コラム:佐藤久理子 Paris, je t'aime - 第18回
2015年1月28日更新
「フランス映画」と「フランス語映画」は別 多民族国家フランスで曖昧になる「映画の国籍」
年始早々に起こったフランスでのショッキングなテロ事件の影響は、あらためて多くのことを考えさせられた。とくに印象的だったのは「言論の自由」を擁護するフランス人の団結力だ。フランス全土でおよそ370万人も集まったと言われるデモ行進で、通りがびっしりと人で埋め尽くされた光景は圧巻だった。たとえは悪いかもしれないが、きっとフランス革命で市民がべルサイユを目指し行進したときもこんな感じだったのではないか。
襲撃されたシャルリー・エブド誌を支持する(ひいては言論の自由を訴える)「Je suis Charlie」(わたしはシャルリー)のロゴは、いまや街の至るところに見られ、映画館に流されるスポットにも登場する。Tシャツやバッジにもなり、いまこれを付けることがちょっとした流行のような様相も見せている。その一方で、その後もイスラム教の預言者ムハンマドを揶揄する戯画を掲載し続けるシャルリー・エブドに対して、「やり過ぎ」「配慮に欠ける」といった声が、どちらかというと非フランス人から出ている。もちろん言論の自由を守ることは大原則であるし、当雑誌もテロに屈しないことを主張するためにも続けているのだと思うが、それによって過激派とはまったく関係ない多くのイスラム系市民の心情を傷つけていることもまた事実だろう。さまざまなバックグラウンドを持った人種が共存することの難しさを物語っている。
映画でも、こうしたテーマは年々増えつつある。昨年は興収ベスト1に輝いたコメディ「Qu'est-ce qu'on a fait au Bon Dieu?」がまさに、異なる人種とその宗教がもたらす混乱を描いていた。ヒット作の「サンバ」も、アフリカからの移民がフランス社会に受け入れられることの難しさを語っていた。映画が少なからず社会を反映するとしたら、今後こうしたテーマはますます増えていくだろう。
また、テーマの多彩さのみならず、最近は合作映画や外国を舞台にした作品も増え、「映画の国籍」自体もどんどん曖昧になってきているようだ。たとえばフランス映画と名乗るものでも、他国との共同プロデュースのものもあれば、英語劇もある。昨年ヒットしたリュック・ベッソンの「LUCY ルーシー」は英語劇だが、製作はフランスなので純粋なフランス映画である。「フランス映画」と「フランス語映画」は異なるのだ。アルベール・カミュの短編小説(「転落・追放と王国」のなかの一編「客」)をビゴ・モーテンセン主演で映画化し、1月に公開になったダビッド・オエロファンの新作「Loin des hommes」(日本でも公開予定)も、舞台はアルジェリアだが出資は100パーセント、フランス。今年のアカデミー賞の外国語映画賞にノミネートされたマリ共和国が舞台の「Timbuktu」は、フランスとモーリタニアの合作だが、フランスの出資が過半数を占め、フランス映画と目されている。本作はイスラム原理主義派に支配された村で、平和に暮らしていた砂漠の民が暴力にからみとられていく悲劇を描き、結果的にタイムリーな主題を扱ったものになった。
資金調達におけるメリットのみならず、映画にさらなる広がりと可能性をもたらすという点でも、いわば“多国籍の映画”は今後ますます発展していくに違いない。(佐藤久理子)
筆者紹介
佐藤久理子(さとう・くりこ)。パリ在住。編集者を経て、現在フリージャーナリスト。映画だけでなく、ファッション、アート等の分野でも筆を振るう。「CUT」「キネマ旬報」「ふらんす」などでその活躍を披露している。著書に「映画で歩くパリ」(スペースシャワーネットワーク)。
Twitter:@KurikoSato