コラム:国立映画アーカイブ お仕事は「映画」です。 - 第11回
2021年1月7日更新
映画館、DVD・BD、そしてインターネットを通じて、私たちは新作だけでなく昔の映画も手軽に楽しめるようになりました。
それは、その映画が今も「残されている」からだと考えたことはありますか?
誰かが適切な方法で残さなければ、現代の映画も10年、20年後には見られなくなるかもしれないのです。
国立映画アーカイブは、「映画を残す、映画を活かす。」を信条として、日々さまざまな側面からその課題に取り組んでいます。
広報担当が、職員の“生”の声を通して、国立映画アーカイブの仕事の内側をご案内します。
ようこそ、めくるめく「フィルムアーカイブ」の世界へ!
第11回:映画を“同定”する――「日本南極探檢」を例に
予想もしないところからフィルムが発見され、映画が甦ることがある――前回のコラムでは“幻の名作”だった「忠次旅日記」の発掘と復元という特別な事例について紹介しました。フィルムアーカイブでは、発掘された映画の復元が大切な取り組みである一方、所蔵作品の製作年や公開された当時の“真正な形”を同定する地道な作業が求められます。
同定作業は時に、当館が所蔵しているフィルムから知られざる事実を“新たに発掘”してしまうことさえあります。白瀬矗中尉率いる南極探検隊に随行したMパテー商会(映画会社)の撮影技師・田泉保直が撮影した映像に、後年になってから説明字幕を挿入して再編集・公開された「日本南極探檢」は、こうした同定作業の奥深さを知っていただく上で最適の例でしょう。
「日本南極探檢」は、フィルムセンターの前身であるフィルム・ライブラリー時代の1954年に「白瀬南極探検記録映画」という題名で上映されたのを皮切りに、それ以降は「日本南極探檢」として、当館でたびたび上映されてきました。1954年の上映プログラム上で「日本におけるこの種の長篇記録映画の第一号」と解説されていることからも伺えるように、明治43~45(1910~12)年に撮影された映像を中心に構成される本作は長い間、“現存する最古の日本の長篇記録映画”として語り継がれてきました。
一方、「日本教育映画発達史」(田中純一郎、1979年、蝸牛社)には、南極探検記録映画は「南極実写」という題名で、1912年に浅草国技館で公開されたと記されています(1912年当時の新聞等では「南極実景」や「南極探検活動写真」という言葉が採用されていました)。この著作からは、1912年時点では最古の日本の長篇記録映画が「日本南極探檢」という題名では公開されていなかった可能性が浮かび上がります。
この映画題名の不一致の理由はこれまで省みられることはなかったのですが、事態が大きく変わったのは2007年。フィルムセンターが文化庁と共同で行った「近代歴史資料緊急調査」により、南極探検後援会専任幹事の村上俊蔵のご遺族が、現存する複数のフィルムの中で最もオリジナルに近い「日本南極探檢」の35ミリ可燃性ポジフィルムを所有されていることが判明したのです。映画冒頭には同じ「日本南極探檢」というタイトル字幕が入っていたものの、それは全長851メートル(45分)であり、当館既蔵の「日本南極探檢」(19分)の倍以上の長さを有していました。当館既蔵版と、新たに村上家から発掘された「日本南極探檢」とは何が違うのか。同定作業を重ねるうちに、「日本南極探檢」が製作された時期が明らかになっていきました。
こうして、現在当館で映画フィルムのコレクション管理を担う主任研究員・大傍正規さんの、今となっては自身のライフワークだという「日本南極探檢」を同定する研究が始まります。大傍さんがまず行ったのは、村上家で発掘されたフィルム現物から「日本南極探檢」が製作された年代を推定する作業でした。
「映画フィルムの製造年度とフィルム製造会社名については、パーフォレーション(フィルムの両端に等間隔で空いた送り穴)の外側に刻印されているエッジコードから特定できます。村上家に残存するフィルムには、1930年にコダックが製造したフィルムが含まれていました」
1912年に初めての上映が行なわれた南極探検記録映画が、1930年に「日本南極探檢」と題して上映されたのではないかと考えた大傍さんは、続いて当時の南極探検に関連する文献や資料の収集を始めます。探検隊出発から20年後の1930年になぜ「日本南極探檢」が製作されたのかという歴史的な背景は、映画フィルムから得られる情報を解析するだけではわからないため、関連資料の調査も欠かせません。
「早稲田大学演劇博物館が所蔵する『日本南極探檢』の字幕台本に『日本南極探検 20周年記念会 特別提供』と記載されていました。その時に『日本南極探檢』とは、南極探検20周年を記念して、1930年に製作されたものだということがはっきり判ったのです。また、1930年8月15日付の『読売新聞』の『新映画評』欄には、“プリントの保存してあった事が一つの奇蹟である”とも記載されており、『日本南極探檢』が新作映画として上映されていたことの裏付けも取れました」
続いて大傍さんは、当館がすでに所蔵していた「日本南極探檢」の製作年も同定しました。1970年に開館したばかりのフィルムセンターに対して、文部省旧蔵のフィルムが1971年に移管された際の引き継ぎ文書や、戦中・戦後の若者たちに探検思想を普及するために設立された開南探検協会の機関誌「開南」(1951年5月20日発行)「白瀬南極探検隊40周年記念号」の「(南極探検隊40周年記念会が)記録映画の複製を完成し、その上映を(中略)開催した。なお今回の挙に多大のご同情を寄せられました文部省に於いては、本年2月記録映画を文化財として、御買上げの光栄に浴しました」という記載から、当館がこれまで所蔵していた「日本南極探檢」が、1951年に文部省が南極探検隊40周年記念会から購入した16ミリフィルムに由来することが判ったのです。
これら「日本南極探檢」の二つのバージョンのフィルムを比較した結果、当館が以前から所蔵していた南極探検40周年記念会版は、1930年製作の南極探検20周年記念会版の字幕部分の大半を残して、映像部分の多くを切除したダイジェスト版であることも分かりました。
綿密な同定作業から、「日本南極探檢」が製作された歴史的な背景も露わになっていきます。大傍さんは、南極探検の映像が時代を超えて再利用され続けてきた理由について次のように考えています。
「無声映画時代の映画には、唯一のオリジナルのバージョンといったものが存在する方がむしろ稀でした。この『日本南極探檢』も例外ではありません。南極探検記録映画が1912年に浅草国技館で初めて封切られた際には、挿入字幕はごく短い見出しのようなものしか存在せず、田泉らが南極で撮影した映像を中心に構成されていました。そして南極探検隊は船員や隊員への未払い給料や手当、あるいは借財の返済のために日本全国で巡回上映を行った訳ですが、隊長の白瀬自身や、他の隊員らによる迫真の説明付きで上映されました。ところが、南極探検20周年を記念して上映が行われた1930年になると、いわゆるドキュメンタリー映画の編集技法が定着し、観客が長い説明字幕を読む習慣も浸透していたので、非常に長い説明字幕が挿入されました。さらに南極探検40周年を記念して再編集が行われた1950年のダイジェスト版についてですが、この頃になると観客はもはや長尺の無声映画には耐えられなくなっていました。普段から音声の入ったトーキー映画を鑑賞する時代に入っていたからです。このダイジェスト版は、探検隊の遺族や日本全国のPTA向けの文化教材として頒布するために、字幕の大半は残しつつも映像は約半分の長さに切り詰めて、35ミリのフィルムを16ミリのフィルムに縮小してしまったものなのです」
「日本南極探檢」という一つの作品に二つの“バージョン”が生まれた背景には、映画の興行形態の移り変わりや、それに伴う観客性の違いがありました。「映画フィルム1本1本を特定することにより、映画フィルムが当館に辿り着くまでの経緯や、その背後にある映画史的・文化史的な側面まで明らかにすることが、私たちフィルム・アーキビストに求められている仕事です」と大傍さん。
同定作業は、フィルムアーカイブだけでなく、多くの博物館や資料館でも行われています。今は知られていない作品も、今後、その重要性が明らかになるときが来るかもしれない――同定作業は、失われた歴史を立ちのぼらせる作業でもあるのですね。また、同時にそれは、「何がわからないのか」を知る作業でもあります。1950年製作の「日本南極探檢」ダイジェスト版は2019年に開設されたWEBサイト「映像でみる明治の日本」で全編を見られるので、ぜひそちらもご覧ください。
筆者紹介
国立映画アーカイブ(National Film Archive of Japan)。旧 東京国立近代美術館フィルムセンター。東京の京橋本館では、上映会・展覧会をご鑑賞いただけるほか、映画専門の図書室もご利用いただけます。相模原分館では、映画フィルム等を保存しています。
Twitter:@NFAJ_PR/Instagram:@nationalfilmarchiveofjapan/Website:https://www.nfaj.go.jp/