コラム:清水節のメディア・シンクタンク - 第13回
2015年8月5日更新
第13回:原爆投下後の広島をカラー撮影した映画キャメラマン三村明の軌跡
■「ハワイ・マレー沖海戦」など戦意高揚映画を手掛ける
太平洋戦争に突入した時代、三村は「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年)や「加藤隼戦闘隊」(1944年)などの戦意高揚映画を手掛け、大ヒットに導いた。その後、彼は従軍することになる。最初の召集令状では、徴兵検査の際、映画キャメラマンであることに気づいた軍医によって不合格とされ、撮影所に戻された。だが戦局は悪化し、44歳の三村に再び赤紙が来る。二等兵として出兵したものの、上官の計らいで札幌の北部軍司令部・報道部勤務となった。ここでの仕事は、得意の英語を活かすこと。戦時下における「映画」と「英語」。若き日にアメリカで身に付けたスキルが、彼の身を戦場の最前線から遠ざけてくれたのだ。
■米戦略爆撃調査団の一員として廃墟と化した日本を撮る
敗戦から程なくして、「ハリー三村はどこだ?」と慌しく米軍将校が訪ねてくる。ハリウッド時代の助手仲間だったその将校は、撮影隊隊長としてマッカーサー連合国軍最高司令官が厚木飛行場に降り立つ姿を撮影するため、先遣隊としてやって来た。この再会をきっかけに、三村は重要な任務に推薦される。それは、アメリカ戦略爆撃調査団の撮影隊の一員として、日本各地の廃墟と化した都市をカラーフィルムで撮影する仕事だった。彼らの目的は、爆撃効果を研究し次なる戦争に役立てること。三村の記録によれば、撮影に使用したフィルムは、広島で約56時間分、長崎で約88時間分、その他の都市で約93時間分、合計230時間以上にのぼる。
敵国アメリカを駆逐する戦意高揚映画を撮り、つい数ヵ月前で日本軍の軍服を身に付けていた男が、米軍の軍服を着て、日本の傷ついた同胞や荒廃した大地にキャメラを向ける。なんという運命のいたずらだろう。引き裂かれるような胸中は、察するに余りある。この撮影について、三村は周囲に多くを語らず、手記にも感情を吐露した箇所は少ない。ただ、広島で被爆患者を撮影した際、こう記している。「国と国との戦争は仕方ないとしても、何の罪もない一般市民が、なぜこんな悲惨な目に遭わなくてはならないのだろう」。被害者と加害者の立場を超えた、無念の言葉。両国が戦争を始めた事情を「仕方ない」と綴るところに、2つの国を同等に愛する三村の複雑な思いを感じ取るのは、穿ちすぎだろうか。そして三村が残したカラーフィルムに、悲しみも憎しみも越え、国境をも越えた平和と鎮魂の祈りを読み取るのも、観る者の思いの投影にすぎないだろうか。
■今なお色褪せず戦争の悲劇を直視させるカラーフィルム
日米の架け橋となる志を立てた男が味わった、大いなるアイロニー。夢の都ハリウッドから地獄の業火に焼かれた街ヒロシマまでも写した撮影監督・三村明。没後30年を迎える今年、この国の安全保障は大きな曲がり角に差しかかった。惨禍のカラーフィルムは、今なお色褪せず戦争の悲劇を直視させ、黙して語る。三村の軌跡は、まさに戦争と映画の世紀を体現し、私たちの脳裏に、人間の美しさも酷さも強く焼き付けてくれる。
なお本企画は、僕の中学時代の同級生である、番組制作会社ケイマックスの小西寛プロデューサーから声を掛けられたことから始動した。是非ノンフィクション制作の分野に進出したいとする彼の熱い想いに応え、企画立案したものだ。僕個人としては、映画を学んだ大学時代から、最もリスペクトするキャメラマンのひとりである三村について、いつか掘り下げてみたいという願望があった。また、僕の亡父は長崎出身であり、帰還兵として1945年8月末の広島を通過した話を幼少期に聞かされ、原爆の恐怖に向き合ってきたという動機もあった。
いまや映画に携わる者ですら知らない者も増えつつある、三村明という撮影監督の波瀾万丈の生涯と仕事が、終戦70年という節目に、後世に語り継がれる一助となれば幸いだ。そして、割愛せざるを得なかった三村に関するいくつもの視点や情報について、広く伝承する機会を今後も探っていきたい。
WOWOWプライム「ノンフィクションW」終戦70年特別企画
「撮影監督ハリー三村のヒロシマ ~カラーフィルムに残された復興への祈り~」
初回放送:2015年8月8日(土)13時~13時45分/再放送:8月10日(月)24時~24時45分
●企画・構成原案・取材:清水節 ●プロデューサー:小西寛
●構成:内田裕士 ●ディレクター:佐々部龍太 ●撮影:関森崇 ●編集:前嶌健治
●制作統括:古谷秀樹 ●制作:小野秀樹
▼公式サイト
http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/106765/index.php