
そうあるはずだった人生を描く物語。
そしてもう一方は、
記憶も未来も不確かな世界で
さまよいながら、
今まさに起こっている物語だ。
ビクトル・エリセ
独裁者フランコへのレジスタンス的映画でもあった『ミツバチのささやき』から引き継がれたものと解放された映画
失踪した俳優と監督の関係を軸に紡ぐ人間ドラマとしての側面と創作や映画に憑かれて漂う人(エリセも)思いの吐露の側面もある。
本作は大まかに三部構成になっており、発端となる冒頭の映画場面の虚構と映画を創れない現実の監督ミゲル(エリセ本人の分身)がテレビの為に失踪した俳優を探す前半のやや閉塞感も伴う部分と、今の生活拠点でもある風光明媚な海辺の町での中盤の生活描写の転調を挟んでからの老人ホームでの再会と顛末
寡黙な語りだと思っていたエリセ監督作品だが、本作は美しい映像と意外な程の会話劇がベースになっていて、多くのアメリカ映画への映画少年の様な憧れやリスペクトに溢れておりその面でもニヤリと出来る。
怪しげな東洋人(中国と日本が混じった例のヤツを確信犯でやってる)を連れた富豪に娘の捜索を依頼する男と探偵の映画なども、40年・50年代あたりのフィルムノワール(サミュエル・フラーとか)を連想させる部分や娘の捜索と言えば、ジョン・フォードの名作西部劇『捜索者』を、連想させて西部劇への引用と目配せが、ところどころある。
ミゲルの旧友でフィルム保管と映写を担当するマックスも「コマンチの襲撃か」やその多くがスペインの荒野で撮影されたイタリア資本の西部劇でもあるマカロニ・ウエスタンなどの西部劇ネタを口にする。
中盤でのミゲル(英語読みマイク)監督がギター片手に歌うのは歌詞は違うが、カントリーソングの「ライフルと愛馬」で、ハワード・ホークス監督の西部劇の名作『リオ・ブラボー』の完全な引用で、その衒いの無い屈託さに驚くが、ミゲルの相棒の漁師が紙巻きタバコを嗜むところも合図だったのか?と思うと納得。(リオ・ブラボーでは紙巻きタバコが重要な小道具として描写される)
若干重苦しさもある序盤から海辺の居住地でのほのぼのとしたやりとりからの、老人ホームでの静かなサスペンスと意外にも緩やかなユーモアもあり娘が、父親と邂逅する場面では、『ミツバチのささやき』や『エルスール』などの過去のエリセ作品を捉え直す描写が含めなかなか映画を撮ることが、叶わなかったエリゼ監督の想いが溢れていると感じてそこで万感の想いにとらわれる。
記憶を失ったフリオに未完成の映画を、見せる為に町の映画館を復活させて上映するくだりは、エリセの過去作へのデジャブもあり、所謂「ニュー・シネマ・パラダイス」調な流れももしかして賛否がでるかもしれませんが、映画ファンなら微笑ましくなると思う。
思えばフランコの独裁政権では、表現の自由は規制されていて、その独裁体制へのささやかなレジスタンスの映画でもあった『ミツバチのささやき』(これは監督自らが、のちのドキュメンタリーで説明してる)から、当初は原作の映像化で3時間の予定だったのに予算などの事情で現在のかたちになった『エル・スール』などの制約にやって出し切れなかった思いを引き継ぎ解放された映画だと思う。
予想以上に映画についての映画で、緩やかテンポだが、確かな演出と絵作りで、映画からの引用もある映画ファンへ向けた良作
あと尺が長いの声もあるけど30年待って、この出来なら長いとは思いません。(転調もあり2部作風でもある)
この映画は何が言いたいのだろう。私には理解不能な映画だった。
この映画監督とは相性が悪いのだろう。名作との評価が定まっている「ミツバチのささやき」を鑑賞した時も、私には理解出来なかった。今回もそうだった。長時間の映画だと覚悟していたが、途中数分間眠ってしまった。大事な部分を見逃したらしい。(テレビドキュメンタリーの製作プロデューサーとの打合せ)
失踪した俳優を追跡し、その記憶喪失を回復させようと情熱を捧げるのかよく解らない。記憶を取り戻せても、それに絡まう感情を伴わないと魂を取り戻せたことにならない。生きている価値がないと語った脳専門医の言葉がこの映画の趣旨だと思ったが、最後まで観るとどうやら違うように感じる。
結局、私には理解不能の映画になってしまった。
映画館のなくなる現代から映画をこじ開ける映画だった
ベンダースがあって、カウリスマキがあって、そしてタケシの新作もあったが、エリセの新作が来てしまった2024年。観終わったときに170分近くあったことを知る。そんなあったのか。
しかし手の込んだ現代劇だった。冒頭から、らしからぬ、と思ったらそうか劇中劇ね、というところから始まって、そのシーン以降製作中止になって20〜30年経った映画監督が主演俳優の失踪事件のテレビ番組に出るところから物語がはじまる。
そうでなくても映画の俳優スタッフなどは一期一会みたいなのが多い中、子供がおばさんになる時間を経て、点と点を探って「金のため」消えた男ネタをテレビで流してもらう。収録後、過去の遺物のフィルムの冒頭だけを渡し、実家近所の食堂でそれを観てるところがいい。その前の「リオブラボー」の歌とか。
そこから「ドライヤー以降ない」と編集マンが言ってる奇跡に向かって物語は進む。病院にいってからはほとんど宮崎駿の「シュナの旅」を思い出していた。いつ彼が気づくのか、気づかないのか、その瞬間を固唾を飲むように見守らされる。その海、波、白いペンキ、揺れるシーツ、記憶のない旧友、の時間がすごくいい。ふたりしかしらない秘密のアイテム、そして未完成のあのフィルムを見せたら!と思いつく。フィルムを運んでくる編集マンがなんだかウォルターブレナンのように見えてくる不思議(西部劇の相棒チックで楽しい)
で、かなり印象的な写真の中国の女の子が一向に出てこないが、きっと探偵物のストーリーとすると回収があの屋敷であったはずだ、と思うと、そうか、あのピアノを忘れてたな。。
前半、かなり禁欲的に進む中、この病院シークエンスは特にセリフのない表情の切り返しが多く、それが感動的。
思えば、フィルムの時代からデジタルの時代へ、映画館すら必要とされていない現代に倉庫の扉を開けて、眠っていた衣装、小道具、手帳を取り出し、旅にでて、そして同じく眠っていた映画館と映写機を動かし、誰も観るあてもなかった未完の作品のフィルムが回る。これほど込み上げてくるものがあるだろうか。「ニューシネマパラダイス」はあの時代の回想劇であったが、こちらは現代から扉(記憶)をこじ開けて、スクリーンをみつめる誰かを見つめる映画だった。もう一回観たい、と思った。
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