沈黙 サイレンスのレビュー・感想・評価
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泥沼
小説を普段全く読まない人間ですが、この沈黙だけは、本屋さんで手に取って、ふと読んでみたいと思った作品でした。
珍しく最後までノンストップで読めた作品でした。
それが、いつの間にか映画化されているというじゃないですか!(笑)
これは見なければと思い、見て来ました…
拷問シーンを恐れまくって見たのですが、なんとか最後まで目をつぶらずに見れた‼︎
見ているうちに、こういうお話だったけかなと思いつつ、、
人間て不思議だなと改めて思いました。
神はなぜ、沈黙したままなのか、
なぜこのような試練を与えるのか⁇
いや、沈黙してしてるんじゃない、
神様は一緒に悲しんでくれてるんだよと。
日本は布教するには、泥沼だという言葉に、なるほどな〜と思いながら見ました。
西洋でいうところの、創造主、という概念が多分、根本的にしっくり来ない風土の中に生きてるのかなと思いました。
最後に、奥さんが石?を玄関で割るシーンてどういう意味があるのかなと疑問に思いました。
こっちが沈黙したわ。
評価が高いのが驚きです。
いや、私には人の命よりキリストが大事って気持ちが全くわかりませんでした。
リーアム・ニーソンと再会してからが泣けましたが、それまでが長い!!長くてだるい!!盛り上がりが全くない!寝てしまって、こっちが沈黙したわ。
ただ、日本人って残酷ってことはわかりました。
重かったです・・・
どこからどう感想を述べたらいいのやら。とにかく,得体の知れないものが重くのしかかってきたような気分です。
神に身を捧げるロドリゴとガルペの心情は,察するに余りあるものがあります。そして,その信仰心ゆえに,目の前の人の命を助けられずに葛藤し,苦しむ姿は,心に強く訴えかけてきます。…しかし,心の底では彼らに共感していない自分に気づかされました。むしろ,神を信仰しつつも,自分の命を第一に考え,裏切りを続けるキチジローに最も共感しました。十字架やキリスト像に祈りを捧げることを偶像崇拝と笑うなら,形だけの絵踏みなど造作もないことではないのかと考えてしまいます。でも,こう考えることこそが,沼地で育った日本人的見解なのかもしれません。
こんなふうにいろいろと考えさせられたのは,BGMを極力排し,自然の音をふんだんに取り入れていたからかもしれません。音楽によって必要以上に感情を煽らず,目の前の人間の生きざまをありのままに描くことで,見る者一人一人に深く考えさせているように思います。
今なお信仰の違いが世界中で争いの火種になっています。互いの宗教を理解できないまでも,否定,弾圧,迫害などすることなく,せめて許容することぐらいはできないものかと切に願います。
棄教する弱きものこそ
西欧のエリートが異文化の辺境で使命を捨て変貌したという知らせに若者が真相を探る探求の旅に出る。コッポラの「地獄の黙示録」その原作ジョーゼフ・コンラッドの「闇の奥」を思い出す。
では「沈黙」はスコセッシ版「地獄の黙示録」なのかというと「沈黙」の元になったのは1700年代の実話なのだからそれは違う。
「地獄の黙示録」のカーツ大佐、原作「闇の奥」のクルツは辺境で神と崇められるが、フェレイラは信仰を棄て日本人になったと言うのだから全く正反対。
west meets east。西欧人が異文化に接してアイデンティティが崩壊したのは日本でもアフリカでも起きていた事だ。
信仰=個人のアイデンティティという「沈黙」の時代と「闇の奥」「地獄の黙示録」の時代とは、全く異なる。
「闇の奥」で西欧人が直面したのは未開のアフリカ文化、「地獄の黙示録」でカーツが直面したのは欧米人に予防接種されたベトナム人の子どもの腕を切断したアジア人の西欧への不信と敵対心。
しかし「地獄の黙示録」はベトナム人に取材していない。アメリカ側の混乱の再現だからアメリカ人が考えた「理解不能なアジア人」という定型に陥っている事を割り引かなければならない。
それに比べれば「沈黙」は日本人をよく描けていると思う。一揆を防ぐ為の切支丹抑圧。ある時は仲間に犠牲を強いる隠れ切支丹の身勝手さすらリアリティを持って描かれている。そして映画では触れられていないが宣教師たちに棄教を迫るイノウエと通辞は二人とも元キリスト教徒なのだった。日本の宗教とキリスト教の神の違いを知り尽くした彼等に宣教師たちは手も足も出ない。
「日本は一神教が根付かない沼なのだ。あなた達の神は何をしてくれた?沈黙しているだけではないか?
逆さ吊りにあっているあの信徒達の苦しみを救うことができるのは、ロドリゴ師。あなただけだ。あなたが転べば、彼等は救われる。あなたが信仰を貫けば彼等は苦しみ抜いて死ぬ。あなたの信仰は誰も救うことが出来ない。簡単な事だ。形だけのことだ。少し脚を乗せるだけのことだ」老獪なイッセー尾形、にこやかな言葉と裏腹な浅野忠信が恐ろしい。
好むと好まざると関わらず「西欧文明の尖兵」という役割を持っていたキリスト教を徹底的に弾圧した事で、日本は植民地化されなかったが科学文明に接する機会も失った。
だがそれは後世の後知恵。今の基準で「欧米拒否した日本素晴らしい」なんて称揚するのも短絡的。
世界の果てで相容れない文化に敗北したキリスト教。しかし神は信仰をたやすく捨てる弱き者にこそ寄り添う伴奏者として顕現する。
その微かな小さな声に、感動してしまう自分がいる。この弱いものに寄り添う神は旧約聖書の厳しい神ではなく、マグダラのマリアを守るキリストだ。
イスカリオテのユダを思わせるキチジローと言う、弱い弱い人物が出てくる。生き延びる為、裏切り、ロドリゴを売り渡し、何度も踏み絵を踏む。後悔しては懺悔をするの繰り返し。
ユダや、キチジローをも許す神、弱い者と共に苦しむ神。信仰を棄てた者こそ救われなければならない者ではないかという逆説。
原作が発表された当時、カトリックからは猛烈な批判があった。信仰を棄てたものは神の敵とみなす様な批判。
いかにも西欧諸国のキリスト教の批判だ。自己を、きびしく律する事こそ神への道、そしてその自己規律から生まれた資本主義精神は弱きをくじき強くあらねばならぬと奮い立つのだ。
監督マーティン・スコセッシはカトリックの司教から原作を紹介されたそうだ。カトリックも今は遠藤周作さんの「弱き者に寄り添うイエス」を認めているのだろう。
さて、この映画の時代から600年。異文化を拒絶するアメリカ大統領、ヘジャブを禁ずるフランス、難民を拒む日本。異文化を拒む偏狭さは何も変わらない。
静かな映画だった、音がなくなる場面は隣のスタジオの映画の音が聞こえ...
静かな映画だった、音がなくなる場面は隣のスタジオの映画の音が聞こえてくるほどだった。画面は美しかった。私は信仰を持たないけど、信仰を持つことはどういうものだろうと考えることはあって、答えを出さずに描いているところが良かった。それぞれの人に言い分があって、単純な悪い人は出てこないところも良かった。沼地、と言ってたけど、靄のかかる森や、海風や、それと対象的な、乾いた土のにおいとかも画面から伝わってくるようだった。蝿の羽音も印象的だった。原作も読もうと思った。長崎の踏み絵がある協会にも行ってみたい。
宗教観が希薄な私には難しい内容でした。
宗教観が希薄な私のような日本人には、登場人物達に共感するのが難しいと感じました。
主人公は劇中で何度も棄教を迫られ、それを拒み周りの人に危害が及ぶ度に、神に祈ることの意味に疑問を持つ姿があります。
神はこのような悲惨な有様を見ながら、なぜ沈黙しているのかと。
そのような目に遭ってもなぜ棄教しないのかということを鑑賞中に何度も考えてしまいました。
私には主人公の苦しみは完全には理解出来ませんでしたが、この映画を観たことで宗教について考えさせられました。
鎖国時代の宣教師を追体験した気分
日本に来るまでの映像が美しい。
来てからも、自然は美しい。
運命と処刑の残虐さが引き立つ。
お約束?の日本的処刑のシーンは虚を疲れた。
CGが少なく、圧倒的な画面。
つまり、カメラ、凄いです。
背教神父となり、政府の言うがままに従い、結婚して、火葬されても、彼らは変わらなかったというメッセージを受け取った。原作とは少し違う印象。原作の絶望感から救われた。10代の頃の読み方が悪かったのかな。
きついけど希望がある事を教えてくれる映画。
長いけど、長さを感じさせない。
キリストコスプレ大集合
主人公が日本のキリシタン達を応援しに日本にやってくる。
主人公ともに日本に渡るのはスターウォーズ新新三部作のカイロ・レン君である。
そして、冒頭で日本政府に滅茶苦茶いじめられるスターウォーズ新三部作のクワイ・ガン・ジン。
そしてそして。だいたいのシーンを半裸で褌振り乱しながらはしる窪塚洋介。
想像して欲しい。
3人とも長髪がボッサボサで、
髭も伸び散らかってボッサボサで、
ものすごい汚れた着物がはだけてほとんどローマ人みたいな格好をしている。
そう。3人とも渾身のキリストコスプレなのだ。
そんななか、日本政府にやっぱり滅茶苦茶いじめられる主人公。
もうやだー!
主よー!
もうやだー!
ってなった主人公の前に、
パードレー!
告解してー!
告解してパードレー!!
と、元気一杯で走り寄ってくる窪塚洋介。
そんな窪塚洋介が一番キリストコスプレが板についてる。
そんな恐ろしい作品だったし、
拷問シーンに次ぐ拷問シーンという苦しい内容の割には結構みれたけど、
すきじゃなかったな。
あと長いし。
お前のせいで、奴らは苦しむのだ。
映画「沈黙 サイレンス」(マーティン・スコセッシ監督)から。
原作は、遠藤周作さんの小説「沈黙」。
若い頃、一度読んだが、覚えているのは「踏み絵」の場面など、
「信仰」するという、静かだけど力強い人間の心の動きであり、
それを映像で、どう表現するのか、とても興味があった。
しかし、58歳で鑑賞した映画作品は、原作にほぼ忠実だけれど、
私の引っかかった個所は、歴史としての「宗教弾圧」ではなく、
また「他人事」としての物語ではなかった。
心を大きく揺さぶられたのは、イッセー尾形さん演ずる
「井上筑後守」が「宣教師」に言い放った台詞
「お前のせいで、奴らは苦しむのだ」だった。
(「お前が転ばぬ限り、犠牲が出る」というフレーズも・・)
「自分の存在」が「周りの人達を苦しめている」という事実を、
目の前で見るにつけ、心が揺さぶられ、心が心を裏切りそうになる。
それは、私たちの仕事や、日常生活でも同じことが起きていると、
観賞後に、ふっと気付いたとき「自分事」に変わった。
「信じる道を貫く、目の前の命を救う、どちらを選べば良いのか」
たぶん、どちらが正しいと言うことではなく、
そのことに悩み苦しみながらも、常に自分の存在を意識することが
大切なのではないか、と考えてみたりもしている。
作品のラストに、こんなナレーションが入る。
「私は沈黙したのではない。おまえとともに苦しんでいたんだ。
沈黙の中で、私はあなたの声を聞いていた」
もう1度、原作を丁寧に読んでみようかな。
重く長かった
レディースデイで平日昼間の割に混雑していた。私達日本人は、理解し違和感無く観ることが出来たが、外国人がどこまでわかってもらえるのか心配である。切支丹の悪行もかなりあったようだから、このまま100%そのままは受け取れまい。しかし、長かったな。
沼地で守る。
常にグレーゾーンを這い回ってると気高い行為が居た堪れなく感じる。
窪塚演じるキチジローの狡猾さ(弱いと見せて彼が一番強か)が生きる
術なのだとしたら、さあ皆も意を決して踏み越えてしまえ~!と何度
思ったことか。まるで本人を模した役柄の彼も素晴らしかったのだが
浅野やイッセー(まぁ堪能すぎて小憎らしくて)そして荒波に磔される
塚本の演技が心に刺さる。おかしな日本人が出てこないのはさすがだ。
冒頭で棄教したとされるフェレイラだが、あの弾圧を目にしてすぐに
信者たちの命を守るためなのだと直感する。強い信念があるからこそ
自身に課せられた業を見定められただろうと。彼を慕い日本へ渡った
ロドリゴもガルぺも同様に民を救おうと尽力する。信仰を保ったまま
生活も守りたい信者を当時の幕府は激しく拒絶し次々と抹殺していく。
何ともはや3時間弱辛い場面ばかりの本作なのだが、後半フェレイラ
が棄教の事実を告げたあたりからロドリゴの苦悩と葛藤が更に色濃く
描かれてゆき物語は佳境を迎える。彼らの終生まで描き切ったことで
何を云わんとしていたのかが(グレーながらも)如実に見えてくるのは
素晴らしい。強さを語る者ほど弱くて弱みを見せる者ほど強かなのだ。
(沼地とはピッタリな形容。泥土が生き恥を掬いながら根を太くする)
すごくよかった
イッセー尾形が高圧的でなく、話せば分かる人でけっこう譲歩してくれているところが余計に主人公を追い詰める感じがすごくいい。キリスト教に不理解でなく、理解したうえで提示していて、むしろ主人公のほうが頑なで、よくない感じがする。
窪塚洋介のしょぼい感じがすごくよかった。そんな彼と腐れ縁で死ぬまで付き合いがあることに感銘を受けた。人付き合いをしていると失望することがあるのだが、それでも付き合い続けることの尊さが胸に沁みた。
見る前は不安だったけど変な日本描写がまったくなかった。
信仰にはまるで興味がないのであるが、もし自分が信心深かったらもっといろいろと面白かったのかなと思った。
1回目はすごく眠くて眠気を我慢して見ていたら頭痛がしてその後寝込んだ。2回目は体調を万全に整えて見たのだが、それでもちょっとウトウトした。それでもすごくクオリティの高い作品であることは分かったし、かつ面白かった。
理想的な日米合作
江戸時代初期、キリスト教の布教を目的とし日本の長崎にて司祭として使命を果たしていたフェレイラ神父が棄教したとの報せを受けた2人の弟子がその真意を確かめようと日本に渡った様子を描いた歴史大作。
観る前に原作を読んでみたが非常に重い内容だった。
そしていざ観てみると割と忠実にそれが再現されていた。
字面から想像していた映像が実際に俳優の表情や演出をもってより生々しくリアルに描かれていた。
演出といってもBGMは静かな波音以外ほぼなし。それが余計に処罰の生々しさを引き立てて、穴吊や磔のシーンなんて眼を背けてしまうほどの表現だった。
表現はもちろん凄まじかったが眼を見張るのが配役。巨匠スコセッシの映画にしてこんなにも日本人俳優が。
主要キャストはさすがにハリウッド俳優だが準主役陣やチョイ役陣も日本人俳優が至る所に出演していた。
ハリウッド常連浅野忠信、いよいよ本格ハリウッドデビューか窪塚洋介、この作品の一つ前の出演作が僕明日だというとんでもないギャップの小松菜奈笑、そしてどこに出ていたEXILE AKIRAと全員が壮絶な演技を披露。
舞台が日本なだけに彼らの存在に違和感があるわけもなく、むしろあの風景に馴染んでたアンドリューガーフィールドやアダムドライバーの方が凄いわけだが日米合作としては稀に見る理想的なバランスで成り立っている。
去年の作品、スポットライトのときも思ったが自分は信仰がないため、絶対的な存在がない。ましてや姿形が見えないような存在のために命をかける、会ったことも見たこともない存在を描いた絵すら踏むことすら断固としてしない、人間の気持ちがわからない。
それをこの作品は描いている。容赦ない描写で。
教科書1ページで済まされてしまうような出来事を2時間半強に詰めリアルに描いた傑作。
タイミング的にも内容的にも監督本人的にもアカデミーを狙った会心の出来のはずが、撮影賞にしかノミネートされなかった。
アカデミーは癖があって相変わらず読めない。テーマが重すぎたのだろうか。残念。
大事なのは神か、人間か
迫り来る死に怯えながらも信仰を曲げない者たちと、その運命を見守るだけの自分
そこに追い打ちをかける、人を食ったような為政者たちの国を守る者としての正論と情け
一方、迷える私には何もお示しくださらない神
あらわになる自分と宗教の抱えていた矛盾、無能さ
それでもなお、人は神にすがらねばならないのか?
いろいろなジレンマ
私はあそこまで窮してはいない
ってことは、まだやれるってことですね
使命
もしくは啓示。
まるで、そんなものでもあったのかと思うように鬼気迫るものがあった。
マーティンスコセッシが、この沈黙を撮ったのは必然なのではないだろうか?
正直、評論の外にあるようにも思う。
原作を読んではいないので、この作品が作者・遠藤周作の意図をどれほど反映してるのかは分からず…この映画の評論をするなら、まずそこから語らねばと思う程だ。
作者がキリスト教に心酔していたのか、それとも忌み嫌っていたのかでも作品意図は変わってくる。
「心の中は"主"にしか分からない」
この一文が、深く突き刺さる。
彼の亡骸と共に葬られた十字架…原作もその通りなのか確かめてみたいところだ。
作品のテーマは実に繊細で、そのおかげで戦争まで起こってしまう程の問題だ。
ただ、この原作をマーティンスコセッシが映像化するにあたり、監督は一つの明確な選択をしたかのように思う。
「人は惨めな生き物なのである。」
衣装も個性も、社会も。今も未来も。
人は、悩み、争い、貶め合い、殺しあう。
その連鎖から抜け出す唯一の方法として"宗教"が推奨されたりする。
だが人間はそれすらも争いの種にする、困った性質を持っている。
つまりはこの連鎖から抜け出す最善の方法は未だ発見されておらず、人類は全くもって救われないのである。
人は元来、産まれてから死ぬまで救済を常に必要とする愚かで惨めな生き物である。
そういう選択を映像化するにあたりしたように思う。
作品は、重厚な作りになってた。
文字である原作を出来る限り再現するというような熱意を感じた。
それにしても…日本の役者の存在感!
いや、存在の仕方とでもいうべきか…見事だ。勿論、そういう外観をメークなり衣装なりから与えられてはいるのだが、実に普通だった。まるで、その世界に生きていたかのようであった。
加瀬さんの気負いのなさ!
あれ普通の人だよ、全く他意なく生きてる人のそれだよ。
小松菜奈に妙な色気を出してる宣教師をぶっ飛ばそうかと思ったよ。
その中でも…片桐はいりさんの怪演たるや。
いや、怪演は失礼だな…きっと片桐さんはアレが通常運転なのだ。
俺は、笑ったのである。
あの作品の中で、唯一と言ってもいい。
明確に笑った。
アレを意図して採用したというのであれば、マーティンスコセッシの懐の深さに感動すら覚える。
確かナレーションが被ってたと思う。音のフォーカスもそこにはなかったし、台本に明記されてるような文脈でもなかった。本国では英語のテロップなんかは絶対つかないんじゃないかと思う。
つまりは、他にもあっただろう?と。
なぜアレを選んで残したのかと!
厳格な歴史の伝道者とも評価できる作品で!
…恐るべし、マーティンスコセッシ!!
また、あの現場でアレをぶち込んだ度胸の良さというか…信念というか…敬服する。
ブレない。
片桐さんの魂を見たような気がした。
そして、イッセー尾形さんのあの声。
どうにも真意が掴めない。
汲み取れない。
こいつはどっち側なんだ?
あの普段とは違う高い声…いや、そういう差も日本人なら感じるんだけど、そうじゃなくても腹から出してないと、そう印象付ける声。初めは違和感バリバリだったけど、物語への関わり方を追っていくうちに…いや、正直、観終わってコレを書いている最中に、あの声だったからこそ、あの明確でありながらアヤフヤな立ち位置でいられたのではないかと考えたりする。
なんと狡猾な…その役者としてのスタンスに戦慄する。この人の役作りは声にまで及ぶのかと…。
最早ここまでになると、役作りというよりは、観客へのアプローチとか、演出への挑戦とか…そんな域にまで踏み込んでるのかとさえ思う。何より、それを役者という足場から発信している事に戦慄する。
浅野さんは凄く英語が達者になってたなあ。
そして、この作品にはBGMの印象がない。
スタッフロールのバックには波の音が流れてた。
その波の…幾度となく繰り返す波の音に、この作品のテーマを感じたりもした。
観終わった後、下りのエスカレーターで「後世に残したい10本の映画の一本に入るな…」となんとなく考えてた。
そして、新宿ピカデリーのロビーでなんのキャンペーンかは知らないが「つっこみ如来」と名付けられてた像を見て、日本人の信仰はどこに向かったのかと笑いが込み上げてきた。
監督も突っ込まずにはおれんやろ…と。
スコセッジ監督にやられっぱなし
高校時代にスコッセッジ監督のタクシードライバーに感動してからのファンです。やはりその物語の再現性、ドラマティックな躍動感、タクシードライバーでは社会の矛盾に生きる人間の無力さを描き、この映画でも人間の自己矛盾の弱さ、それが故に神にすがる姿を見事に描ききった感動作です。
往々にしてこうした欧米の映画では、日本も含めたアジア人を滑稽に描きがちですが、この映画では当時の幕府の事情や、日本の仏教感についても好意的に描かれ好感が持てます。
それにしても殉教を尊いものとされる西洋の種々の宗教に対してどうにも共感できません。多くの宗教対立が現在もテロとなって世の中を脅かしていることをどう理解すれば良いのでしょうか?「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや」の親鸞の教えの通り、自分も阿弥陀仏が掬い取ってくれることを望みます。
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