コラム:芝山幹郎 娯楽映画 ロスト&ファウンド - 第4回
2014年7月16日更新
ああ面白かった、だけでもかまわないが、話の筋やスターの華やかさだけで映画を見た気になってしまうのは寂しい。よほど出来の悪い作り手は別にして、映画作家は、先人が残した豊かな遺産やさまざまなたくらみを、作品のなかにしっかり練り込もうとしている。
それを見逃すのは、本当にもったいない。よくできた娯楽映画は、知恵と工夫がぎっしり詰まった鉱脈だ。その鉱脈は、地表に露出している部分だけでなく、深い場所に眠る地底の王国ともつながっている。さあ、その王国を探しにいこうではないか。映画はもっともっと楽しめるはずだ。
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第4回:「リアリティのダンス」と同時代の怪人たち
アレハンドロ・ホドロフスキーは、澁澤龍彦や土方巽より1歳だけ若い。映画の世界なら、ジョン・カサベテスやセルジオ・レオーネと同い年だ。
いま名前を挙げた4人には共通点がある。そろって1980年代に世を去っていることだ。土方さんが86年、澁澤さんが87年、カサベテスとレオーネが89年。そういえば、開高健や色川武大も89年に急逝した。
澁澤さんや土方さんは、私の恩人だ。亡くなったときは、申し訳ない気持だった。あれほど親切にしてもらったのに、ろくなお礼もできなかったからだ。感謝と自責と後悔。いまでも、気持が完全には整理できていない。カサベテスやレオーネが他界したときも、狐につままれたような気がしてならなかった。レオーネだけはなんとか60歳を迎えることができたが、残る3人は50代で人生を終えている。素晴らしい人たちは、どうしてさっさと逝ってしまうのだろうか。
ホドロフスキーの新作を見ると、どうしてもこの人たちのことを考えずにはいられなくなる。なしとげた仕事に共通点があるというよりも、ある一定の時代に、それぞれ種類の異なる同世代の特殊な才能が雨後の筍のように出現したことに対して驚きを覚えてしまうのだ。先日亡くなったガブリエル・ガルシア=マルケスも、澁澤さんと同じ1928年生まれの作家だった。
ただ、急いで付け加えておきたいことがある。ホドロフスキーが23年ぶりに発表した「リアリティのダンス」(13)を見て、最初に想起するのは、フェデリコ・フェリーニの「アマルコルド」(74)やジョン・ブアマンの「戦場の小さな天使たち」(87)といった自伝的色彩の強い作品群なのだ。どちらの映画も、主人公は幼かったころの監督自身。前者はリミニで、後者はロンドン郊外でさまざまな出来事に遭遇する。オフビートな人物の言動が描かれ、逸話や挿話の連鎖で映画が進んでいくという構造も両者に共通している。
「リアリティのダンス」も、ずばりホドロフスキーの自伝と呼んでかまわないだろう。誇張や作為がふくまれているのは承知の上だが、1929年、チリ北部の港町トコピージャでロシア系ユダヤ人の両親の間に生まれたアレハンドロ少年の眼に映った世界と彼自身の行為は、水が砂地に沁み込むようにわれわれ観客の脳髄に侵入してくる。