悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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昨晩食べた食事がまだ胃の中に残っているようなもやもや感。
自然と文明、空気のきれいな田舎とごみごみした都会、素朴な地元民と補助金目当ての事業者。前者が善であり後者が悪だと一般的には思いがち。
山村の風景から都会の風景に一瞬で切り替わる場面があり、正直都会の風景を不快に思った。これは明らかに監督が意図的に観客にそう見せようとしていると感じた。だけど、田舎が善であり都会が悪だなどとは単純には言えない。それぞれそこで暮らす人々にも事情があったりする。この世は単純な善悪二元論では説明できない。本作は二元論にとらわれたら物事の本質を見誤るということを描きたいんだろうかと鑑賞しながら思ってたら、あのラスト。いまだにその意味は分からない。いや、これこそが表面的に物事を見てはならないという本作のメッセージなのか。
便利屋として娘と二人で暮らしている巧は自然の知識が豊富でこの田舎町では皆から信頼されている頼りになる存在。
事業者との交渉でも彼らに世話を焼いたりしてお互いの理解を深めようとする。不愛想ではあるが話の分かる男だ。
しかし終盤のある行動で彼という人間が分からなくなる。どう考えてもこれまでの彼の姿からは想像もできない行動をとるのだ。結果的には大事にならずに済んだが一歩間違えれば殺人である。殺人未遂の罪は免れないだろう。鑑賞者がとても想像しなかった彼の行動は何だったのか。
巧から手負いのシカは人を襲うことがあると聞いていた高橋は花を守るために駆け寄ろうとする。それはだれが見ても当然の行為だ。それを父親の巧が彼を殺す勢いで止めようとする。花の運命は自然に任せるべきだとでも言いたいのか。それともあれこそが人を表面的に見た目だけで判断できるものでないということをこの映画は言いたかったんだろうか。
中盤までは興味深く見れた。地元住民と新参者の事業者たちとの交流、経営者に言われるがままの事業者側の高橋達も皆それぞれの人生の悩みを抱えていて、人間として一方だけを描くのではなく地元住民と対等に描かれていて、とても面白く見れた。それがあの結末だから完全な置いてきぼりを食らった。いまだ腑に落ちていない。監督は三回くらい見ればわかるかもなんて言うけどそこまで金も暇もない。
誰が見ても納得できない展開をあえて描いたのは意図的なんだろうけど、この腑に落ちないという感覚を与えるのが監督の意図なんだろうか。皆さん大いに腑に落ちないでいてこの作品に心を縛られていてくださいと。意地悪な作品だなと思う。納得ができないこのもやもや感自体が監督の術中にはまってるということなのだろうか。
確かにわかりやすい映画はつまらない、鑑賞後いろいろ考えさせてくれる作品の方が好きなんだけど、これはただわからないという気持ちしか残らない。セブンやミスト見たときみたいなラストがショッキングすぎて、それまでの話が吹っ飛んでしまう映画はあったけど、これはただもやもやした気持ちが残っただけ。本作のラストが腑に落ちる日が来るといいんだけど。
なぜ殺したか?
薪割りを初めてなにのうまくやったからむかついたから。が理由ですね、、
主人公はadhdで、
そんなことで怒るの?ってことで怒りますから。
そして感情をその場でうまく表現できないから、あとで爆発する。
時間を守れないとか、お金の計算が苦手とかもありますが、adhdについての理解をもっとすべきだと。それがないと孤独になっていくから、、
タイトルの意味は、鹿も人も同じってことかなあ。
主人公の車のケツにDHDというプレートがあるんですよ。それでこの映画のテーマが理解できました。
長野県水挽町。 自然豊かな小さな町。 小学生の娘・花(西川玲)とふ...
長野県水挽町。
自然豊かな小さな町。
小学生の娘・花(西川玲)とふたりで暮らす巧(大美賀均)は、その町の雑用係。
自称「便利屋」だ。
そんなある日、巧らが暮らす集落にグランピング施設建設の話が持ち上がる。
グランピングとは、コテージなどを利用したキャンプは難しいが自然を満喫したい都会人向けの施設。
計画を立ち上げたのは、都会の芸能事務所。
コロナ禍での補助金目的が透けて見える。
案の定、説明会では、集落側からの質問にまともに答えられない。
住民側の心配事は、汚水浄化施設の能力不足と管理者不足。
とちらも、土地の自然を破壊しかねず、住民にとっては生死にかかわる問題なのだ。
だが、事務所側は・・・
というところからはじまる物語だが、映画は建設計画説明会のエピソードまでに巧と花を通して、山村の自然と暮らしを映し出していきます。
石橋英子の音楽、北川喜雄のキャメラが素晴らしい。
学校からの帰り道、花と巧は小鹿の死骸、骨となった死骸を見つける。
ははん・・・と、ここで察しが良ければ、後半の展開のうちの重要な事柄には気づくだろう。
小鹿は花だろうな、と。
さて、説明会を終えて都会へ戻った事務所のふたり。
社長に状況を説明すると、不足と指摘された管理人に巧を雇えばいいんじゃないか、と安易な解決策が提案され、早速、それを巧に持ち掛けようと再び町へ向かう。
その道中、自動車の中で、都会人の薄っぺらさが浮き彫りにされる。
このエピソード、会話が面白い。
ま、ちょっと身に覚えがあることも・・・
で、その後は、一気に物語の終盤へなだれ込むのだが、主題的には少々浅いかなぁ。
自然に寄り添い、自然とともに生きている人々、その代表が巧で、彼はとにかく土地の自然に詳しい。
が、鹿の跳躍力は凄いと認めていながらも、鹿はひとを襲わない、と、どこか「自然はこんなものだ」と無意識のうちに思っている。
それが、終盤、手ひどいしっぺ返しを食らう。
都会人は都会人で、田舎での暮らしはこんなもんだ、ひとびとはこんなもんだ、と安直に考えている。
それが、手ひどいしっぺ返しを食らう。
ひっぺ返しに予感はない。
前兆とか伏線とかはない(ま、映画だから、あるのはあるんだけど)。
突然のしっぺ返し。
自然から人へならば、その突然感は納得できるだろうが、人から人へならば、その突然感は納得できないかもしれない。
しかし、しっぺ返しとは、そんなもんだ。
ま、「突然」を「神」と結びつけるとヨーロッパ映画的になるだろうが、何と結びつけるかは観客に委ねられるように作られている。
個人的には、
村人たちから発せられる都会人への薄っぺらへの嫌悪のかたまりをベースにして、喪失の哀しみと、信頼していた自然からのしっぺ返し(裏切りともいえる)への絶望などが綯交ぜになったゆえの「突然」だった・・・
と受け取りました。
濱口監督作品は難解そのものだ!余韻だ!
自然と人間と動物がテーマかなぁ?
冒頭の森の木々でカメラが下から天へ撮りながら暗い音楽で永く画面の下から上ねへ流れ段々と枯れ枝が増える。スリラー的な展開を予想させる。また、車の後窓からのシーンも悪いことをイメージさせる。そして、上流から下流への水や人間の自然破壊に折り合いをつける生活、自然の恵みを享受するか鹿と足跡、手負いの鹿は人を襲うという前振り。最後の息づかいと闇に森シーン。きっと娘の花ちゃんは助かったに違いないとカメラが唯一上から下へ流れた。余韻が凄い、或いははて、なんじゃ!と思う方もあろう!
人間は悪には足りえない
冒頭の1時間半、私はなんでもないものをみていたのだろうか
巧さんは自分そして親、祖父の生きてきた自然に与えた影響をグランピング計画で起きる、山そのものとも言える自分自身における変化の中で知りたくなってしまったのだろうか
解釈を観ている私達にさせてくれる濱口監督の作家性に優しさとそれ以上の狂気を覚えました
そんな狂気に触れた自宅で待つ黛さんが人間界の狭い場所へ逃げるように急ぐような数秒のカットが1番印象に残っている
ドライブマイカーを観させてもらったときも感じたのだが濱口監督とハイパーボイルドグルメリポートの上出さんとかダブり、そして真逆におられると感じる
私は勝手に考え、個性豊な人間って好きだな。めんどくさいけど。
衝撃!、どっちなの?
まず、間が長すぎる。
オープニングから15分くらいは結構睡魔地獄。
何も無いシーンが何度か続きます。初めのうちは、何かあるのかな?と集中しようとしますが、そのうち、帰りなんか食べていこうかな、、、とか他のこと考えてしまいます。間や行間や余韻とか、映画にとって大切だと思いますが、さすがに無意味に長すぎる。
オープニングに余韻はいらないでしょう。
逆にエンドロールは余韻が欲しいけど、バッサリ。
斬新な演習ですね。
ようやく、役者がしべり出して話が展開していくと、キャラクターに没入する感じがあります。日常を普通に見ている感じ。この辺りがとても特長的な監督なのだろうと思います。ドライブマイカーもそうでしたが。
グランピング施設を作るか、自然を守るか、、、というテーマは目新しいものでもなく、特にドラマもありません。
その後ろの人間のドラマの映画だと思いますが、私には難解過ぎたようです。
最後は、、、え!?終わり?、どういうこと?となってしまい、即ネタバレサイトを探しますが、、、答えは自分で考える必要があるようです。
私にはラストは、「助けた」のか「殺した」のかさえ分かりません。ハッピーエンドなのかバットエンドなのかさえ分かりませんでした。
「鹿」=「お父さん」
で、普段は襲わないけど、手負いや家族に危険がある時は大切な家族を守る、お父さんは変人で、善悪の区別がつかないのか、、、
そもそもお父さんは変人(ここは確定だと思いますが)で、娘に興味が無い様子。娘がジャマで、、、もしかしたら奥さんも、、、とも思えます。
まさに難解な映画です。
せめて、答えが知りたい、、、監督の解説や原作があれば良いのですが。私にはとても気持ちの悪い映画でした。
映画の中で答えがわかる必要はありませんが。いつまでも答えが分からないのは不快ですね。
けっこうよかった
ある意味田舎ホラーだ。グランピングを進めようとして歩み寄る社員の二人が、素の人柄を見せるようになるのに、主人公はずっと裏表なくそのままだ。露骨に反発する金髪の若者は礼節を欠いているものの、正直だ。なんで主人公は社員の男を絞め落としたのか、殺意があったのか、鹿に感化されたのか全然意味が分からない。ただの変わり者だと思ったらヤバい奴だった。何を考えているか分からなくて、突然牙をむく自然みたいな存在なのだろう。
コンサルタントと社長がクソだ。グランピングの用地を下流にすればいいのだろうけど、用地の買収をし直すのも難しいのだろう。
行方不明になる女の子が、大人みたいな顔立ちで、カメラが寄っていると子どもに見えない。
難解
最初は
自然の中に人間のegoのため、グランピングを作る計画で地元民とその企業が揉める話から
芸能事務所のスタッフである二人の心の揺れ
不思議な親子、父と娘
奥さんは亡くなった?
娘が行方不明になり
捜索
その後、あのシーン
鹿に向けられた銃声がハナに当たった?
難解。
鹿の通り道
濱口竜介監督はやはりリアルな現実を切り取るのと、ライブ感を演出するのが上手い。
緩慢なカメラの動きに、演者のなるべく抑揚を抑えたような淡々とした台詞回しが、これが特別な非日常ではなく、あくまでも日常の延長線上にあることを観る者に意識させる。
舞台は長野県の自然が豊かな高原の町。特に沢の水が直接飲めるぐらいに綺麗で、都会からの移住者も増えているらしい。
代々この地で暮らす巧は、薪を割ったり水を汲んだりしながら便利屋として生きる物知りな男だ。
ただ物忘れが激しい。
娘の花は好奇心旺盛、巧の迎えが遅いと一人で森に踏み入り探索をする。
ある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。
しかも計画を進めるのは畑違いの芸能事務所であり、町の一番の誇りである水源を汚染しかねない杜撰な計画でもあった。
まずこの住民説明会のシーンに引き込まれる。
計画の担当者である高橋と黛相手に住民が様々に異を唱えるのだが、まさにドキュメンタリーのようにリアルな対立を観ているように感じた。
巧たちはただ闇雲に反対するのではなく、しっかりと町にとっても財産となるような計画を立てるように彼らを促す。
しかし住民の意見をすべて聞き入れる余裕があるほど、芸能事務所側にも予算と時間があるわけではなかった。
しかもコロナ禍による行政からの補助金を得ているだけに、何としても計画を実行に移さなければいけない。
高橋と黛は社長に説得されて、再び巧のもとへ赴くことになる。
確かに住民を半分馬鹿にしたようなコンサルタントや社長の姿には悪意を感じる部分もある。
しかしこの映画のタイトルにもあるように、この作品には明確な悪は存在しない。
高橋と黛が移動中に仕事への不満や結婚観などを話すシーンが続くが、次第に観ているこちら側も彼らに共感を覚えるように誘導されているようだ。
彼らにも人生があり、信念があるのだ。
どうしても人間の目線で見ると、善であるとか悪であるとかを分けてしまいたくなるが、もっと大きな自然の流れの前ではどちらも些細な問題なのかもしれない。
手負いの鹿はやがて息絶えるように、自然の前では善も悪も関係ない。
ただそこに自然の流れに沿って生きる。
淡々と巧が薪を割るシーンが印象的だった。
簡単なようで薪割りは慣れない者には難しい。
そして巧が花を肩車しながら森の木々を説明する姿、そしてグランピング場の建設地が鹿の通り道であると淡々と話す姿が印象的だった。
通り道がなくなったら鹿はどこへ行けばいいのだろうか。
いつの間にか高橋と黛が巧の生活に取り込まれていく様もおかしかった。
さて、本来なら物語はグランピング場の計画についてどうお互いが歩み寄るのかを描きそうなものだが、事態は思わぬ展開を見せる。
花が下校中に行方不明になってしまったのだ。
冒頭にもあったが、狩猟による銃声が不穏な空気を感じさせる。
そして観る者を動揺させるような唐突で衝撃的なクライマックス。
なぜ花が倒れていたのか、説明はされない。
誤って銃に撃たれてしまったのか、それとも手負いの鹿に攻撃されてしまったのか。
それともすべては幻だったのか。
そして巧が思わず高橋の首を絞めてしまう理由も分からない。
これも何か大きな力によって導き出された結果なのだろう。
様々な疑問は残るものの、観終わった後の余韻が長く、カメラワークの秀逸さもあり、まるで大巨匠の作品を鑑賞したような充足感があった。
自然な風と川のせせらぎ。
自然豊な高原に位置する長野県水挽町に住む住人達と、その高原にグランピング場を建設しようとする芸能事務所の話。
コロナ禍の影響で経営難になった芸能事務所が政府からの補助金を得ての計画…、住民説明会になるもグランピング施設内にある浄化槽位置が悪く、町の水源に汚水が流れるのではないかと問題に…。
分かりやすく書けば「マンション建設反対」、「太陽を奪うな!」的な、本作は町の水源を汚すな、施設を造っても管理体制が整ってない、20年に1度は起こる山火事が人の出入りが多くなるから頻度が上がるのでは?と問題が色々と、リアルでもある問題だけど私自身こういった問題に直面した事なくて、町の住人達の気持ちも分かるし、事務所側の言ってる都合のいい理由、人の出入りが多くなれば町も活性化しますよ!も何か分かるしで、こういった問題ってリアルでも「なるようにしかならない」と思う。
本作のストーリーは関係なしにあの高原、自然が良かったな~なんて、山道歩いて食べ歩き(陸ワサビ)とか、自然の水を生かしたうどん、薪割りとか、そんな描写が観てて少し癒されました。がっ!ラストの終わり方は何すか!?娘の花といい、事務所の高橋といい、どう解釈したら…。
花役の子は可愛くて将来有望、だから目の下の涙ボクロはズルいんだって!(笑)
その地の掟を汚すことも、目撃することも憚られるのかもしれません
2024.5.13 京都シネマ
2023年の日本映画(106分、G)
ある田舎町に降りかかったグランピング場建設を巡る問題にて歪になる人間関係を描いたヒューマンドラマ
監督&脚本は濱口竜介
物語の舞台は、長野県の山奥にある水挽町
そこで先祖代々住む便利屋の巧(大美賀均)は、娘・花(西川玲)と二人暮らしをしていた
花は地元の小学校に通い、その送り迎えをしているが、巧はよく忘れてしまい、花は一人で森の中を寄り道しながら家に帰っていた
巧は友人の和夫(三浦博之)とその妻・佐知(菊池葉月)が経営しているうどん屋に水を運んだり、薪拾いをして、生活の糧を得ていた
ある日、彼らの村に、芸能事務所の高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)がやってきた
彼らは、この村にグランピング場の建設を考えていて、そのための説明会を開くことになった
そこには区長をしている駿河(田村泰二郎)、血気盛んな坂本(鳥井雄人)、和夫と佐知なども参加する
一通りの説明が終わり、質疑応答の時間になるものの、問題は排水設備の設置場所と管理体制になって、まともな答えが出ないままだった
そこで、巧は「社長とコンサルを連れて出直さないと話にならない」というものの、高橋たちは「話を持ち帰ります」と濁すだけだった
話を持ち帰るものの、社長(長尾卓磨)とコンサル(宮田佳典)の方針が変わらず、さらに「巧を案内人にしよう」というアイデアが出て、高橋と黛は再び彼のもとを訪れることになった
巧は追い返すこともなく、和夫のうどん屋に連れて行ったり、日々の仕事を手伝わせたりする中で、彼らの真意を読み解こうとする
そんな折、花の迎えを忘れてしまった巧は、いつものように学校に行くものの、花はいつものように一人で帰宅したと言われてしまう
そこから花が行きそうな場所を探すものの、一向に花の姿は見つからず、防災放送が村中に鳴り響く中、花の搜索が始まってしまうのである
映画は、花が森の中を歩くシーンにて、木々を見上げているショットで始まり、ラストも同じような構図で描かれていく
その意味を探るよりも、ラストにおける「巧の暴力の意味」が物議を醸している内容となっていた
個人的な感想だと、「手負の鹿は守るために攻撃することがある」という前振りがあったので、巧の行動もそれに倣ったものになると思う
暴力の直前には、行方不明だった花の前に手負の鹿がいる、という構図になっていて、その直後の出来事だった
花は手負の鹿の方に歩いて行き、それを止めるような感じで高橋が動いたのだが、巧の行動はそれを制止しているようにも見える
おそらく鹿が花を攻撃したのではないかと思われる内容で、花がぐったりしている様子が描かれるのだが、これが「巧の暴力の後なのか先なのかはわからない」ように思える
すでに花が倒れていて、その原因が「手負の鹿」だと直感的に思った巧が見た幻のようにも思えるし、巧が高橋を攻撃している間にそれが起こった、とも取れる
この二つの可能性から見えてくるのは、「手負の鹿が攻撃することは自然の摂理であり、花はその禁忌を犯したから止めることはできない」というものだろう
高橋が助けるのを止めたかったという可能性がある一方で、花を失った悲しみから、その怒りを高橋にぶつけたようにも思える
手負の鹿=巧あるいは村という構図において、グランピングという「攻撃」から身を守ることの延長線上かもしれない
そう思うのは、高橋に巧を頼るように言ったのは区長で、便利屋だと言ったのも彼だったからだ
なので巧は、区長から高橋の相手をさせられている「真の意味」を実行したのかもしれない
当初はもっと別の方法でと考えていたと思うが、花のトラブルがあったので、衝動的に体が動いたのではないか、と感じた
いずれにせよ、観た人の数だけ解釈がある映画で、このように答えを明確にしない映画を好まない層もいる
だが、映画で描かれている情報をかき集めていけば、その村を守るためにできることは限られている
そう言った意味において、村人の思惑が絡んできているが、それすらも超えて、自然の摂理というものが働いている、ということなのではないか、と感じた
あくまでも個人的な解釈なので、それぞれが感じたことは大切にしてほしいと思う
ラストシーン、監督の勇気に感心した
ドキュメンタリーを見ているかのように引き込まれて、唐突にぶん投げるように終わるサディスティックなラストシーン。
劇場を最初に出てあとから出てくる観客をしばらく観察していたが、皆一様に困惑した顔だったのが面白かった。
自分が監督なら、批判が怖くてあんな風に客を突き放した終わり方は出来ない。
ラストの女の子(花)と手負いの鹿のシーンは、花が倒れている姿を見た巧の想像なのではと思った。だって大人が探している間中、ずっと鹿と見つめあってるわけないもんね。花が倒れている姿を見た瞬間に、巧はその理由を瞬時に想像した。
花は鹿に襲われた。そこに悪意は存在しない。自然の偶然の結果。
そして自然と社会の狭間の巧は、人間の都合で動いている(動かされている?)高橋を自然側の存在として排除しにかかったのだろうか。
しかし、その高橋を襲ったシーンでさえ、巧の想像である可能性があるしなあ。
大体、巧が娘の花に感心が無さすぎる。娘のお迎えを頻繁に忘れる?
人間に関心が薄いのだろうか。そのあたりが花のお母さんがいない原因になっているのか。
だとしたら花の失踪は父親に対するある種の復讐か。
そうするとラストシーンの高橋の存在は、「娘を守れなかった不甲斐ない父親の巧」のメタファーなのか。巧の想像の中で。
うん、わからん(笑)
初めて見る役者さんたちの、そこに生活しているとしか思えない演技。特に会社に命じられて主人公の巧を説得に行く車中の二人の会話は、セリフではなくアドリブではと思えるほど自然で好きだった。特に社員役の女優さん。カメラの前であんなに「普通」に演技できるのはすごいと思った。声だって全然張ってないしね。でもすごく魅力的なキャラクターだった。
気持ちがザワザワする
山の自然の美しさや厳かさに合わせ、美しさの中にどこか不穏感のある音楽が印象的でした。
題名からのぼんやりとしたイメージもあり、不穏さを掻き立てる音楽もあり、何か不吉なことが起こるのかと終始ザワザワするような気持ちに。
山での穏やかな暮らし、都会の人間との交流など、一見自然と調和する生活を尊ぶようなストーリーにも見えましたが、音楽のためかどこか不穏感が拭えず。
都会から来た男が山の暮らしに傾倒する様子は、ただの現実逃避の薄っぺらい感じに見えますし。
死の気配を漂わせる描写もあり、自然の中での生活に幻想を抱くことを拒むようにも見えました。
ラストは、率直に訳が分からず。
え?という疑問と、子供がこういう結末になるのは避けて欲しかったが…、という感じです。
主人公は何故あんな行動に?と、モヤモヤと考えさせられます。
あれは都会の男に見られてはいけない場面だった、ということなのかとか。
鹿は神聖な動物というのを聞いたことがあるので、子供と神が遭遇している的な神聖な場面であったとか。
自然の摂理に従って死を受け入れるべきであり、それを邪魔してはならないとか。
又は、子供の命が神の元へ向かおうとしていたので、とっさに男の命を代わりに差し出そうとした、とか。
子供の命は救おうとするだろうという固定観念から、こんな風な考えも湧いてきましたが。
又は逆に、主人公は子供の迎えを忘れたりなど子供に対して素っ気ない様子もあったので、子供の死を望んだ、ということなのかとか。
題名の意味も、自然の摂理の中に悪は存在しない、悪も善もなく、死も自然の営みの一部である、というような意味合いなのだろうかとか。
と、色々と考えてもよく分からないので、また映画評や考察などを読んでみたいと思います。
なんにも語っていない
正直、久しぶりにお金を払ったことを後悔した映画。
もったいぶって意味ありげに見せてるだけで、深いことなんかなんにも語っていない映画でした。
『大切なのは自然保護と開発のバランスだ』とか『誰が悪者かは立場によって変わるものだ』とか、そりゃそうだろみたいな話ばっかりでした。
ラストも『ほら人ってわからないものでしょ?』って言ってるようにしか思えず。だから何?そんなありきたりのこと語って満足か?って思いました。
説明会の場面とかは自然でいいのはわかるし、リアリティがあるから素晴らしいっていう人もいるでしょうけど。
でも、リアルな人間の感情なんて、生きてりゃ接するじゃないですか。
それを演じてるのを見に、わざわざ映画館行って、お金払って、時間使う価値ある?って思っちゃうんですよね。
物語ることとか、訴えたいことがはっきりある映画のほうが好きです。
(ラストの解釈を見る側に委ねるのが嫌い、というわけではない)
映像と音楽は綺麗です。
Untitled
タイトルがきっと今作の中で一番でかい意味を成してるんだろうなと予想しながら鑑賞。真っ昼間ですがほぼ満席でした。
序盤のゆったりと音楽に合わせて森の中を映す映像でまず画面に釘付けにさせられました。スロースタートな作品は苦手ですし、この時点で合わないかもって思う作品は多くあるんですが、今作は不思議と落ち着く〜となりました。音楽の力もかなり強かったです。
そこから森やその付近の町を映す描写になり、今作の主人公的ポジションの巧の普段の行動だったり、グランピング施設の説明会だったりと、展開が少しずつ動き出していく感じで、ちょっとした違和感がポツリポツリとありました(鹿を撃ったのはきっと出張してきた東出くんのはず…)。
田舎VS都会の構図のようになっていた住民会と芸能事務所の社員の話し合いは中々にスリリングでした。
計画書を示されてもどれもざっくりとしたもので、そりゃ住民も反対するよという内容には思わず住民と一緒に相槌を打っていました。
バランスを大切にというのには思わず納得してしまい、我慢もしなきゃならないし、たまには気持ちを発散させたりと、日常から大きな事業までやることなすことは一緒だよなと変に納得してしまいました。
都内に帰ってきてからの社長やお偉いさんの杜撰な対応はいかにもだなぁってなりました。計画性というか考えというのが浅はかで、完全にお金目当てなんだよなというのをうまいこと言葉で濁してる感じで居心地が悪かったです。
今作でほっこりしたのは高橋と黛の車内での会話シーンで、会社への不満をぶちまけたり、お互いの恋愛観を語ってみたり、田舎っていいよな〜ってなったりとまったりした時間が流れていて、この時ばかりは劇場も笑いが起こっていました。ここでもやはり車が出てくるんだなとニヤッとしていました。
高橋が薪割り気持ちいい〜とかここの管理人になろうかなっていうシーン。きっと現状の本心なんだとは思いますし、それこそ悪意なんて無いもんだとは思うんですが、どうしても実家がまぁまぁの田舎の身からすると、そんなに楽じゃないよ?と違和感が出てしまったのを巧は強烈に感じてしまったんだろうなと思いました。
町内の集まりであったセリフの「水は上から下に向かって流れる」というセリフが今作を象徴していたなと思いました。コロナ禍の給付金や補助金の行方、汚水は上の地域は良くても下に流れると生活に影響するなど、なるほどなーとゾクゾクする感覚がありました。
花を探しにいくシーンでも上流から下流へと探しにいっていたので、これぞ伏線の回収だなと思いました。
ラストシーン、これは捉え方が十人十色ってやつだと思います。誰しもが正解であって正解じゃないやつです。
個人的には自然にズカズカと入ってくる都会もんを巧が自分の手で成敗するという正義にも見えるんですが、いかにも身勝手で、でも防衛本能もはたらいてみたいなように見えて本当の悪とは思えない作りになってるのが本当に凄いなと思ってしまいました。
観ていたら急にぶん殴られた感覚で置いてけぼりにはされましたが、印象的すぎるラストの衝撃の方が強く、おもしれ〜ってゴワゴワした感情で劇場を後にしました。
個人的にですが、多分全員どこかしら悪いところ、発展したらクズな箇所があって、巧だって娘の事を何回も忘れている事は捉え方によっては悪だと思いましたし、花も何度も行くなっていうのに行くのは極端ですが学ばない悪だとも思いましたし、ここまできたらもう悪は存在しないよ!ブンナゲ!ってなってしまい、上手い作りだなぁってなりました。
棒読みの演技というか本読みの演技が濱口監督作品では特徴的なので、最初こそ違和感はありましたが、だんだんそのキャラクターの特徴や考え方が滲み出るようになっていき、そして感情が少しずつ乗っていくと人間味が出てきたのでそういう面でもこの演技は楽しめました。ただ他作品でもこの感じだったら浮いちゃうだろうなという人が何人かいたので、そういう面にも着目していきたいです。
ここまでタイトルに振り回される作品ってのは初めてでした。思っていたよりかは難しい作品ではありませんでしたが、それでもしっかり考え込んで不意を打たれてと忙しい映画でした。ちゃんと今作と向き合えるような人間になりたい。
鑑賞日 5/9
鑑賞時間 13:05〜14:55
座席 G-12
善と悪とは
冒頭から独特の映像の撮り方。
だが静寂で綺麗。
ここから見る人や物、動物、自然によって
善悪とは其々によって違う事を意味してたのかも。車から後ろへ撮り方も。
グランピングの説明会、都会と田舎では
時間の流れ方や大切さは分かり合えない。
相手が自然だし。口先だけでは無理。
ここの会話劇は皮肉たっぷりで面白かった。
あの、高橋みたいな鈍感な人必ずいるよね。
水を大切にしてるわりとには大事な娘
花の迎えは忘れる違和感。
巧は何か起きて欲しいと願ってたのかな……。
亡き母に対するお想い。
ラストは衝撃。鹿に身を捧げる感じ。
それを止めようとする高橋。
高橋の首を絞めて気絶させる行動。
このシーンは当人同士の気持ち。
どちらが善悪が分からない。
花があちら側に少し寄り添っている
のを巧は感じとったかもしれない。
自分はどの人物なんだろうか。
過度に音楽が入らないところが、鹿の気持ちになったように、じっと没入できた。
開発者側の女性が役者っぽくなく、落ち着いた口調が、観ている自分の立場をそちら側にも動かされてしまう。
自分は一体どの立場でいきているのだろうか、
生きていく為に何を1番大切に守っているのか、考えた時間だった。
花ちゃんとの描き方に疑問。
時間を忘れてしまうなら対策考えるべきだし、
ちゃんとルールを作れば良いし。
鹿への知識も教えてあげていないのか、そこに暮らしていながら学ばなさ過ぎではないか。
そこは、ストーリー的にそうせざるをえなかったのかな。
心地いい余白
考えさせられる余白が大きいと感じた。
ただ、映画は絶対的な答えがあるものだけでもないので、こういうラストもありなのではと思った。
映画をあまり見てない時の自分が見たら邦画の良くない終わり方だなあって思う気がする。
芸能事務所の人たちが自身の境遇を車内で話しているのシーンが最高だった。とてもリアル。自分がこういう先輩と一緒だったらめっちゃ嫌だなって思ったけど、なんか嫌いになりきれなさそうな先輩だなと感じた。。
社長とコンサルの人が悪に見える。
都会の人間と現地の人間の考え方の違いや、意見のぶつけ合い方がとても面白い。あの説明会の淡々と詰める感じとか、感情で訴える感じとか、かなり没入感があった。
冬山の日没
音楽についての評価が高かったが、自分にとっては映像の美しさの方がユニークでした。大友良英さんが音楽をつけた邦画を複数見ていたため、無意識に比べていたのかもしれません。
本作で映像化された自然の美しさ、それと共存をはかる人間の生活がよく分かりました。そのバランス感は、脚本上も重要なポイントでした。子供の頃、アウトドア好きの父にスキーやキャンプに連れ出され、山の形、木や鳥や雪上の足跡の種類を解説されたことまで思い出しました。父は都内暮らしのサラリーマンでしたが。鹿の水場の美しさはその中でも特に際立っていて、写真作品にしてコレクションしたいようでした。
過去に見た作品と違うのは、役者さんたちのお芝居の朴訥とした印象と、音楽の扱い方とに、共通の意図的な突き放し方があった点です。例えば生の演劇では絶対に見られないような、カットアウトしたような、時にぶっきらぼうとも言えるような切り口が、意図的に何かを伝えたり、場面を変える役割を持つ台詞や音楽が置かれて、映画が進んでいき、これは映画だなと思います。自然の弱肉強食の世界で、生きることを優先し愛想や辻褄合わせに振り向けるエネルギーは無い状況の暗喩にも見えました。
そして日常の風景が突然ばっさり切り落とされて非日常の様相になり、ラストに向かうのですが、余韻にまだ空想を止められないでいます。
色んな可能性があるけど、息が残っていたとして、日没までに誰にも見つからなかったら助からない可能性が高い季節の出来事。その意味で、走れメロスのような緊迫感がありました。
世界的な映画監督がこのような作品を作ってはダメなのでは?
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
この映画『悪は存在しない』を超絶雑にまとめると以下になると思われます。
【水のきれいな自然豊かな田舎の町に、政府のコロナ補助金目当ての芸能事務所がグランピング施設を計画し、そのズサンな計画を察した主人公が、娘が手負いのシカに襲われたのがトリガーとなり、芸能事務所の交渉役の人物を殺害するストーリー】
もちろん、このような雑なまとめをされないように、映画の冒頭からおそらく都会とは違う自然の時間の流れを表現するために、超絶に長い、森林を下から移動で眺めるショットや、画面からアウトするまで撮り続ける主人公・巧(大美賀均さん)の水汲みのシーンや、長い薪割りのシーンなどのショットを流し、あくまで本音を語らない物静かな主人公・巧を配置したりした作りになっていたと思われます。
しかし、どんなに取り繕って煙に巻いても、自然に敬意の無い補助金目当ての芸能事務所の人間を排除するために主人公がその人物を殺害した、との【短絡的なストーリー】からは免れることは出来ていません。
なぜ【短絡】かといえば、(濱口監督もインタビューで応えているように)人間は自然に対して存在している時点で(主人公・巧の排除の論理の延長線上で)【悪】であり、己の【悪】を棚に上げたまま相手を断罪や排除をしてはならず、己の【悪】を棚に上げた時点で【短絡】にしかならないということです。
例えば、主人公・巧たちが住んでいる家や店の汚染水はどうしているのか、彼らが住んでいた場所もかつてはきれいな水場やシカの通り道であったのでは?
仮にそれら汚染水などの問題や人間存在の【悪】の問題を次善として解決出来ているのであれば、(グランピングであろうがなかろうが)そのグラデーションの中での次善の解決策を今後も全体で模索し続けるのが、自分たちの存在を棚に上げないまともな人間の営みだと思われます。
そんな可能性や問い掛けを排除して、(本当は存在自体が【悪】であるのに)自分たちは《善》の側に立ち、相手を【悪】に押し込めて断罪する、気持ちの良い場所からこの映画を作ってしまっていないか(今回では芸能事務所の人間を逃げ場のない【悪】の人物として描いていなかったか)、という厳しい問い掛けがされる必要があると思われました。
今や世界的な映画監督になった濱口監督に映画界は誰も指摘出来ない裸の大様になっているとすれば、こんな【短絡】の人間観の映画を作ってしまっていることを、誰かが指摘しないといけないと思われました。
私はこの映画『悪は存在しない』を再開発の最前線の渋谷のど真ん中の映画館で観たのですが、<何が『悪は存在しない』だ、自分たちの存在を棚に上げて片側を一方的な【悪】に描きやがって‥>と憤慨して映画館を出ました。
私がこの映画を観た渋谷は、川を何十年も前から暗渠化して自然とは真逆の場所ですが、そこに出来た新しい映画館の素晴らしさを濱口監督が自ら称賛する映像をロビーで見てから、『悪は存在しない』を鑑賞しました。
そして帰りの電車の中で、<そのツラの皮をひっぺ返してやろうかこの偽善者どもめ!>と心の中で映画に対して怒り狂いながら帰路に着きました。
こんな【短絡】で浅すぎる人間観で映画を作ってはいけない、と今でも強く思われています。
己を棚に上げるみっともなさを、今一度深く考えて欲しいと、僭越ながら思われました。
(憤慨する内容はともかく、映画自体は自然の美しさもありその点をプラスしてのこの点数となりました。)
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