わたくしどもは。のレビュー・感想・評価
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際(きわ)を漂う
これはどちらかと言えば事前情報なしで鑑賞する方がより楽しめるタイプの映画。小松菜奈と松田龍平が演じる主要人物らがいるのはどこで、なぜそこにいるのだろうか、などと彼らと一緒に考えるつもりで映像にいざなわれるように体験できるといい。とはいえ、ミステリーというほどではなく、台詞などに分かりやすくヒントが示されているので、たいていの観客は早い段階で予想でき、それはきっと当たっている。それでも、予告編などを事前に見て「ああ、そういう話ね」と分かったうえで観ると、人物らと一緒に漂いながら考える楽しみが少し損なわれるというか。
ロケ地の佐渡島は、個人的に大好きな場所で7回訪問しており、実家のある町を除けば旅行した回数が最も多い。映画で象徴的に映される露天掘り跡「道遊の割戸」をはじめとする佐渡金山の史跡群や、富名哲也監督がやはり佐渡を舞台に撮った前作「Blue Wind Blows」に登場する亀の形をした大きな岩が細い砂の道でつながる「二ツ亀」も見てきたし、ほかにも見覚えのある場所がちらほら。ただし誘客効果を狙ったご当地映画ではないので、景勝地がたくさん映るわけではないのが佐渡ファンとして少々さびしくもある。たとえば尖閣湾を背景に日の出か日没あたりの時間に撮影したならストーリーの雰囲気にも合う画になったのではなかろうか。逆に本作で初めて知ったのは清水寺(せいすいじ)の救世殿(ぐぜでん)。京都・清水寺の舞台を模した建物だそうで、次に佐渡に行く機会があればぜひ訪ねてみたいと思った。
小松菜奈と松田龍平に加え、田中泯、大竹しのぶら俳優たちの身体のたたずまいと場が醸し出す空気感を端正な映像でとらえて成立させた映画とも言える。佐渡島三部作にする構想もあるそうで、いつか必ず実現させてほしい。
色味とカメラアングルと幻想と
極端に文字や装飾を排除し、スクリーン上の登場人物の行動に没入させる印象を受けた。
開始45分まで音楽が掛からないのも戦略だろうか、私たちは何を追っているのか、魅せられているのか、不安と戸惑いさえ覚えながら、物語は進んでいく。
登場人物の言動など、随所に鏤められたディテールを鑑賞しながら拾ったり思い返したりしているうちに、物語は終盤をむかえる。
ただ、佐渡ヶ島の自然景観や音を拾いながらゆっくりと進んでいく時間は贅沢で、物語の方向性を探ろうとする脳内の焦燥感と心理的安堵感の入り交じる101分間は新しい映画体験だった。他の監督作品もまた鑑賞したいと思う。
結局は小松菜奈さんがいたから
生死の境目、幻想譚、よくわからない、こうしたキーワードの作品は大好きで、加えて小松菜奈さんが主演。地元でようやく封切りになったので観てきました。
小松菜奈さんじゃなかったら多分観なかったし、作品の満足度も正直普通でした。オチは冒頭にあるような気もしたし、ワクワクする引き込まれるような幻想が足りませんでした。わたしにとって、このタイプの作品のマスターピースは古いですが「ツィゴイネルワイゼン」です。もっともっと映像的にも、寓話的にも吹っ切ってよかったと思いました。
それにしても、小松菜奈さんは素敵ですね。あんなキレイな女性がこの世にいるのかなといった感じです。舞台とか舞台挨拶とか出演作のエキストラとか、なんでもいいから一度実際を観てみたいです。素敵だろうなぁ。
幻想的な映像が続きますが、お弁当のシーンとラブホテルみたいなシーンだけ、やたら現実的でした。あの二人がいるんだから死後ですよね。
映画館、所謂、改築型の複数スクリーンです。昔の銀座シネパトスみたいにずっと下の階の音響が聞こえてました。「仮面ライダー」だったようです。
飽きなかったんだから面白かったんだと思います。
小松菜奈作品で退屈だったの初めてかも
男と飛び降り自殺を図ったかと思いきや、佐渡の金山跡地で目を覚ました女は、それまでの記憶がなく、清掃員の女キイに家に運ばれて、アカとクロという女の子と4人で暮らすことになった。名前も思い出せない女はミドリと呼ばれることになり、キイと一緒に清掃員として働くことになった。そこで警備員の男アオと出会ったミドリは、彼も過去の記憶がないことを知り・・・さてどうなる、という話。
死んでから49日を迎えるまでの世界を描いてると、途中からわかるが、それまで何を見せられてるのか、理解できず、凄く退屈だった。
小松菜奈でさえ、棒読み女優かと思うほど、つまらなかった。
彼女が出る作品で退屈に思った作品は今まで記憶にないが、本作は観終わってからも、あのシーン何?みたいな感覚で、ちっとも面白くなかった。
小松菜奈の他、大竹しのぶや石橋静河など、大好きな女優が出演してるのに、残念だった。
予告編は良かった、と思ってたけど
本編は、退屈、だるい、寝てしまう。
ただの雰囲気映画だった。
多分才能はあるし、わかる人にはわかる映画なんでしょう。刺さる人にはささる映画でしょう。
俳優、素材の無駄遣い。
お疲れ様でした。
わたくしどもはどうなるのでしょう…
儲けようという気はさらさらない作品である。これが撮りたいから撮ったという感じの映画です。最後のエンドロールを見てこれだけ大勢の人が関わって完成したのかとあらためて驚く。儲かるからではなく、いい作品を作りたい、絶対にこの映画を撮りたいという情熱がこれだけの人を動かしたのだろうと思うとしっかりと内容を咀嚼する必要があると思った。
映像はとにかく美しい、小松菜奈も美しい。これは、万人の認めるところだと思う。監督のこだわりを一番感じる。
転生をテーマにした作品だが、説明がほとんどないので、内容の感想咀嚼になると、ほぼ想像になってしまう。的外れかもしれないが、自分なりに納得したいと思う。
亡くなった人の魂が一旦落ち着くところが舞台ということだと思う。ただ、亡くなり方によって落ち着き場所が違うのであろう。天寿をまっとうした人、事故で亡くなった人など、いろいろと落ち着く場所があるのだろうと思う。
この作品の主人公たちの魂の落ち着き先は、自殺(心中も含む)された方々が集まるところという設定だと思う。そして、49日間の滞在(審査?選別?)をもって、次のステップに進めるようである。
ただ、ただれた身体を持つものは、永遠?(または、それに近い間)にこの場所を彷徨うようであるが、ただれがどういったものであるかは、はっきりとは描かれていない。
松田龍平にも背中の一部にただれが見られるが、その後の話の展開でどうもそのただれは、業の深さそのもののようである。
二人は、生まれ変わってこんどこそ一緒になろうねと心中をしたのだが、それが果たせないと感じた時、もう一度、心中を図る。だが、一度死んだ人間は二度死ぬことはできなかった。
はたして、二人の魂はふたたび一緒になることができるのか?と思わせて映画は終わる。
おそらく無理であろうと思う。
田中泯の審査に通らないのである。
美しい佐渡島を永遠に彷徨い続けるのであろう。
怖いお話である。
わたしたちは誰だったのでしょうか。
「わたくしどもは。」のタイトル。丸で終わるので、なにか決意みたいなものを感じたがそうではなかった。むしろ、英題の「who were we?」の迷いこそ、この映画の世界。
"私(たち)は何者なの?"
まさにその問いを探して迷い彷徨う。さらに、
"そこはどこなの?"
がその迷いを深めていく。そこをただ、小松菜奈ってミステリアスでキレイだわって雰囲気映画で片づけてしまったら、この映画を味わい切れていない。一言でいえば、「人が成仏する」姿を描いている。人は死んで、四十九日が過ぎたら成仏できる。だけどこの世に未練を残してできない人もいる。その境目ってなんだろう?すんなり成仏できた人、出来損ねそうになったけどできた人、現世に未練を残し執着してしまった人、、、。死んだ後の49日の間に、言ってみれば閻魔様のお裁きの前だか後だか、三途の川を渡ってからだかどうだか、とにかく何かあるのだろう。未練を残さずすんなり極楽へ向かえる人と、執着があって行けずに迷う人と。映画はその49日の世界だ。迷いが吹っ切れたキイは晴れやかに階段を昇って行ったし、執着を残す男は夜を彷徨い続ける。わずかでも仏教的な観念が知識や体験にあれば、この世界はすうっと体にしみ込んでくるだろう。
僕はこの映画を、ご当地佐渡で観た。金山のごく近くにあるガシマシネマという小さな映画館だった。
たまたま、佐渡へ旅に行っている最中の上映で、オール佐渡ロケとあればぜひご当地で、という気持ちだった。それは些細な動機ではあったけど、鑑賞時の気分には素晴らしい効果があった。なにせ、いま、目の前のスクリーンの中にある幽玄な世界は、自分が今ここにいる現実とつながっている、という奇妙なシンクロ感に包まれるのだ。もしかしたら、自分も今この「49日」の中なのではないかという浮遊感さえした。
そしてその時、思った。人が死んで、阿弥陀様のおわす極楽浄土(もしかしたら地獄かもしれないけど)へ行く。その成仏する過程を、現世→49日→浄土とした場合、この佐渡は、本土(現世)→佐渡(49日)→西の海の彼方(浄土)の位置づけと言っていいのではないかと。つまり、佐渡は浄土へのトランジットの島なのだ。死の世界に比される場所と言えば紀州(根の国)や下北(恐山)やほかにもあるが、紀州では陰湿だし、恐山では怖い婆さんが出てきそうで怖い。なにより、地獄にしか行けないような気がしてならない。その点この佐渡ならば明るさがある。冬の厳しさはあるだろが、たぶん撮影時は今と同じ初夏だったろうし、その季節の佐渡はどこか極楽に近い気がする(大野亀のトビシマカンゾウの群生を見たせいかも)。だから僕は、空が広く西に海がひらかれた佐渡でこそ、この映画の舞台としてふさわしい、と思った。
あの世とこの世の狭間に・・・
ロベール・ブレッソンの映像表現手法に強い影響を受けていると一部のマニアの間で評判に・・・急速に上映館数が減っている中、新宿にホテル取っての鑑賞なれど、近場に車停めれる駐車場が見当たらず30分遅れで入館したため、夕方の上映を待ってのナントほぼ2度観😅(朝早くと夕方の2回上映)
この作品、お薦めできるかとかなり微妙ではありますが、ある種の能のような趣のある作品でした。この作品が49日をテーマとしている事、また現世と来世の狭間の時空を佐渡の金山や清水寺(せいすいじ)の雰囲気、特に後者の持つ圧倒的な異空間さに重ねての表現。そしてこれこそがブレッソン的と言われる点であると思うが、役者による感情を押し殺した非演技的表現、ブレッソンは演技を否定するために一般人を使い静止画の挿入の様なカットを随所に盛り込むあたり、確かにとても雰囲気を感じる事が出来た。この作品、出演者の豪華さに驚かされるが、ブレッソンと逆で演技を否定した演技を求めてそれに応えられる俳優陣で占めたとみるべきであろう。一瞬の静止画風のカットの挿入時には見ている側の思考の連続性を遮断し、一瞬気が飛びそうになる・・・というよりはカットから勝手に想像された別の次元に思考が先走って、別の物語が動き出そうとすることを強制的に引き戻しにかかる映画と言って良い。変な言い方かもしれないが寝る事を許さない拷問に曝された感じで最後まで引きずられる。つまりこの監督は物語の主導権・・物語ではないな・・映像を進行させる主導権を一切観客に委ねないと言うか、極めて作家主導の映画作品になっており、観客の期待する通りに展開するカタルシスありきの作品否定と言っても良い。その姿勢はこの空間に迷い込んだすべての者たちが勝手に出たり入ったり、勝手に思考したり認識したりすることを許されない審判の49日間だからである。ある友人がこの映画は色彩がしっかりあるのにモノクロ映画の様であったと評した。その原因はワンカットにワンカラーで撮っているからである。一画面に原則補色を配さぬ事で景色化を否定し、異空間感を際立たせている。それは登場人物たちの名前にも反映されている。生前は色相や濃淡、奥行きなどの色の持つ特性と同じように、人の持つそれぞれの人生の多様性があったと思われるが、この映画作品の中では単なるひとつの相しか持たぬ単一色と化している。それはそれぞれの人生の色相を一つのフラットな面に単純化され7つの段階を経て49日間の審判を受け、次の転生先へと振り分けられる様と重なる。佐渡は死ぬほど行ったし恐ろしく目の前に広がる風景に毎回この世のものかと思われる風景が点在する地域ではあるという認識を毎回味わったが、その中でも朽ちようとも朽ち切れぬ様々な風景の中にあって清水寺(せいすいじ)群を抜いているスポットである。ここに立ったものがどれほどいるか知らないが、こんな空間がほぼ放置のように佇んでいるんである。京都の清水寺が明確な現世であれば「せいすいじ」は明らかに黄泉の国であるのである、佐渡という空間は。この空間を経験した事のあるものとないものではどれほどの評価の違いが本作品に下されるかは定かではないが、そのイメージはダンテの神曲やトーマス・マンの魔の山の様なイメージでありながら何処かヨーロッパのそれとは異なり心なしかぬくもりと優しさ、そして懐かしさに包まれているように感じたのは僕だけだろうか?
無宿人と言われた、存在した痕跡さえ残すことを許されなかった存在者がいたにもかかわらず、アオやキィや黒など・・一色ずつの固有ではない名称でよばれているのが「黒」の存在で光の三色ではなく、色の三原色であることを示し、同時にそれは透過することなく光を吸収する存在、即ち固有の名称は与えられなかったが明らかに存在した者として登場している事が分かる。それにしてもこの映画における「せいすいじ」の存在は大きい。時に自分はこの場所を直に訪れてこの雰囲気を直に体験しているからこそ、この映画の存在と崩壊、転生と贖罪の価値観を一瞬にしてその画像と共に同化する事が出来た。佐渡には、え~何この場所って言う場所が実にたくさんあって放置されている・・。その放置され具合が半端なく突き放されているのだ。ちょっと観光で行きましたでは語り尽くせない重みと複雑さは日本全国でもそうないのではないか?同じ朽ち果てた廃墟として有名な軍艦島とは全く異質なものである。この島には記録に残る政治犯(公家天皇を含む)と流人・無宿人など存在自体が記録の対象外だった者たち、そしてこの地で古くから漁をして暮らす先住民の末裔がザックリそれぞれのコロニーを持って暮らして出来たと分かるような地域に分化されている。それは外来者から見ても分からないようになっている。まさに小京都。誰も本音を語らぬ恐ろしい空間なのである。小さな空間で全く出自の違う者たちがせめぎ合って暮らす佐渡という島はその内に秘めたるマグマとは異なり、表面的には極めてそれぞれがひっそりと暮らす土地である。それゆえトランスジェンダーや先進的な音楽的ムーブメントには寛容な土地のはずであった。が、その反面とんでもなく保守的な空気が支配しているのも事実である。この日本でもかなりユニークな異空間を本物の異空間に見立てたこの発見は大きいだろう。
「小松菜奈さん2時間幸せ」
今年119本目。
新宿シネマカリテで。
「湖の女たち」と同じように内容が掴み切れない、そう言う映画が見た後評価が上がると思います。
2時間見て全て理解する必要がない2作品の監督に共通する思いだと感じます。
こう言う作品を素晴らしいと感じる事が自分の自信になると「湖の女たち」のトークイベントで松本まりかさんも仰っていましたが、自分も同じように考えます。
小松菜奈さん2時間見れるって幸せ。
小松菜奈さんが綺麗なのよ
小松菜奈さんの魅力でラストまで到達できた感。少しだったけど、田中泯さんの“踊り”をまた観られたのも喜び。舞台の佐渡ヶ島は兄の姻族の地だけど未踏の島。切り取られている画は美しかったので一度は行ってみたい(Xへの投稿コピペ)
期待度○鑑賞後の満足度○ 自然が美しい佐渡島は昔は流刑の島、本作では恐らく○○した人達の○○を待つ場所。初めはやや戸惑うが世界観が分かりペースが掴めるとなかなか面白くて居心地の良い映画体験でした。
①実写でファンタジー、寓話、お伽噺を正面切って描くのは難しい。
『ハリー・ポッター』や『ロード・オブ・ザ・リング』みたいに初めから世界観が提示されていれば良いのだか、初めは現実世界か幻想譚かわからないスタートはなかなかキツイ。
本作でも幕開けは良かったが、少し経つとやや寝落ちしそうになった。
②だが、ムラサキが登場した辺りから映画の世界観がくっきりしてきて(彼女が語る佐渡の某民謡の本来の内容が本作のテーマの一つ)、あとは結構気持ちよく観られた。
③御贔屓、小松菜奈はだいぶん大人びて来たが、本作では今までとはちょっと違う芝居をしていて面白い。
④
Motif
良かったところ
・野田洋次郎さんの手がける音楽の聴き心地の良さ
・撮影現場のロケーションの美しさ
合わなかったところ
・演劇みたいな感じの演技
・主題のわかりづらい物語
・緩急がなさすぎて睡魔に襲われる
・グチャグチャっと風呂敷を畳んだ感じの終わり方
この主演2人で全く話題にもなってない時点でそこまでなんだろうなぁとは思っていましたが、想像以上でした。この手の邦画の当たりって中々見つからない…。
鑑賞日 6/6
鑑賞時間 9:55〜11:45
座席 C-12
遠くの人の寝息が聞こえるほど静かな映画
2024年劇場鑑賞136本目。
パンフレット存在していないのでマイナス。
冒頭で心中シーンがあってその後記憶のないその人が出てきたらもうここがどこか分かっちゃいますよね。
3対4か下手したら正方形の尺度の画面で、音も極力静かなのでまぁ眠い。結構遠くの席のおじさんのすーすーという寝息がよく聞こえるほどでした。
タイトルとおり、主人公の小松菜奈演じるミドリがわたくしと自称するのですが、それも含めて全体的に演劇っぽいなと思って観ていました。田中泯はこんな映画でも良かったですけどね。
こつねん
寂聴さんが手を繋いで心中したとしても、結局死ぬのは独りって言っていたのを思い出した。
「生まれ変わっても一緒」だったはずが・・
49日までの宙ぶらりんとなった、みどりとあおの男女の魂が再び結ばれる(互いを認識する)までのお話でしょうか。
設定や人物の情報も最小限に抑え、とりだてて筋立てがないまま、ほぼ彷徨っている展開でしたので多少間延びしてるように感じました。
人物(魂)たちの感情のうねりを平板にしているため(自覚も希薄な為)ドラマとしては多少面白みに欠けます、が大竹しのぶ扮するきいの最後の静かな慟哭は物凄く秀逸でした。
あのお芝居を見るだけでも価値がるんじゃないでしょうか。
また、人の欲望によって2つ割れに削られた鉱山(跡)を冷ややかに描写して、それを
彷徨う魂たちの拠り所にするなどアプローチは興味深かったです
あと能の演目が気になるところでしたが、もしかして、、
映画作品で能につうずる幽玄の美を表現しようと試みたのか、とあの御魂達のように忽然と思い浮かびました
最近佐渡島に行ってまだ興味が続いてたのと、 小松菜奈が出てたので見...
最近佐渡島に行ってまだ興味が続いてたのと、
小松菜奈が出てたので見に行ったけど、
ダメだった
入り込めないまま終わってしまった
この世を生きる僕たちへ伝えてくれていること
*
それは『執着を手放せ』だと僕は思う。
キイさんという掃除のおばさんと
その施設の館長の会話でそれがわかった。
キイさんはこの生活にようやく慣れてきたのに
49日目だからってどうしてクビにするの?
私はここに居たいのに…と訴える。
館長はダメなものはダメなんだよと諭し
「あなたにとって決して悪い所ではないよ」と
光のほうへ導く。(執着からの解放)
とても神々しくて涙が出た。
執着をひとつずつ手放しながら生きていけば
光が見える、そして見失うことはない。
何かに対する執着によって
自分で自分の首に手をかけて絞めていないか?と
考えさせてくれるようだった。
*
ミドリはこの世界で
「ずっと」があると思いながらアオを愛してる。
アオは「ずっと」がないことを知っている。
アオはこの施設の警備員をしていて
ここにいる人は一定の期間を過ぎればいなくなって
そしてもう戻ってこない事を知っている。
「わたくしたちはどこから来て
どこへ行くのでしょう…」ミドリが問う。
「過去のことはもうどうでも良いんです。
今はあなたがミドリさんで私がアオ。
ただそれだけ。」
アオには執着なんてものはなく
ただ「今」を見つめ、「今」を愛している。
49日が経ったあと、ミドリは行ってしまうから。
行ってしまうのだろうから。
過去でもなく、未来でもなく、「今」が大事。
*
館長やアオがあの世に行けないのはなぜか?
朧げに「自死」が原因…?と思っている。
アオは罪を償うには…と考えている。
自死をしようと首に縄をかけた少年に
「こちらに来てはいけないよ」と止めていた。
自分と同じような人を増やしたくないから。
アオと館長はあの場所から離れられない。
人が存在する限り、見守り、送り出すしかない。
あの少年も、まもなくそうなるのだろうか。
彼は自死をしたことで自由を手にしていた。
罪の意識はおそらく抱かないだろう。
*
小松菜奈さんと松田龍平さんが醸し出す
この世の者でもあの世の者でもない空気に
僕も束の間そういう存在として101分を生きた。
直接的な描写ではない初夜を匂わせる場面。
コロナ禍の撮影だったらしいので断念して
ああいう表現になったのかもしれないが
あれで正解だったと思う…ドキドキした。
狭間の人生を振り返って満足しているのだろう
49日前夜の幸せそうなキイさんの笑顔、
当日の館長と涙を浮かべて対話する姿、
光へと向かう美しさ…
大竹しのぶさんの演技に魅了されました。
そして…田中泯さんは重鎮ですね。
作品に重みと深みがうまれていました。
「天へと向かう」の体現がすごかった…
(PERFECT DAYSの時も目が釘付けでした)
*
エンドロールで流れた曲がとても良かったです。
僕の琴線に触れまくりで涙腺崩壊でした。
僕はこの映画大好きです、また観たい。
ヘルメットの件は見なかった事にしよう
普通の人にとって「◯◯ゆえに我あり」の◯◯部分に当てはまるのは、地位や続柄や年齢や(自認の)性別あるいは何かに対する意思や行動など色々だけど、どれも相対的だったり流動的だったりで、自我の基盤というものは本人が自負する程は強くない。一方その「我」なるもの(「自分」でも「アイデンティティ」でも「実存」でもいいけど)も例えば記録や記憶に残っているだけで曖昧な、お坊さんなら川の流れに浮き沈みする落ち葉のようなもの、と例えるのだろうか。その流れの中で偶然同時に浮き上がった縁は実に奇跡的な、まさに一期一会なのだと制作者が言いたいのかどうかも「曖昧」だけど、ちょっとそういう仏教的な事を考えてしまった。
小松菜奈ちゃんに⭐️4
小松菜奈ちゃん推しにとっては良い作品でした。久しぶりにスクリーンで小松菜奈ちゃんを堪能させていただきました。
さて本作ですが芸術的に死亡直後の世界観を描いた作品と受け取れば良いのでしょうか?しかしながら創造の域を出ない内容で感情を抑えた演技に終始する男性陣の様子には心が動くはずも無い。そんな中、抑えて演技しても大竹しのぶさんと小松菜奈ちゃんは光ってました。
60
決して万人受けはしない映画
いや〜意外だった!
自分にこんな静かな映画が刺さるとは‼️
トレイラーで観ていた通り、現世で結ばれずに心中した男女があの世とこの世の狭間で記憶のない状態で出逢う、と言ったストーリー。そこまでは解禁済みのため、あとは静かに進む映画の着地点を探る感じ。
それがとにかく心地よい。
この時間にずっと身を任せていたいと思えるほど気持ちの良い時間。
自然音が耳に優しく、色彩コントラストが目を奪う。最近全然行けてない美術館で絵画鑑賞をしているようや感覚。気持ちいい。
あとは箇条書き👇
・大竹しのぶの女優魂みた!
・アオとミドリの会話は中学一年生の英語のスクリプトみたいな会話。でも『嫉妬』が混じると急に人間味出る
・向田透役の片岡千之助の目の演技!色気!凄すぎ!!
・49日の間にみんな幸せを感じるのであれば、現世でも少し居場所を離れてみたらよかった??
・館長田中泯の存在感
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