コラム:芝山幹郎 娯楽映画 ロスト&ファウンド - 第8回
2015年3月24日更新
ああ面白かった、だけでもかまわないが、話の筋やスターの華やかさだけで映画を見た気になってしまうのは寂しい。よほど出来の悪い作り手は別にして、映画作家は、先人が残した豊かな遺産やさまざまなたくらみを、作品のなかにしっかり練り込もうとしている。
それを見逃すのは、本当にもったいない。よくできた娯楽映画は、知恵と工夫がぎっしり詰まった鉱脈だ。その鉱脈は、地表に露出している部分だけでなく、深い場所に眠る地底の王国ともつながっている。さあ、その王国を探しにいこうではないか。映画はもっともっと楽しめるはずだ。
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第8回:「ギリシャに消えた嘘」と怪しい男たち
パトリシア・ハイスミス原作の映画を思い出すと、私はつい頬をゆるめてしまう。登場人物がいかがわしいからだ。うさん臭く、倫理観に乏しく、悪知恵が発達していて、なおかつ変質的なエロティシズムを漂わせた登場人物の数々。
そんな彼らが、手段を選ばず目的を果たそうとあがく。そう、「あがく」という言葉が示すとおり、彼らの計画は思いどおりには運ばない。意外な障害やとんでもないアクシデントに見舞われ、話は奇妙な形でよじれていく。そこが面白い。ひとつひとつの出来事がただではすまない、というか、なにがどう転んでも代償が要求される。これも味がある。リアリストで、意地悪で、頭が切れて、なおかつ黒い笑いを地雷のように隠し持つ作家。ハイスミスは、まったく隅に置けない。
「ギリシャに消えた嘘」の登場人物たちも、期待を裏切らない。主な舞台は1962年のギリシャ。重要な登場人物は3人のアメリカ人。ひとりは現地に滞在するガイドで、残るふたりはアメリカから逃げてきたわけありの夫婦。ただし、年齢は父娘ほどもちがう。原題は「1月のふたつの顔」。1月=ジャニュアリーの語源が「ヤヌス=双面の神」であることは指摘するまでもないだろう。原作小説の邦題は「殺意の迷宮」(榊優子訳)。
怪優ロバート・ウォーカーの記憶
大枠の紹介はこれくらいにして、まずはハイスミス原作の名画を振り返ってみよう。なんといっても、そこに出没する悪党の横顔が魅力的ではないか。
ハイスミスの名前を私が初めて知ったのは、アルフレッド・ヒッチコックの名作「見知らぬ乗客」(51)を見たときのことだ。この映画は、導入部から素晴らしい。
駅に止まった2台のタクシーから、ふたりの男が降りてくる。ひとりはコンビのサドルシューズを履き、もうひとりは単色の靴を履いている。黒白映画なので正確な色はわからないが、2足の靴がクロースアップで撮られる。顔は映らない。両者の靴は足早に先を急ぎ、それぞれが列車に乗り込む。このカットバックが観客の胸を高鳴らせる。列車は駅を離れる。コンビの靴を履いた男は、食堂車に隣接したラウンジに坐る。あとを追うように、単色の靴の男が向かいの席に腰を下ろす。たがいのつま先が触れ合う。失礼、と言葉を交わしたところから、恐ろしい話がはじまる。
コンビの靴を履いた男はブルーノ・アントニー(ロバート・ウォーカー)という。単色の靴の男は、ガイ・ヘインズ(ファーリー・グレンジャー)というテニス選手だ。ブルーノは、意図的にガイに接近している。尻軽な妻を持ったガイが上院議員の娘と恋に落ち、離婚したくてたまらない状況に置かれていることなど先刻承知だ。そしてブルーノ自身は、裕福で傲慢な実父に殺意を抱いている。
有名な映画だから話の筋は追わないが、ブルーノがガイに交換殺人を持ちかけることぐらいは明かしてもかまわないだろう。「私はきみの妻を殺す。きみは私の父を殺してくれないか」というのが彼の提案だ。
話はそこからこじれる。脚本クレジットにはレイモンド・チャンドラーとチェンツイ・オルモンドの名前が並ぶが、チャンドラーはヒッチコックとまったく反りが合わず、実際はオルモンドがほぼ全面的に書き上げている。
映画のエンジンは、なんといってもロバート・ウォーカー(撮影が終わって8カ月後に、薬物アレルギーで急死した。32歳の若さだった)の怪演だろう。ブルーノは変質者だ。そもそもこの名前は、飛行士リンドバーグの息子を誘拐して殺した異常者ブルーノ・リチャード・ハウプトマンを下敷きにしている(原作小説ではチャールズ・アントニー・ブルーノという名前)。見るからにいかがわしく、ストーカーとサイコキラーの体質を併せ持つ、粘着的でサディスティックな犯罪者。
しかし、彼にはけっこう失策が多い。幸運もなかなか味方してくれない。意図に反して、事態は完全犯罪からどんどん遠ざかっていく。が、ガイも窮地に追い込まれる。きわどく保たれていた両者のバランスは、ある時点から大きく崩れはじめる。