悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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気づきや思索をもたらすストーリーテリング
人間とは不可思議な存在だ。こういう人物だろうと把握した次の瞬間、全く違う顔を覗かせることも多い。判で押したような悪人や善人は少なくとも本作には存在しないのだ。そもそもメインの父娘からして、どんな過去を持ってこの地へやってきたのか曖昧で、だからこそ我々は表情や言葉、調度品から懸命に理解しようとする。と同時に、グランピング場建設のためにやってきた男女にしても、車内のダイアローグで切々と胸の内を語り、最初の印象は刻々と覆っていく。人間とはかくも面白い生き物であり、変容の中にこそ本質があるのかもしれない。一方で、本作には自然環境や未来への視座も盛り込まれている。上から下へ流れるのは、水のみならず、時間も同じ。子供ら世代に豊かな環境を残せるか否かは今を生きる大人たちに委ねられた課題でもある。斬新なストーリーテリングでナチュラルな気づきや思索をもたらす作品として、ラストの謎も含めて、胸に深く刻まれた。
悪意はなくとも、悪いことは起こる
自然環境と開発、地元民とよそ者、野生動物と人間、消える子と探す親といった題材は、最近日本で公開されたものでは「ヨーロッパ新世紀」「理想郷」、少し前では「ラブレス」など外国映画でも時折描かれてきたものであり、問題意識と物語類型が国境を越えて共有されていることの表れだろうか。
映像は美しい。が、いくつかの長回しは冗長に感じられた。音楽家の石橋英子からライブ演奏時に流す映像を依頼されて企画が始まった映画であることと関係があるかもしれない。
ラスト近く、娘が置かれた状況を目にして、父親はある行動に出る。あの展開は、保護者としてのリアリティーよりも劇的効果が優先された純然たるフィクションだと感じた。ラストのインパクトを高く評価する向きも当然あるだろう。だが評者は、グランピング場計画をめぐるリアルな対立を興味深く追っていただけに、「えっ、それで終わらせちゃうの」と、何やら梯子を外されたような思いがしたのだった。
正直なところ見る人を選ぶ作品。ただ、流石のリアリティーで、ベネチア国際映画祭の銀獅子賞(審査員大賞)受賞は納得の佳作。
ベネチア国際映画祭やカンヌ国際映画、ベルリン国際映画祭の世界3大映画祭の受賞作は、見てみると割と「?」な映画が多い印象です。
本作も正直なところ、冒頭からイメージビデオのようで、「うわ~、これハズレの作品か」と思いながら見ていました。
ただ、濱口竜介監督の前作「偶然と想像」は脚本が面白く、本作をスルーするわけにもいかず見ていましたが、まさに会話劇となる説明会のシーンで盛り上がり、その後の展開も興味深く見ることができました。
セリフも素人のような感じが多く有名俳優もいない状態で、よくぞここまで作り込んだリアリティーを構築できたなと感心しました。
そもそもが音楽ライブ用の映像を制作するだけのはずが、緻密な構成によって106分の長編映画になったのも興味深いです。
まさに脚本と映像の両面で存在感を放ち、2023年・第80回ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)を受賞したのも納得できる作品です。
心を揺さぶる物語 確かにそうなのですが…
面白かった。心を揺さぶられました。確かに無関係ではいられないような気にもなってきました。でも、この感情はどこからくるのでしょうか?
美男も美女も登場しない。舞台の田舎町の登場人物全員が、どこにでもいそうな人たちばかりで、演技はとっても自然で、観ている自分自身が映像の町に溶け込んでしまう感じがした。本来異物であるはずの、グランピング建設の説明会の男女社員でさえ、最初こそ異物感はあったものの、やがて見た目も、思考も、感情の動きさえどこにでもいそうな善良な日本人代表みたいになってしまい、普通に感情移入できてしまう。そうい観点から考えると無関係ではいられないし、心を揺さぶられる物語となるのである。
ところがである。初めから、控えめな異彩を放って若干分かりにくい感を出していた、主人公なのだが、最後の場面で物凄い異彩を放ち、観客はまったく感情移入できなくなる。なんだよと言って倒れた、グランピング説明の男性社員のように。
監督のインタビューに自然災害は最悪のできごとだが、自然災害を人は悪とは呼ばないという意味の話があった。そうであるなら、悪は存在しないとは正鵠を突いた題名ということになる。自然を陶冶し、人間に落とし込むとこの映画のような表現になるのだろうと、私は強いて解釈し、もやもや感を残して、寝ることにする。
明日の朝には忘れていることを節に願うのみである。もやもや…
税金に頼る事業の胡散臭さ
ここの解説を読んだが、逆説的と書いてて笑った。逆説ではない。作中鹿の話が出てくる。追いやられた鹿は何処へ行く?都会の人間は「どこかへ行く」と無責任だ。ここが本質なんだと思う。彼は悪人ではないが、それを悪い事とも思ってない。鹿は比喩であって何にでも当てはまるだろう。日本人をないがしろにした移民問題や、自民党の裏金だってそうだ。
補助金目当てのグランピングにしたって、去年から問題になっている東京都のいわゆるColabo問題と一緒で当事者(映画では村人、Colabo問題では貧困女性自身)は関係なく税金目当ての事業にすぎない。電気代の再エネ賦課金の値段を上げるためのメガソーラーにしたって自然破壊をしているだけだ。でもそこに悪があるわけではない。ただの利己主義だ。個人の価値観、多様性なんて言ってる人で、そのことに疑問を挟むと反発する人達が一番やっかいなのだ。
昨晩食べた食事がまだ胃の中に残っているようなもやもや感。
自然と文明、空気のきれいな田舎とごみごみした都会、素朴な地元民と補助金目当ての事業者。前者が善であり後者が悪だと一般的には思いがち。
山村の風景から都会の風景に一瞬で切り替わる場面があり、正直都会の風景を不快に思った。これは明らかに監督が意図的に観客にそう見せようとしていると感じた。だけど、田舎が善であり都会が悪だなどとは単純には言えない。それぞれそこで暮らす人々にも事情があったりする。この世は単純な善悪二元論では説明できない。本作は二元論にとらわれたら物事の本質を見誤るということを描きたいんだろうかと鑑賞しながら思ってたら、あのラスト。いまだにその意味は分からない。いや、これこそが表面的に物事を見てはならないという本作のメッセージなのか。
便利屋として娘と二人で暮らしている巧は自然の知識が豊富でこの田舎町では皆から信頼されている頼りになる存在。
事業者との交渉でも彼らに世話を焼いたりしてお互いの理解を深めようとする。不愛想ではあるが話の分かる男だ。
しかし終盤のある行動で彼という人間が分からなくなる。どう考えてもこれまでの彼の姿からは想像もできない行動をとるのだ。結果的には大事にならずに済んだが一歩間違えれば殺人である。殺人未遂の罪は免れないだろう。鑑賞者がとても想像しなかった彼の行動は何だったのか。
巧から手負いのシカは人を襲うことがあると聞いていた高橋は花を守るために駆け寄ろうとする。それはだれが見ても当然の行為だ。それを父親の巧が彼を殺す勢いで止めようとする。花の運命は自然に任せるべきだとでも言いたいのか。それともあれこそが人を表面的に見た目だけで判断できるものでないということをこの映画は言いたかったんだろうか。
中盤までは興味深く見れた。地元住民と新参者の事業者たちとの交流、経営者に言われるがままの事業者側の高橋達も皆それぞれの人生の悩みを抱えていて、人間として一方だけを描くのではなく地元住民と対等に描かれていて、とても面白く見れた。それがあの結末だから完全な置いてきぼりを食らった。いまだ腑に落ちていない。監督は三回くらい見ればわかるかもなんて言うけどそこまで金も暇もない。
誰が見ても納得できない展開をあえて描いたのは意図的なんだろうけど、この腑に落ちないという感覚を与えるのが監督の意図なんだろうか。皆さん大いに腑に落ちないでいてこの作品に心を縛られていてくださいと。意地悪な作品だなと思う。納得ができないこのもやもや感自体が監督の術中にはまってるということなのだろうか。
確かにわかりやすい映画はつまらない、鑑賞後いろいろ考えさせてくれる作品の方が好きなんだけど、これはただわからないという気持ちしか残らない。セブンやミスト見たときみたいなラストがショッキングすぎて、それまでの話が吹っ飛んでしまう映画はあったけど、これはただもやもやした気持ちが残っただけ。本作のラストが腑に落ちる日が来るといいんだけど。
物語りきる撮り手の責任。
広げた風呂敷を畳む責任が撮り手にはある。
畳まず寧ろ尚広げて幕、なんて。
序盤から読めない展開で、
遂に意外なキャラに焦点が当たり、これは!と乗った。
中盤の薪のシーンのアレで突如幕なら傑作だったろう。
以後全部不要。
繰り返す。
注目の監督よ、物語りきる責任の再考を。
なぜ殺したか?
薪割りを初めてなにのうまくやったからむかついたから。が理由ですね、、
主人公はadhdで、
そんなことで怒るの?ってことで怒りますから。
そして感情をその場でうまく表現できないから、あとで爆発する。
時間を守れないとか、お金の計算が苦手とかもありますが、adhdについての理解をもっとすべきだと。それがないと孤独になっていくから、、
タイトルの意味は、鹿も人も同じってことかなあ。
主人公の車のケツにDHDというプレートがあるんですよ。それでこの映画のテーマが理解できました。
面白いけど分からない
東京近郊の山間部にある町が舞台。
始まって暫くは美しい自然の中の生活が淡々と描かれる。ちょっと退屈になってきた頃に、山にキャンプ場を作る計画を企業が持ってきて話が動き始める。
計画通りにキャンプ場を作りたい企業と、不安にかられる町の住人、間に立たされる担当の社員2人。
ここからの展開が面白い。特に会話が秀悦だ。また、少し間延びした感じの編集が不安感や不信感を増していく。
展開や人物像が多層的になって、惹きつけられていく。
しかし、訪れるラストシーン。その意味が僕には分からなかった。良い悪い訳ではなく、自分の理解できる範疇を超えてしまった。意味が知りたい。興味が尽きない。
それも含めて、かなり面白かった一本。
森に見られてるって事か…?
#悪は存在しない
長野県水挽町。 自然豊かな小さな町。 小学生の娘・花(西川玲)とふ...
長野県水挽町。
自然豊かな小さな町。
小学生の娘・花(西川玲)とふたりで暮らす巧(大美賀均)は、その町の雑用係。
自称「便利屋」だ。
そんなある日、巧らが暮らす集落にグランピング施設建設の話が持ち上がる。
グランピングとは、コテージなどを利用したキャンプは難しいが自然を満喫したい都会人向けの施設。
計画を立ち上げたのは、都会の芸能事務所。
コロナ禍での補助金目的が透けて見える。
案の定、説明会では、集落側からの質問にまともに答えられない。
住民側の心配事は、汚水浄化施設の能力不足と管理者不足。
とちらも、土地の自然を破壊しかねず、住民にとっては生死にかかわる問題なのだ。
だが、事務所側は・・・
というところからはじまる物語だが、映画は建設計画説明会のエピソードまでに巧と花を通して、山村の自然と暮らしを映し出していきます。
石橋英子の音楽、北川喜雄のキャメラが素晴らしい。
学校からの帰り道、花と巧は小鹿の死骸、骨となった死骸を見つける。
ははん・・・と、ここで察しが良ければ、後半の展開のうちの重要な事柄には気づくだろう。
小鹿は花だろうな、と。
さて、説明会を終えて都会へ戻った事務所のふたり。
社長に状況を説明すると、不足と指摘された管理人に巧を雇えばいいんじゃないか、と安易な解決策が提案され、早速、それを巧に持ち掛けようと再び町へ向かう。
その道中、自動車の中で、都会人の薄っぺらさが浮き彫りにされる。
このエピソード、会話が面白い。
ま、ちょっと身に覚えがあることも・・・
で、その後は、一気に物語の終盤へなだれ込むのだが、主題的には少々浅いかなぁ。
自然に寄り添い、自然とともに生きている人々、その代表が巧で、彼はとにかく土地の自然に詳しい。
が、鹿の跳躍力は凄いと認めていながらも、鹿はひとを襲わない、と、どこか「自然はこんなものだ」と無意識のうちに思っている。
それが、終盤、手ひどいしっぺ返しを食らう。
都会人は都会人で、田舎での暮らしはこんなもんだ、ひとびとはこんなもんだ、と安直に考えている。
それが、手ひどいしっぺ返しを食らう。
ひっぺ返しに予感はない。
前兆とか伏線とかはない(ま、映画だから、あるのはあるんだけど)。
突然のしっぺ返し。
自然から人へならば、その突然感は納得できるだろうが、人から人へならば、その突然感は納得できないかもしれない。
しかし、しっぺ返しとは、そんなもんだ。
ま、「突然」を「神」と結びつけるとヨーロッパ映画的になるだろうが、何と結びつけるかは観客に委ねられるように作られている。
個人的には、
村人たちから発せられる都会人への薄っぺらへの嫌悪のかたまりをベースにして、喪失の哀しみと、信頼していた自然からのしっぺ返し(裏切りともいえる)への絶望などが綯交ぜになったゆえの「突然」だった・・・
と受け取りました。
とても、哲学的な映画で、この映画を観た人と話してみたくなる。
ミニシアターで鑑賞、珍しく20代、30代の若い人が多くて、場内いつになく活気を感じました。
「ドライブ・マイ・カー」は、村上春樹さん原作にしてはとても分かりやすい、観やすい映画でした。
この映画も、不穏なものを感じながらも、出だしから流れに乗って、没入できました。
で、ラスト。
日本映画での置いてきぼりは、なかなかなかったので、おー、私は、巧さんのこと何もわかっていなかったのね、と衝撃を受けました。
いやいや、でも、巧さん。
父親として見た時、たいがいにせーよと思うこと、花ちゃんにめちゃめちゃしてますよ。
自然の使者のような顔して、他者を断罪していいのか?レベルの。
もし、これがSF映画で、実は巧さん、アンドロイドでしたーというオチがあった方が、私は救われた気がします。
巧さんのような、問答無用で異なる価値観の人を排除する人間が増えていくなら、私は自分を表現することが怖くなります。
けれど、同時に、その中でも、自分らしく生きていきたいなと強く思いました。
この映画を観た後、ロビーで15分ほど、隣席の大学生と感想を共有しました。
私のザワザワした気持ちも落ち着きました。
濱口監督の作品をいくつか勧められたので、それらを今度観ようと思います。
悪は存在しない
ラストシーンが意味不明。どう解釈したらいいのか? 映画みてしばらくたっても、心に残るというのか? 忘れられないというのか? こんな映画はあまりない。何だったー そしてすっきりしない
映像は美しく、詩的ではありました。
濱口監督作品は難解そのものだ!余韻だ!
自然と人間と動物がテーマかなぁ?
冒頭の森の木々でカメラが下から天へ撮りながら暗い音楽で永く画面の下から上ねへ流れ段々と枯れ枝が増える。スリラー的な展開を予想させる。また、車の後窓からのシーンも悪いことをイメージさせる。そして、上流から下流への水や人間の自然破壊に折り合いをつける生活、自然の恵みを享受するか鹿と足跡、手負いの鹿は人を襲うという前振り。最後の息づかいと闇に森シーン。きっと娘の花ちゃんは助かったに違いないとカメラが唯一上から下へ流れた。余韻が凄い、或いははて、なんじゃ!と思う方もあろう!
人間は悪には足りえない
冒頭の1時間半、私はなんでもないものをみていたのだろうか
巧さんは自分そして親、祖父の生きてきた自然に与えた影響をグランピング計画で起きる、山そのものとも言える自分自身における変化の中で知りたくなってしまったのだろうか
解釈を観ている私達にさせてくれる濱口監督の作家性に優しさとそれ以上の狂気を覚えました
そんな狂気に触れた自宅で待つ黛さんが人間界の狭い場所へ逃げるように急ぐような数秒のカットが1番印象に残っている
ドライブマイカーを観させてもらったときも感じたのだが濱口監督とハイパーボイルドグルメリポートの上出さんとかダブり、そして真逆におられると感じる
私は勝手に考え、個性豊な人間って好きだな。めんどくさいけど。
みな死ぬまで生きていく
花は生きていた。高橋も生きている。だが母(妻)はいない。
薄暮のような夜明けのようなあのシーンは、すべて巧の、後(のち)の夢である。
ゆらゆらと立ち上り循環する水のように、
時間はかならずしも一直線に流れるわけではない。
矢負いの巧・花親子の傷を癒すバランサーは意外に黛さんかもしれず、
たとえば5年後、あのベランダで、いっしょに夕日をみているかもしれない。
ああ、観賞後数日してようやく回せましたよ私のカメラ……おいっ 濱口さんっ!
とても面白かったです
問題のラストをどう捉えるか、人それぞれ違っているでしょう。
私は、希望が欲しい気もしつつ、感じ方としては『怪物』と同じで悲しい最後です。
淡々として見えていましたが、巧の抱えていた闇は想像以上に大きかったのではないかな、と思いました。
衝撃!、どっちなの?
まず、間が長すぎる。
オープニングから15分くらいは結構睡魔地獄。
何も無いシーンが何度か続きます。初めのうちは、何かあるのかな?と集中しようとしますが、そのうち、帰りなんか食べていこうかな、、、とか他のこと考えてしまいます。間や行間や余韻とか、映画にとって大切だと思いますが、さすがに無意味に長すぎる。
オープニングに余韻はいらないでしょう。
逆にエンドロールは余韻が欲しいけど、バッサリ。
斬新な演習ですね。
ようやく、役者がしべり出して話が展開していくと、キャラクターに没入する感じがあります。日常を普通に見ている感じ。この辺りがとても特長的な監督なのだろうと思います。ドライブマイカーもそうでしたが。
グランピング施設を作るか、自然を守るか、、、というテーマは目新しいものでもなく、特にドラマもありません。
その後ろの人間のドラマの映画だと思いますが、私には難解過ぎたようです。
最後は、、、え!?終わり?、どういうこと?となってしまい、即ネタバレサイトを探しますが、、、答えは自分で考える必要があるようです。
私にはラストは、「助けた」のか「殺した」のかさえ分かりません。ハッピーエンドなのかバットエンドなのかさえ分かりませんでした。
「鹿」=「お父さん」
で、普段は襲わないけど、手負いや家族に危険がある時は大切な家族を守る、お父さんは変人で、善悪の区別がつかないのか、、、
そもそもお父さんは変人(ここは確定だと思いますが)で、娘に興味が無い様子。娘がジャマで、、、もしかしたら奥さんも、、、とも思えます。
まさに難解な映画です。
せめて、答えが知りたい、、、監督の解説や原作があれば良いのですが。私にはとても気持ちの悪い映画でした。
映画の中で答えがわかる必要はありませんが。いつまでも答えが分からないのは不快ですね。
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