わたくしどもは。のレビュー・感想・評価
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静かな、浮世離れと言った言葉がしっくりくるような世界観。松田龍平の...
静かな、浮世離れと言った言葉がしっくりくるような世界観。松田龍平の掴みどころのなさがはまる。油断すると心地よく寝落ちする。映像綺麗。
飛び降り心中したアオとミドリだが、ミドリは死ねなかったのではないか、天寿を全うして、ようやく彷徨うアオの元へ来たのでは、と思った。
アオは自死の罪から、49日で此岸から旅立つことができず、爛れた身体(魂)でずっと彷徨うしかない
ムラサキも天寿を生き、元夫?のアオに挨拶して、彼岸へ去ったのではないか。ミドリはアオと離れて旅立つ選択もできるが、旅立てないアオと離れたくなく、一緒に彷徨生き続けることを選んだのか。わたくしどもは。 時間の間隔が曖昧な世界観なので、心中成功かもしれないが… いつか爛れが消えて、彷徨うことから解放されますよう
スピリチュアルファンタジー
小松菜奈が主演というのが鑑賞動機です。
冒頭のシーンから場面展開した途端、
なんとなく死後の世界を描いていることは
わかりました。
いきなり小松菜奈演じるミドリが
「わたくし」と言うのと、セリフが棒読み的なのは
違和感ありましたが、それが死後の世界ということ
への気づきになりました。
田中泯演じる館長が「四十九日」と言うことで、
ハッキリしましたね。
石橋静河演じるムラサキは、
私は生きていると思ったのですが
どうなんでしょうね。
死の淵を彷徨ったけど息を吹き返し、
アオとミドリの前から姿を消したと解釈しました。
死んでいて四十九日を迎えて消えたのかも、、です。
アオに対する執着がすごいので、
記憶がなんとなくあるのかなと。
ミドリとアオも死後でも惹かれ合うのは
世界観のみならず、その点もファンタジーだと
思いました。
その後のことはわかりませんが、、。
それにしても映像が抜群に美しいです。
それにも増して小松菜奈が美しすぎました☺️
非常に特異固有な作品だと思いますし、
起承転結ではない&説明なしの映画が好きな方には
おススメできます。
小松菜奈の次回出演作に期待しています!!
輪廻転生。主演の小松菜奈がひたすら綺麗。
映画「わたくどもは。」を見ての感想です。ネタバレしまくりなので承知のうえお読みください。あるいは、映画を一度見てハテナの人への自分なりのアンサーです。
海鳴
さてこの映画の自分なりの解釈は「この映画は津村節子の小説「海鳴」の書かれなかった続編であり」、映画「わたくどもは。」の登場人物達はおおむね「海鳴」の登場人物が数百年後の現代に輪廻転生した姿だというのが私の意見です。「海鳴」を読んだことのあるかたは、たぶん納得されると思います。あとで登場人物の対応を考察します。なお、「わたくしどもは。」と「海鳴」は全く独立した作品でストーリーに重なるところはありません。
「海鳴」を読んだことのない方のために以下内容を説明しましょう。津村節子の小説「海鳴」の舞台は佐渡相川、そう映画「わたくしどもは。」の舞台です。時代は江戸。この時代佐渡の相川では高品質な金脈が発見され、最盛期、相川には5万人もの人々が移住し繁栄を謳歌しました。「史跡佐渡金山」や「きらりうむ佐渡」の展示の伝えるところです。なお、相川は新宿駅から歌舞伎町、新大久保ぐらいまでのごく狭い地域です。
はな(海鳴)
主人公は「はな」源氏名を「花衣」という美しい娘です。もともとは漁師の娘ですが父親が遭難し、困窮した母親に相川五郎左衛門町の料理屋へ売られます。小説のなかでは中学生前後から大学1年生ぐらいまでが描かれています。現在であれば少女が一番輝いてるときです。紆余曲折があって主人公は佐渡相川遊郭にいます。
絹川(海鳴)
佐渡鮎川(相川)遊郭は奉行所公認です。いまは相川には奉行所の建物が再建されていますね。遊郭は水金遊郭と呼ばれていました。いま相川に遊郭は無く水金町に碑があります。さて遊女たち遊郭へ売られて来ています。ヒロインは「はな」のほかにもう一人います。太夫の絹川です。絹川は見せしめに食事を抜かれた花衣へ紅白の饅頭を恵む優しい性格です。花衣は美しく気品のある絹川に恋心を抱いており、実際絹川と恋人の下級武士欽吾との逢瀬に激しく嫉妬しています。
梅毒(海鳴)
小説「海鳴」には部屋に閉じ込められた梅毒の遊女、小銀がでてきます。梅毒末期の小銀は全身に紅色の腫物がおびただしく吹き出し、腫物の表面がくずれ液が浸出して肉はすべてそげ落ち顔の骸骨がそのまま見えるほど凄惨な様子でした。もう一人、浜菊という遊女は首筋のぐりぐり、顔や手の紅色の爪の甲ほどの斑点状の皮疹、それが治ったように見えてまた再発する梅毒を発症します。江戸時代、梅毒は死の病で梅毒の惨(むご)たらししさ恐ろしさには戦慄します。なお、現在も梅毒は治療法はあるものの根絶はされていません。こんな症状がでたら直ちに病院へ。売買春、性行為を多人数としてはなぜいけないのか。答えは「凄惨な性病の温床になるから」です。
結核と心中(海鳴)
さて、絹川は結核にかかり喀血します。花衣は喀血を吸い出し絹川は息を吹き返します。当時結核は死の病で喀血すれば長くは生きられません。結核もまた治療法はあるものの根絶はされていません、結核で亡くなるかたもたくさんいます。死を覚悟した絹川は欽吾に心中を持ちかけます。花衣は欽吾の刀に喉を突かれ、欽吾もまた自害して果てます。本興寺の二人の遺体には蟻の大群が…
直吉(海鳴)
もうひとりの主人公は直吉です。無宿人の咎で江戸から佐渡へ送られ水替え人夫として働いています。佐渡金山の展示の人形のひとりは直吉かもしれません、結構むさいおじさんに見えましたが笑。20歳すぎの直吉は童貞を花衣で捨ています。ところが、花衣も結核を発症します。カラダを重ねたとは言えたった2度会っただけの花衣と直吉のふたりは相川の北の崖から飛び降り心中します。19歳と22歳でした。遺体のありさま描写はここに書けないほど惨(むご)たらしいものです。この小説、全く救いがありません。お分かりの通り津村節子「海鳴」は怖い小説で、冬の暗く重く吹雪が荒れすさぶ相川の人のいないホテルで一人で「海鳴」を読んではいけません。トイレにいけなくなります。そして、とてもやりきれなくなります。絹川と欽吾、花衣と直吉が幸せになる未来はないのか。モヤモヤした思いが残りました。
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さて、やっと映画「わたくしどもは。」の話になります。
ネタバレ。注意
そんな中、映画を見たのでした。上映が始まって、しばらくしてハッとしましたこれは「海鳴」の後編ではないかと。映画「わたくどもは。」の登場人物達はおおむね「海鳴」の登場人物で数百年後の現代で生と死のはざまで輪廻転生を待っている魂であるが、自分の意見です。では誰が誰に転生したのでしょう。
冒頭のシーン
「わたくしどもは。」の冒頭、ミドリとアオがお寺?から飛び降りるシーンがあります。もう分かりますね、二人は花衣と直吉の生まれ変わりです。お寺は二人が飛び降りた崖のメタファーでしょう。ところで、お寺?の名前はなに?
ミドリ
ミドリは相川拘置所の床で目覚めます。なぜミドリは拘置所で目覚めたのでしょうか?拘置所は人を閉じ込める場所です。そして水金遊郭も遊女を閉じ込めます。ミドリは花衣に間違いないでしょう。アオがミドリをずいぶん待ったと言っていました。心中から長い時を経て二人は、やっと再会したのです。あと、ミドリの小松菜奈がひたすら綺麗。大事な事なのでもう一度言います。主演の小松菜奈がひたすら綺麗。
アオ
水替人足直吉のアオは少なくとも一度転生しています。そしてその生の中でアオは罪を犯しています。おそらくムラサキを扼殺して埋めそのあと自殺しています。殺人と自殺の罪により遺体を埋めた場所に地縛霊として閉じ込められたのでしょう。そして骨はムラサキのものでしょう。猫はなんでしょう、アオ=姿の見えない猫でしょうか。猫のメタファーはなんだろう、村上春樹がなんか言ってたような。
キイ
キイは誰でしょう。キイ、ミドリ、アカ、クロがご飯を食べる部屋は構造から明らかに遊郭の一階です、そしてミドリが寝ている二階は遊郭の花衣が客を取っていた部屋です。だからキイは遊郭の中の人です。キイは遊郭の遣手婆「とく」でしょうか。映画終盤キイは天国のハシゴを登っていきます。でも因業な「とく」が天国へ行けるでしょうか。無理でしょう。「海鳴」の登場人物で天国へいけそうなのは一人しかいません。そう絹川です。美貌をうたわれた太夫が掃除のおばさんをやってるの?!単に転生の時期が早かっただけでしょう。そして、大女優大竹しのぶが演じているのです。大竹しのぶを調べると若い頃は魔性の女と呼ばれていたとあります。思い出してくださいミドリが目覚めたとき横にいたのはキイでした。
アカ、クロ
キイ、ミドリ、アカ、クロたちはなぜ、ご飯を何回も何回も食べるのか。遊女たちは生前白いご飯をお腹いっぱい食べられなかったからです。さいごのほうのアカ、クロの艶(あで)やかな着物は遊女の衣装でしょう。アカ、クロは小銀と浜菊でしょう。
能
能のシーンはなんの違和感もありませんでした。幽玄ですね。残念ながら佐渡で能は見たことがありません。
病気の男
坑道を歩く男は遊女へ梅毒を感染させた男でしょう。あるいは金鉱山で亡くなった人たちのメタファーか。
館長
館長はおそらく相川鉱山の霊です。
バスガイド
この辺よくわかりません。相川音頭を紹介したかった?
高校生
爪襟の性同一性障害と思われる学生も謎です。荒縄を自分で編む意味は何でしょうか。
そして「わたくしどもは。」の冒頭のミドリとアオがお寺から飛び降りるシーンに戻ります。多分バイクで、お寺から何回も何回も何回も同じシーンを繰り返して、ようやく現世で二人は幸せになります、カタルシスです。そう、音楽もよかった。
ロケ場所
自分は相川のホテルに泊まって海鳴を読み、金山の短いルート(30分コース)と長いルート(40分コース)の両方を回りました。長いルートでちょっとした登山をして道遊の割戸もみました。だからお寺?舞台?を除いてミドリの出てくる場所は全て知っています。偶然ですが相川拘置所にも入りました。そのあと映画「わたくしどもは。」を見ました。この映画に呼ばれたとしか思えません。
映画「わたくどもは。」の楽しみ方
自分はこの映画「わたくどもは。」を十分楽しみました。5段階評価で4をあげましょう。でも満点の5ではないのは画面のサイズが4:3かそれに近い小さいもので精細度も低いものだったからです。映像の構図はとても綺麗なのにその美しさが伝わりません。可能なら16:9かそれ以上のシネマサイズで少なくとも4K以上の画質でもう一度見たいと強く思います。
この映画を十分に楽しむには準備がいります、素で見たらなんのこっちゃでしょう。一つ目は津村節子「海鳴」を読むこと。相川に泊まって読めば最高です。二つ目は聖地巡礼です。「史跡佐渡金山」の長いコースは必須です。拘置所跡、相川天領通りの料理屋、能舞台、北の断崖、水金遊郭跡、奉行所。
あと、相川でこの映画をみれたらもっと良いと思います。
このあいだ某所で女子高校生がジャージを着てぎゃあぎゃあ騒いでいるのに遭遇しました。その時はイラッとしたのですが、いまはこう思います。君たちは良い時代、良い場所に生まれて本当によかった。そう、青春を謳歌するんだと。そして大事な事なのでもう一度言います。主演の小松菜奈がひたすら綺麗。主演の小松菜奈がひたすら綺麗。
参考、津村節子、海鳴 (講談社文庫) 講談社、Kindle 版
死生観
新潟佐渡の鉱山に戸籍が無い人々が
ある時期ありふれた事からの着想映画。
アートっぽく仕上げたかったのかな……。
その島を選んだのも良いし、味わい深い
建物や風景は余韻に残る。
非現実に見せる為にあの独特の話し方にしたん
だろう。49日までのイメージかぁ。
二度は死ねない死生観と自然界を
マッチさせる。そこには境目は無い
感じにしたかった感じ。
木々が繁る幽玄な舞台に匹敵するような
脚本が少し欲しかった。
いつも星三つにしていますのであしからず
冒頭のタイトル・クレジットのところで『Who were we?』と出てくる。これもタイトルに入れておいてくれれば。
大竹しのぶが雨音を聞きながら気持ちよさそうにうたた寝。
次の場面で、白々とした佐渡の資料館のフロアにうずくまっていた田中泯がゆっくりと身体を起こし天井を仰ぐ短い舞踏をみせる。
佐渡に流された世阿弥を想起させる辰巳清次郎の舞。
身にまとった赤い長襦袢を嬉しそうにひらひらとさせる片岡千之助。
心中をしたとおぼしき小松菜奈と松田龍平のふたりが黒と赤の衣装で横たわる形(どこかで見たっぽい構図だが)。
鈴木清順の『ツィゴイネルワイゼン』とか『陽炎座』のような作品を期待していたのですが
最後のほうで、この映画の世界の規則(世界観)の説明をするような展開になった。
すまん。
私は『Who were we?』とか『私ってなに?』とか『どこからきてどこへ行くの』とか、下手すりゃ『自分探し』とか、全く興味ないんだわ。
もっともっと、規則などわからなくてもいいので、美しく遊んでくれていたら、と思わされました。
また佐渡を舞台としていて金山とかが背景になっているわりには『佐渡』っぽさが意外に希薄で残念。
清順の映画はちゃんと『鎌倉』っぽかったし『金沢』っぽかった。
芸術作品といえる
美しい山の緑、朽ちかけた山門、荒い日本海の波。映像の美しさから目が洗われるよう。
無駄を無くした、最小限のセリフと長い間。俳優の表情のアップ。
佐渡島の相川金鉱のトンネル。この世とあの世を繋ぐ道。江戸時代は「地獄」と呼ばれていた。幻想的な絵が素晴らしい。
最初に清掃員として大竹しのぶが登場した時点で察することができた人もいただろう。その後に出て来た少女二人。名前が無いのは生まれ変わりの象徴。
鈍い人には物語の行く末が分からなかったかも知れないが、私は最初のシーンですっかり分かってしまった。
途中、ろう学校で苛められる少年の登場。これは観客にヒントを与える為だつたのだろうか。手話が沈黙と少ないセリフに良く効いている。
そうだ 涅槃、行こう。
ひたすらにボンヤリとしたミドリが、ボンヤリと彷徨い、ボンヤリと人と関わる話。
キイとも早々に絡まなくなるし、アカとクロは存在意義が分からないレベル。
ムラサキは結局なんだったのか…(最初のバスガイドの時点では生きてた?)
館長は「四十九日」というワードを出すだけの役割。
透くんも世界観の補強以上には感じず、聾唖にした意味も分からない。
黄と青を混ぜるとミドリ、赤と青を混ぜるとムラサキ、黒はすべてを飲み込む…
なんてことを考えながら役名を見てましたが、色名にした意味は特になさそうでした。
万事において3秒でいいところを10秒使うような尺の取り方は、雰囲気より睡魔を誘い出す。
前後の脈絡なく差し込まれるシーンも多かった。
世界の秘密もふたりの関係も当初の予想を超えなかったこともあり、ずっと退屈でした。
中分けの小松菜奈と、シャッキリとした田中泯が新鮮で、それだけの作品。
記憶を失ったからって、一人称「わたくし」になります?
漂う念の行く末は
映像の妖しさと説明のない場面から様々な想像をしながら観る。
かつて賑わった鉱山跡。
金を求めて欲望が集まった町。
労働者として連れてこられた者たちが無惨な末路をたどった町。
そこは死者の念が彷徨う場所。
その町で死者が過ごす時間は短い。
風が吹けば煙がかき消えるように次の場所へといってしまう。
しかし己の欲のために人を犠牲にしたものは永遠にここを彷徨い続けるのだろう。
ただれた体を引きずりながら。
念が狭間の世界で体を持ち、目で見て、言葉を話し、愛し合うことができるのならば
私たちが念や狭間ではなく実体だと思っているこれと「それ」、ここと「あそこ」はそれほど違いがないのかもしれない。確かめるすべは、一度経験した後ならばニ度は死なないということ。しかし実際に確かめてみるわけにはいかない。
出だしから訳の解らない展開で謎だらけの作品。 本年度ベスト級。
全く前情報無しで鑑賞したのが悪かったのか?
これ何の話なの?
って思いながら鑑賞(笑)
台本を棒読みした感じのセリフ。
登場人物の名前が「ミドリ」や「アオ」とか名前は全て色。
生活感の無い部屋や街や観光施設。
全てが謎だらけ(笑)
中盤の「四十九日」と言う言葉で、本作は死後の世界を表現していたと理解する(笑)
そう言えば出だして小松菜奈&松田龍平さんが身を投げるシーンがあったな(笑)
二人で身を投げ命を断ったと思いきや、小松菜奈さん演じるミドリは目を開ける展開。
だけど死後の世界の松田龍平さん演じるアオが既に警備員として働いていたので死にきれなかったミドリが後追い自殺をしたと推測。
バスガイドが昔の心中は重罪だったと話していたけど既に死んだ人にどんな罪が与えられるのか?
気になるところ。
本作は終始小松菜奈さんの美しさに終始釘付け。
これだけでも大きな収穫だった(笑)
加えて佐渡島の美しい映像も良かった。
光と影を上手く組み合わせた映像が美しい。
特に坑道やトンネルのシーンの映像が印象に残る。
終わってみれば、何かを思う事も考えさせられる事もなく。
でも観たことに後悔は全くありません( ´∀`)
映像美は凄いのだけど、現実より美しく描いて問題ないのだろうか
2024.6.3 アップリンク京都
2024年の日本映画(101分、G)
奇妙な世界に迷い込んだ記憶を失くした男女を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は富名哲也
物語の舞台は、新潟県佐渡島
その中腹にある寺の舞台から二人の男女が飛び降りる様子が描かれて始まる
そして、物語は廃坑になった鉱山の廊下にて、記憶を失くした女性(小松菜奈)が清掃員のキイ(大竹しのぶ)に見つかる様子が描かれていく
キイは彼女を自宅に連れて行き、そこに住んでいた少女アカ(田中椿)とクロ(三島天瑠)は、彼女にミドリという名前をつけた
ミドリはここに来るまでのことを一切覚えておらず、キイは館長(田中泯)に頼んで、一緒に働かせてもらうことになった
ある日、動物の鳴き声に導かれたミドリは、そこで同じように記憶を失くしている男アオ(松田龍平)と出会う
彼女は施設の清掃員をしていて、寡黙な男だった
一方その頃、街に住む高校生の透(片岡千之助)は同級生たちからいじめられていて、それを苦に自殺を試みようとしていた
そんな彼の元にアオが訪れて、透の自殺は失敗に終わった
映画は、佐渡の山奥の雰囲気に癒される系の映画であるものの、主題は不明瞭で、何をテーマにしているのかは分かりづらい
ヒーリング効果もあるので爆睡してもおかしくないが、意味がわからないので起きている可能性の方が高いかもしれない
一応は、自殺は良くないよね、という一言で終わりそうなものの、それ以上を汲み取るのは難しい印象
敢えてなら、そこがかつての鉱山で、罪人が島流しにあって死んだ場所ということもあるので、自殺は天国にも地獄にも行けずに流刑地で彷徨うという意味合いがあるのかもしれない
そこで記憶を失っている意味がよくわからず、罪を償わせる意味を持たすのなら、生前の記憶を有して、死んだことを後悔し続けるとか、実は起こった良き未来が頭の中を駆け巡って、こんなところに来ては行けないと思わせないとダメなような気がする
自殺に対するアプローチも「ダメだよ」レベルなので啓発にもならないし、天国にも地獄にも行けず、生前の記憶も亡くなるならハッピーじゃんと思う人がいてもおかしくないように思えた
いずれにせよ、最終的には自殺をしたことを思い出すものの、それで終わりという感じになっているのがなんとも言えない部分がある
これらの体験を美しい世界のように描いている感じも微妙で、死後にアイデンティティが欠損するというのは、精神的幇助に近いと思う
そういった意味において、本作の意図はわからないのだが、雰囲気だけは良いので引き込まれる部分はあるのかもしれません
ひょっとして、死神の手招きのような映画だったのだろうか
そのあたりもちょっとわからない部分が多かったように思えた
混沌。
一緒に心中した男女が生とその先の狭間で、記憶ないけどなんか惹かれるってチチクリあっちゃうお話。
今いる場所が多分、生の世界で、主人公たちはきっと死にたてホヤホヤで触れるしご飯も食べるしバイクも乗れるけど生きてる人には見えないっぽい。
男の方は二股なんだか人殺しなんだかわかんないけど違う女がやってくるってことは。。。
突然バイクに乗り出して『???』ってなった。
ギュゥゥゥッとしたら30分くらいで終われるかも?
綺麗な景色と自然をノッッペリと見せられた感じでした。
あの世とこの世の狭間 佐渡の金山の跡地で 人々は記憶をなくし 仮の生業を演じながら過ごす49日のはなし なぜか素直に楽しめない
あの世とこの世の狭間
佐渡の金山の跡地で
人々は記憶をなくし
仮の生業を演じながら過ごす49日のはなし
単純に、描きたいイメージを自由に形にして並べた、美しい映像詩のようであり、それを見て感じる映画と思う。
ミニ・パフォーマンスを一か所に集めた個展のような感じ。
何も考えずにこの雰囲気に漂うにはいい。
でもどうしても現世で今映画を観ている自分としては、野暮なことをいろいろ考える。
不思議のままでいいという世界観に、説明しなくても、わからなくてもいいという
言ってしまえば辻褄も理論も不要という創作は、自由で実に楽なのでズルい。
美しい外観と高尚なイメージ。
映画というパッケージの製作過程で、集められる有名なパフォーマンスを並べて形にしたもの。
二人はこの時間だけの関係でひかれあったのか、
生前の許されなかった関係に次の世での愛を誓ったのか、
他の人々は、ゆるしの時間が与えられたのか?
かと思えば、現世のつらい場面もあったりして一貫していないのでよくわからない。
さりげなく実は高そうなかっこいい衣装や、小物や食事や、施設の見学客は何なのか。
地名をさりげなく織り込んで、この場所の魅力を自然に打ち出そうとしている姿勢は、補助金を使った町おこしなのか?
税金の無駄遣いか?
有効活用か?
そんないろんなことが隠されているような感じがして、
なぜか、素直に楽しめる映画になっていない感じがしてしまって。
思わせぶりで、カッコつけてるのが気になって仕方ないからかもしれない。
どおしても、お高くとまってるように感じるのは、現世を生きる私の”ひがみ”かも。
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