水平線のレビュー・感想・評価
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まずは映画復帰が嬉しい
震災後の福島で散骨業を営むという設定に虚を衝かれた思いがし、それをピエール瀧さんが演じるという事で二重に揺さぶられる。そして投げ掛ける問いにもひねりがあるだけに、物語の展開と収め方が素直過ぎるんじゃないのかな。でも、とにかく瀧さんの映画復帰が嬉しいので合格。
ピエール瀧は好きな役者さんでした。
最近ラジオで復活していたのを知っていたので、この映画も見に行きたいと思っていました。
東日本大震災で妻を亡くし、南相馬で散骨業を営む男の話。
一人娘との関係や、殺人犯の散骨をめぐっていろいろとイザコザが起きる。
記者の行動がよく分からなかったし、遺族からしたら散骨されるのって、あそこまでイヤなもんなのかと思った。
あれだと、犯人の一族郎党皆殺しにしたいと思うのかな。。
暗い映画なんだけど、スナックで一緒に飲んでる友達とか娘の存在が希望でしたね。
宮城県人としては私自身も被害はなかったけど震災は体験してたし、近い話として映画を見る事が出来た。
まだ風化はしていないし、傷跡はたくさん残っていると思う。
ピエール瀧の演技はいつもの演技。
ただ、存在感は凄いです。
『凶悪』の時の彼の演技はマジ怖かったし。。
娘役の女の子も良かった。
監督は小林且弥。
役者として見た事がある人でした。
初監督作品らしいです。
そして、松田優作の甥なのね、知らなかった。
ピエール瀧、心配なのは、大麻じゃなくてコカインでの逮捕っていう点。
再犯率が高いから、また捕まらなければ良いけど。。
願うばかりです。
お互いを思う気持ちがすれ違う・・不器用な父親と娘
東日本大震災で大好きな母を津波で亡くした娘と大切な妻を亡くした父親。お互いがお互いを思いやりすぎて自分自身の心の奥底に沈む切なさや寂しさを口に出来ないで居る。そんな日々が積み重なり増々ぎこちなくなって行く二人。
ぶっきらぼうだけど強く娘を思う父親の真吾にピエール瀧、父を一人にすることが出来ないでいる少し心に影を持つ娘の奈生に栗林藍希。
言いたいことが有るのに言葉に出来ないもどかしさ、言葉にすることが怖くてたまらない二人の関係をピエール瀧と栗林藍希がぴったりと納まっていたと思う。
自分だけで考えていても、言葉にして思いを伝えて初めてお互いの事が分かり合えるってこと。頭では理解していても感情がついて行かない事って有る有ると思いながら観ていた。終盤でようやくお互いの胸の内を吐き出すことで、ずっと抱えていた苛立ちや辛さから二人が解放されて行く。なにも派手さの無い演出で大きな出来事も無く話が進んで行くところが、かえって現実的で親近感が湧いた作品だった。
しばらくぶりのピエール瀧。存在感は大きい。映画界にはやはり無くてはならない俳優さんと改めて思う。
MiniTheaterで本作品を鑑賞しました。
映画「水平線」を鑑賞する為、シネマ・チュプキ・タバタに行きました。こちらは、MOVIE WALKERの記事 南沙良、ミニシアターを巡るの中で取り上げられ障がいの有無にかかわらず、誰でも映画を鑑賞できるユニバーサルシアターとして知られています。映写室程度の規模だから出来るのかも知れませんが視覚や聴覚の不自由の方、車椅子の方、幼児をお連れの方が過ごしやすい様に配慮が為された設計が施されていて自分が訪れた時は介助犬を伴っている方を見かけました。国内でこの形態を執っている映画館は当館だけです。邦画の字幕は珍しいですが慣れると苦に感じません。むしろ途中から追いかけていました。鑑賞後、 とくに何かをするわけではありませんが暫く留まっていました。共に過ごす事で気付きを得るかも知れません。障がいの原因は、本人ではなく社会環境にあるという考えに接すると自分の思慮の無さを痛切に感じます。 本編は再生が主題かも知れませんがいろいろと考えさせられるものでした。大人向け?の映画ですね。割り切れない事があるのが人生なのでしょう。ピエール瀧さんの哀愁のある感じが涙を誘います。
福島の港町、散骨業の男性とその娘、ご近所の人々の模様。 散骨業を営...
福島の港町、散骨業の男性とその娘、ご近所の人々の模様。
散骨業を営みつつ、奥様は震災後行方不明のままで。
周囲の漁師さんには、海の風評を危惧されたり、
東京のジャーナリストが町に入り込んで、被災者を代弁するとか言い出したり (←あえて横柄さが見えるように演じている様子)
人々の模様が、さらに厄介に。
ときおり映る街並みが、以前はもっと海沿いだったような記憶もあって。
震災後、街や線路ごと、すこし内陸に移設されたことを思い出したり。
風化させたくない想い、
さっさとと風化させたい思い、
各人がそれぞれに思っていること、痛切に伝わってきました。
おいら自身は被災していないですし、代弁もできませんが。
親族や友人は、結構な目に遭ったと、聞いていて
彼らはどんな思いだろうかと、想いたくなります。
風化させない、とはどういうことか。
小林且弥監督とピエール瀧がこの映画を語ったインタビューを少し前に読んだことがあって。楽しみにしていたんだけどわが町ではなかなか上映されずやっと観ることができた。
インタビューのなかでどちらかが「被災者の声を直接聞かなきゃと張り切って福島のロケ地に行ったんだけどごく普通の日常が流れていた」って話していてそれは当たり前のことなんだけどこの映画の本質はそのへんにあるのではと思った。
映画の最初の方、父と娘の生活が淡々と描かれる。この父娘は人は良いのだけど不器用で互いにコミュニケーションを取るのがあまり上手くない。それだけに震災で行方不明になっている妻であり母である人の存在の大きさが、2人の悲しみの深さもチラチラとみえてくる。(余談ながら、真吾がスナックで大酒飲んで深更帰宅し台所で娘の作ったおかず、恐らくは魚の煮付け、をチョイチョイつまむところ、新人監督ながら日本の映画監督はこういうところやはり上手いですね)
ところが、彼らの静かな生活というか、穏やかな歩みは、無差別殺人の死刑犯の散骨を真吾が引き受けたことにより一変する。これがこの映画の脚本の最大の瑕疵であって、ジャーナリストと称する江田という男の主張は無茶苦茶である。死刑犯に人並みの葬式を出すことには被害者家族は抵抗を示すかもしれないが物理的な遺骨処理にあれほど口を出すとは思えず、まして福島沖への散骨が震災被害者への冒涜であるとの主張は明らかに詭弁であって、ちょっとありえない話になってしまっている。
ただ江田が最後に述べた「震災の風化を避けるために被災者を代弁して主張している」という発言の意味は重い。被災者たちの悲しみや苦しみは10年や20年では薄まらない。表面上は普通に暮らし、新たな歩み、前進をしているようにみえても映画の真吾と奈生のように心の底にマグマのように思いは秘められているのである。風化するのはジャーナリズムの質や量、しいては当事者以外の人間の関心の高さのほうである。さらに風化させないといいながら被災者はこうあるべきであるという決めつけ、勝手なイメージを被災者に押し付けていないか。(そしてイメージと違う場合は風化が始まったと嘆いてみせる)
いろいろ考えさせられる作品であった。ピエール瀧、さすがの好演である。あの細やかな感情が分厚く肉を被っているような感じ、彼にしか出せないところがありますね。
職務遂行!
震災によって様々な環境に置かれた人々。
出会いと別れを心の奥底から問いかける様な雰囲気で包まれました。
人間の尊厳を妻への思い、更には依頼された訳ありの散骨を戸惑いながら罷り通した勇気に共感を持てました。
今年の日本映画のベストの一本となる傑作
名古屋での上映初日に観た。
激しく感動した。
福島県の港町、震災で妻を、そして母を失った父娘。彼らの悲しみが風化することはない。
漁師をやめて散骨業を営む父。
高齢者や生活困窮者を相手に散骨を請け負う父。
黙々と骨を砕く父。
成人し水産加工場で働く娘。
母の代わりに生き残ったという罪の意識に縛られる娘。
妻の、そして母の骨はなかった。
通り魔殺人事件の犯人の遺骨が持ち込まれたことにより大きな選択を迫られることに。
マスコミや遺族からのバッシング、娘からの懇願、風評被害を恐れる漁師たちからの圧力。
骨の行き場はなかった。
果たして犯人の骨をまくことで海がけがれるのか。
あり得ない行為なのか。
ラスト、父の選択が好きだった。
丁寧に骨を砕く父の姿に涙した。
涙が止まらなかった。
上映後、監督をされた小林且弥さんとジャーナリスト役の足立智充さんの舞台挨拶があった。瀧さんの話題がメチャ楽しかった。
そう、瀧さん、ホント素晴らしかった。
堂々の主演男優賞候補だ。
円井わんは好演だがセリフ噛み気味
ある親族の葬儀後お骨を拾っていると、白くて如何にも無機質的な「ただのカルシウム」に接する事で故人がこの世から去ってしまった事を深く実感した。お骨は、亡き者を偲ぶ手掛かりであると同時に残された者が死を受容する象徴でもあるのだと思った。
死の受容は、当然だがそれがかけがえの無い人であればある程苦しい。生前いかに邪悪であったとしても、その遺族の受容に優先順位をつけていいのか?恐ろしく重い問いかけだろう。
難解
途中から観たこともあり、特に娘役と他の女性との区別がつき難く、理解が難しかった。散骨の実行に反対する理由もよくわからなかったが、死者に原因があるとすれば、散骨業者を責めるのではなく、依頼客に依頼を撤回させるのが筋ではないかと感じた。そういう意味でも、あの記者のやり方には疑問を感じた。あまり説明がなく、観客に考える余地を残した作品だという感じは受けたが、難解で眠気を催すところもある。
散骨対象者と土地の関係性によって議論にならずに終わりそう
2024.3.11(アップリンク京都)
2024年の日本映画(119分、G)
散骨業を営む男が訳あり遺骨に巻き込まれる様子を描いたヒューマンドラマ
監督は小林且弥
脚本は齋藤孝
物語の舞台は、福島県南相馬市
そこで散骨業を営む井口真吾(ピエール瀧)は、妻を震災で亡くしていたが、いまだに遺体は上がっていなかった
彼は娘の奈生(栗林藍希)と二人暮らしをしているが、その仲は犬猿に近いものだった
真吾の散骨は、地元の漁師・清一(渡辺哲)に船を出してもらっていたが、漁業組合の隼斗(清水優)からは「風評被害が出たらどう責任を取るのか!」と反対されていた
ある日、真吾の元に東京から松山(遊屋慎太郎)という男が兄の遺骨の散骨依頼に訪れた
埋葬許可証を忘れたために後日郵送するという約束で真吾は遺骨を預かることになったが、その遺骨は東京で連続殺人を起こした男のもので、それを嗅ぎつけたジャーナリストの江田(足立智充)は「多くの人がまだ眠っているこの海に殺人犯の遺骨を撒くのか?」と凄んでくる
さらに江田は、カメラマンの城島(高橋良輔)と被害者遺族の淺川(田中里衣)を連れてきて、「どうするのか?」の答えを引き出そうとするのである
この事態は奈生の耳にも入り、真吾に突っかかってくる
真吾は「関係ない」と突き放すものの、母が眠っている海への散骨には反対で、慎吾の「ただの骨だろう」という言葉に対して、「ゴミを捨てるような気持ちでやっていたの?」とブチ切れるのである
映画は、風評被害に苛まれてきた福島がさらにその対象になるのではと恐れる地元民との対立を描いていて、そんな中でも散骨を強行する慎吾を描いていく
江田の計らいで依頼者を見つけるものの、「弟が何かをしたのか?」という自問があり、突き返すことを辞めてしまう
そして、江田を巻いた挙句、深夜に船を借りて、沖合にて散骨を済ますのである
江田は「散骨したのか?」と詰め寄るものの、真吾は一切答えず、さらに被災者を代弁するという江田に一括する
真吾は「風化しても良い」と思っている人もいて、江田がやっていることは墓荒らしと同じだと断罪する
忘れたい人もいれば、忘れたくない人もいて、それは各個人の問題であり、部外者が立ち入って代弁をするなどもっての他であるというのである
映画は、ジャーナリズムの負の側面を強調し、再出発をしようと奮闘する人々をネタにする悪どさを描いていく
江田の行動は正義感に駆られているように見えても、実際には自分の食い扶持を稼ぐためのネタでしかなく、それは同業者からも蔑まれている
劇中で登場する被害者遺族も本物かはわからず、彼の性格を考えるとどこかの劇団員に金を積ませてやりそうな感じがして、彼女の論理も結構無茶な感じになっている
犯人が火葬された段階で、彼の血肉は空気中に放出されているわけで、海に散骨されたら「海を見るたびに思い出して苦しむ」というのなら、空を見るたび、空気を吸うために苦しむことになる
こんな遺族がいるのかはわからず、極形になって、刑まで執行された(劇中では犯人がどのように死んだかはわからないが)その先までも執着を持っているというのは余程のことだと思う
ここにリアリティのラインがあるように思えて、ジャーナリストを悪と断罪するなら、仕込みだったぐらいまで突っ込んでも良かったように思えた
いずれにせよ、ピエール瀧の復帰の主演作となっていて、少しばかりメタ構造があるのは事実だろう
あること無いことを書かれて、過去をほじくり返された経験もあると思うのだが、今回の場合は震災を取り扱っているので、さらに悪質なジャーナリズムのように感じられる
映画が震災から何年経っているのかなどは正確にはわからないが、放射能を測定する機械に対して「撤去するタイミングが分からなかったのだろう」と語られるように、相当の年月が経っているように思える
そんな中で、どのように情報を得たのか分からないジャーナリストがわざわざ代弁をするというのは意味不明な行動に見える
依頼者も兄の遺骨を真吾のところに持ち込んだ理由をもっと明確に伝えていれば良かったのだが、犯人と土地との関係性があるのか無いのかでもかなり印象が違ってくると思う
犯人の故郷が被災地であるなら理解もされるが、そこなら汚しても良いという感覚で持ち込んでいるならナンセンスとしか言いようがない
そのあたりがもう少し明確なら議論の余地はないのだが、本作では「議論にするためにわざとぼかしている」ところがあるので、それで良いのかは微妙かな、と感じた
弔いは誰のためにあるのか?
この映画の主人公は東日本大震災の津波で妻を亡くし、その遺体は見つかっていない。震災以前は漁師だったが、今は一人娘と一軒家で暮らしながら海に遺骨を撒く散骨業を営んでいる。
海洋散骨は10数年前と比べると随分と一般的になったと感じる。少子高齢化や格差拡大のせいで、お墓を維持するための費用や家族がない方も多く、主人公もそんな人達を主な客としているようだ。
人が亡くなると様々な儀式が行われる。通夜・葬儀・告別式・初七日・四十九日・納骨・新盆・一周忌etc。今ではすべてを行うことは少ないが、実に細かく決められている。
5,6年前、仙台から気仙沼までの海辺を旅行した。途中に寄った南三陸町では、造成工事されたまま雑草もない剝き出しの土が広がる横で、大型重機が河口の護岸工事を進めていた。
津波で家族を亡くした人は葬儀や法要も満足にはできなかっただろう。生活も立ち行かないなか、家族の遺体も見つからず、大切な思い出の品や場所がすべて流されてしまった人も沢山いたはずだ。
葬送儀礼ではよく、故人も喜んでいるという表現を使う。しかし、弔いとは残された者達のためにあり、彼らの人生に区切りをつけるためにある。それゆえ、少しづつ切り離すための儀式を行っていく必要があるのだ。
遺骨を返しに行くものの、除染作業を行う姿をみて引き返すシーンが印象に残った。松山も殺人犯の弟として辛い思いをしたのだろう。集う墓のない海へと遺骨を撒けば、いくらかは呪縛から逃れられる。
区切りをつけ自分の人生を生きる。思い出すことと囚われることは違う、それが目の前で為すべきことなのだ。
主人公曰く、亡くなった人は星になる。毎晩夜空に集まって楽しく過ごし、夜明けとともに水平線の先へ帰っていき次の夜を待つ。
静かに佇み作業をする主人公の顔は、窓から入る日差しに照らされている。
水平線とは、清濁併せ呑む海と星の棲む空が溶け合うところ。
正しさや理屈や道徳心よりも向き合い貫くという事
2024年劇場鑑賞18本目 良作 61点
まず、あのピエール瀧より足立智充の方がどことなく怖く見えるのが末恐ろしい
というのも、2年前の主演作 夜を走る での衝撃たるや彼を認識し始め、そこから4.5作ほど彼出演の新作を鑑賞してきたが、助演クラスまでの配役であの佇まいと声の芯が通ってない感じが前述の作品が脳裏によぎる
今作の話をすると、確かアップリング吉祥寺でリリーフランキー主演で同日上映開始の作品 コットンテールと休憩挟まずハシゴした記憶で、正直な話中盤がっつり居眠りし、大事な引き込まれる部分ががっぽり抜けているので、公平な評価が出来ないのが悔やまれる
それでも印象的だったのは、主演であるピエール瀧が今作では荒々しくどこか狂気的な役ではなく、どちらかというと所謂一般的に熟した感覚を持っている年配のおじさん役で、少しずつ親以外の正解や世界を見えてきて自我が生まれてきた娘と、小さな港町故街としての周りからの認識や存在はあるものの、震災で嫁を亡くしどこか心そこにあらずで孤独に営む彼との、あることをきっかけにお互いが混じり合っていく様は、わかりやすく"静"と"動"であったり"暗"と"明"の構図で、特に主演のピエール瀧演じる井口が、正しさや理屈や道徳心よりも、そんなことわかってるよと気性を荒げることなく、心の中で亡き嫁に最善の花向けを彼なりに貫いているのが、結果これから先も生きる娘からの対応であったり、自分に対する周りからの関わり方の答えになってしまうけれども、もうそれは一緒に墓に入ったも同然ともとれる行動で、最愛たる証明なのかもしれない
正解はない
舞台挨拶があるというのでミーハー気分で鑑賞
散骨業、貧困、震災、風評、田舎での暮らし、家族という様々な背景に
ジャーナリズムによる偏った正義がプラスされストーリーが展開していく
地元で生活している人の生活を外部の人間がとやかく言う権利はない
答えなない難しい話ですね
実物の奈生ちゃんはとてもきれいでした
撮り返してやれば良いのに
震災で行方不明になった妻を持つ福島で散骨業を営む男の話。
亡くなった兄の骨を巻いて欲しいと依頼する男が現れて、散骨を引き受けたものの埋葬許可証を忘れてきたことから遺骨を預かっている最中、ジャーナリストと名乗る男が現れて巻き起こっていくストーリー。
遺族を連れてきて騒ぎ立てるジャーナリストとその動画に踊らされる世間と…被害者を苦しませているのは誰でしょう?マスゴミに食い扶持を与えているのは誰でしょう?騒ぎ立てて風評を作っているのは誰でしょう?
娘がの愚痴も全てブーメランで、ちゃんとわかっていて一緒にいてくれる友人は素晴らしいですね。
ちょっと揺れ動いて流されそうにはなるけれど、とても良い展開の胸クソ作品だった。
娘のその後はもう一声欲しかった。
人それぞれに、想いを馳せる矛先がある
完成披露上映会で鑑賞。
エンドロールが終わった後、思わず、うーんと唸りそうだった。主人公の井口真吾だけでなく、スクリーンに登場した人達それぞれの想わんとすることが判るだけに、何が正しいのか、誰が悪いのか判らなくなってしまった。
結論まで辿り着けないから「水平線」ってタイトルなのかな。
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