劇場公開日 2024年4月5日

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「当事者を苦しめている存在である周囲の人々も、また苦しいわけで・・・」ノルマル17歳。 わたしたちはADHD そがっちさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5当事者を苦しめている存在である周囲の人々も、また苦しいわけで・・・

2024年10月26日
PCから投稿
鑑賞方法:その他

泣ける

難しい

朱里と絃という、タイプは正反対ながら同じADHDという2人の主人公がともに奮闘する姿を通じて、発達という問題の特性からくる生きづらさの本質の片鱗みたいなものを体感できた作品でした。
2人と同じ苦しさを抱えながらそれを周囲に上手く伝えられずに、もどかしい思いで現実を生きているであろう多くの当事者たちにとっても、きっと救いになってくれる作品のように思いました。

ただひとつ気になったのは、主人公を取り巻く家族や友人たちの多くが、発達障害に対して無理解であるが故に主人公たちを苦しめている存在として描かれていたことです。
もちろんそれは事実そのとおりでしょう。ただ彼等だって、それぞれの立場なりの苦しさを抱えながら日々奮闘しているに違いなく、そんな彼等の苦しい思いにも、寄り添ってあげられればよかったかなと。

特に朱里の姉、愛里。
たしか脚本の神田凜さんの原体験が、愛里に近い立ち位置だったと仰っていましたっけ。
もしそうならそのせいかもしれませんが、ちょっと気の毒なくらい冷酷なキャラクターとして突き放した描写がされていました(そんな印象をもちました)。
でも愛里の境遇を思えば、愛里も責められないと思うんですよね。
もし、本編のエピソードを愛里の目線で描き直したらどんな映画になるのか、それもちょっと見てみたい気がしました。

障がいをもつ方がより生きやすい社会に変えていくためには、第一義的には健常者の側に必要な配慮をしていく責務があることにもちろん疑いの余地はないわけですが、それ以前に、障がいのあるなし関係なくみんなが“他者を慮る心”をもっていなければ、結局何もかもうまくいかないんだろうなと。
そういう心のゆとりをみんながもてる社会にしていかなければいけないんだなと。
自分にとって『ノルマル17歳。ーわたしたちはADHDー』は、そんなことを考えさせられた作品でした。

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