私がやりましたのレビュー・感想・評価
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殺人事件を踏み台に輝く女性達
救いようの無い男達と逞しい女達の映画でした。
評価ポイントが良かったので見ましたが、刺さりませんでした。
舞台のような画面作りや美形の主人公と、楽しめる要素があったのですが、
残念です。
コメディとミステリーの配分が、予想と違いました。
フランス映画は相性が良く無いのか。
それでも、最後の映画エンドロールは笑えました。
なんという発想の転換か! オゾンにやられました。
先が読めないサスペンスに、オシャレでバカバカしい色づけをしたコメディー。
犯していない殺人を認め、正当防衛を主張して無罪を勝ち取る。女性の参政権が認められていない1935年のパリが舞台。(フランスで女性参政権が認められたのは意外と遅い)
突然無実の殺人罪に問われた無名の女優は、ルームメイトの新人弁護士と共謀してこの裁判で有名になることを目論み、狙いどおり一躍時の人となったが、本当は殺していないということが死守すべき秘密になる。そして、彼女らの前に現れたかつての名女優が自分が真犯人だと告げ、それを公表すると脅してくる…という破天荒なサスペンス。
発想のベースとなった戯曲があるらしい。
ミュージカルに合いそうな物語ではないかと思った。
無名の女優と新人弁護士の主人公コンビに真犯人である往年の名女優が加わって共犯関係となり、お互いのWin-Winのために世間を欺き通すドタバタ劇。
歌って踊って、愉快なミュージカルになりそう。
フランソワ・オゾンの映画に私が期待していたものとは異なっていたので★は辛めだか、女性を描く姿勢は一貫した、ある意味オゾンらしい作品ではある。
女優以上に弁護士が美しかった
1935年、パリの豪邸で有名映画プロデューサーが殺害され、三流女優マドレーヌが容疑者として取り調べを受けた。マドレーヌは正当防衛で無実になると言われ、プロデューサーに襲われて自分の身を守るために撃ったと供述し、親友で同居している弁護士ポーリーヌとともに法廷に立った。鮮やかな弁論と感動的なスピーチで正当防衛を訴え、陪審員や大衆の心をつかみ、マドレーヌは無罪を勝ち取った。そして、悲劇のヒロインとしてスターの座も手に入れた。そんな時、かつての大女優オデットが現れ、プロデューサー殺しの真犯人は自分だと主張した。さてどうなる、という話。
第二次世界大戦前のフランスが舞台なので、いい加減な捜査だったり、誘導尋問による自白の強要による裁判だったりと、今ではありえない事が行われていたのだろうと思った。
フランスに限らず、当時の日本はもっと酷かっただろうけど。
コメディ要素も有り面白かった。
女優マドレーヌより弁護士ポーリーヌ役のレベッカ・マルデールの方が美しいと思った。
フランソワ・オゾンの新境地!
フランソワ・オゾンと言うと、終始薄ら暗い雰囲気が作品全体に漂い、ストーリーの起伏もそんなに無く、ちょっとフランス映画嫌いの皆さんの嫌いとする、「おフランス映画感」をしっかり纏った作品を撮る印象があるのですが、今作は良い意味で裏切られた!
今までに無くスタートから喋りまくり、コメディ要素も交えながら、軽やかなステップを踏むように進んでいくストーリー。いつも漂っている薄ら暗い雰囲気は無く、フランソワ・オゾンの新境地を見せてきたな、という印象。
そしてイザベル・ユペールがめちゃくちゃ素敵!彼女のシーンだけでも見る価値あり。
フランス映画嫌いの人にはぜひ見てもらいたい作品です!
こんなオゾン節が好き
フランソワ・オゾン監督らしいと言って良いのかは分かりませんが、『8人の女たち』を思い出さずにはいられない、オシャレで楽しいミステリーコメディ。観ていて、この感覚って三谷作品にも通じるものがあるのかなとも思います。
秀逸なのは舞台が1930年代となっていたこと。元ネタとなった戯曲が作られたのが1930年と言うこともあるでしょうが、芸能界でのし上がるために、自分を殺人犯にしてでも世間の話題を集めようとする発想は、今の世の中で自身のSNSをバズらせようとするのと全く同じ。当時は新聞が最大の広告メディアであり、裁判はエンターテイメントにもなり得たのでしょう。そうした空気感がとても良い感じなのです。
そして存在感があったのはやはりイザベル・ユペール。清純な役から艶かしい役、悪女、それから今回のような怪演まで、とにかく器用。つくづくフランスを代表する俳優さんなんだと思います。
フランス映画は通好みなのか、どうしても単館での上映が多いですが、気楽に楽しめて観れば確実にその面白さに気づける作品が多く(今年日本公開の仏作では他に『パリタクシー』や『ショータイム!』も秀作)、もっと多くの人に観てもらえればと思います。本作ももちろんそんなオススメできる作品です。ただその一方で、シネコンとは違うこじんまりした雰囲気に合うのもフランス映画だったりするのですが。
「これぞフランス映画」的な痛快さ
主役から端役まで、登場人物全員が「自分にとって都合がいいか」しか考えていない
「正しい人なんてこの世の中にはいないよね」と言われているような気分
結論もそれでいいのか?
まあ、いいのか、これで
「私の人生の歯車を回すのは私自身」みたいな女性たちのたくましさが気持ちいい
217 見ていて楽しいシャシン
お気に入りオゾン監督
戯曲のような構成。
コメディ風に弾むようなテンポでテイスト。
謎解きでありながら一方でワクワクさせる演出は
まさにオゾンスタンダード。
いつ見てもいいですね。
70点
京都シネマ 20231118
パンフ購入
楽しくて、したたかな作品
1年1作の割合で、充実した作品を世に送っているフランソワ・オゾンが、1930年代の米国の演劇を出発点として脚本・監督を担当した最新作。原作は、37年と46年、既に2回映画化されている。オゾン得意の本歌取りか。
舞台は1935年のパリ。狂乱の季節は過ぎて、恐慌を経験し、戦争がすぐそこに迫っている。30年代フランス映画の影響が、そこここに見られ、「巴里祭(32年)」が屋根の登った時の眺望に、「自由を我らに(31年)」が工場の風景に活かされている。
若くて美しいが仕事のない女優マドレーヌ(ナディア・テレスキウィッツ)が、有名な映画プロデューサー殺害の容疑で逮捕される。無職の弁護士だが、やはり仕事のない親友のポーリーヌ(レベッカ・マルデール)の助けで、彼女は正当防衛を理由に無罪を勝ち取り、街の皆の口に上るスターになる。ところがどっこい、サイレント時代の大女優オデット(イザベル・ユペール)が私こそ真犯人よと名乗り出る。何もお金目当て。一見、クライム仕立てのライト・コメディ。
オデットが登場した時、これは舞台演劇と思った。ほとんどの場面が、室内で進行し、最後も舞台で終わる。その後の登場人物の行く末は、新聞の記事で示されるだけ。
見どころはどこに。二人の若き女優、美しいナディアとセリフが心地よいレベッカ、しかし何と言っても、イザベル・ユペールを筆頭に、芸達者たちの演技が心に残る。
戦前のフランスは、日本も顔負けの家父長(男性)中心社会で、1944年になるまで、女性には参政権が与えられなかった。それどころか、ご主人の同意なしに、妻が銀行口座を開く(小切手帳を持つ)ことができるようになったのは1965年。オゾンは、この物語の設定を30年代にすることにより、さりげなくフェミニズムの根源を明らかにしている。当時、女性による連続殺人事件が起きていたが、それは女性による人権の主張だったのだ。
何と強かなオゾン。表面で、華やかなパリ、華麗な衣装に酔い、その裏では、女性たちの苦しみに思いを馳せることができる映画だ。もっと多くの人たちに。
イザベル・ユペールのオーラ
オゾンの感性は、やっぱり好きですわー。
衣装も装飾も台詞も音楽もキャラクターも演出も、唯一無二で大好きです。
その中でも、カメラワークがかなり好き!
なので、結構、最初から贔屓目で観てしまうのですが、さて、今回は…
容姿と知能とキャリアを持った三人の女性が犯人の座を巡るコメディ。
1935年が舞台ということで、建築物や衣装がとてもステキでした!
また、現代と違って(と言っても、未だに根強く残っておりますが…)、
年齢や、セックスシンボル的な見られ方や、仕事での差別などなどの、
それぞれの生き辛さ、そんな壁をぶち破るべく、ある意味逆手にとって、
邁進していく三人がカッコ良くもあり、可愛くもあり、
同じ同性として非常に楽しい作品でした!
しかし、イザベル・ユペールは、さすがの貫禄、画面からのオーラが凄かった!!
彼女のコメディは、あまり観たことなかったのですが、いいですね~。
若いお二人は、ストーリーの中では、彼女とウィンウィンでしたが、
俳優としては、勝負あり!でした。
オゾンの復古調ミステリ映画ふたたび。ただし終盤の作風の転調と逸脱は個人的に残念かも。
一応面白かったは面白かったけど、
かなり、歪んだ映画ではあったような。
なんか、ヒッチコックのつもりで観ていたら、気づくといつのまにやらデ・パルマ映画にでもすり替わってた、みたいな(笑)。具体的には、デ・パルマの『ボディ・ダブル』に近い悪ノリの気配をちょっと感じた。
思いがけない転調のあと、妙に若干居心地の悪い「悪趣味」なテイストが支配的になって、なんとなく虚をつかれたというのが正直な印象。「収まりのいいところで終わる」とばかり信じ込んで安心していたら、オゾンに「お前はその程度の観客か」と鼻で笑われ、おちょくられたような……。
しょうじき『8人の女たち』みたいな、正攻法のミステリ映画を少し期待しすぎていたのかもしれない。
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フランソワ・オゾンのミステリ映画といえば、それはもう『8人の女たち』である。
あれは掛け値なしの傑作だった。
僕のオールタイム本格ミステリ映画ベスト10にいれてもいいくらいだ。
(『サスペリアPART2』『探偵スルース』『情婦』『オリエント急行殺人事件』『薔薇の名前』『スタフ王の野蛮な狩り』『カル』『アイデンティティー』『ストーミー・ナイト』『8人の女たち』……でどうです? 今、でっちあげてみたw)
ダグラス・サークをバリバリに意識した、総天然色のミュージカル仕立て&復古調ミステリでありながら、現代的な毒と告発性にも富んだヴィヴィッドな内容は、まさに素晴らしいの一言だった。
大女優たちの夢の共演。ヒッチコッキアンらしい粋な演出。徹底したブラック・ジョーク。それでいて、女性たちの連帯を熱量をもって描く、骨太の社会派ドラマとしても成功している。
何より衝撃的だったのは、原作にロベール・トマという生粋の「本格ミステリ系劇作家」(あの傑作ミステリ演劇『罠』の脚本家!)の非映像化台本を見出してきて、今日び廃れ果てたと思われていた「閉ざされた雪の山荘」を舞台に、正真正銘のクローズドサークル・ミステリをかましてきたことだ。しかも、途中で館から外に出た人物が「とある事実」に気付いて立ちつくす、綾辻行人の『時計館の殺人』みたいなシーンまで出てきて、超感動。それと、作中で明かされる『なぜ犯人は雪の山荘という密室状況を作らねばならなかったのか』に関する謎解きがまた、実によく出来ていてね……。本格ミステリマニアにとっては、もうこたえられない作品なのだ。
それと比べると、今回の『私がやりました』は、少しゆるい気がする。
たしかに、「罪の奪い合い」をするというメインのアイディアは面白い。
搦め手のネタ感が、ちょっとパット・マガー(『被害者を捜せ!』『探偵を捜せ!』『目撃者を捜せ!』で知られる女流本格ミステリ作家)みたいで。
女性映画としても、狙いは明確だ(それにしても最近は、ミステリ映画やどんでん返し映画だと思って観に行ったら女性映画ってパターンが多いな。『ドント・ウォーリー・ダーリン』『ファイブデビルズ』『ザリガニの鳴くところ』『MEN』……)。
ただ、物語の「精度」とミステリとしての「一貫性」が、『8人の女たち』と比べると、いくぶん物足りない感じがする。いや、だいぶ物足りないかな?
今回、原案となったのは、ジョルジュ・ベルとルイ・ヴェルヌイユが1934年に発表した戯曲『Mon Crime(私の犯罪)』で、『真実の告白(Confession)』(37、ウェズリー・ラグルス監督)および『Cross My Heart』(46、ジョン・ベリー監督)のタイトルで、2度もハリウッドで映画化されているらしい(どちらも「幻の映画」化していたとのこと)。
今回の映画化にあたっては、かなりフランソワ・オゾンのほうで内容に手を加えているようで、たとえば元ネタの戯曲でヒロインの職業は「作家」だし、女性映画、ジェンダー映画としての要素も、概ねオゾンの付け加えのようだ。
だから、どこまでが原作戯曲の問題で、どこからがオゾンの改変に由来するものかは正直よくわからない。ただ、とくに「ゆるい」と感じる「後半戦」は、概ねオゾンが改筆した部分に問題があるような気がする。
少なくとも前半は、それなりによくできていると思ったのだ。
全体にこぢんまりとしているし、若干平仄の合わないところもあるし、予審判事がアホすぎるから成立しているだけの話にも思えるけど、アイディア・ストーリーとしてはとてもいいところを突いているし、何よりテンポと狙いがはっきりしていてわかりやすい。
まず、アバンで「緞帳」があがる(いきなり、舞台劇を意識させる仕掛け)。
その後、突然「スイミング・プール」のアップから始まって、端からもう笑うしかない。
(フランソワ・オゾンが『8人の女たち』の「次」に撮ったのが『スイミング・プール』。合わせて、観たまんまビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』のオープニングの、小粋なパロディになっている。)
プール際の邸宅から、何か言い争うような声がしたあと、飛び出してくる若いブロンドの女。(このシーンがあるせいで、一応「銃で撃った」という話は「嘘だ」という大前提で、客は安心して観られるつくりになっている。あと、ちゃんと門前でイザベル・ユペールらしき女とぶつかりそうになる。)
一方、アパルトマンでは、別の若いブルネットの女と、家賃を取り立てに来た大家さんとの丁々発止のやりとりが続く。(ドアを抜けるときにカメラが一緒に壁をすり抜けることで、この部屋が「セット」であることが強調され、本作の「舞台劇」としての印象が補強される。)
芝居がかった台詞。テンポと回転のいい会話の応酬。両者を均等に映すカメラ。
いかにも「舞台劇」らしい台本&演出だ。
そこに最初の女が帰って来て、二人がルームメイトであることがわかる。
金髪のほうはマドレーヌ。職業、女優。
ブルネットのほうはポーリーヌ。職業、弁護士。
さらには金髪のほうの愛人アンドレが登場。いろいろ様子がわかってくる。
マドレーヌとアンドレが、猛烈に書き割りくさい「窓」から「屋根」に出ておしゃべりする演出で、さらに「舞台劇」としてのイメージが観客に植え付けられる。
要するに、フランソワ・オゾンは演出を通じて、これが1930年代の「舞台劇」(およびそれをベースとした映画用台本)の映画化であり、復古調のノリと内容を「それをそれとして」受け止めるよう、執拗に観客に要請してくるのである。
逆に言えば、ふつうに観ていれば、われわれも自然に「古い舞台劇」の世界に巻き込まれ、いつしか多少のご都合主義や、科学捜査の気配皆無の適当な証拠調べ、ほとんど審理の体を成していない法廷でのやりとりなどを気にせず「気楽に受容」できるよう、感性を切り換えられている、ということになる。
その意味では、イザベル・ユペール演じる元大女優オデットが出て来てからも、古いコメディ映画を観ているような様式美と、徹底して作り込まれたやりすぎの舞台演技と、どこからどう見ても明白な『サンセット大通り』のパロディ展開は健在であり、われわれは愉快に「古雅なミステリ映画の世界」を引き続き楽しむことができる。
オデットのキャラ自体、パンフではサラ・ベルナールを念頭に置いているとあるけれど、基本それは「衣装」の話で、どちらかといえば思い切りグロリア・スワンソンを意識しているのでは?(サラ・ベルナールは最初に映画に出た1900年の時点ですでに56歳で、「往年の映画スター」では全くない)
現在のジョニー・デップをさらに太らせたうえで5分刈りにしたような性豪プロデューサー、モンフェランの見た目も、『サンセット大通り』に出てくるグロリア・スワンソンの執事役エーリッヒ・フォン・シュトロハイムを若干意識しているような。なんといっても、オデット自身が「彼はもともと私の運転手だったのよ」と宣言するわけですから(笑)。
若いマドレーヌが自らの野望実現のために、大女優オデットの復帰を後押しするブレイン役を買って出る流れだとか、大女優が疑いもなくそこに乗っかってくるところとか、ラストで劇場内演劇が作品を侵食して観客席と地続きになるメタ的展開とか、総じて後半戦が『サンセット大通り』を強烈に意識した作りになっているのは明白だろう。
これに、花婿の父親に策略を練って自分を認めさせるような内容の、何らかの旧いロマンティック・コメディの要素を掛け合わせてあるといった感じではないか? パンフによれば、オゾンはスタッフに、エルンスト・ルビッチの『極楽特急』やサッシャ・ギドリなどを観ておくよう勧めていたらしい。
そういえば、裁判シーンの調子はずれな戯作調が、去年シネマヴェーラで観たサッシャ・ギドリの『毒薬』(51)によく似てるなあと思いながら観ていたのだが、パンフでオゾンがカメラマンに参考にするように言ってたと書いてあって「おおやっぱりな!」と。
ガストン・ルルー原作の『黄色の部屋』(30)を観たときも思ったけど、なんかフランスの古い裁判って『逆転裁判』みたいというか、傍聴している民衆にとっての見世物感が強いんだよね。まあ、あんな弁護士とか検事とかの口八丁手八丁だけで、容易に裁判結果が左右されてたら、ホントは超マズいと思うんだけど(笑)。
というわけで、なんだかんだで終盤にさしかかるまでは楽しく観られてたわけだ。
ところが、途中で調子がなんとなく狂っちゃうんだよね。
具体的には、なんかあのマドレーヌが「●●を放り出しにする」シーンと、
「主役ふたりがレズっぽくイチャイチャお風呂に入ってる」シーンから。
唐突に作品のテイストが、品の無いバッド・テイスト風味に切り替わる。
急に「シニカルで攻撃的な」、現代劇仕様のノリに「侵食」される。
だって「古き良きコメディ映画」では、●●なんか絶対出てこないし、あんなビアン風味剥き出しの挑発的なお風呂シーンなんかやるわけない。
いきなりあそこから、今まで保っていた映画の「コード」が切り替わった。
そんな感じだ。
そこまで、一応は突拍子はなくとも「辻褄」は合わせてあった物語が、途端にバタバタし始めるのも、ひっかかるところだ。
それぞれのやっている行動や思惑が、なんだかうまくかみ合っていない感じがあるのだ。
オデールと予審判事のやりとり、いなせな土建屋の巻きこみ方、タイヤ会社社長の巻きこみ方、タイヤ会社社長とオデールのやりとり。すべてが「行き当たりばったり」で「成り行きまかせ」。作中人物の行動としても、脚本としても、明確な意図や一貫性がイマイチ見当たらない。
たとえるなら、ヘ長調で展開してきた楽曲が、急に無調もしくは多調になったような。そんな猛烈な違和感。
しかも、それが意図的というか、オゾン自身が「それでOK」と考えている節がある。はなから「ちゃんと終わらせようとしていない」。むしろ「最後はめちゃくちゃにして、調子っぱずれのコメディとしてドタバタで終わらせよう」と「わざと」やってる。
そこの「悪ノリ」に、個人的にどうもアジャストできなかった……。そういうことだ。
― ― ―
本作の「女性映画」としての要素については、個人的にあまり興味がないうえに、議論できるほどの知識も持ち合わせていないのだが、本作が「まっとうな女性映画」だというのも、それはそれでちょっと違うような気もする。
たしかにこの映画は「バイタリティーあふれる二人のシスターフッドもの」だし、家父長制が支配する男性至上社会に対する痛烈なアンチテーゼにもなっている(登場する男性キャラはどうしようもない連中ばかり)。
ただ、本作のベースはあくまで「悪女もの」なわけで、彼女たちが主張する「女性の自由」や「参政権獲得」も、ある種の「方便」として出てきている側面も強い。そして、監督自身も、思いつきで大きく出ている二人の言動を、若干「斜に構えた」視点で半笑いで観ている感じもある。オゾンはその実、声高な女権活動家みたいな手合いもまた、内心けっこうバカにしているのでは?
その意味で、本作におけるオゾンの分身というのは、実は味方のようでいてやたら鋭い質問を連発してくる、あの若き新聞記者なのではないかとも思ったり。
普通と逆なのが楽しいのよ。
オゾン監督そんなに見てないから何とも言えないが、女性物得意らしい。
クライムコメディっていうのかな?テンポも良く強かに生きる女性同士の会話がブラックで笑える。私は何度か軽く吹いた。
指紋も弾道もルミノール反応も女性参政権もない昔の話で、捜査も悠長で馬鹿馬鹿しくもオシャレで楽しい。(OZ、北欧が女性参政権は割と早かった)女性の権利が社会的に低かったことを逆手に取った話で、男性の描き方もかなりカリカチュアライズしていてジェンダー問題を笑って楽しめる仕掛けです。
因みにフランスの女性参政権は世界でもかなり遅く1944である。
テンポよく軽快
コミカルでとても楽しく鑑賞できた。
コメディタッチの作品の中に
舞台になっている時代のフランス社会の
ジェンダー問題も描いていて
それでいて説教くさくなく
パワフルでコミカルな女性を描いていて
エンディングは風刺が効いているようで
とても好きな作品だった。
希釈してもフランス映画濃し
畳み掛ける会話のテンポとあまりに芝居がかった演出、ビンビンに効いたエスプリっぷり。
どこか“わざと”やっている感もあるのだけど、とはいえいかにもフランス映画然とした天然物のアクの強さに打ちのめされた。個人的な好き嫌いもあるが、すごくレトロ、すごく古風。
昔ながらのフランス映画好きのためのフランス映画。フランス映画あるあるみたいなのも、やはりフランス映画ファンのためのもの、ですかね。やっぱ独特だわ。
大まかなストーリーはとても良くて、主人公2人もめっちゃマブい。激マブ。そのあたりはフランス映画に造詣の浅い人間でも楽しめるが、んまぁそこまでが限界。
ジェンダー的な今風のテーマも盛り込んだり、前述したメタっぽい遊びなんかもあるんだけどね。
客層が高めなのも納得。
でもたまにはこういう違うフィールドの映画を見るのも、いいと思いますよ。
古き良きフランス映画の文法に慣れている方にはとても宜しいかと。
新たなる供述⁉
殺人を告白(⁉)した売れない女優のスピーチが世の共感を呼び無罪判決に‼思わぬ反響と成功を手に入れるが、そこに真犯人は自分だと名乗る嘗ての大女優が現れて…といった物語。
犯罪者の座を勝ち取ろうするという展開はユニークですね。何気に風刺の効いた話しながらも、やはり基本はコメディ。フランス人は法廷であんなに盛り上がるのかw聴講者達絶対楽しんでるだろw
まぁそこらへんは流石に映画だからと思いますが、終始コミカルな展開ながらも、地味に真相を見せないのはしっかりミステリー感あって良いですね。
現実世界ではこのように犯罪者をヒーロー扱いすると危険ですがまさかこの事件が演劇にまでなってしまうとはw
テンポも良いし主演の2人は可愛いし、見易くも独特な世界観で面白かった。
しかし、何だかまだ究明されていないことも残っているような…??ちょいちょい見せる意味深な眼差しは…やはりそういうこと?
だとすると、コメディに落としきってない風刺がまだまだあってちょっと一本取られたような気分にもなった。
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