リンダはチキンがたべたい!

劇場公開日:

リンダはチキンがたべたい!

解説・あらすじ

チキンをめぐって母娘が巻き起こす騒動と亡き父の記憶をカラフルな色づかいで描き、アヌシー国際アニメーション映画祭2023の長編アニメーション部門で最高賞にあたるクリスタル賞に輝いたアニメ映画。

とある郊外の公営団地に暮らす8歳の女の子リンダと母ポレット。ある日、母の勘違いで叱られてしまったリンダは、間違いを詫びる母に、亡き父の得意料理だった「パプリカ・チキン」を食べたいとお願いする。しかしその日はストライキで、街ではどの店も休業していた。チキンを求めて奔走する母娘は、警察官や運転手、団地の仲間たちも巻き込んで大騒動を繰り広げる。

監督・脚本を手がけたのは気鋭の映画作家キアラ・マルタと「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」のアニメーション作家セバスチャン・ローデンバック。実生活では子を持つ夫婦である2人が、ユーモアといたずら心を織り交ぜながら詩的な表現で描き出す。

2023年製作/76分/G/フランス
原題または英題:Linda veut du poulet!
配給:アスミック・エース
劇場公開日:2024年4月12日

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(C)2023 Dolce Vita Films, Miyu Productions, Palosanto Films, France 3 Cinéma

映画レビュー

5.0多幸感にあふれたコメディ

2024年5月31日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

セバスチャン・ローデンバック監督は、前作『手をなくした少女』を1人で制作した時、線の数を減らしたデザインを編み出し、素晴らしい効果を上げた。今回はプロダクションによる制作だが、前作のスタイルを踏襲してさらに魅力的な作品を作ってきた。一枚いちまいの絵の輪郭線は不完全だが、動かしていけばきちんとキャラクターの輪郭が浮かびあがる。その揺れ動く線自体がとても魅力的。
物語は、亡き父親の得意料理だったパプリカチキンを食べたい少女のために、母親がチキンを探して奮闘するというシンプルなもの。コメディタッチで母娘の小さな冒険と騒動を温かく描いていて、多幸感に溢れた内容だ。デザインと作風が抜群にマッチしていて、この物語にはこのスタイルが最も良かったと思わせる。今年のアニメーション映画を代表する一本だと思う。
吹替版も完成度が高い。安藤サクラが母親を演じることで、この母親のハチャメチャぶりがことさらに強調されるようになった。

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杉本穂高

4.5絵も登場人物の、気ままでわがままなのがいい。

2024年4月30日
PCから投稿

『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』で省エネ手法とセンスを駆使し、たったひとりで長編アニメを作り上げるというコロンブスの卵を成し遂げたセバスチャン・ローデンバックが、妻で映画監督のキアラ・マルタと共同で監督と脚本を手がけ、『大人のためのグリム童話』の手法を集団作業に拡張して作りあげた創意工夫にあふれるアニメ。

絵の面白さだけでも素晴らしいが、大人も子どももどっか倫理のネジが吹っ飛んでいて、それでいて雑なまま下町(団地)の営みが成立してしまう世界観がとても好み。創作も人生も生活も、これくらい好き放題で気ままでいい、とテーマに掲げているわけではないが、そのイビツだけど風通しのいい人生感みたいなものがアニメーションの線の少ない隙間から風のように吹き抜ける感じがする。

キアラ・マルタは日本未公開だけどハル・ハートリーの『シンプルメン』に触発された『シンプルウイミン』という映画をエリナ・レーヴェンソン主演(本人役!)で撮っていて、ローデンバックは『大人のためのグリム童話』の女神役にエリナ・レーヴェンソンを起用したというハル・ハートリーとのつながりがあり、確かにハル・ハートリーのちょい斜めのヒューマニズムとちょっと通じるところある。

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村山章

3.5抽象的なタッチから生まれるリアルな感情と素っ頓狂なおかしみ

2024年4月27日
PCから投稿
鑑賞方法:試写会

これはゼロからイチを生み出すタイプのアニメーション作品だ。絵のタッチは革命的なほど抽象的で、登場するキャラクターや背景なども単色で塗りつぶされていたりする。なのにどういうわけか、巻き起こるシュールで素っ頓狂なドタバタや心と心のすれ違いが痛いほど切実に、時としておかしく、リアルに伝わってくるのだから不思議なものだ。核となるのはリンダの「チキンがたべたい」という純粋で一途な思いと、無くなった指輪を娘が勝手に持ち出したものと一方的に決めつけてしまった母の申し訳ない気持ち。それらを巡って警察を巻き込んだデッドヒートが繰り広げられ、かと思えば、街では経済活動がストップするほどの大規模なストライキが広がっているのも実にフランスらしい。これら近景と遠景をオーバーラップさせながら、全てが一つの大切な感情と記憶へと集約されていく顛末がしみじみ胸を打つ。珍味ながらこの香りと食感と何とも言えない余韻が癖になる。

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牛津厚信

4.0線の躍動

2025年4月1日
iPhoneアプリから投稿

この映画について幾人かの知人と話をしたことがあるのだが、毀誉褒貶はさておいて印象的だったのは、誰も彼もが本作を「自分の肌に合うかどうか」という水準でジャッジしていたことだった。換言すれば、主人公リンダと周囲の人物たちに感情移入できるかどうかが本作の評価を分けるキモである、ということだ。これはなぜだろうか?

『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』「第4章 棒人間と複数の世界」という批評本の中では、アニメーションの独我論性についての議論がなされる。乱暴に要約すると、制作プロセスの中に他者(演者、街並み、自然物など)という偶然性の介入余地のある実写映画と比べて、すべてが制作者の意図の下で織り上げられるアニメーション映画は独我論的だ、というものだ。

アニメーション映画=独我論という否定的テーゼに対し、アニメーション批評家の土居伸彰はアニメーション作家ユーリー・ノルシュテインの言を引きながら以下のように述べる。

「『話の話』の中に「永遠」というエピソードがあって、海辺で夕日が世界すべてを輝かせるなかで、すごく平和な暮らしが描かれる。漁師のお父さんがいて、赤ん坊をあやすお母さんがいて、遊んでいる娘がいて、それとなぜか縄跳びをしている牛がいる、というシーンです。(中略)このシーンのそのベースになっているのは、ノルシュテイン自身が世界との調和を感じた瞬間なんです。で、ノルシュテインはさらにこう言っている。そのときに自分自身が感じた調和というのは、もし隣に他の誰かがいて自分と同じ風景を見たとしても、その人にとっては調和とは感じられないものである。アニメーションとは、そういう個人的に抱かれた(個人的にしか抱かれえない)調和の世界を作るものだ、と言うんですね」

「アニメーションは独我論的だ」という言い方をポジティブに敷衍するなら、それは「アニメーションはパーソナルな調和のある世界を描くものだ」となる。これは特に、宮崎駿流の「リアリズム」を志向し続ける日本のアニメーションではなく、単純で可塑的な線の構成によって成り立つ海外の(特にアート系の)アニメーションにおいて顕著だ。

アニメーションの自由自在な線の躍動は、光学的に捉えることが不可能な個々人の内的世界を描き出すことができる。

アレ・アブレウ『父を探して』や渡辺歩『海獣の子供』では、物語の途中から背景やオブジェクトといった舞台装置が消失し、ひたすら線がグニャグニャと弛み、交わり、弾ける観念表現が展開される。それによって、カメラの映像という光学的事実の中には決して写り込むことのない、登場人物の内的世界がダイナミックに描出される。

アニメーションの独我論性とは、換言すればアニメーションである意味そのものなのだ。

さて本作に戻ろう。本作をめぐる評価に関して、「肌に合った/合わなかった」といった言い方が頻繁になされるのはなぜか。今や答えは簡単だ。アニメーションはパーソナルな調和のある世界を描くものであるから、である。受け手が登場人物の内的世界に調和することができれば「肌に合った」という所感が、逆に拒絶感を覚えれば「肌に合わない」という所感がそれぞれ出力されるだろう、ということ。

本作は主人公リンダがチキンを食べるまでの騒動を描いたコメディであるが、随所に『父を探して』『海獣の子供』で展開されたような内的世界が描き出される。たとえば終盤、チキンを調理するくだりでは、真っ暗な画面の上でリンダの過去と現在が縦横無尽に錯綜し、父親の喪失という本作の主題に決着をつける。

しかし本作が特異なのは、内的世界の縦横無尽さが内的世界と対置されるはずの現実世界にも波及しているという点だ。現実世界における登場人物たちの行動は常に衝動的で、現実倫理に照応させてみれば非常に問題がある。鶏を盗んだり、警官から銃を奪おうとしたり、積荷のスイカを勝手に食べたり。線の自在さはいつしか紙の上を離陸し、登場人物たちの行動原理までをも自由にしてしまう。

思うに、ここが本作の「肌に合う/合わない」の最も明確な分水嶺なのだろう。アニメーション表現がどうだのと御託を並べたところで、そこに一貫性のある物語がなければ大半の人間は作品に見向きもしない(だからこそ線の躍動は内的世界の描写に局限されているともいえる)。

しかし本作は、物語的一貫性(とそれを支える一貫的な登場人物)を放棄してまで全面的な自由を称揚する。それは結果的に物語の破綻や倫理の無視といった結果を招いているものの、私はそれを上回って画面内に漲る底抜けの自由さのほうを支持したい。

ただ、だからこそ、その底抜けの自由さをストライキという政治性と安易に接続している点に関しては蟠りが残った。せっかく映像が手に入れかけていた無上の自由を素朴な政治問題によって文脈化してしまうのは悪手なんじゃないかと思う。ストライキなどわざわざ仄めかさずとも本作が反体制の映画であることは自明なのだから。

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因果