異人たちのレビュー・感想・評価
全91件中、1~20件目を表示
クィアの言葉を巡る見解の違い
主人公とその恋人の間にある、ゲイやクィアという言葉の解釈の違いを描いているのがとても興味深い。性的マイノリティは画一的ではないという当たり前のことがさらっと描かれている。クィアという言葉はかつては蔑称だったわけだが、あえてその蔑称を戦略的に用いることで権利獲得運動を展開した結果、現在では肯定的な意味合いで使われることが多くなっている。ただのおしゃれでファッショナブルな言葉として消費されていいものではない、という考えがここには表れているように思う。
本作が死んだ両親との対話を中心にしているため、映画はこうした世代間の意識差が浮き彫りになる構成になっている。そして、世代で考えも意識も違って、死者と生者であってもつながりは作れることを感動的に描いている。
後半、孤独死に対しても想いを馳せる内容があるのだが、イギリスで孤独死というと「おみおくりの作法」という映画を思い出す。孤独死した人の葬儀を行う仕事をしている男を描く作品だが、人とのつながりを回復させる物語として結構共通点がある。
4人の演者たちが奏でる温もりのアンサンブルに酔いしれる
実によくできた翻案である。山田太一の生んだ原作小説の本質が、英国の風景、文化、人々の物語として再構築されることで、より明確な光の筋となって我々の心に差し込んでくる。改めて気づかされる本作の魅力は、境界線のなさだ。ロンドン市街地から電車に揺られ、近郊の住宅街に建つ生家を訪れると、死んだはずの両親が「さあ、入りなよ」と出迎えてくれる。主人公もまた、いっさい驚きや躊躇いの表情を浮かべることなく、そこにスッと入り込んでいくーーー。亡くなって30年以上経つ両親と、かくも大人どうしの姿で再会し、掛け替えのない親友のように過ごすこのひととき。かつて口にできなかったこと、その時の胸の内を吐露しあう演者たちのアンサンブルが素晴らしく、セクシュアリティというテーマの絡め方も秀逸。無駄な要素を削ぎ落とした美しい映像、シンプルな移動、舞台設定、語り口が、忘れがたく温もりに満ちた幻想譚を見事な感度で成立させている。
孤立する主人公に訪れる衝撃的な幕切れ
山田太一の原作を大林宣彦監督が映画化した『異人たちとの夏』を、クィア映画の傑作『WEEKEND ウィークエンド』で知られるアンドリュー・ヘイがリメイク。すると、オリジナルの味わいがどう変化しているのか?
期待を胸に鑑賞した本作には、子供の頃に死別した両親との再会によって主人公が体験する、過ぎ去った時間への思い、できなかった告白、やがて訪れる、人は皆"異人"なのだという冷めた結論、等々、大林作品と共通する部分とそうではない部分が上手く配分されていた。
最も大きなアレンジは、主人公のアダムをロンドン郊外に住むゲイの脚本家に置き換えたこと。同世代(40代)の男たちの多くがさらに郊外に戸建住宅を構えて家族と暮らしているのに対して、アダムは高層マンションの1室で誰とも交わらずに暮らしている。隣人でゲイの青年、ハリー以外は。そうやって主人公の孤立感を意図的に際立たせることによって、密閉された空間と時間の中で起きるスピリチュアルな物語が微妙なリアリティを帯びてくるのだ。孤立、死、セクシュアリティ、ストレンジャーというワードが一つになるラストで、筆者は涙を堪えるのに苦労した。
愛した人はすでに側にいず、気がつくと、誰も真剣に愛せなくなった男に訪れる衝撃的な幕切れに、あなたは何を感じるだろうか?
題から“夏”が消え、日本的情感も失われた
2023年11月に死去した脚本家・山田太一が1987年に発表した長編小説「異人たちとの夏」の2度目の映画化。英訳された小説を読んだ英国人監督アンソニー・ミンゲラ(「イングリッシュ・ペイシェント」「コールド マウンテン」など)が映画化に動いたのが企画の始まりで、ミンゲラ監督が2008年に亡くなり紆余曲折を経て、同じく英国人のアンドリュー・ヘイ監督(「荒野にて」「さざなみ」)で映画化が実現した。米国の映画祭での初上映は昨年8月、完成した本作を生前の山田氏も観て、「温かく受け入れていただけた」とヘイ監督がインタビューで振り返っていた。
なお最初の映画化は、1988年の大林宣彦監督作「異人たちとの夏」。都会のマンションで一人暮らすシナリオライター業の主人公・原田(風間杜夫)が、生まれ育った浅草を訪れ、12歳の時に死別したはずの両親(片岡鶴太郎、秋吉久美子)とひと夏を過ごす。古い木造アパートの畳の間で、蒸し暑く汗ばむ午後、上着を脱いでランニングシャツ姿になり、ちゃぶ台を囲んで母が作ったアイスクリームを食べる。郷愁を誘う戦後昭和の家族の情景に、亡くなった先祖が数日間帰ってくるというお盆の言い伝えもファンタジックな物語要素に重ねられている。
一方でヘイ監督版の邦題は「異人たち」。舞台を現代のイギリスに移したことで、ノスタルジックな感興も今の英国人が1990年代頃の郊外に抱くそれに置き換えられている。題から夏が消えたように、蒸し暑い夏も、畳の部屋で過ごす下着姿の家族も当然のように描かれず、なんだか日本らしい情感が失われてしまったようでさびしくもある。
主人公と同じマンションの住人で、やがて深い仲になる相手が、女性から男性へ変更されたのも重要な改変点だ。ゲイを公表しているヘイ監督は、自身の体験を脚本に反映させた(シーンの一部は実際に幼少期を過ごした家で撮影されたという)。主人公アダム役に起用したアンドリュー・スコットもゲイをカミングアウトしている。昭和日本の郷愁が失われた代わりに、多様性とインクルーシヴといった現代的な要素が加わり、欧米での高評価につながっているようだ。
なお、大林監督版ではラスト近くに唐突なホラー転調があり、賛否が割れている。2019年の東京国際映画祭で上映された際の舞台あいさつで、長女の大林千茱萸(ちぐみ)が「最初に松竹から話をもらったのは(夏に観客をぞっとさせる)ゾンビ映画だった」と明かしていた。その後、山田太一の原作を市川森一の脚本で映画化することに決まったが、初期のホラー構想の名残りであの終盤になったのだそう。「異人たち」のプレス資料の中で、山田太一の長男で撮影監督の石坂拓郎と次女の長谷川佐江子がインタビューに応じ、父の執筆時の思い出や再映画化への経緯を語っているのだが、大林監督作についてまったく言及していない点が興味深い。大林監督・市川脚本の改変が山田家では不評だったのだろうか。
原作を知らずに出会いたかった
ひとりは寂しい
ん~~!不思議な世界観。
人間の時間と通常の時間
期待外れでした。
クレア・フォイさまさま
クレア・フォイのナチュラルな芝居は、
その多彩さと深みで観客を圧倒する。
冷静な女王陛下を演じるときの寡黙さ、
ひとこと多い世話焼きオカンの親しみやすさまで、
目のやり場、小さなしぐさ、一挙手一投足、
彼女の演技はどの役でも自然で真に迫るものである。
そのオールラウンダーぶりだけでも十分に楽しめる本作は、
異人とオカンの行ったり来たりを、存分に堪能できる作品である。
ちがう言い方をすれば、
クレア・フォイのブリッジの説得力が無ければラストも、
作品全体も成立していたか、、、
怪しい。
本作はフェリーニや黒澤のような世界中の巨匠が晩年に手掛ける、
子供時代の思い出と夢が交差するような作品に似た趣がある。
当時は、まさか山田太一まで!
そんな思いで鑑賞した記憶がある。
更に本作は、クィア作品としての一面も持っている。
自分に起こっている目の前の事を一歩引いて見ることで、
新たな視点を得ることができる。
更に10歩、100歩、一年、十年、二十年引いて、
その中で見えてくるものは、、、、
星の位置からなら、
他者の視線を恐れずに進む勇気も与えてくれる。
FGTH懐かしい
少し混乱したけど感動した
この映画は寓話的というか、作品中の「現実」と「空想」との境目がよくわからないようになっているので、最後の方でちょっと混乱した。というか展開するだろうと思っていた物語が「え、そこで終わる?何が起きた?」みたいなモヤモヤが残るけど、振り返って考えると、たぶん見ている間に感じる印象こそが映画の伝えたかったことなのだろう(と思うしかない笑)。
どんな印象を受けたかというと、孤独感とか、それが癒されるとか、親子関係での悲しみとか、救いとか、内省とか、色々あった。親子関係の部分は非常によくわかったというか、実際の親子関係はどうにもならないんだけど、自分がどう向き合って受け止めるかが大事だなと感じた。自分の親も亡くなっているので、見ていて泣いてしまった。
空想的な要素が強いのでボンヤリ見ることをオススメする(笑)。
軽いホラー
山田太一氏の原作及び大林宣彦監督の「異人たちとの夏」を知っている人...
孤独
結局、私たちは生きているうちは分かり合えないのかもしれない。死者が癒す孤独な魂。
異人たちの夏とは異なるラスト。あの夏の、浅草のアパート、お父さんのタンクトップ、パタパタと世話を焼くお母さんが懐かしいなあ
ロンドン版は、懐かしさよりも和解や癒し、アダムの孤独が前に出ていた。父母との出来事も夢であるかのような描写があって、やや現実的。
途中から別物としてとても良い映画だと思いながらみた。小さいころのアダムを抱きしめてあげるのはいいね。もっと時間があればって思うだろうけど、でもわかってるよ。大丈夫。
ラストは孤独な魂が溶けて星になって、案外希望を感じさせた。たくさんの星の輝き。
浅草の喧騒から一本入って迷い込むのが良いんだよなとか、あのすき焼き屋の中居さんも良いよなあ、両親か薄くなってくところ泣けたなあ、なんていろいろ比べてはしまった。
山田太一ドラマでドラッグ?!クラブ?!と意表をつかれた。ふぞろいの林檎たちでもそんなシーンあったような気もするけど。
あのロンドンのアパートはだいぶ立派だけどなんで人住んでないんだろ。環七のマンションはさびれた風だった。
寂しさという毒
クィアと孤独
ゲイである事と孤独を強く否定した主人公アダム。
彼の孤独はきっとゲイである事より両親ともっと幸せな時間を一緒に過ごしたかった事が1番大きいんだろうなと感じた。
もちろんゲイである事で虐められる寂しさもあるだろう、出会いの場が飲み屋だったりクルージングスペースだったり日中ではなく夜のシーンが多いため、そこにはアルコールやドラッグ、SEXも関わってくる。
みんな大小ある寂しさを慰めたり埋めたりするのだろう、
両親とのお別れのシーンはとてもじんわりきた。
父に抱きしめられて、最後に愛してると言われる事は俺自身も求めている事だった。
そんな自分の中の消えないシコりを思い出させてくれる、俺に取ってはそんな作品だった。
夏やお盆は関係なし
山田太一の原作、大林宣彦の映画、いずれも未読・未見で、元ネタはタイトルしか知らない丸腰での鑑賞。主人公アダムおよび同じマンションの住人ハリーは同性愛者設定で、その辺はアンドリュー・ヘイ監督の性的指向にあわせて…ということなのだろう。同じく劇伴にはフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドにペット・ショップ・ボーイズなんかが使われているし。
自身が性的マイノリティであることの孤独感が、それが理解をされぬまま早世した両親との夢うつつな展開と、登場人物の極端な少なさ、常にどこか不安さを抱えているようなアダムの所作で表現されていて、なんか昨年のアフター・サンっぽさを感じると思ったらハリー役ポール・メスカルは同作のパパだということが後でわかった。オープニング、日の出とともに自分の姿が徐々に窓ガラスに浮かび上がるカットは見事で、なるほど「異人」ぽさを感じさせた。
自分が子どもからカミングアウトされたらどう受け止めるか…と親目線で考えつつ観てしまったが、両親との別れや理解とで大の大人がうるうる泣き出す姿にはじんわりもらい泣き。子どもの頃と同じアダムのパジャマ姿は笑えたけど。
全91件中、1~20件目を表示