沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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神との対話
こちらから語りかけても、決して答えず沈黙を貫く「主」からの答えは、己が導きだすしかないのでしょうか。
ロドリゴ、ガルべ、棄教したフェレイラ、キチジロー、井上様、通辞、その他の隠れ切支丹の人々の生き様は、それが死を選んだり、裏切ったりしたとしても、各々が「主」と対話した結果導いた答えなのです。
人生に正解はありません。死を選ぶことが、その人にとって正解であることもあるのです。
私は信仰を持っていません。しかし、自分の中にももしかすると、神がいるのではないか?と、興味が尽きなくなりました。
人間がどうしていつも争いを繰り返しながら、愛を求めるのか?矛盾した行動をとり続けるのか?
「沈黙」の原作を読んで、自分自身の神と対話をしたいと思いました。
丹波哲郎?
篠田正浩版『沈黙』と比較すると・・・
スコセッシ版『沈黙』のフェレイラはリーアム・ニーソン、
篠田版『沈黙』のフェレイラは何故か丹波哲郎(苦笑)。
両方を見ると、何故丹波哲郎かの意味がよくわかる。
どういうことか?
なぜタイトルが<沈黙>なのか、
その沈黙がフェレイラに与えた影響、
<転ぶ><転ばない>のそれぞれの葛藤、
司祭が踏むということ、
などが丹波哲郎の方が日本語だけあって理解しやすい。
リーアムにいさんもほぼ同じセリフなんだが、沈黙を読み解く芝居まで昇華できていない。
(俺はもう警官をやめたんだ・・・あるいはジェダイがフォースを棄てた感で
押し切ろうとするのも悪くは無いが、これは主題!
言葉の問題というよりも主に芝居の問題またはそれをOKにしたスコセッシの問題。)
ここのフラット感が、踏み絵を簡単にしてしまう日本人や
反対に踏み絵をしない日本人の深い葛藤の縁取りもぼやけさせてしまう・・・。
とはいえ、塚本さんと、窪塚くんのがんばりで十分に寄り添って観れるし、
スコセッシにYou talkin' to me?と言われたら、ハイこれ以上は欲しがりません・・と、
ひざまずいて、人よりも大事な国、自然よりも大事な共同体、
人間の命よりも大事な宗教なんて存在しないというテーマを
作品全体で表現されてますので十分に楽しめました~ということにしておこう。
冒頭とラストは華厳寺を思い出す。
哲学や宗教の本質を教えてくれる珠玉作品
舞台こそ江戸時代なれど、日本人及び日本社会の仕組みが欧米人から見たらこう見えるのかな?ということで、とてもワクワクドキドキしながら見ることとなった。嬉しいことに、貧しさはあるものの、登場してくる日本人は皆、尊敬に値する人間として描かれ、日本の無理解に基づく違和感は全くなく、製作者の原作、並びにそれを生み出した日本人社会への大いなる敬意を感じさせられた。
目に見える直接的なテーマは、キリスト教の本質的なものに関するメッセージである。キリスト教徒ではない一日本人が、これをどう捉えれば良いのか?自分は、変えてはいけない本質的ものと、環境や状況に応じてどんどんと変えても良い物が有ることを、この映画は教えてくれていると感じた。
只の絵で有るキリスト像(偶像)を踏まずに殉教していくことだけが、ほんものの宗教(哲学や真理)の信じ方なのか?踏まないことで、信者が殺されていくことを良しとはしない信心(思考)こそ司祭(指導者)として大切なのではないのか?信者でないと言って何回も転ぶキリスト教徒(状況に応じて発言がコロコロ変わる多くの日本人)は、生きるに値しないのか?そんなことは無いだろう、フェレイラもキチジローも、そしてロドリゴも、一生、絶対神の存在(変えてはいけない哲学や真理、本質的なもの)を信じ続けたではないか。それこそ、立派なキリスト教徒(現代人の生き方)ではないか!
拷問等のリアリティは満点で、歴史的考察もしっかりとしている。幕府大目付の知的文化度の高さと狡猾さを見せつけたイッセー尾形始め日本人俳優も含め、どの俳優も素晴らしい心に響く演技であった。特にガーフィールド演ずるロドリゴの転びの場面(沈黙していた神の声が初めて聞こえた場面でもある)は感動的であった。それ以外の箇所の映像も、歴史的リアリティと、自然及び街なみの美しさが同居して、とても素晴らしかった。信じていたものに懐疑を感じてきた方々、信ずるものや愛するものが有る、或いそういうものを持ちたいと考えている方々、つまり多くの日本人に、是非見ていただきたい映画と思えました。
神を信じる強さと宗教が持つ欺瞞のはざまで
江戸時代初期、禁教下の日本で布教をしていた恩師が棄教した報を受けた宣教師のロドリゴとガルペは、真実を確かめに長崎へ来日し、迫害される信徒達の姿を目撃する…。主人公ロドリゴらは、日本に向かう途中のマカオで漂流民キチジロー(窪塚洋介)に出会い、案内役として彼を日本に連れていく。主人公は来日し、隠れキリシタンの村で宣教を行う内に、キチジローが棄教した元キリシタンであり、家族を全員迫害で殺されていた事を知るが、キチジローは主人公らを裏切る。
昔原作を読んだ通り、非常に宗教色が強く、更に心理的な話なので退屈かと思いきや、そうはならないのが流石スコセッシだった。「沈黙」というタイトルの通り、劇中で音楽は一切使われず、虫や鳥の声、波の音など自然界の音作りに徹していて、それが非常に映画に奥行きを持たせているのが印象的だった。
別にカトリックでなくても鑑賞できる作品だが、個人的にはマタイによる福音書などを読んでおくと、作品中の喩えや構図がよく分かると思う。
映画版ではイノウエサマが明確に元切支丹であることが書かれていなかったような気がするのだが(見逃していただけかも)、イノウエが「種」や「土」の喩えを使ってロドリゴと問答してるシーンを観て、聖書を読んだことがある人はイエスの「種蒔く人」や「毒麦」の話をしていると気づくので、イノウエが聖書をよく知る人物である=元切支丹である、というのが分かるようになっている。
「沈黙」を観た後、久しぶりに新約聖書のマタイによる福音書とルカによる福音書を読んだのだが、主人公の宣教師ロドリゴは、自分をファリサイ派等から迫害を受けるイエスとその弟子に投影しているように思える。それでは、ユダの象徴であるキチジローは彼にとって何なのか。
ユダは銀貨三十枚でイエスを売った後自殺するが、キチジローは銀貨三百枚でロドリゴを売った後も信仰を捨てられずロドリゴに付きまとう。農民たちのキリスト教観は、聖書が読めず、長い間宣教師と関わりを持ってなかったせいで大分歪んでおり、その歪んだ信仰のまま、拷問され殺されていくが、キチジローだけは何回踏み絵を踏んでも信仰心を捨てず、主人公に赦しを求めて来る…。
聖書の「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」という言葉。これが主人公のキチジローに対する態度なのでは…と思うが、逆に言えば主人公は赦しを乞われている、求められ続けられるからこそ、神の使徒でいられるのではないか。
棄教後も彼を傍に置いていたことこそが、ロドリゴにとって「隣人への赦し」の実践のように見え、心の奥で信仰を持ち続けていた証拠とも思えた。
遠藤周作自身がカトリックでありながらカトリックに対して疑念を抱いたことがあったせいか、「沈黙」でのイノウエの主人公に対する問いかけは、かなり合理的で宗教というものに対する矛盾を的確に指摘してくる。あれがなかったら単なる切支丹かわいそう物語になっていた気がする。
日本以外の人と日頃接している人は、日本人社会の同調圧力の嫌らしさを充分知ってる(口には出さなくても)と思うが、外国人監督が撮っただけあって、そういう日本人社会の嫌な所がかなり正確かつ的確に描写されており、絶妙。
神を信じる事は強さなのか弱さなのか。宗教は究極的に人を救えるのか。人は主のように裏切る者を赦し愛せるのか……多分信仰を持つ人、持ったことがある人には非常に響く命題だと思うし、持たない人にも、信仰とは何かを考えるきっかけをくれる映画だと思う。
ぜひ原作とあわせて。
日本人の存在意義を根本から考えさせられる作品。
ここで言う「沈黙」は何を表しているのか、そして宗教にすがる人間の愚かさを、
己の声に従う人間の強さを、
ぜひ感じ、考えて欲しい。
日本人ならば観なければならない。
TOHOシネマズ府中にて観賞
純粋な理想の炎が異郷の地で燃え尽きる。皮肉かつ胸を打つ物語を堂々と作ったスコセージは流石。
俳優も良い。特に弱そうで強い塚本晋也、狡猾そうで相当論理的な語りのイッセー尾形、スコセージ映画らしい「主人公を引きずり込む男」窪塚洋介は傑出している。
唯一のミスキャストは今にも暴れ出しそうな貫禄のリアム・ニーソン。アクションスターとしての色が付き過ぎたか。
傑作です
それは予想を超えたものすごい作品でした。
時代の逆を進むような堂々の160分、私が観に行けた頃は既に1日1回のみ上映になっていたので、時間を作るのがとても難しかったです。
でも監督は自分の撮りたいようにするのが一番だと思っているので、こういった尺の長い作品はこだわりを感じて好きです。
そしてタイトルにあるように音楽がありません。
虫の声、風の音、潮の音で構成されているのですが、退屈どころか「だからこそ」胸に迫るものがありました。
OPからそれらの演出が効いていて、スタッフロールまでそれで締める。実に素晴らしかったです。
スコセッシなので遠慮のない演出で、弾圧している様は観ていて苦しさを感じるほど。
また当時の考察をきちんとしているのでしょう、日本人が観ていても違和感を感じずにスッと入ってきました。
またキャストも気になる人が多く「スコセッシの作品に塚本晋也が出演している」ってだけで、観ないという選択はありませんでした。
その塚本晋也演ずるモキチが真っ直ぐで素晴らしい。特に聖歌を歌っているシーンはかなり胸にくるものがあり、作品の中で一番印象に残りました。
そしてイッセー尾形の怪演。この作品を支配するかのような、ものすごい芝居を観せてくれます。
物語は基本ひたすらに重いのですが、それでいてどんどん引き込まれていくんです。
そして話が進むにつれ深く深く潜って行き、宗教そのものを超え、命の根元に迫るような内容でした。
スコセッシはこういった「誰かの生涯」を描くのが本当上手いですね。
70を過ぎても未だ衰えぬ素晴らしい作品、まさに傑作です。
日本人の特質的な性分を映像化した作品
カソリック棄教者の遠藤周作ならでは宗教観を見事に映像化した作品です。
カソリックの実直な侵略性と日本人の強情な保守性との争いにおいて、遠藤周作は正義を日本側においた。
豊臣秀吉も徳川家康も禁教令をだしたのは布教活動を積極的におこなうカソリックに対してであり、出島貿易を許されたオランダは布教を行わないプロテスタントであったと出島のオランダ商館長は手記を残している。つまり、禁教令は国民国家としての多民族化の拒否および文化侵略の拒否である。これは現在の移民問題にも通じる日本国が抱え続けているテーマである。また、他民族拒否の根底には神道および日本独自で発展した日本仏教という宗教信仰からくる異教排斥心が拭い去れない。
作中でも日本側の代表として長崎奉行が隠れキリシタンや主人公に改宗を幾度も促す。奉行は「本心でなくてもよい、形だけでよい」と訴える。日本人らしく本音と建前の使い分けろと指示するのだ。結果、本音と建前を使い分けられない者は死ぬことになり、本音と建前を使い分けた主人公の命は助けられる。そして、建前を覚えた主人公に奉行は一言「日本にようこそ」と告げる。また、本作で描いた本音と建前を使い分けろという奉行の真意は「建前であっても改宗し、本音の部分で"布教をおこなわない"カソリックを信仰するならば糾弾する必要はない。それはもはやカソリック教徒ではなく、まったく別の隠れキリシタンという存在なのだから。」というものであった。このあたりは恐ろしいほどに日本人の気質を描いており、日本は日本で有り続けるために狂信的なまでに保守の本質をもつ国であるというメッセージがあるように感じた。
上記のように私が熱い思いをたぎらせられるのもイッセー尾形さんをはじめ役者さんたちがとても素晴らしく、監督やスタッフの尽力のおかげで感動的なまでに完成度の高い映画になったからです。この映画に携わった皆さんに感謝を伝えたいです。
沈黙
遠藤周作さんの原作未読で鑑賞させていただきました。
感想は、一言で言えば圧巻です...
普通の映画と比べれば長いですが、それでも詰め込まれている感じがします。
当時のキリスト教に対する価値観や思想、登場人物たちの様々な生き方。
キャストはとても豪華でした。スパイダーマンで有名なアンドリュー・ガーフィールドや浅野忠信さん。その中でも窪塚洋介さんが演じるキチジローの狡猾で、それでいて人間らしいキャラクターがとても良かったです。
また、機会があればもう一度見たいです。
もやもやします
スコセッシ監督のファンです。音楽映画も好きです。
これは物語だから史実通りではないです。
貧農の生活苦と、布教活動への情熱はとても良く描かれていました。隠れキリシタンへの弾圧も凄まじい表現です。
隣の女性は後半、すすり泣きしていました。
私は冷静というか、感情があまり揺れ動きませんでした。
なぜなんでしょうね。
九州に生まれ育ち、天草四郎の事、隠れキリシタンの里の生活など、折々聞いてきました。
誤解を恐れずに書くならば
井上筑後守の話が説得力あるなぁと思いました。
日本が、中国の上海やマカオ、インドシナなどと
同じ路を辿らなくて良かったなと。
弱い立場の人達を虐げ、死をもって制するのはもちろん反対ですが。
遠藤周作の原作を読んでないので
なぜもやもやするのか?これから考えてみます。
原作にはないラスト
遠藤周作の原作が未読だったので午前中に読んで、その午後に観に行った。原作小説について言うと、まず初めから結論がわかり切っているのに読者を作中に引っ張り込んで離さない作者の筆には感嘆した。神の沈黙の中で信仰を巡って葛藤するロドリゴの心中を上手く捉えていた。
かなり原作には忠実。音楽が全くなく重苦しい雰囲気が作品全体を支配していて、残虐なシーンも隠さず出てくるので、正直観ていて胸糞悪い。テーマ自体もしっかり重くて、娯楽映画としての要素は全くない。妥協のない見事な芸術作品だ。
ただ自分が観ていて残念に思ったのは十字架と共に火葬されるラストシーンだ。原作ではロドリゴが最期まで信仰を捨てなかったかどうかは語られない。この終わり方ではスコセッシが読んだ沈黙のただの紹介になってしまう気がする。
異国による精神の侵略から国を守るためには、ここまで苛烈な弾圧をしないといけないのだろうか。
国体を維持するために特攻隊という非情な手段をとった戦時中を思った。守りたい気持ちはわかる。でもやり方は間違っていると思う。異国の脅威に民草を利用する為政者の傲慢さ。日本の統治が民草に満足感を与えるものだったら、基督教を信仰することもなかったのだろうから。
国という公、宗教という公。だが果たしてイエスは、公のために教えを広めたかったのだろうか。彼が救いたかったのは、あくまで目の前で苦しんでいる隣人ではなかったのだろうか。基督教は確かに強い。その強さが人を苦しめる。本来のイエスの教えでは、踏み絵を踏んではいけないなどとは言っていないだろう。形式的な信仰から、魂に基づいた真実の信仰への転化。「転ぶ」ことで、新たな形を見つけたのかもしれない。形式に捉われず、ただひたすら神を信じたキチジローこそが、イエスが思った真の信仰者だったのでは無いだろうか。
ほとんが自然音のみのBGM、コントラストの高い絵作り、真俯瞰からの映像など、印象に残る演出が多かった。
人間は諦めないし救いはある
残酷な映画、というのが率直な感想です。
キリシタンがまるでごみのように拷問されていく様は
人間が無価値なものと錯覚してしまいます。
あの時代、人は秩序の為にしか存在しなかったのかと
百姓の生きる意味は幕府にとって
年貢を吸い上げる虫程度の意味しか持たなかったのかと
知識として知ってはいたものの
映像を前に絶望感と無力感に苛まれました。
その中でパードレを迎えるとき礼拝を行うときの
モキチやお爺が頬の緩んだ明るい笑顔が
印象的でした。
キリスト教を知らずにいたらこの人たちは一生
笑うことを知らずに寿命を全うしたのかもしれません。
またイッセイ尾形演じるイノウエが
パードレに棄教を迫るあの巧妙な話術は
詐欺師のようでありやくざのようであり魔王のようでもあり
圧巻でした。
あの映画の中で正しかったと思えるのは
ロドリコ神父です。
形だけ、表面上神を棄てても
神を口に出来なくても
神を裏切るような行為に及んでも、
洗礼できなくても告解できなくても
礼拝が出来なくても
キリスト教の教えである
腹を立ててはならない
姦淫してはならない
復讐してはならない
離婚してはならない
敵を愛しなさい
などの諸々のキリスト教義を守って
生活されたのではないでしょうか。
その姿を妻が息子が周囲の人が見ることは
それだけで布教になったのではないでしょうか。
だからこそ最後にあんな救いがあったのだと思います。
どれだけ迫害されても自分の大切なものを捨ててさえ
何としても生きようとすることが正しい生き方なのだと
思わずにはいられない映画でした。
映画を見終わってから頭の整理が出来ずにいたら
隣の席のピンクのニット帽を被った
年配の女性に素敵な笑顔で
映画どうだった?
と聞いてくれて簡単な感想を言えて
頭がクリアになりました。
女性は
これから色々考えてね、と言って映画館を出ました。
何だか神様はいるかもしれないと思いました。
どのようにも解釈できる奥の深い映画でした。
久々に生きる意味を考える機会が持てました。
ヘビーな感じ
なかなか、ヘビーな内容でした。沈黙という題名の意味を知らずに観ましたが、信仰というものの本質を言いえて妙です。キリスト教徒でなくても、昔の過激な仏教徒にだってあった話かもしれません。神や仏は答えてくれないのは同じです。
しかし、宗教的信念で、極東の島まで危険を冒してくるというのは、恐ろしくもあります。共産中国や、その昔のソ連が宗教を禁じたのは、当然なのでしょう。
一度見ておいて良かった
重く苦しい題材でしたが、一度見て良かったと思える作品でした。また作中で沈黙がとてもうまく使われていて、世界にどんどん引き込まれていきます。
沈黙したままの神にどう信仰を見出すのか。キリシタン弾圧の進む江戸時代、それはとても難しい問題だったでしょう。司祭達にとって、神を疑うことはとても苦しいことであるし、棄教をしなければ信者達が殺されていき、それでも救いの手は差し伸ばされない。「私は無に話しかけているのだろうか」と悩み、しかしなお信仰を捨てられない。どんなに辛いことだったであろうと思います。
この作品を見ていて思うことは、誰も間違ってはいないということです。信者を殺す側も決して快いわけではないし、棄教をしろという言葉に屈することも悪くはない。色々な考え方があってどれも否定することはできないのだと思います。
この作品を見て私が思ったことは、私たちが言葉や形に表さずとも「神はいる」ということです。それがこの作品の唯一の救いでもあるのではないでしょうか。
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