コラム:メイキング・オブ・クラウドファンディング - 第11回

2017年11月6日更新

メイキング・オブ・クラウドファンディング
松原保監督、榛葉健プロデューサー
松原保監督、榛葉健プロデューサー

■いま「福島」を描くことの意味

大高 震災後たくさん作られた、原発をテーマにした福島の映画は、反原発ないしは、原発についてのものでした。しかし、本作は、今このタイミング、「シンゴジラ」などもそうですが、みんな忘れたように生きていることに対して、もう1回アテンションを向けるためのいい形になっている映画だと、拝見して面白く感じました。とくに、原発推進と原発反対の対比構造は今までもありましたが、本作ではどちらかといえば原発の賛否ではなく、表現の仕方や、原発に限らず、自分の社会に対しての考え方の表明の仕方を興味深く感じました。

例えば、東京で抗議活動を繰り返す畜産農家の男性の行動について、「渋谷で叫ぶことに意味あるの?」と言うお姉さんが出てくるのは、すごく面白いですね。良し悪しは別にして、デモをするのが良いのか、どうなのかとか、ある種の同じイデオロギーというか問題意識を持っているのだけれど、それに対しても疑問を投げかけている、あの感じがこちらに投げかけられる「ボール」としてとても面白かったです。

松原 その吉沢正巳さん(原発事故の悲惨さを訴えている牧場主)は弁も立つし、カリスマ的な存在ですが、映画の中で色眼鏡で見せたくはありませんでした。対比するお姉さんを出すことで、吉沢さんの人間味を出したかったのです。

大高 やんちゃ坊主みたいにみえますよね。

松原 そういう風に思わせた方が、吉沢さんにシンパシーを持ってくれる人が増えるんじゃないかと。ご本人からは嫌がられ、最初はできればカットしてほしいと言われました。それでも私は吉沢さんを人間的に見せることによって、活動家としてだけではなく、ヒューマニティがあることを見せたかったのです。

榛葉 生活者であることをね。

松原 そうでないとインターネットなどに出ている、吉沢さんのバックボーンから、「独身で、家庭を持っていないような人だから出来るんでしょ」って突き放されてしまいます。吉沢さんがもし家庭を持っている人なら、視線はまた変わってきますが、そうではありません。人間味あるキャラクターに落とし込むためには、やはりお姉さんとの対比があったほうが共感を持てるだろうと。だから取材時からお姉さんの存在は重要だと思っていました。けれども、他のメディアが取り上げたのは、やはり吉沢さんだけでした。

榛葉 吉沢さんはしゃべりが達者なので、記事になりやすいキーワードをバン!と放つのです。激しい言葉を大きな声で言うわけです。テレビのニュースなどでは、そういう所だけ切り取って、そこだけを迫力のあるシーンとして作ることができます。環境省の前に牛を連れてくるというアクション(抗議行動)も非常に分かりやすい。反原発の闘士みたいな見え方になるのです。

大高 エキセントリックに見えるのですね。

榛葉 これらによって、吉沢さんに取材する側が引き寄せられてしまう構図が出来るのです。だから、それに乗っかってしまえば、かっこいい映画はできてしまうんです。でもそれは彼の思いに100%共鳴できる人しか、共鳴できない映画です。

でも大事なことは、吉沢さんのような怒りのこぶしを振り上げる人もいれば、山本幸男さん(畜産農家で町議会議長もしてきた)のような、原発にずっと賛成してきて、地元の住民たちに普及を進めてきた人間もいる。実際に事故で大変な被害を受けて、過去の自分を負い目に感じながら今を生きているという自己矛盾を抱え続けている人もいるということです。あるいは柴開一さん(最も放射線量が高い地区にある牧場主)のように、「原発さえなければな…」とぽつりとつぶやく人もいます。そういう諸々の人たちがいて、福島の沿岸部の被害があるのです。
松原さんは、幸いなことに吉沢さんだけに寄りかからずに、いろんな人を取材できていたのです。「5人くらい撮れています」と言うので、「全部見せて」と。これならば吉沢さんのウエイトをもっと下げて行って、他の人たちの《声なき声》を俎上に載せる映画にした方が良い。一周回って、福島の映画としては完全に出遅れたタイミングで発表する映画です。その代わり、今までには表現できていない、表に出てこなかった人たちの想いをちゃんと舞台に出す映画として6年たった今、出す意味はあると思います。それがこの映画の特性です。

松原 取材していて「原発はどうですか」と聞いたら、皆さん、何らかの恩恵を受けていたということもあって、原発に対して東電が悪いとか東電から被害を受けたとか、そういう意識は思ったほどはありませんでした。勿論そういう人もいますが、殆どの方は、何らかの形で、東電さんがあったからこそ自分たちがいる、だから今回の事故は多少は仕方がないと思っている方も多いというのを感じました。しかし、そういうことは中々表現しがたいですし、ニュースではそんなことを言っても中途半端で理解できません。

映画の中では反原発の方に行こうとしていたわけではありませんが、ステレオ的な考えで行くような映画というよりも、もっと考えてほしいなと。こういう予期せぬ事態になって、いつ自分がこんな羽目に陥るか分からない、そういう時に人間はどういう判断を下して、何をするんだろうなということを自分に照らし合わせて考えてほしい。いまの日本は、お金、経済効果、経済価値だけでは測れない判断をしなければいけない時期に来ているのではないでしょうか。少子高齢化といわれる中で、いまだに経済成長率何パーセント維持だとか、数字の幻想的なことを言っています。企業でも今年よりも来年は売り上げ何パーセントアップしなければいけなくて、もしそれに反抗する人間がいたら、その人は排除されます。

例えばそういう、数字は上り調子でなければ許されなくて、それを認めなければいけない世の中というのは少し違うのではないかという考え方が、原発事故の後処理の中にもたくさん残っています。原発賛成とか反対というよりも、それによって人生を奪われた悔しさや、生き物の命の処断をどうするかといった時に、売れないからとか、人間の役に立たないからという価値観で判断してきたということに対して、考え直してほしい、目を向けてほしいと思ったわけです。

大高 もともと映画のテーマとしては「被ばくした牛」に興味を持たれたのですか?被写体と言いますか「牛がいるよ」という所からですか、それとも吉沢さん個人からですか?

松原 とっかかりは吉沢さん個人です。権力に立ち向かっている孤高の男、「ドン・キホーテ」というか、原一男さんの「ゆきゆきて神軍」みたいなのもあり得る、、そういうストーリーにもなるのかなと思っていました。ですが、途中で考え方が変わりました。福島の他の人を知ってしまったら、吉沢さんだけを採り上げるのでは偏った映画になるなと。これは自分の表現したいありのままの福島ではなく、福島の一場面でしかないと。

だから表現したいのはもっと素のままの福島というか、吉沢さんのような声高に叫ぶ人もいるけれど、声を上げない人たちの悔しさや生きざまというようなものの方が、多数だろうなと考えたのです。

榛葉 これは映画の話だけではありませんが、インターネットが普及してきて感じるのは、人を政治的な立ち位置だけで簡単に批評して決めつけてしまうという傾向がすごく強まっていることです。ツイッターの140文字の中だけで「あいつは反原発だ」「あいつは原発垂れ流しを許容している」というように。原発だけの問題だけではなく、「あいつはアカだ」「あいつは反日だ」とか、平気で決め付ける、《卑しい言葉》が横行している。そうやってレッテルを貼ることでことを済ませてしまっている社会が広がる中で、この映画と関わり、そうしたものとは一線を画したいと思っていました。だから松原さんの気持ちはよく分かりました。

作り手としては、訴求力のある吉沢さんに寄りかかってしまったほうが楽です。彼を主人公にしたドキュメントはテレビも含めてこれまでありました。しかし、そこへ行ってしまうと、反原発を流布するためのプロパガンダ映画になってしまいます。それをやっちゃったら「マンセー、マンセー」と言っているどこかの国の映画と一緒になってしまいます。

映画の文化はそんなものではなく、映画は100%お客様のものだし、ドキュメントに関していえば、100%登場人物とお客様をつなぐものだと思っています。だから、吉沢さんを政治的なプロパガンダの道具にするのは嫌なのです。ましてや彼とは距離感が違う、他の思いを持っている「被ばく牛」を飼い続けている方々を反原発の道具のような所に追いやりたくはなかったのです。

宮城県南三陸町と気仙沼市の女子高校生が主人公の、映画「うたごころ」を撮影していた時に感じていたのは、被災された方々を見世物にするようなドキュメントが当時たくさんありました。被災した人たちを「かわいそうだな」という同情や憐みの対象として表現するドキュメンタリーがテレビでも映画でも山ほどあったのです。それが僕にはすごく気持ち悪かった。「被災者の苦しみや痛みは、他の誰かに涙を流してもらうための道具ではない」って思っていました。彼らの苦しみは喜びも含めて彼らのものであって、そういう諸々を含めて広く共有してもらうための取材であり表現であれば、意味はあるでしょう。例えば被災地では、「あなたよりもっと深刻な被害にあっている被災者がいれば紹介してもらえませんか」と尋ねる馬鹿な記者がいるのです。「とんでもない」「ふざけんな」「なにこれ!?」という話ですが、こういうのはいっぱいあったんです。

私は南三陸町を中心に取材していたのですが、防災対策庁舎という建屋が骨組みだけになった震災遺構があり、3月11日には、毎年東京や仙台から新聞記者がやってきます。デスクから言われて鉄砲玉みたいに飛んできた若い記者です。彼らが手を合わせに来た被災者に「すみませんが、どういうご関係の方ですか」「あなたの被害の程度は?」とインタビューしようとします。そうすると取材された人たちは「私たちにとっては長くて短い5年間でした」と答えるほかありません。言いたくないですから。

南三陸町の被災者は、そうした取材のことを「また今年も『被災者狩り』に来たね」と言っています。もちろん記者はまじめに取材に来ているつもりです。けれども、その日だけ取材に来たところで、何が伝わるのか。「長くて短い5年間でした」という言葉だけを切り取って記事にしたって、何の深みもありませんよね。ステレオタイプのワードでしかありません。でもその人が「長くて短い」ということになにか所以があるのなら、しっかり取材をして書かなかったら意味がありません。だからそういう記事は、被災者を見世物にする「記事を埋めるための記事」「紙面を埋めるための記事」でしかありません。あるいは取材したけれど全然記事にならないこともあります。薄い取材だからです。だから地元の人たちはそれを感じ取って「“被災者狩り”に来たね」って言うんです。

そういう例を私はたくさん見てきたので、絶対に同じになってはいけないなと思っていました。松原さんの取材はそれとは全く反対で、よくもここまでしつこくがんばって撮り続けたなという内容なのです。だから登場人物の方々のつぶやきとかため息とか、無言でただただ外を眺めているシーンこそが雄弁に物語っています。とても映画的です。これをちゃんとスクリーンに定着させることで、あとは見て下さる方々に、「考えてください」「いまなぜ彼が言葉ではなく表情で何かを表しているのかということをくみ取ってください」「答は皆さんが考えてください」と…。十人十色でいろんな解釈が生まれますが、映画文化ってそれでいいんですよ。そこだと思うんです。

松原 映画はテレビよりも情報ではなく共感を生むような作り方をしなくてはいけない。その中で、世界のドキュメンタリーは今ノン・ナレーションが主流です。そのことについては知っていました。ノン・ナレーションに挑む人たちもたくさんいます。それで私もいくつか見ましたが、やはり分からない。背景が分からない、登場人物の心情が分からないという中で、自分がそれを真似するのではなくて、最低限の情報を間違いなく、この映画の中で言わないと、伝わるものも伝わらない。ただし、自分の思いや思想を言葉にするような表現はやめようと。そこに、やはりテレビと映画の違いがあります。

大高 面白いですね。テレビと映画の違いの他にも、ウェブの動画も増えていますね。映画が好きな人は、感覚的には違いを理解していますが、違わないという人もいます。同じだという人もいる中で、何が違うのかというところが、「尺」ではないことを、ここまでのお話を通じて、僕自身が理解することができました。

榛葉 ホンマ?それはうれしい!

大高 尺の密度というか、間ですよね。昔、大林宣彦さんが言っていたような話ですよね。「フィルムとフィルムの間の黒い所を見せるのが映画」だというような。

松原 見ている人に、どこまで我慢をしてもらえるか、そこまで持っていける自分の構成とか、画の力とかテクニックとかあるから、狙っているドキュメンタリーのワンカットでどこまで何分まで見せられるかということも、映画人なら、演出として考えていますね。

榛葉 私が撮った「うたごころ」はビックリされるかもしれませんが、ワンカット6分がフィックスというシーンがあります。

大高 それはチャレンジングですね(笑)

榛葉 それをやると決めた時には「もうテレビはありえない」と思いました。これは映画でしかできません。ワンカット6分フィックスの映像ですが、微妙には動くんですよ、風景がね。ただ風景が映っているだけなんですけど。大阪で大スクリーンで上映会をした時に後ろの方でそのシーンになったら、お客さんがおもむろに椅子の上で足を組んで瞑想を始めたんです。つまり、座禅を組んでいるんです。こんなことはテレビではあり得ません。けれども、瞑想するとか座禅を組むとか、手を合わせてひたすら祈るとか、そういう現象が劇場では起きるんです。これには当然意味があります。僕はそこまで計算した上で、そういうことも起きるだろうなと思いながら編集しています。

映画の独特な距離感というか、観客の皆さんと映画が一緒にその空間を作り上げる、思いを作り上げるというのでしょうか。演劇の世界では、「三つの舞台」という言い方をします。「第一舞台」は舞台の上で、「第二舞台」は客席です。かつて演出家の鴻上尚史さんが学生の時に作られた劇団「第三舞台」は、第一舞台と第二舞台の間にある、目に見えないものを追い求めるから「第三舞台」と名付けられたそうですが、映画もそういうものです。テレビは一方的に映像と音とで発信していく、ある意味「情報のメディア」であり、もちろん共感のメディアでもありますが、映画はどちらかというとそれに加えてお客さんと一緒に作っている感じがすごくあります。情報提供だけではない、心の襞の揺れとか動きのようなものも含めて、ちゃんと届けることのできる媒体だと思うんです。

さっき大高さんから出たウェブの動画の話でいうと、あれは2分から、行っても3分ですよね。2時間なんて誰も見ないでしょう。そうすると2分、3分の間に徹底的に訴求させねばなりませんから、ワンアクションで面白いかどうかというのを入れるわけです。そうすると「自分は覚せい剤を持っていますよ」というふりをして警察官をからかって、「ワーッ」と逃げる動画を撮る人が出てきます。あれは極めてウェブ動画的な発想で、ワンアクションの面白さだけを求めているものです。それが結果として社会悪につながっていくわけです。もちろん、いいウェブ用のビデオコンテンツもたくさんありますが、一発芸の世界になってきています。

「被ばく牛と生きる」のような映画は、ウェブには全く向きません。でもそこに現実はちゃんと描かれていて、ウェブに登場しないからそんな事実は存在しないかといえば、そんなことはないわけです。福島にある現実をちゃんと伝えようとするならば、映画という媒体を通すことが、最も適切に当事者の思いを表現することができるでしょう。

松原 同じ材料でテレビ番組を作ったら、全然違うものになったでしょうね。受け取っていただいた感想も別物になったでしょう。

榛葉 私がもしこれをテレビで作るとしたら、1時間以内にしますね。2時間番組にするのは無理です。視聴者が途中で「無理だ」と思って諦めてしまうでしょうし、とくに民放の場合は途中でコマーシャルが入りますから、余計にきついのです。コマーシャルをはさんでも視聴者が離れないように、いろんな工夫をしますが、そうすると、ますますこういう余白のある表現は許されません。(コマーシャルのない)NHKならまだしも、といったところです。私たち民放はコマーシャルが宿命なのです。

松原 もし仮にNHKのような公共放送で放送されるとしたら、もっと数字の明示を入れてくるように指示されるかも…。数字というのは、科学的な根拠のことです。「○ミリシーベルト」は、もっと分かりやすくするにはどうしたら良いのかという、「心」ではなく「脳」で見られるものに置き換えられたかもしれません。

映画はハートで伝えます。はっきりした数字よりも、多いのか少ないのかということを分かってもらえれば、そちらの方が良いのです。あまり小難しい数字を映画で見せられても、結局頭に残りません。

■もっとゆるい世の中でもいい

大高 本作のテーマと似ていますよね。経済成長から起きた、数字で何か置き換えるのを拒否する表現に意味があって、それをいかにやっていくかという。

松原 だから気持ちの部分といいますか、ちょっとファジーなのですが、ファジーな世の中でも私は良いんじゃないかと。寛容性が今の日本人の中から無くなってきていて、ぎすぎすした世の中になってきていますが、例外はたくさんあってもいいでしょう。

もしもその時の判断が間違っていたなら(→追加)、一度国が下した判断を「ちょっと違っていたから変えました」と言ってもいい世の中になっても良いでしょう。今回も(追加)国が最初に下した判断は間違っていないと思うのです。マーケットを守る、食品の安全を守るという立場から、汚染されたものは絶対に外へ出してはいけないという考え方は間違っていなかったと思います。ただし、時間をおいて見た時に、「生かしたい」という人がいて、それが自分たちの生き方というか、生かすことで彼らが生きがいを見出しているということに、もう少し何か手を差し伸べる世の中になっても良いんじゃないかと感じています。

榛葉 本来的にはそこまで追い込んでしまった責任はありますよね。農家の方々には「殺処分しろ」と言われてもできない根拠が当然あって、食べていくためにいつかは屠殺して肉として出荷することは抱えつつも、一方で生きている間は家族のように育てて大きく成長させているわけです。しかし、殺処分に同意するということは、自分から手をかけて頸を締めなくてはならないという状態と一緒です。それを国から要求されるということは、すごくつらいことですよ。

自分の子どもが被ばくをして、殺せと言われて、頸を絞めることに同意して「わかりました、サインします」とはいきませんよね。人間ならできないのは当たり前だけど、牛ならばできるのかということですが、彼らにとっては、仔牛であっても我が子と一緒なわけですから、だったら「自分の知らないところで責任を持って殺してくれ」と言いたくもなるでしょう。今の国の体制はこの責任から逃げているわけです。その問題は大きいと思います。

筆者紹介

大高健志(おおたか・たけし)のコラム

大高健志(おおたか・たけし)。国内最大級のクラウドファンディングサイトMotionGalleryを運営。
外資系コンサルティングファーム入社後、東京藝術大学大学院に進学し映画を専攻。映画製作を学ぶ中で、クリエィティブと資金とのより良い関係性の構築の必要性を感じ、2011年にMotionGalleryを立ち上げた。

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