コラム:佐藤久理子 パリは萌えているか - 第12回
2012年11月14日更新
1カ月で100万人動員 スリリングな展開が光るフランソワ・オゾンの新作
たまたま通りすがりに一風変わった家を目にして、いったいここにはどんな人が住んでいるのだろう、と興味をそそられたことはないだろうか。裕福なのか、何の仕事をしているのか、家族はいるのか、幸福なのか。ヒッチコックの「裏窓」の主人公でなくても、ふと他人の家のなかを覗いてみたくなることはあるに違いない。
フランソワ・オゾンの新作「Dans la maison(家のなか)」は、まさにそんな好奇心をもとにした物語だ。もっとも、そこには単なる好奇心だけではなく、嫉妬や羨望から生まれた密かなる企みもある。
ジェルマン(ファブリス・ルキーニ)は、ギュスターブ・フローベール高校の国語の教師をしている。かつて作家を志し、小説を書いたこともあるものの(彼にとっての手本はフローベールとビクトル・ユゴーだった)、自分で文才のなさに気づいて筆を折った。レベルの低い生徒を抱えてやる気をなくしていたが、新学期に唯一才気ある生徒を見つける。最後尾に座り、作文の宿題に「つづく」と最後に付けるような、少々ひねくれた男子、クロードだ(エルンスト・ウモエ。新人俳優ながらすこぶるうまい)。彼はクラスメートのラファとその家族を題材に、親子でサッカーに興じるようなラファらをいじわるな視点で見た文章をつづる。だがその「ふつうじゃなさ」こそが、ジェルマンの心をつかむ。どうやら、優れた芸術を創造するには素直で優しいだけではだめらしい。
この段階ですでにオゾンのファンなら、この少年がまるで監督自身の若かりし頃のようだと気付くかもしれない。スマートで如才なく、人の心を惹き付けるのに秀で、どこか皮肉的な眼差しを持っている。書くこと、すなわち創造の世界こそが彼にとっては喜びなのだ。ここではそれぞれのキャラクターに欠けているものがあって、意図的にも無意識的にもそれを求めて人間関係が繋がって行く。ジェルマンは、まるで自分の果たせなかった夢をクロードに託すかのように、個人的な指導に熱中していく。クロードがラファと付き合うのも友情ではなく、自分にとってもの珍しい彼の家庭に惹かれるからに他ならない。一方、現代アートのギャラリーを仕切るドライでビジネス的なジェルマンの妻(クリスチャン・スコット・トーマス)は、「文学なんて何の役にも立たない。アートなんてそんなものよ」と辛らつながら、夫の話を聞くことはまんざらでもない様子だ。
クロードとジェルマンの「文学ごっこ」は、クロードがラファの家庭に入り込んでいくに従って節度を失い、現実と空想、リアリティと願望の境界がぼやけた危険な遊びになっていく。このまま文学的インテリ映画で終わるのかと思いきや、物語はどんどんテンションを増し、スリリングに展開していく。このあたりのストーリーテリングはうまいの一言に尽きる。さらにラストには別の仕掛けが待っていて、観客が余韻を引きずるようなオープン・エンディングになっている。
本作を観て、フランソワ・オゾンという監督は一作ごとにその完成度を高めていると痛感させられた。しかも彼はほぼ年に一本、ウッディ・アレンのようなペースで映画を作り続けているのだ。その尽きないイマジネーション、決して手綱を緩めない冷徹さや大胆さには舌を巻く。
「Dans la maison」はフランスで10月10日に公開になり、1カ月で100万人を越す興行成績を記録している。なんでも、すでに準備中の自作では、女の子を主人公に本作と対になるようなストーリーを考えているらしい。11月にちょうど45歳を迎えたオゾン。この世代では今もっとも脂ののった監督のひとりである。(佐藤久理子)
筆者紹介
佐藤久理子(さとう・くりこ)。パリ在住。編集者を経て、現在フリージャーナリスト。映画だけでなく、ファッション、アート等の分野でも筆を振るう。「CUT」「キネマ旬報」「ふらんす」などでその活躍を披露している。著書に「映画で歩くパリ」(スペースシャワーネットワーク)。
Twitter:@KurikoSato