コラム:佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代 - 第113回

2024年9月24日更新

佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代

第113回:ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?

ブラッド・スウェット&ティアーズ、直訳すれば「血と汗と涙」。英語では恐ろしく困難な仕事というような意味を持つ。この名前のアメリカのバンドは、60歳代以上の古いロックファンならたいてい知っているだろう。ギターとキーボード、ドラムだけでなく派手なホーンセクションを加えた構成は、日本でも人気があった。ブラス・ロックと呼ばれ、シカゴと並び称せられる存在だったのである。

冷戦の渦に巻き込まれたロックバンド「ブラッド・スウェット&ティアーズ」の真相に迫るドキュメンタリー
冷戦の渦に巻き込まれたロックバンド「ブラッド・スウェット&ティアーズ」の真相に迫るドキュメンタリー

本作は人気の頂点にいたブラッド・スウェット&ティアーズ(以下、BS&T)が、冷戦下の東欧共産圏にツアーに出ることによって生じた一連の騒動を描いたドキュメンタリーである。驚くほどに面白く、あっと驚く展開に満ちているのだが、本作を楽しむためには時代背景を知っておくほうがいいだろう。この原稿ではそのあたりをていねいに説明していきたい。

1960年代末のこの時期、東欧は揺れていた。1968年にチェコスロバキアで「プラハの春」と呼ばれた民主化の波が起きたからだ。チェコ共産党の政治的リーダーとなったドゥプチェク第一書記が報道や言論の自由を認め、移動の自由も確保すると国民に約束したのである。これに怒ったソ連は50万人もの規模の軍隊をチェコに送り込み、全土を制圧して民主化の息の根を止めた。

同じ東欧共産圏のルーマニアでは、チャウシェスク国家評議会議長がチェコとは別の方法で独自のバランス外交を実現しようとしていた。チャウシェスクはその後恐ろしい独裁者となり、ソ連崩壊後の革命で最期は処刑されたが、1960年代末のこの時期には比較的自由を容認するリベラルな政策を採っていた。ソ連からはなるべく距離を置いて自決権を増やし、アメリカとも仲良くして経済的利益を得るという方針だったのである。

そういう流れの中で、1969年には米ニクソン大統領がルーマニアを訪問。アメリカ大統領が東欧共産圏を訪問するのは初めてのできごとだった。そしてこの機に乗じて、アメリカ国務省(日本で言う外務省)はロックバンドを東欧にツアーに行かせ、それを映画化するという企画を考えた。

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これはまさに「ソフトパワー」である。ソフトパワーというのはアメリカの政治学者ジョゼフ・ナイが提唱した概念で、軍事力というハードパワーに対し、価値観や文化といった影響力の強さを意味している。米国は戦後、強大な軍事力を持ったハードパワーの国だったが、同時にハリウッド映画やジャズ、ロックなどの強大なソフトパワーも持っていた。戦後日本が手のひらを返すように米国に憧れを抱くようになったのも、このソフトパワーによるものが大きい。

本作でも、BS&Tの東欧ツアーを東欧の「独裁国家の文化的な洗脳に対抗するためのものだった」というセリフが出てくる。ニクソン政権に接近したいルーマニアのチャウシェスクはツアーを容認し、そこで1970年にルーマニアやユーゴスラヴィア、ポーランドなどをまわる「鉄のカーテンツアー」を決行することになったのである。

しかしこの時代のアメリカは、ベトナム戦争の余波もあってロックなど若者のサブカルチャーでは反体制・反権力の色が濃かった。それなのになぜロックのメインストリームにいたBS&Tが、国務省の誘いに乗って東欧ツアーに出たのか。その謎解きが、本作前半の最初の山場になっている。その中身については、ぜひ本作を観て驚いてほしい。

この時代のソ連や東欧共産圏は、経済だけでなく文化も固く門戸を閉ざしていた。西側のサブカルチャーなど無縁の土地だったのである。ロックは当然のように「資本主義の侵略」として禁止されていた。そういう抑圧的で陰鬱な地味な世界に、いきなり最先端の派手なブラス・ロックのバンドがやってきたのである。人々が信じられないほどに熱狂したのは当然だった。

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このライブに参加したルーマニア人観客の証言が次々に出てくる。「自由な感じが格別だった」「世界がひっくり返るような体験だった」「単なるコンサートではなく、それ以上のものだった。私たちルーマニア人に、国境の先の大きな自由を教えてくれた」

当時の興奮がまざまざと伝わってくる。抑圧された国の扉をこじ開け、明るい自由な未来をかいま見せてくれたのがBS&Tの演奏だったのである。そういう自由への渇望は、コンサート会場を手に負えないほどの興奮と混乱に落とし込んでいく。たまりかねて軍がコンサートに介入し、あちこちで観客と兵士の小競り合いが起きる。火がつけられる。大騒ぎになった。

東欧ツアーは国務省の費用で撮影され、アメリカで映画化される予定だった。しかし混乱に恐れをなしたルーマニア政府は撮影されたフィルムの国外持ち出しを阻止しようとし、それに対して撮影チームは……とここでもスパイ映画さながらの展開にドキドキさせられる。実話とも思えないスリリングな展開だ。

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最終的にフィルムは持ち出され、米国に無事に輸送された。しかし結果的に、映画化はされなかった。ルーマニア政府との関係悪化を恐れた国務省がお蔵入りにしてしまったからである。しかしこのフィルムがあったことが、本作を非常に素晴らしい音楽映画にもしている。ふんだんに演奏シーンが差しはさまれ、BS&Tの音楽をたっぷり楽しみたい観客にも満足できる内容になっているのだ。昨今の音楽ドキュメンタリーには関係者のインタビューシーンばかりが延々と続き、演奏シーンが途切れ途切れしか挿入されず、ストレスが溜まりまくる嫌な作品も少なくないが、本作についてはそんな心配は一切ない。

そして本作は東欧ツアーの終了とともに終わらず、物語はさらに驚くべき展開を見せる。アメリカに帰国してみたら、サブカルチャー系のメディアから猛烈なバッシングを受けるのだ。

「政府のために行ったんだな」「共産主義の『独裁』などと言っているが、それは米政府のプロパガンダだろう」「ファシストロックバンドと呼ばれる日も遠くない」

これらの非難に対して、BS&Tのメンバーは誠実に受け答えしている。「共産圏の独裁は真実だった。恐ろしいほどにね」「アメリカでは国民と政府を二分しがちだが、政府にもいろいろな人たちがいることをわかってほしい」「今まではアメリカのあやまちを非難していたが、もっとひどい過ちを見ると見方が変わるんだ」「当たり前と思っていた自由を大事にしなければならないと思うようになった」

どれもごく良識的な発言だと思うが、サブカルチャー業界は冷たかった。「CIAに洗脳されたロックバンド」というスティグマ(烙印)を押しつけたのである。激しく非難したメディアのひとつに、著名な音楽誌「ローリングストーン」がある。非難した同誌の記者は半世紀前の自分の記事を振り返って「鼻持ちならない記事だったね」と後悔を口にしている。

「彼らをカルチャー革命の一部だと認めていなかった。カルチャー革命の名のもとに大馬鹿になっていた者たちがいた。私がそうだったんだ」

BS&Tは東欧の人々に自由を伝え、未来への希望を見せた。国務省のプロジェクトだったとしても、それは大きな功績として認められるべきだったのだ。しかし党派性にまみれた当時のアメリカ文化は、BS&Tを「異端」としてただ非難するだけだった。このおぞましい事態は、まるで昨今の日本のキャンセルカルチャーを見ているようでもあり、まさに他山の石としてわれわれ日本人も真正面から引き受けなければならない物語なのである。

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■「ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?
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2023年/アメリカ
監督:ジョン・シャインフェルド
9月27日からYEBISU GARDEN CINEMA、シネマート新宿、シネ・リーブル池袋ほか全国順次公開

筆者紹介

佐々木俊尚のコラム

佐々木俊尚(ささき・としなお)。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科中退。毎日新聞社社会部、月刊アスキー編集部を経て、2003年に独立。以降フリージャーナリストとして活動。2011年、著書「電子書籍の衝撃」で大川出版賞を受賞。近著に「Web3とメタバースは人間を自由にするか」(KADOKAWA)など。

Twitter:@sasakitoshinao

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