沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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いい映画だが観ていて辛くなる
スコセッシ監督は以前、「最後の誘惑」でもキリスト教を扱っていたが、キリストが誘惑されてしまうという、キリスト教徒からみれば、とんでもな展開で、かなり非難を浴びるような内容だったので、この映画を見終わった時、スコセッシ監督にしては意外に真面目な映画だと感じた。
個人的には残酷なシーンが多かったので、余り好きな作品とは言えないが、映像美、ライティング、音響、セット、もちろん役者の演技等を含め、かなり全体の完成度は高い作品である。
主人公の苦悩にはかなり共感でき、棄教したことも致し方ないのではと思っていたら、最後、遺体の中に十字架が隠されたいたことに(ある程度は予想できたが)、最後まで棄教したことに悩んでいたのではということが伺えて、ジーンとくるものがあった。そして、エンドロールとなり、普通なら賛美歌か何かの厳かな感じの音楽が流れるところ、音楽はなく、敢えて虫の声と波の音にしたところは、心憎い演出だ。
強いて注文を言えば、主人公が棄教する踏み絵のシーン。逆さ吊りで殺される寸前の何人かを救うためだったが、彼らは顔がむしろで覆われていて顔がわからない。主人公が最初に捕まった時、一緒に捕まった数人の男女がいて、牢屋も一時一緒に過ごした人たち。結局、一人は刀で首を切られ、他の人たちも結局海に投げ込まれ、死んでしまった。顔がわからない人たちよりも、このような一緒に過ごした人たち・・・親密感を覚えた身近な人たちを救うという、より主人公の棄教に対する「止むを得ない」感が増したのではないか。
それにしても、外国映画にしては日本人の英語が違和感なく感じられた。設定そのものが、通辞以外は片言の英語しか喋れないはずなので、流暢な英語のほうが不自然かもしれないが。逆に、イッセー尾形の英語はうますぎて、不自然かもしれない。
キリスト教も信仰もわからない‼️でも、人心の機微に触れた様な気がする‼️❓
原作に忠実に作られて、なおかつ、かなりの高品質です、演技も、演出も素晴らしい。
キリスト教については原作からして、読者に丸投げですから、映画も同じです。
余談ですが、夢に良くキリストが出てきて、お前は私の生まれ変わりだと言うのです、それで、今まで右の頬を打たれたら、左を差し出して、人生がサンドバッグ状態です。
私が無神論なのは、信者が神の定義などを知らずに信じているからです、神を自分のために利用する人がいるからです。
神について考えると、堂々巡りですが、この映画では、当時の人々が何を考えていたのか、手にとる様に触れることができます。
何かに縋りたい気持ち、それは必要だと思います。
心は脆く、愛は強い、それだけでも、わかれば上出来でしょう。
神を否定できても、信じる人の気持ちは否定出来ない、そう思うのです。
こんな世の中だから、余計にそう感じるのかもしれません。
日本の景色も異様に綺麗だし、小松菜奈などの演技も異質に素晴らしい。
マーチンスコセツシ、少し見直しました。
キリスト教に関心ない方も是非。
ずるい映画として忘れられない
アダム・ドライバー(カイロレン)が好きだったので見た。きっかけとしてはそれだけです。イッセー尾形も好き。舞台やめちゃったので久しぶりに見たなと感じました。原作は読んでいません。
色々印象には残っています。踏み絵というのは知ってたけど、大人になって一番がっつり映像を見たなという思い。
セットや俳優たちの演技も素晴らしかったんだと思います。一生懸命見ました。
でもどうしても、「そっから(逃亡シーン)始めるのずるくない?」っていうのが拭えず忘れられない作品です。
キリスト教ってそもそもそんなに素晴らしいですか?地球上で最も血を流させてる宗教じゃないですか?イギリスとかフランスとかひどいですよね。天草四郎、オタクの大好物の素材ですし、彼はただただ信心深かった純真な若者だったかもしれないけど美化されすぎじゃないですか?十字軍の裏の顔なんて色々暴露されてますよね。
日本が鎖国をしたのは、キリシタン大名が火薬や鉄砲などの戦力と引き換えに日本人キリシタンを奴隷として50万人も海外に売り飛ばしてたからじゃないですか?西欧の世界戦略的にはキリスト教を餌に、現地民から文化とアイデンティティを奪って財力と労働力を手にすることが目的だったのは事実で、日本だってインカ文明のように滅ぼされていたかもしれない。だってみんな黄金の国ジパングを目指してたんだから。イエズス会がその手先だったことは事実ですよね。イエズス会の組織の人間として宣教師たちがそのことを一切自覚してなかったとは思えません。だから、作中の宣教師と信徒たちの立場は全く違うものだと思います。宣教師たちは国家的原住民侵略作戦に失敗した人たちです。可愛そうですか?「キリスト教を信じるか信じないかは別に自由だよ。でも侵略はだめ」って作中でも浅野忠信かイッセーに言わせてませんでした?侵略してる自覚がない宣教師たち、よっぽど恐怖の塊じゃないですか?超排他的ですよ。改宗が順調だったら日本人総奴隷ですよ?
当時秀吉に「日本は自分の国だ」っていう自覚があって、天下統一がほぼ間に合って、外交をコントロールすることができたことは奇跡なわけです。確かに無いで済むならないほうがよかったキリシタンたちの犠牲だとは思いますが、彼らが可哀想だからって鎖国中にじっくりと培われた江戸時代の文化を否定するんですか?今その文化のおこぼれで海外戦略してますけど。
自分が受けた歴史の授業を思い返しても、「キリシタン弾圧があって踏み絵などをさせていた」というのは教わりましたが、それが国を守るためだったという教え方はあんまりしてなかったような記憶です。どうも「天草四郎かわいそう」っていう方向に引っ張っられて終わった気が、、、。そこがそもそも間違ってるんですけど。今も歴史教育的にはそんなもんなんでしょうか。
基本的に踏み絵させるほうが悪者的な切り取り方。確かに自尊心を破壊するひどい拷問だったとは思いますが、キリスト教が行なっていた拷問の方がよっぽどひどかったでしょう?キリスト教が勝った方がよかったんですか?
そういった背景を無視して展開する映画も、日本人なのにスルーして「信仰は辛くて美しい」とか言ってるレビューも、なんなの?って思います。一神教の人たちは他の宗教を一切認める許容がないんですよ?改宗しなきゃ火あぶり皆殺しなんですよ?彼らが成功してたら神社仏閣バンバン破壊されてたんですよ。神道の方は仏教も受け入れたようにキリスト教だって受け入れる気でいたのに、こちらを尊大に否定してきたのはまずあっちです。
白人に憧れすぎじゃないですか?西欧の強引な世界ごちゃ混ぜ奴隷化計画(グローバル化)から逃れた日本は稀有な国です。
お正月に初詣に行って、仏壇に手を合わせ、クリスマスを楽しみにしてる日本人は、とても不思議かもしれないですが、皆殺しにしようとするよりよっぽど良くないですか?神道や仏教はキリスト教に比べて薄っぺらいですか?私は、強迫観念を植えつけることなく生活に寄り添ってくれる八百万の神々は頼もしい存在だし、季節ごとのイベントを大事にする日本は実は大宗教国家だと思ってます。まぁ神様というかほぼ妖怪になってる感もありますが、、、。
別に好きな宗教を信じればいいし、無知で純朴だったキリシタンたちはかわいそうだったと思います。イッセー尾形に言わせたように、
「この国には合わない」。
その部分だけが、監督が勉強して受け入れた部分なんだろうなと思いました。それ以外は、結局のところ白人の優位性、侵略の正当性を表現するのにいい素材だったから撮ってみたんだろうとしか思えません。今や恥です。
なぜ日本には1%しかキリスト教徒がいないのか。中国や韓国ですら3〜4割もいるらしいのに。そのことの方が興味深くないですか?
原作者がキリスト教徒だし、製作陣も海外の方も、そもそもの背景と日本の慣習をどこまでわかって見てたのか?まぁまず絶対理解できないでしょうね。あくまで「俺たちのキリスト教こそが正義なのになんて野蛮なことしてくれてるんじゃい!」っていうスタンスなんでしょう。なので、逃亡シーンから始まってずっと「俺たち悲劇」なトーンだったことがずるくてずるくてなかなか忘れられません。みた海外の人も、あ〜〜信徒たちが受難だ〜〜って感じでしかないんでしょう。遠藤周作はどうだったのか。気にはなるけど原作長そうなので読む気にはなりません。
コロンブスの像も倒されたし、今後見る人からは違った評価をされる映画になるんじゃ無いでしょうか。
そういうのを含めると、「日本人が見ても違和感がない」というけど出演してた日本人の方達は何を考えてたんでしょうね。特にキリシタン側。
神は今も沈黙しています
自分はキリスト教徒ではありません
正月には初詣に神社に行きます
結婚式は神前結婚でした
赤ん坊が産まれたら、近くの大きな神社にお宮参りして、お祓いをしてもらいました
子供が成長したら七五三で神社に行きました
両親もそうしたし、何の疑問もなく自分もそうしてきました
とすると神道なのかも知れません
とは言え、親の葬式は仏式でしたし、墓はお寺にあります
お彼岸には墓参りに行きます
法事やお盆にはお寺からお坊さんに来て頂いてお経をあげてもらっています
すると仏教徒?
でも年末になればメリークリスマス!とかいってます
つまり普通の日本人です
キリスト教との接点は殆どありません
教会には観光目的でしか立ち寄ったこともないし、神父さんには直接会ったこともお話を聞いた事もありません
その自分が体が震えるほど感動しました
日本の自然の音だけがする沈黙のエンドロールが終わったあとも動けずにいました
そしてしばらくすると声をあげて泣いてしまっていました
キリスト教徒でもないのになぜ?
そこまで心が震えたのだろう?
終盤の葬式のシーン
あのシーンはキリスト教徒が、それも司祭だった男が、異教徒の僧侶に異教の神が待つ異教の天国へ送られるシーンなのです
キリスト教徒なら身の毛もよだつような、そう死後の永遠の魂を悪魔引き渡そうとしている儀式に見えるのではないでしょうか?
信じる神を否定されること
自己の精神が成り立っている根底の価値観を否定され、そこから完全に切り離されること
それだけでなく、積極的に自らそれを否定する事を強制されること
死してもなお、自己の信じるものと違うことを強制されること
それがどれほど残酷な、それまでのどんな拷問よりも恐ろしいことか
そういうシーンだったように思えました
そして井上筑前守や奉行所の面々の言説をつい最近聞いたようにも思いました
それも何度も
猛烈な既視感に襲われました
もちろん今の日本は信教の自由があります
自分の信教、思想信条を他者から強制されることはありません
信じるものを捨てないからといって、苛烈な迫害や、捕らわれて暴力的な拷問にさらされることなどありません
信じるものを捨て去ることを強制されることはありえないのです
なのになぜ既視感が?
それは香港です
つい最近まで、あれほど民主化運動で盛り上がった香港は今では本作の舞台の島原や五島のようです
民主主義を信じる者は厳しく詮議され、迫害され転ばされているのです
まるで同じです
中国政府の報道官がいう耳障りの良い言い方は、本作の劇中で井上筑前守や奉行所の面々の言うことと本当に似ているではありませんか
21世紀の中国大陸では香港だけでなく、全土で「キリシタン狩り」が行われているのです
本作と同じです
天安門の虐殺は島原の乱と同じです
この物語は17世紀の日本の話ではないのです
21世紀、現代の隣の国で今日も起こっていることなのです
こんなことが21世紀にあってよいのか
自分達と同時代に生きる人間に降りかかっていて良いのか
なんと恐ろしい
身の震えることです
その事に思い至ったとき、堰を切ったように激情が噴き出したのです
中国の人々のこと
香港のこと
ウイグルの人々のこと
よその国の話
日本人には関係が無い?
欧州のあるファストファッションの企業はウイグル人の犠牲の上になる原料の使用を止めると表明したところ、中国全土の数百もの全店舗をいきなり閉店させられました
中国で展開する日本の企業にも、これをどう考えるのかとメディアから問われました
中国の対応に震え上がったある日本企業の社長は、いままでどおり使うと言いました
それも複数の企業の社長が
棄教した司祭と同じです
踏み絵を踏んだのです
知らない振りをして商売と政治は別と割り切る
それでいいのかも知れません
神は沈黙するのみです
あるのは自己の心の中にあるそれぞれの神に、やましいことはないのか?
恥ずかしいことはないのか?
軽蔑されることはないのか?
それだけです
その企業は、いやあなたは
キチジロウとどこが違うのか?
このようなことを書いている自分もまたキチジロウではないのか?
それを本作は鋭く問い、追及してきます
日本人が本当に信じるところはなになのか?
いや、自分が、あなたが信じるところはなになのか?
信教と思想信条の自由と民主主義
それは文明社会が歴史を経て確立した普遍的な価値なのではないのか?
中国は沼地なのか?
中国が沼地なら、日本もいつ沼地になるかも知れないではないか
神は今も沈黙しています
自然の音だけが聞こえるのみなのです
香港で民主主義を棄てろと強制された人の耳には香港の自然の音がするのみです
自然の音
それはその土地の風土の持つ音
香港の風土
中国の風土
ウイグルの風土
そして日本の風土
民主主義は根付かないのか
なぜなのか?
そのような思いが一度に噴き出たのです
だから号泣したのです
恐るべき傑作です
今こそ日本人が観るべき映画です
評価するメーターが振り切れる傑作です
タケシのお笑いウルトラクイズ
スコセッシは宗教映画になると途端につまらぬ。
周りが我慢して何本かに一本は撮らせている感。
貴重な残り打席はゴリゴリのマフィアものを。
塚本晋也熱演の拷問被虐もタケシのお笑いウルトラクイズの上島竜兵の魅せ芸に劣る。
重いテーマのだが、きちんとできている
長崎に住んだ時期があるので、隠れキリシタンの歴史は至る所で見聞した。市内はもとより、雲仙・島原・平戸... そんな見聞した歴史が、まるで現実のようにスクリーンに表れる。日本の情景や文化・生活が丁寧に表現されている。聞いたようなお国訛りも懐かしい。日本の研究・日本人スタッフの充実を感じ、外国映画らしい違和感はない。日本人の役者たちもしっかりと演じていたと思う。スコセッシのこの作品へのこだわりはキリスト教への信仰心からか?
さて、雑な仏教徒であり、キリストの教えに対する理解が甘いなりに感じたこと。自分はキチジローへの同情と共感が強かったかな。信念を曲げるのは教えに反することだとしても、生きるために外見はとりなし、だけど精神的には何も裏切っていない、と思いたい。それは心理への背信行為で許されざる行為かもしれないが、誰がそれを責める。棄教した神父たちも同じでないか? 果たして、信じる者は救われるのか? 戒めている自殺と変わらない。 絶対の神に対する疑念との葛藤に悩み苦しむ人々の姿が辛い。
きちんと原作読んでみたい。
タイトルなし
BGMもなく、棄教を迫られる宣教師と弾圧される隠れキリシタンを淡々と描いている。世界遺産登録された隠れキリシタンの壮絶な史実に基づいて、命をかえりみない信仰の深さに驚き、心痛め見た。暗い。
マーチン・スコセッシ版と篠田正浩版を比較して
結論としては、
スコセッシ版は遠藤周作未読の人と
アメリカ人のためのダイジェスト編、
篠田版は遠藤周作の日本人愛読者のための
応用編、
ということになるだろうか。
宣教師と日本人とのコミュニケーション
として、
篠田版では、宣教師がある程度、
日本語を話せる設定、
スコセッシ版ではかなりの日本人が
ポルトガル語(映画では便宜的に英語)を
話せる設定で、
さすがに後者はないだろうと思うが、
これは興行上の理由だと理解しつつも、
日本人の私には不自然に感じてしまう。
スコセッシは原作を忠実に踏襲し、
初めてこの物語に触れる観客には
分かり易い。
一方、
篠田版ではストーリーの運びについては、
大胆なカットと改変で、
原作のストーリーそのままの踏襲は避けた。
遠藤周作愛読者は、
キチジローはユダでもあるが、
「死海のほとり」の“ねずみ”との符合性
なども含めて、他の作品から映像の行間を
想像力で埋めながら観ていくだろう。
映像描写も静と動のように異なる。
例えば、住民3人の十字架刑の場面のように、
海中に静かに没してゆく篠田版に対し、
スコセッシは荒波に飲まれるダイナミックな
映像をあえて狙っているように感じる。
これは多分に両国民の感性や映画文化・歴史の違いがもたらす結果なのだろうか。
両作品の基本的なストーリーそのものに
大きな違いはないが、
そもそも、この作品の映像化においては、
どんな検討をもってしても
遠藤周作の独特なキリスト観の原作を
正確に描くことは難しいだろう。
ならば
分かり易い原作の要約物として描くか、
それでも映画としての独自色を目指すか、
となり、
前者がスコセッシ版であり、
後者が篠田版なのだろう。
スコセッシ版は、原作の基本的なストーリーを忠実に再現することに徹した結果、
映画は時に、原作とは異なる別の価値を
創造するという意味では
物足りなくなったように感じる。
多分に、スコセッシは原作を尊重した
ということよりも、
遠藤周作の独特な母性的同伴キリスト像
を内包出来ず、
ストーリーを追うばかりになってしまった
のではないか。
私は総じて”映画として”の完成度は
篠田版の方が数段上かと思うが、
遠藤作品を未読の日本人や
アメリカの方々には、
この作品は意味があるのかも、と思った。
問題の根源
昔の日本で実際にあった「キリシタン狩り」や「踏み絵」ですが、その歴史に挑んだ良作。
信仰心とは命より大切なものなのか、その答えは無宗教の僕には難しくてわかりませんが、宗教に限らず今でも排他的な思考がイジメや差別や偏見や迫害を生んでいる根源なのだと思います。
※どんなに貧しい格好をしていても小松菜奈さんの美しいオーラが消えていないことにビックリしました。
手を合わせます
大著ですが、中学の頃 遠藤周作(クリスチャン作家)の原作を読みました。
読みながら歯をくいしばって泣きました。
帰ろうや、帰ろうや、デウスの宮に帰ろうや・・
友人は恐ろしくなって拷問の所で読むのは止めてしまったと言っていました。
五島の天草四郎の記念館にも行ったことがあります。
殺されれば殺されるほど信者が興されたらしい。
「望みはもはや天国しかない・・」
そこまで追い詰められていた貧農と彼らに加えられた圧政の、壮絶な昔を想い、草の上に膝まづいて写真を撮りました。
1点だけ気になったが興味深い作品
キリスト宣教者対反キリスト日本大名両者ともの尊厳を守って描いていて素晴らしかった。
日本なのに、日本の映画にはない絵の綺麗さ。音や影の使い方が美しかった。
なにを伝えたい映画だったか。人を救うのは神か人か?人々を幸せにするための教えであるはずが人々を苦しめる矛盾か?受け取れるメッセージは他にも沢山あって色々考えさせられる。
キリストの誘惑や受難を想起させ、神の沈黙のなか本人だけでなく自分のせいで(神の沈黙のせいで?)苦しめられている周りの人々を見るのはキリストよりも苦痛を与えられているのではとすら思った。
ただ、気になったのは宣教者たちは「どうして日本の偉い人はそこまでキリスト教を受け入れたくないのか」を考えないのは自然ではない。原作でも触れられていないのだろうか。
日本はキリスト教が根付かないそういう土地なのだ。で済む話だろうか。事情を知らなければ当然拒絶され、人々に安易に救いを求める矛先として扱われるだけだろうと容易に想像できる。
実際、キリスト教が広まったのは祈るだけで救われる天国に行けると聞いた貧民層たちが大半だったとは思うが、宣教者たちはそのように望んでいなかったはず。映画の中でもフェレイラが嫌味を漏らしていた。
そこがないのでなんだか主人公の感情にはのめり込めなかったが
メッセージ性のある作品が好みなので、全体的には素晴らしく楽しめた映画だった。
踏み絵とかさせてた時代のお奉行さんがこんなビジネスライクな考え方だ...
踏み絵とかさせてた時代のお奉行さんがこんなビジネスライクな考え方だったとはちょっと思えないけど、キリスト教が日本には不向きな宗教であるという話には感覚的に頷けるものがある。それに、信仰の自由というものはあるんだけど、およそ世の中の紛争って宗教から端を発していることを考えれば、キリスト教が広がっていくのを妨害したい意図も分からなくはないなと思う。
苦悩・・・神は何故沈黙を続けるのか
危険を覚悟の上、使命感に満ちて来日した二人のポルトガル人宣教師が、キリシタン弾圧の対象となり、信者と共に苦悩する姿や、見せしめの為の拷問による処刑シーンに、胸が苦しくなりました。
ロドリゴ神父を演じたアンドリュー・ガーフィールドの演技が秀逸で、フェレイラ神父と対面し、言葉を交わした時の苦悩に満ちた表情が忘れられません。
癖のある井上筑後守をイッセー尾形さん、ネイティブな通詞(通訳)を浅野忠信さん、人間味溢れたどこか飄々とした隠れキリシタンを窪塚洋介さんが表現力豊かに演じられていました。
小松菜奈さんも隠れキリシタンの女性を好演。
当時の日本のキリシタン弾圧のむごたらしさと苦悩を、痛烈に描いた作品。
NHKBSを録画にて鑑賞
モキチさんの賛美歌?が…
私はカトリック教徒です。
この映画みて何だか胸が苦しくなりました
1番はモキチさん達が拷問にあうシーン
十字架に吊るされしかも海の波にもまれるシーン
観てられなかった
モキチさん以外の人達が亡くなる中モキチさんは亡くなるまで数日かかりそんな中賛美歌を歌う
もうここが辛かった
この演技力もすごいと思った
マーティン・スコセッシ監督の致命的な過り。
神は存在しているのか?
もし存在しているのだとして、これだけ祈り続けても、なぜ一言も応えてくれないのか?
これが「沈黙」という作品のメインテーマであり、タイトルの由来でもあるはずです。
しかし、この作品の中で、ただ一度だけ、神は声を出し、赦しを与えています。
この最大のテーマについて、どうやら監督は見落としてしまっていたようです。
監督が気がついていないのだから、観衆も気がつくはずがありません。
こうして、この作品は、単なる異文化との衝突をグロテスクに描くだけの作品に堕してしまったのでした。
遠藤周作先生も草葉の蔭で泣いておられることでしょう。
ロドリゴ司祭が棄教する、まさに瞬間、初めて神は声を発し、赦しを与えていたのですが。
だからこそ「沈黙」というタイトルだったのですが。
名監督をしても気がつかなかったということが、残念でなりません。
「日本ってこんな国」を見つめる
・オープニング、何かウァッって出てくるんじゃないかと目細めて身構えたけどなんもなかった。
・このオープニング演出すごい。
・(極力)洗脳しない映画。
・たとえば音楽がほとんどない。
・事実をフラットなテンションで描いて、お前はどう思う?と聞いてくる映画。
・決して時代遅れではないテーマ。映画の時代の日本の姿は、現代日本にもがっつりリンクしている。
・だから今それを映画で描く事に意味がある
・こんなん続けて一体何になるんだろう?と思いながら毎日頑張って働いている人がたくさんいるはず
・映画の中の「本当に神はいるのか...?」という葛藤は、現代の働く人にとって共感できるもの
・「自分は間違っていない」という確信だけでなく、「与えられた環境で自分はなにができるのか」という気づきが芽生える瞬間が描かれている
・日本には八百万(やおよろず)の神を崇める文化があるように、日本人は特に、おのおのが信じたいと思うものを信じる気持ちが強い。
・映画の中で、日本のキリスト教徒が崇めていたのはキリストではなく、太陽だったというのは非常に興味深い(すごい独自アレンジw)
・キャスティングがおもしろい。
・クワイガンジン役の俳優さん出てて、着物姿がしっくりくる。
・日本の怖さと美しさが描かれてる
・普段当たり前になっていることがポルトガル人の視点から見ることで、日本を客観視できる
・自分の信じるものが日本的でないときには、黙って信じていることしかできない
・「黙ってでも信じていればいい」
・そして心から信じたものは、他人からどんなことをされても奪われることはない
・ポピュラーでないものは用無し、性に合わないものは徹底排除、という風潮がある日本は限りなく社会主義にちかい資本主義なのかもしれない。
・小保方さんや佐村河内さんの騒動のときの異様な熱の高ぶりをみると、今の日本にもそういう気質はある
・言いたいこと言えて、なんでも好きなものを信じる事ができる現代が、いかに自由であるかがわかる。(戦後アメリカが与えた恩恵といえるかもしれない)
・現代日本のキリスト教布教率をみれば、日本文化の一貫性を感じる
・映画の中でいうところの、日本という国の土は、昔から変わってない
・性に合わないものを徹底的に排除する日本の文化は今も健在
・しかし、それは日本独自の才能でもあり魅力でもある
・アジアから流れてきた文化を、日本的な感性と照らし合わせて、自分に合わないものを徹底的に排除(洗練)させ、ブラッシュアップして、独自の文化を築き上げてきた
・ざっくりいえばシンプルにアレンジする才能。
・日本は、そんな魅力がある国という解釈もできる。
・原作者の遠藤周作は日本になにかを諦めていたんだろうか?
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