コラム:佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代 - 第57回
2018年1月31日更新
第57回:イカロス
ドキュメンタリーというと日本では「記録映画」のイメージが強い。着実にインタビューを重ね、人々の暮らしや働きぶりを淡々と描写し、その向こう側にうっすらと見えてくるものを押しつけがましくなく浮かび上がらせていく。それはもちろん素晴らしいのだが、ハリウッド映画の速度感に慣れてしまっている21世紀の観客がそういう記録映画に接すると、「退屈で地味だなあ……」と感じてしまう。それでますます日本のドキュメンタリー分野は盛り上がらなくなる。
ドキュメンタリーは退屈で地味だと思っている人は、ぜひこの「イカロス」を観てほしい。映画館に行く必要さえない。なぜならネットフリックスのオリジナル作品だからだ。こんな作品が月額課金で自宅で見られるなんて、まったく信じられない。
私は、素晴らしいドキュメンタリーには三つの要素があると考えている。第一に、刺激的な映像。第二に、予想を超える驚きの展開。第三に、観る者に大いなる感動を与える新たな世界観。そして本作には、この三つの要素がすべて揃っている。
本作の映像は圧倒的で、疾走するスピード感とあふれるような刺激に満ちている。監督で主演でもあるブライアン・フォーゲルはアマチュアの自転車選手で、自分の身体を素材にして禁断のドーピングに挑戦する。ドーピングしたら自転車レースでどのぐらい強くなれるだろうか、と考えたのだ。
こういう実体験ドキュメンタリーというのは最近よく目にするようになり、たとえばファストフードを30日間食べ続けたらどうなるだろうか?という実験を映画監督みずからが行った「スーパーサイズ・ミー」とか、イラン人映画監督がタクシー運転手になり、テヘランの街で乗ってくる乗客たちとのやりとりを描いた「人生タクシー」などたくさんある。
ところが本作は、実体験の話で終わらない。途中からどんどん脱線していき、気がつけばロシアの恐ろしい陰謀に巻き込まれ、悪人風のロシアの怖い顔役たちがたくさん出てくる。途中から、ドキュメンタリーなのかフィクションなのか本当にわからなくなってくる。ロシアのプーチン大統領が喋ってる映像も出てくるのだけれど、この映画のために演技してるんじゃないか?と思うぐらいにストーリーにきっちりハマって、「悪の帝国の首領」感がある。
そして最後はロシアによるウクライナ侵攻へとすべてがつながり、暗殺への恐怖と陰謀の末に、ある決断をするひとりの男の生き様に圧倒され……まるでジョン・ル・カレの壮大なスパイ小説を読み終えたような深い感動に襲われたのだった。
この映画はきっと、伝説的なドキュメンタリーとして長く語り継がれていくことになるだろう。傑作としか言いようがない。
■「イカロス」
2017年/アメリカ
監督: ブライアン・フォーゲル
Netflixで独占配信中
⇒作品情報
筆者紹介
佐々木俊尚(ささき・としなお)。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科中退。毎日新聞社社会部、月刊アスキー編集部を経て、2003年に独立。以降フリージャーナリストとして活動。2011年、著書「電子書籍の衝撃」で大川出版賞を受賞。近著に「Web3とメタバースは人間を自由にするか」(KADOKAWA)など。
Twitter:@sasakitoshinao