コラム:二村ヒトシ 映画と恋とセックスと - 第31回
2025年3月6日更新

作家でAV監督の二村ヒトシさんが、恋愛、セックスを描く映画を読み解くコラムです。今回は番外編として、二村さんが「どうしてもこの作品のことが書きたい!」と作品への愛が爆発してしまった映画を取り上げます。その映画は「機動戦士Gundam GQuuuuuuX Beginning」。考察は「機動戦士ガンダム」から始まり、「新世紀エヴァンゲリオン」「シン・仮面ライダー」を経由しながら、二村さんの“祈り”へと結びついていきます。
※今回のコラムは本作のネタバレとなる記述があります。
ネタバレあり【二村ヒトシ的「機動戦士Gundam GQuuuuuuX」考察】マブダチを得たジークアクスの子供たちへ捧げる“祈り”

編集部撮影
▼「機動戦士ガンダム」の主人公からニューロ・マイノリティを考える
最初の「機動戦士ガンダム」は1979年にテレビアニメとして放映されました。少年が意志のない巨大なロボットに乗り組んで操縦し、正義と平和を守るため(?)に戦うという設定はガンダムより7年前の「マジンガーZ」が元祖です。マジンガーを作って、父親不在で育った主人公の少年に与えたのは祖父であるマッド・サイエンティストでした。
最初のガンダムで、ガンダムと呼ばれる新型のモビルスーツ(なぜ巨大ロボットをスーツと呼ぶかというと、「スターシップ・トゥルーパーズ」の原作でもあるアメリカの古典的SF『宇宙の戦士』に出てくる、兵隊が着用するパワードスーツがガンダムの元ネタのひとつだからです)を設計したのは主人公の父でしたが、父から少年に与えられたのではなく、戦争にまきこまれた少年は資格もないのに勝手にガンダムに乗ったのでした。訓練を受けていなかった少年がモビルスーツを操縦できたのは彼が機械いじりが極端に好きだったからなのですが、そういったこともふくめた主人公の性質は物語の序盤で、軽度の自閉(ASD)的傾向として描写されます。
たまたまモビルスーツの操縦ができてしまった因縁から、自閉傾向のあった少年が次第に戦士に仕立てあげられていく。その過程を、上官からパワハラをうけることの連続として描くのが「機動戦士ガンダム」という子供向けテレビアニメの序盤の画期的なところでした。自分が好きなことや上手にやれることには時間を忘れて熱中するけれど、気にくわない他人の命令や社会の常識や周囲の空気にうまく従うことはむずかしい少年(当時テレビで最初のガンダムを見ていた、発達障害気味だった14歳の僕は感情移入しまくりました)にとって、戦場で起きることはまず軍隊でのパワハラだったのです。
僕は発達「障害」というネガティブな言葉をあまり使いたくないので、以降このコラムでは同じことをニューロ・マイノリティ(脳神経系の発達の、個人差における少数派)という言葉で表現したいと思います。それは発達の個人差が「悪いこと」なのかどうかが僕にはわからないからなのですが、「機動戦士ガンダム」の主人公の少年アムロは今で言うところのニューロ・マイノリティ傾向があると設定されていたことはまちがいないと、あくまで私見ですが今の僕はそう考えます。
もちろん当時はそんなことは考えず、たんに「やるときはやるけれど、基本的には暗い少年」というふうにとらえていました。僕がガンダムに熱中するにはそれで充分でした。なにしろアムロより以前のロボットに乗って正義のために戦うアニメの主人公たちは判で捺したようにスポーツ万能でリア充っぽい、僕には感情移入しにくい少年や青年ばかりでしたから。

(C)創通・サンライズ
▼巨大ロボットを操縦させられる子供の悲劇、ガンダムからエヴァへ
巨大ロボットを操縦させられる子供の悲劇は、ガンダムから16年後の「新世紀エヴァンゲリオン」でさらに炸裂します。主人公の少年シンジは父が開発したエヴァンゲリオンに無理やり乗せられ、父から愛してほしければ、男として一人前になりたければ命の危険をかえりみず正体不明の恐ろしい敵と戦えと命令されます。直接父から命じられるのではなく、母親代わりのような美しいけれどがさつな女性司令官から命じられるのです。これはパワハラというより家庭での教育虐待の構図です。
エヴァンゲリオンの別の機体に乗ってシンジとともに戦う少女たちもまたトラウマ持ちです。レイという少女はシンジ(やアムロ)以上に自閉傾向が強いですし、アスカという少女は独善的で多動(ADHD)傾向が強く、そして虐待のサバイバーであることも描かれます。現実の脳神経医学で、ニューロ・マイノリティ性は生まれつきのものばかりではなく後天的なトラウマによっても生じることがあるとわかってきました。
またエヴァンゲリオンでは「人が人型の巨大ロボットの体内に搭乗するということは、父の力を継承して大人になることのようでもあるが、じつはずっと巨大な母の胎内にいつづけることでもあるのだ」という、皮肉としか言いようのないテーゼまでもが容赦なく描かれます。
ガンダムは富野由悠季というクリエイターとサンライズというアニメ制作スタジオによって創造され、エヴァンゲリオンは庵野秀明というクリエイターによって創造されました。現在プロローグ部分が劇場映画として公開中のガンダムの最新作「機動戦士Gundam GQuuuuuuX Beginning」(以下、ジークアクス)は、庵野が代表を務める制作会社スタジオカラーとサンライズとの合作です。監督はエヴァンゲリオンでも重要なスタッフを務めた鶴巻和哉。庵野は脚本の一部と絵コンテの一部で参加しています。
映画ジークアクスは、最初のガンダムの続篇ではありません。最初のガンダムの舞台だった宇宙植民地独立戦争の、戦勝国と敗戦国が入れ替わったパラレルワールドの物語です。最初のガンダムそっくりの、でも出来事の展開がなぜか180度ちがう世界で、アムロ少年がガンダムに乗らないどころか登場すらしない物語をわれわれは見せられます。この映画の前半のキーとなる人物は、最初の「機動戦士ガンダム」でアムロと並ぶもう一人の主人公だった敵側の軍人シャアです。

(C)創通・サンライズ
▼「ガンダム」のニュータイプという概念について考える
モビルスーツのパイロットとしてたいへん優秀だったはずのシャアが、アムロの成長に次第に圧倒されていくのが最初のガンダムの物語です。
なぜ素人のアムロ少年が、敵軍のエースであるシャアをしのぐモビルスーツ操縦士になれたのか。それを富野由悠季監督は「アムロはじつはニュータイプだったから」と説明します。話の辻褄をあわせるために制作の途中で思いついた後付けのアイディアだったにもかかわらず、このニュータイプという概念は富野監督が手がけるガンダムの物語のなかで中核となっていきます。
富野は物語を通して「ニュータイプとは超能力者のような存在ではなく、人類全体の革新なのだ」と語ります。宇宙空間に建造された人工都市で生まれ、育ち、暮らし、やがて死んでいく人々は世代交代のすえに、今のわれわれとはちがうかたちの認知や認識をするようになり、情報入力のアンテナはもっともっと敏感になっていく。彼らはきっとそれを善用して他者と、それどころか森羅万象と「わかりあう」ことができるようになるだろう。そうなれば人類は愚かな戦争や自然破壊をつづけなくてすむ。
劇中この理想あふれる未来思想を述べたとされるのは、物語の開始時点ですでに死んでいるシャアの父親です。ところがシャア自身はニュータイプではなかったのです。彼は出自を隠して(いろいろ事情があるのです。だからあんなお面をかぶっているのですが)とにかくモビルスーツの操縦と戦闘が常人としてはめちゃめちゃ巧みで軍略や謀略にも長けていたため出世していきますが、ニュータイプであるアムロが乗るガンダムにだけはどうしても敵わない。来たるべき新世界の理想を誰よりも理解していながら本人は人類の革新に取り残された、要領はいいけれど二流の才人にすぎなかったのがシャアです。
つまり僕は、なんだかんだ言ってシャアはニューロ・マジョリティ(ニューロ・マイノリティ特性を持たない、ふつうの人)だったのだと思うのです。軍人としての素養やカリスマ性はアムロよりはるかに上なのに、モビルスーツでの戦闘という一点(しかもそこにはシャアのプライドがかかっている)だけは、アムロのほうが上手なのです。
そうなってくると僕は、今度はアムロではなくシャアのほうに感情移入するようになっていきます。大人になった僕は、シャアのように小器用に生きて周囲からは評価されながら内心で本物の天才をやっかんで焦る気持ちに、めちゃめちゃ心当たりがあるので。
アムロの活躍によって、ニュータイプの能力を使えば宇宙での戦争に有利だと軍の上層部は考えだします。まだ数の少ないニュータイプたちはやがて戦争と資本主義の道具にされていく。ニュータイプだから操縦できる強いモビルスーツの開発競争もおき、より強力なニュータイプ能力を遺伝子操作で人為的に与えられた子供たちも誕生し、シャアの父が唱えた未来は裏切られていくことになります。アニメのなかの人類は現実の人類と同じように、いつまでたっても競争と戦争をやめない。

(C)創通・サンライズ
▼「ジークアクス」はニュータイプの希望に立ち還るために作った、まったく新しいガンダム
ジークアクスは、そんなニュータイプたちの悲しさも、シャアの「ニュータイプのことを知っているオールドタイプ」としての悲しさも熟知したうえで、ガンダムに輪をかけて悲惨なエヴァンゲリオンというアニメをかつて作ったスタッフたちが、新しい子供たちに向けて、そして僕らのような古いガンダムオタクに向けて、現実のニュータイプ(最初のガンダムが放送された45年前よりあきらかに社会の中で目立つようになってきたニューロ・マイノリティたち)の生きづらさを癒すため、もういちどニュータイプの希望に立ち還るために作った、まったく新しいガンダムだと僕は感じたのです。
最初のガンダムでは「しかし私もニュータイプのはずだ!」と無理に自分を鼓舞して戦いつづけてちょっと可哀想だったシャアですが、ジークアクスの世界では押しも押されもせぬ本物のニュータイプとして活躍します。アムロがいない世界でシャアは敵の新型モビルスーツであるガンダムを奪い取り、自分の愛機にしてしまうのです。
シャアのように上手に立ち回ることができず(ニューロ・マイノリティだから、空気をうまく読めなかったのでしょう)最初のガンダムの世界では自軍の上層部の人間関係の板挟みになり、あっさりアムロに負けて戦死してしまった「木星帰りの男」ことシャリア・ブルという人物(木星から帰ってきた人にニュータイプ能力が発現するというのは「2001年宇宙の旅」のオマージュでしょう)が、アムロが現れないジークアクスの世界でシャアの相棒になります。シャアとシャリア・ブルのニュータイプ・コンビは M.A.V.(マヴ)と呼ばれる新しいモビルスーツ戦術をあみだしました。これは言ってみればテニスや卓球のダブルスのペアのような、信頼しあっている二人がおたがいをフォローしあい、おぎないあうような戦いかたのことです。
ちなみに親友のことを現代でもマブダチと言うことがありますが、語源は「間夫(まぶ)」でしょう。いちばん好きな彼氏という意味の、江戸時代からある言葉です。娼婦(風俗嬢)のプライベートの恋人という意味もあります。また昭和の不良は美しくて魅力的な女性のことを「マブい」という言葉で褒めました。「まぶしい」が語源なのでしょうね。また琉球(沖縄・奄美)語で「マブイ」とは魂(たましい)、精神のことです。

(C)創通・サンライズ
▼(僕にとって)ひじょうに重要な「シン・仮面ライダー」
ジークアクスの物語の中核を占めていくにちがいない、このマヴという概念を考えたのは鶴巻監督と共同脚本の榎戸洋司ですが、庵野秀明はエヴァンゲリオンとジークアクスとのあいだに「シン・仮面ライダー」という(僕にとって)ひじょうに重要な映画を監督しています。
仮面ライダーとは、簡単に説明すると「孤独の克服」の物語です。悪の秘密結社に人体改造されて超常異能力を身につけさせられた主人公が、悪のために働かされるまえに結社を裏切り、弱い者の命を守るために、いわば兄弟である悪の改造人間たちと戦い続ける。仮面ライダーは仮面をかぶっていて正体は世間には秘密で、その戦いは正義の戦いなのに人知れぬ孤独な戦いなのです。しかし主人公は戦いのなかで、悪の結社にいたままであれば得られなかった「友人」を得ていき、孤独ではなくなっていく。それが(あくまでも僕の解釈ですが)仮面ライダーの物語です。
仮面ライダー自身もふくめた怪物的な改造人間たちはニューロ・マイノリティのメタファーというわけではないでしょうが、それぞれがトラウマを負って生きづらそうな、社会のはみだし者ではあります。こうもりの能力を持たされた男(手塚とおる)は「なぜ世の中は自分を理解してくれないのか」という苦しみが行動理念であり、毒蜂の能力を持たされた女(西野七瀬)は愛する人を傷つけることでしか愛せないメンヘラです。そんな設定の「シン・仮面ライダー」で池松壮亮演ずる主人公は、悪の結社から派遣された自分そっくりの強敵、仮面ライダー2号(柄本佑)と対峙します。
ライダーは2号との決闘の末、ほかの改造人間とちがって殺してしまうことにはならず、マブダチになれます。それができたのは、彼よりまえに悪の結社を裏切って彼を助けてくれてマブダチになっていた女(浜辺美波)の存在があったからです。彼女は仮面ライダーのことを理解していますが恋人ではありません。親友です。改造人間には生理的な欲望がないので恋人になることができないからです。しかし友だちを作ることはできます。
結社に所属した改造人間たちも友人を作ることはできたはずなのに、それをしなかった。そして死ぬまで悪の手先のままでした。改造人間は普通の人間にもどることはできないけれど、誰かとマブダチになれて一緒に戦えば自分の異能力を善用することができるようになる。悪に堕ちなくてすむ。マイノリティにとってこそ大切なのは良き友を作ることだ。それが庵野秀明が「シン・仮面ライダー」にこめた、大人のオタクたちに向けたメッセージなんだろうと僕は解釈しました。
▼最初からニュータイプであるようなジークアクスの主人公たち
オタクは、それからニューロ・マイノリティは、まだマイノリティ(少数派)なんだろうか。世の中のはみだし者なんだろうか。僕ら初老から中年のオタクたちがまだ子供だった時代には、そうでした。今はどうなんでしょう。恵まれていないマイノリティは、やはり差別されています。生きていくのが苦しいから他人を攻撃するマイノリティも中にはいる。お金儲けに成功したマイノリティの中には、なぜか威張っている人もいる。威張っている人というのはお金持ちになれても、まだ生きづらい人だと僕は思うのです。
いちばん新しいガンダムであるジークアクスの主人公たちは、どうも最初からニュータイプであるようです。シャアが一旦退場してプロローグが終わり、始まったジークアクスの本篇(映画の後半)は「戦後の社会」が舞台です。平和ですが権力は暴力をふるい、主人公の少女は受験生で日常に退屈していて教わってないのにガンダムの操縦ができてしまい、ある地域には移民がたくさん生活していて、もう一人の主人公の少女は戦争難民のようです。平和を貪っている国もいつまたすぐに戦争に巻き込まれないともかぎらない世相、つまり現在の日本です。
ニュータイプがモビルスーツを乗りこなせてしまうのは、若い世代がスマホやSNSを直感で使いこなしていることのメタファーなんだろうなと僕は感じました。新しいコミュニケーション手段はニュータイプたちの能力のような人類の革新であり、それによって人々はもっとわかりあうことができるはずだったのに、なぜかSNSは憎みあうことや差別や、信者を使って敵を攻撃させる卑劣な分断の扇動や、お金儲けやマウンティングや戦争(情報戦)のための道具になっている。
SNSを戦いにしか使えない人たちは、仲間はいるかもしれないけど、友だちがいないんじゃないでしょうか。
最初のガンダムの世界のシャアは、ほんとうは寂しくて、仮面ライダーのように友だちがほしかったんだと思います。アムロと友だちになりたかったんだと思います。けれど彼はコンプレックス(自分では「大義」だと思い込んでいましたが)ゆえにニュータイプの女たちの恋愛感情を利用して戦わせました。シャアはモテる男なのです。それでシャアとアムロは、ララァというニュータイプの女性を挟んで三角関係になってしまう。ララァの不幸な死後、続篇「機動戦士Zガンダム」でシャアとアムロは一時的に戦友になりますが、けっきょく最後は殺しあうことになる。それはやはりシャア自身のコンプレックスまみれの自意識のせいだったように僕は思います。

▼不確実性に耐える姿ジークアクスの子供たち
ジークアクスの世界のシャアは、最初のガンダムの世界でのシャアのような自意識の肥大はなく、シャリア・ブルとマヴになることができました。
さらにその後の世代であるジークアクス本篇の主人公たちは、戦争の修羅場を通してではなく、出会っていきなり友だちになっています。わかりあえているのかどうか確信は持てないまま、おたがいの魂に必要な部分だけが突然「わからないけど、わかった!」のです(旧ガンダムの「すべてわかりあえるはず」という古いニュータイプの理想は、じつは侵襲的で暴力的で、もし実現したらエヴァンゲリオンの人類補完計画と似た地獄だったと僕は思います)。
新しいガンダムは父的な誰かから継承したのではなく、なんだかわからないけど最初から少女の目の前にありました。巨大ロボットアニメですからモビルスーツの戦いは描かれますが、搭乗者の殺しあいにならず一般人も巻き込まないような宇宙での違法アングラ格闘マッチという限定的な暴力で(いまのところ)決着がつきます。マヴがいるから発揮できる能力で少女は活躍しますが、すべてがわかっているわけではありません。その不確実性に耐える姿が、とても現代的です。
しかしこの映画の続きがテレビアニメとして始まるのは4月からです。友だちになることができた新しいニュータイプたちは、新たな戦争に参加したり殺されたり人を殺したりしなくてすむのでしょうか。それとも現実の現代の無惨な SNS 空間のような、あるいは現実の現代の戦場のような場所に、呑み込まれていくのでしょうか。
現時点では、これから物語がどう進んでいくのか、われわれオタクもわかりません。不安です。不安には耐えようと思いますが、できれば殺しあいはハリウッドが実写でリメイクするという古いガンダムにまかせて、せっかく別の世界線でマブダチを得たジークアクスの子供たちにはなるべくトラウマを負わずに生きていってほしいという祈りが僕のなかにあります。
筆者紹介

二村ヒトシ(にむらひとし)。1964年生。痴女・レズビアン・ふたなり・女装美少年といったジェンダーを越境するジャンルで様々な演出の技法を創出、確立したアダルトビデオ監督。
著書『あなたの恋が出てくる映画』 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』 共著 『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』 『欲望会議 性とポリコレの哲学』ほか多数。
Twitter:@nimurahitoshi