A.I.のレビュー・感想・評価
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シックスセンスとガンプの息子
公開時以来ですがすっかり忘れていたのでほぼ初見。
こんなに面白かったかと今さらながら感心しきり。
前半は切ない母子ドラマ、後半はロウ選手お出ましでファンタジー風。
アメリカでは哲学映画として宣伝した結果ヒットしなかったようですがトマトでは支持率80%だから評価は高いです。
スピル先生ならではのサービス精神山盛りの演出にET的な情緒にもあふれています。
難しく考えている人もいるようですが、単純に娯楽作として観れば話の展開も起伏があって抜群に面白いです。
恥知らずのサイテー泥棒盗作映画で、盗人猛々しさに唖然し怒りを覚えた
優しい表現に変えるなら「無許諾翻案映画化」作品。
正式に許諾された
『七人の侍』→『荒野の七人』
『羅生門』→『暴行』
などと違い
『用心棒』→『荒野の用心棒』(後に解決)
より酷い。
『ジャングル大帝』→『ライオン・キング』
と全く同じ“居直り”図式。
それも同じ“手塚治虫”氏の作品である『鉄腕アトム』そのままという。
今作の企画は元々、故スタンリー・キューブリック氏の残した未映像化作品の“幻の映画企画”に端を発している。
それをスピルバーグが“映画化実現”というフレ込みで、ウリだった。
スタンリー・キューブリック氏は『2001年宇宙の旅』映画化の際に、手塚治虫氏に美術デザインでのオファーをしていた事はよく知られている。
従って、キューブリック氏は手塚作品への造詣は深かったであろうと考えるのが自然であり、『現金に体を張れ』、『ロリータ 』、『博士の異常な愛情』、『2001年宇宙の旅』、『時計じかけのオレンジ』、『シャイニング』、『フルメタル・ジャケット』、『アイズ ワイド シャット』等、その殆ど大半は”原作付き作品”であって、逆に『バリー・リンドン』のようなオリジナル作品は殆どない。
従って今作についても、「キューブリック氏としては実際の映像化の可能性が高くなった時点での手塚氏への許諾の打診」を想定していたのだろうとの推測ができる。
それを、「スタンリー・キューブリック氏の残した“幻の企画”と称して、スピルバーグが“映画化実現”という宣伝文句で”確信犯”的に作品化してしまったという筋書き。
実際、キューブリック氏の残したどこかしらには、何らかの形で手塚作品との関連性が示唆されていただろうと考えられるし、分からなかった筈がないと思う。
ここに言っていることが理解できない方は是非、我が目で『鉄腕アトム』を確認されることをお勧めする。
主に、
前半が”『少年』誌連載分”「誕生編」〜「ロボット・サーカス」+「最終話(『少年』誌版)」
事故で亡くなった人間の少年の身代わりとして作られ、不満をいだいた生みの親にサーカスに売り飛ばされてロボット同士で戦わされる部分〜漫画では地球を助けるために(爆弾処理のため)太陽に向かって飛んで最後を遂げる(が、その後半溶けで宇宙を漂う)
後半(結末)部分が、雑誌連載終了後(1stTV版も同)に新たにサンケイ新聞連載版として再開された、『アトム今昔物語』編
半溶け状態で宇宙を漂い、既に遥か時代が流れていたところを興味を持った宇宙人に拾われて修理再起動されて、かつての地球文明についての記憶を再生させる。
上記のこの部分だけつなぎ合わせ、一本の映画として成立するように、キューブリック氏によりストーリーが再構成されていたということになると思う。
それをそのままスピルバーグが「オリジナルストーリーであるが如く映像作品化に手をそめる」という、全く”卑劣な手法”だとしか言いようがない。
この件についても当然であるが、結果的に「ヴィック・モロー氏の死に(間接的とはいえ)加担している」スピルバーグは許せず。
1982年7月23日、「ヴィック・モロー氏の訃報」の知らせを丁度その時に観光でハリウッド滞在中のホテルの部屋で、部屋のドア下から差し込まれた朝刊で知ることとなった、あの衝撃的な瞬間のこと、永久に忘れまじ。
取り敢えず、皆さん「外国人」の“巨匠“とか”名監督”とかの肩書にはめっぽう弱い。
そのような「権威にのまれ過ぎ」。
灯台下暗しで、肝心の「自分のお国」の事知らなさ過ぎというか、我が国の先人がとっくの昔に到達していた、こうした分野に於ける先進性、或いは先見性の理解が乏し過ぎでしょう。
自国の先達にこそもっと敬意を払って、誇りを持つべきでは?
『ターミネーター』の“人類対人工知能(機械化軍団)”なんか遥か昔、手塚治虫氏と同時代の横山光輝氏の『鉄人28号』の“ロビー編”で描いていたネタでしょう。
近年は当たり前のように、ある種のジャンルになっている感のある「神(想像主)との戦い」なども、石森章太郎氏の『サイボーグ009』“天使編”登場以前には誰にも想像もつかなかったテーマでした。
その、余りに想像を絶する壮大なテーマに、その当時には(作者以外の?)理解の限界を超えてしまい、殆どが戸惑いを覚えて、“着いて行く事だ出来ない”状態に陥った事。
これら遥か既に半世紀前の時代、昭和30年代〜40年代に“日本人の作家”が構想し、発表された作品の“一部”の事です。
“無知”が、「誤った権威を生み出す。」
“無知”は「過去の過ち(戦争等)を繰り返す元凶となる。」
悲しい悲しい映画。感動…はちょっと違うと思う。 悲しく辛い少年AI...
悲しい悲しい映画。感動…はちょっと違うと思う。
悲しく辛い少年AIを名子役ハーレイ・ジョエル・オスメント君が完璧に演じる。
エゴの塊、人間が近未来で起こしそうな過ちが次々と。ロボットたちの方がよほど人間らしいという強烈な風刺。
どうせなら目覚めたママがまたまたデイビッドにつらい仕打ちを…(笑)だめですね、ここが感動ポイントですもんね。私は違うと思いますけど(しつこい 笑)
とても悲しくて、とても幸せな物語。
記憶が正しければ、スピルバーグによると、キューブリックとの打ち合わせで彼は「AI」とは言わず、しきりに「ピノキオ。ピノキオの話」と呼んでいたらしく、公開前はどんな映画になるのかが楽しみだった。彼が亡くなった後、完成した映画を観た時に、強く印象に残ったのは、A.I.の少年が初めて登場した場面で、彼は「2001年宇宙の旅」に出てきた宇宙船のキャビンアテンダントの履いていた白いグリップシューズに似たものを履かせ、初めて登場させた瞬間、「スピルバーグは意識的に入れたな」と思った。
それはさておき、ロボットの少年と人類の未来を描いた「ピノキオの物語」は、若干の長さを感じるものの、「人であるものと、人でないものの」思いの入った映画になっている。その思いや願いは、とても悲しくて、とても幸せでなのである。
もしキューブリックが監督をしていたら
鋭く冷めた映像に観客は内面を突き刺されるだろうな、、、
しかしエンドクレジットの一番最後に表示された
FOR STANLEY KUBRICK の文字に本当の終わりを感じた。
※
間延びしていた
ジャンルの違う3作品くらいをまとめたような。
最後まで想像の付かないストーリーだった。
面白かったという意味ではなく…。
高評価だったので期待していたが、刺さるところがなかった。
前半パートは悪くなかったのでその路線で進めてほしかった。
急にロボットの世界やらなんやらで興ざめ。
ロマンチックなA.I.
近未来、ハーレイジョエルオスメント扮するデビッドが病気の子供の代用品ロボットモニターとして夫婦に送られた。デビッドは次第に馴染んでいったが、息子の意識が戻ったら息子が挑発するのでデビッドはいらない存在になってしまった。ただひたすらママが好きなだけなのに森へ捨てられた。A.I.の世界もオカルトチックだね。でもデビッドの人間になりたい気持ちはロマンチックだね。
子供は母に愛されたい
自分はもう子供でないし、ママについてまわる時期は幼すぎてほとんど記憶ない。
でも子供が母に愛されたいという気持ちや親が子供を守りたい気持ちなどそれぞれの想いが感じられ温かみのあるファンタジーストーリー。
生身の人間であっても親に愛されない不幸な子供もたくさんいるということも現実だ。
自分を捨てた「母親」を想い続けるロボット少年の姿が切ない。 「母親...
自分を捨てた「母親」を想い続けるロボット少年の姿が切ない。
「母親」に愛されたくて人間になりたいと切望する。
2000年もの月日が流れ、結局人間にはなれなかったが一日だけ願いが叶えられた幸福。
胸が熱くなった。
ママは男の子の永遠の憧れ
うーん…長い。
基本の路線はピノキオなんでしょうが、結局のところラストのシークエンスに帰結するのだとすれば、そもそも彼が家を追われた理由が今ひとつ弱い。
あの時点で可能性の分岐としては色々あり得たと思う。どちらにせよロボットであるディビッドと、人間である家族とは生きる時間が違うので、円満に暮らしたとしてもいずれ別れがくることは予感させていた。
そこをあえて90年代のジャンルものみたいな流れにして「誤解なんですっ!」て言いたくなる経緯に。
結果的にディビッドが長い苦しみを味わうことになる原因を作ったのはすべてママ。だがとにかく息子はママを健気に愛する。
美しいママへの憧れ。でも現実の息子にとっていずれ鬱陶しくなったり、年老いて元気がなくなったり、若くて優しいだけのママではいられなくなるタイミングがあるはず。
あえてそれらを見ないことにしてママを神格化しつづけた点は相当なマザコン映画かも知れない。
人間の一生なんて宇宙時間では・・・
ロボット技術が進歩した未来、長い間昏睡状態にある息子の代わりに、ロボットを受け入れ、愛を覚えさせる。
ところが息子が目を覚ましたため、ややこしくなる。
映像の見事さはほとんどが記憶に残る素晴らしさ、意表を突く流れに驚く。
公開当時、友達と見に行った。 初めて映画で泣いた。児童虐待見てるよ...
公開当時、友達と見に行った。
初めて映画で泣いた。児童虐待見てるようで。
その後みんな泣き腫らした目でプリクラ。
60点
映画評価:60点
人間に尽くすために製造された機械たち
数多くの分野で活躍をしていた
しかし
そんな機械たちには
当然?ながら感情がない
ここでの→?は
上映当時なら
アンドロイドに抱くイメージが
感情がないだったかもしれないが、
現在の人工知能は感情すら表現出来ているのではないかと思っているからだ。
当時の認識からは当然感情がない
だからこそ感情の機能を追加して
商品化しようとしたのが今回の主人公です
彼は純粋に母親を愛し続けますが
その純粋さこそがインプットされた
曲げられない執着のようで
逆に機械的に感じます
母親は立場や状況が変わり
主人公への気持ちだけではどうにもいかず
主人公を捨てます
ここは人間的に感じます
同じく愛しあうのに
機械的な愛と、人間的な愛を分けて表現できている所は流石といった所です
見ていて
『みなしごハッチ』を思い出しました
母の愛を求めさまよい続ける
彼を見守る作品です
そして本質は2000年後
あの終わり方に無理やりしたのは
何故なんでしょうね?
一緒に考えてみましょう
苦手系だった
子役の演技が凄くて切なくて苦しい。
でも、ロボットを破壊する見世物のようなシーンとか、
セックスロボットとか、観ていてあまり気分のいいものじゃないシーンが多すぎて個人的には後味のものすごーく悪い作品。
息子が昏睡状態から蘇らないので替わりにとママを愛するために作られた...
息子が昏睡状態から蘇らないので替わりにとママを愛するために作られたデイビット。
可愛いし、ママに愛される事を願い続け、苦難の末にようやく願いが叶う。
内容的には色々考えさせられるこのはあるので良いと思買った。
が、ロボットは無表情という事で、愛らしい表情のままなので感情移入出来ず。
可愛いような、そうじゃないような。
ハッピーだけどそうじゃないような。
何となしに中途半端な気持ちになる。
「近い将来、AIは人間以上の知性持ち、我々にとって脅威となる可能性がある」
☆久し振りに鑑賞☆
最近、キヨが「Detroit:Become Human」の実況を始めたので、かなり前のめりで観てるとこだけど…私達はAIに対して、どんな感情を持てば良いのか…その答えは出ない…。
凄く久し振りに観たけど、結局 泣いてしまう私はダメなのかなと思った。
AIをスクラップにする為のショーでも、観客達はデイヴィッドがでてくれば「まだ子供だぞ!」とブーイング。
Blue Fairyに願い事をするデイヴィッド…そのままバッテリーが切れるまで祈り続ける所にアンドロイドの悲しさを感じた。
相手は“メカ(Android)”なのに、その感情に振り回されてしまうなんて、本当に人類の脅威になるだろうということは、おおよそ簡単に想像できてしまう所が恐ろしいかなと。
デイヴィット・ホーキンス博士や、イーロン・マスク氏が懸念する様な未来は、直ぐそこに来てるのかも知れない……。
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