ブレードランナー 2049のレビュー・感想・評価
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大傑作
素晴らしい傑作。主人公Kの孤独と閉塞状況とささやかな喜びが描かれる導入部。それは現代都市生活の部品として使い捨てされる労働者の切なさである。それなりに満足して生活していたKの心に灯る小さな希望の光。自分は決してその他大勢ではなく特別な者なのではないかという想念が芽生える。
ジョイとKの関係は
レイチェルとデッカードの関係の写し鏡だ。彼らは同型のジョイもレイチェルも拒否する。それは薔薇がいくらあっても、自分の心を揺さぶる薔薇はただ一つだけだと想っているから。
Kの哀しみや喜びに寄り添い、愛し守ってくれたジョイは、買い直してももう現れない。
Kは自分だけのジョイの生きた証を目の当たりにして、自らの心に従って善をなす事を決意する。
デッカードがレプリカントかどうかという問題はもうどうでもよくなっている。Kはレプリカントだが、孤独で、意に染まぬ仕事で使い捨てられ、自由意志を否定される現代人そのものだ。富裕層3人の財産がその他の者の富の合計を上回る超格差社会アメリカに生きる人々は日本の現在とほぼ同じ。
Kはおのれの意思に目覚め、誰の命令も聞かず、自分の判断で行動する。それは哀しい孤独な「天使」がひとりの寂しい人間としてこの世に生きた証を残した。デッカードは「お前は俺の何なんだ?」と問いかけた。
Kは答えず別れる。雪が溶けるように、彼の人生の終わりの時が来る。彼は自分が願ったものになったのだ。
現代アメリカ、現代日本。子供の頃は家族の中で特別な存在だった。社会に出て労働者となり、自分が特別ではなく、ありふれた存在だと知る。
良いSFは良い寓話となる。Kの心情はナレーションがなくても痛いほど観客に伝わる。
Kの魂の彷徨は、現在を生きる我々のものだ。ヴィルヌーヴ監督は見事に重責を果たした。
テーマは素晴らしいが、長い!
やっぱり、ちょっと上映時間が長かったです。
途中、何度か時計を見ました。
寝不足もあって、ちょっとウトウトと。
ただ、内容は素晴らしい!
前作と異なり、レプリカントであるKの視点から描くことにより、前作とは完全に別の作品。
長いだけあってKの掘り下げ方も良し。
自分が特別な存在では無いかと考える彼に対して、オチでは彼は大量生産の一つでしかない現実が突きつけられる。
主人公が都合よく「選ばれしもの」である映画が多い中、この結果はOK。
空虚な気持ちになる
まず一番に言いたいのは、あのアナデアルマスとの疑似セックスシーン。あのシーンを考えた人は天才か!なんとも人間らしくないセックスで、動きがぎこちない。美しく見えて、どこか奇妙なシーンは、非常に新鮮だった。あのシーンに、この映画の魅力全てが詰まってたと私なんかは思った。
自分は特別な存在ではないと分かってはいるものの、実は特別なんじゃないかと思ってしまうあのKの気持ちを、痛いほど感じ、共感した映画だった。
人間よ考えを改めよ。
自分は一体この映画に何を期待していたのだろう?と鑑賞後ふと我に返りました。映像なのかストーリーなのか話題性にまんまと乗っかっていただけなのか。それだけ想像と違った結末を魅せつけらた印象です。
続編を作るには35年という月日はあまりにも長い時間が経ち過ぎたのではないか?と観るまでは感じてました。当時と現在では人や社会の価値観、道徳観、夢や希望も変化し過ぎているはずだから。
しかし確実にこの物語の未来に近づいている今の時代にあえてどうしても続編を作りたかったという強い理由がこの辺りにあるような気がしました。当時観せた未来の姿は現実の今を経てこのまま行くと、実はこんなことになってしまいますよ。という今を生きる人類に対する警告なのでしょうか。人間よ考えを改めよ。と問いかけているような気がしてならないです。
本物の人間であろうが、人間もどきのレプリカントであろうが、
生きているものは他者と接して生きていく限り情が宿り、募るのではないでしょうか。本来の任務である人間のために役立ちたい、一人のレプリカントとしての思いを果たしたい。最後のシーン、Kは安心して眠りにつけたのか。しんしんと降り続く雪の冷たさと、人間もどきレプリカントの熱い魂が次第に冷めていく対比が何だか悲しく映りました。
この映画を正当に評価するのは、まだまだ先の時代が来ないと誰もわからないのではないでしょうか。
車が空を飛ぶ未来
ブレードランナーを見たとき、車が空を飛んでいて、一周回って新しい感じになっていたのですが、2049でも飛んでいて笑っちゃいました。Kが全てを失いながらデッカードと娘を出逢わせ、そして自分は何もかもを失ったのが悲しい。広告にジョーと呼ばれた瞬間の虚しさよ。コールガールと重なった時は、虚構と現実の区別がつかない程だったのにな…。うおーんという、あの特徴的な音楽も健在で良かったです。
続編よりリメイクの方が?
SF映画の金字塔「ブレードランナー」の続編ということなので、観に行きましたが、金字塔と書いておきながら一作目よく覚えていないんですよね(笑)
色々な感想が既にレビューされていて
良いところも悪いところも大体似た感想です。
そもそも、「ブレードランナー」に影響されて作られた映画やアニメが、既に巷に溢れているので、オリジナルが今更続編出しても新鮮味なんかありゃしない。(AI彼女とか新たな表現など試みてはいますが。)
ハリソン・フォードもハンソロまでなら
良かったのに、デッカード役まで復帰されてもね~(苦笑)
何て言うか人気維持する為になりふり構わず昔やった役にまで、手を出してる感が・・・?(インディ・ジョーンズもまたやるとか言ってるし!)
エクスペンダブルズでもそうだったのですが、夢の共演も一回目だけなんですよね!皆喜ぶの。
二回目からはもう慣れてしまってそこまで興奮しない。
ハリソン・フォードもまさにそれで、ハンソロは喜ばれたが、デッカードは食傷気味って感じなんですよね。
これならば、いっそのこと完全リメイクの方が潔いかと。続編でというのなら、オリジナルキャストのみで一作目は、触れる程度くらいにして、別の話にしてしまうくらいが、良かったかと?
他のレビューでも書かれていますが、今作で良かったのはAI彼女ジョイの役者が可愛かったってとこですか(笑)
滅びの色濃い新しいブレードランナーの世界感
これは今後10年、20年と語り継がれる問題作になると感じました。
退廃的に発展していた前作とは異なり、滅びの色濃い汚染された世界の片隅で何とか生き延びる人類と、人類が生み出した新しい世界の覇者となる者たちを描いた物語です。一般大衆は生き延びるのに精一杯、AIは感情豊かで繊細、皮肉にも劇中で最も「人間」らしく、レプリカントの生み出したひとつの奇跡が中心となり、原作小説のテーマに再びスポットがあたるような構成です。
映像と音楽やSEはどのシーンも素晴らしく、いずれも鮮明に記憶に残ります。個人的には汚染地域のオレンジ一色の世界(旧ラスベガス)が最も美しく印象的に感じました。潤沢な時間を惜しげもなく使い長いカット、丁寧なストーリーテリング、奇跡を体現する残酷な世界に咲く可憐な華と、薄汚れ落ちぶれた人類の対比と、非常に練られた作品に仕上がっています。
ストーリーはご都合主義とか文句を言っている方もよく見受けられますが、ラヴの衛星軌道誘導の爆撃などを見れば分かるように、これは具現化された超監視社会であり、映画のラストシーンのあとはデッカードと娘は二人とも身柄を確保されているでしょう。当然ラヴは新しいボディに入って蘇ります。つまり最初から主人公に勝ち目はない世界なんです。そこを理解してから映画を観ると、勝った負けたではなく、また別のストーリーの軸が見えてきます。
最終的にKは、LAPDやレプリカントレジスタンスのいずれにも属さず、自分の大切な記憶を共有する娘と父親を会わせるという選択を、自らの判断で行います。それも命がけで。ラストシーンの雪が舞い散る美しく白い世界で、ゆっくりと満足そうに死んでいくK、これは前作のラストのどしゃぶりの黒い雨の中、デッカードを助けて命の灯が消えていくロイ・バッティのオマージュだと気付きました。
偉大な前作を受けて続編として製作された映画ですが、前作を上回る世界を提案構築し、成功した素晴らしい作品に仕上がっています。
K、強すぎ。
ダイ・ハード並みに不死身なので、違和感があります。レプリカントの成り立ちや能力の説明が不足してるので、やたら強いオジサンが自分探しをしてる映画になっちゃってます。無いはずの生殖機能が備わっていた問題を放置したのも不満です。
ボーダーレス
近未来の世界観は凄く
興味深いです。
週刊紙のコラムにもありましたが
現在社会は性別や人種の壁が
が曖昧になって、
お互いを愛し合ったり
尊敬したりする文化が根付き
つつありますが、
本作では、
デジタル映像化された
AIと人間の壁がなくなる世界観が
覗けます。
スイッチひとつで呼び出せる
自分専用の相手は実用化されれば
必ずヒットすると思うのですが
そこには、
相手を許容する人間性が
無くなる危うさや
どうしても深く求めないと満足できなくなるジレンマがつきまとうでしょう。
こういう技術が進むと
なにか人として衰退していくように
感じるのは私だけかな…
2049年には、
本作で描かれたテクノロジーの
なにが実現されてるかなー
リドリースコットの背景が好き
(プロメテウスのときもそうだったけど)
・リドリースコットの描く大きな背景が好き
・色味が好き
・絶望的な色味が好き
・ゲロを吐きたくなりそうな神経描写が好き(というか、そんなエンターテイメントなんてこの映画が初めてだ!)
・自分自身の瞬きの音がきこえるほど静まりかえる客席が好き
お化け屋敷みたいなものを期待していらっしゃる方は、お化け屋敷に行けばいいと思う。前作ブレードランナーを観たけれどストーリーの記憶はない。しかし、今作ブレードランナーだけでも話は飲み込めた
主人公の、肩透かしなんだけど《まぁ充実感》なラストは良い意味で珍しく。ヤラレました。娘役の女優さんの演技も好きでした
哀しいね。
前作も大した事ないと思ったけど、今回もあんまり感動しなかった。こんな世の中になったら。嫌だなぁ。ハリソンも老齢になって、アクションする動きがぎこちない。最近、前作シリーズの続編に立て続けに出演するみたいだけど、昔のイメージを壊してほしくないな。ラストは泣けました。
ブレードランナー世代を甘く見すぎ
映像•••素晴らしいです。全てのカットが、切り取ってそのままポスターにできるぐらい美しいです。ここまで映像にこだわった作品はそうないと思います。
サウンド•••映像と合わせて素晴らしいのがサウンドです。映像と見事にマッチしていました。サウンドの表現力が素晴らしいです。
映像とサウンドに対するこだわりは非の打ち所がありません。そして確かにブレードランナーです。
でも我々ブレードランナーによって育てられた世代は、もうハンパないくらいSF作品に親しんできてるんです。
2049のメインのプロットは、セガのゲーム「バイナリー•ドメイン」と同じですし、Kが捜査していく中で自身のアイデンティティに苦悩する様は浦沢直樹の「PLUTO」、Kの恋人ジョイは「her/世界でひとつの彼女」、AIが自己犠牲を払うか?は「2010年」「エイリアンシリーズ」、探していた人物が実は主人公や近しい人物だった(かも)なんてのはよくあるネタ、
最後の方でレジスタンスがワヤワヤ出てくるのなんて「猿の惑星」の頃から何度も使われてきたネタです。
これらの元ネタ(?)作品達は、その斬新な展開から我々に衝撃を与えてきてくれました。
かつて我々に、まったく新しいものを見せてくれ、衝撃を与えてくれた「ブレードランナー」が、ブレードランナー以後生まれた様々なSF作品の寄せ集めになってしまった感が否めません。
運良く、そういった元ネタ的な作品に触れなかった方や、昔見たけど忘れちゃったって方はラッキーだったかも知れません。
それぞれのネタは、初めて見る人にはかなり斬新で衝撃的なものでしょうから。
そういう方々にはおそらくこの作品が特別な一本になることでしょう。
ハリソンフォードの飛行機事故の時、ブレードランナーの続編は大丈夫か!?と心配したファンは多かったことでしょうw
その待望のハリソンフォード出演シーンも、デッカード感はなく、「あ、ハリソンフォードだ」にしか思えませんでした。
EPVIIではしっかりハン・ソロでしたけどね・・・。
ただ、ジョイ役のアナ•デ•アルマスのキューティさには、初めてキャメロン•ディアスを見たときくらいの衝撃を受けました。
また、ライアン•ゴズリングの、自身の感情を表に出さないような演技は味があってよかったです。
82年当時と違い、観客の目が相当肥えてきている今の時代に、「ブレードランナー」という伝説的映画の新作を作ることは非常に困難なことであったと思います。かつて「ブレードランナー」は公開当初一般ウケしませんでしたが、本作はターゲットをどこに絞ったのか、SFファンたちには賛否両論の作品になってしまったのではないでしょうか?
55点
音がうるさかった!わら
それが一番の印象!
二番目はこんなにCG技術発展してて
触らんように頑張ってた感があった所に萎えたw
ゴズリングがハーフじゃないのはびっくりしたがw
ゴズリングあーゆー悲しい役多いw
繊細
誰が人間で誰がレプリカントであるかを精査するのではなく、本作ではハナから誰がレプリカントであるかは明白だ。
だからして鑑賞することで人間である視聴者がレプリカントである主人公らに感情移入する、という構図は、冷静に考えるととてもアクロバチックなように感じられる。
しかしながら最後まで見入ってしまった者として言えるのは、彼らの恐れも不安も愛情も全てが共感できる同等のものであるということだろう。
なのになぜ物語は、あえてプリカントの視点で進む事を要求されたのか。だからこそ際立つものが魂の有無、人間性であるなら、むしろ鑑賞する我々こそ純粋な人間であることを意識せざるをえず、それがまた共感しつつも主人公らを突き放すようで、とてもとても切なかった。
アクション、謎解き、壮大で美しい映像と、エンタメ要素も盛りだくさんだが、物思いにふける秋と言わんばかりの繊細極まる作品だった。
やっぱヴァンゲリスでしょ。
映像も役者もいいのに音楽はゴミ。終始ブーンブーン鳴ってるだけでただうるさいだけ。
ラストシーンでtears in the rainが流れておおおおおおっと来たら、そこでエンディング。
でも、これってヴァンゲリスだから。
いつもの大仰なだけのハンスジマー節がこの繊細なストーリーをことごとく破壊している。
ヴァンゲリス版のディレクターズカットを作って欲しいくらい萎えた。
抗う者
ドSF
のっけから観たこともないような景色が映し出される。とんでもない世界に引きずり込まれたって印象だ。
全体的には重厚な展開で重い。
生存自体がテーマのようなのでそれはしょうがないように思える。
「操り人形は、その糸を切れるのか?」みたいな事をラストの雪景色を見ながら考えてた。彼は老いた前任者の為に奮闘したのではなく、自分への問いかけをずっと繰り返していたように見えた。
そんな感想を確かめるべく、もう一度見たい。なぜなら、寝入ってしまったからだ。
つまらない訳じゃない。
俺のコンディションが悪かった。
この作品を観るには体力が必要だ!
この続編は、ある意味前作へのアンサーのようにも受け止められるので、その辺を確認すべき、次回、日を改めたい。
2回目鑑賞。
また寝た。よく寝れた。
…序盤に無音のシーンもパラパラとありそのせいか?
1/5 追記
やっとの想いで全編鑑賞。
俺が寝入ってしまった理由がとても良く分かった。絵が静かなのと、ディテールが細かすぎる…。
まるで、ディレクターズカット並み。
斬新な映像表現やロケーションに目を奪われるものの、独自の用語も多く本筋から逸れ気味のエピソードも多く思えた。
ブレードランナー初心者の俺からすると映像の迷宮に放り込まれた気分でもあった。
故に…脳が諦めた→寝入る。
おそらく…SF専門的な観客にはすこぶるウケがいいのではないだろうか?
主人公的には、自分の境遇に気が狂いそうな程のストレスを感じていて、自分の出生に希望を抱く。生産されたのではなく、望んで生まれてきたのだと。
奴隷として作られたのではなく、無垢な生命としてこの世に生誕した。
だが、それは自分の事ではなかった。
彼が次に選んだのは「意義のある死」だった。それこそが人の人たる所以だと信じた。
ラストはやはり操り人形の糸を自ら切ったのだろう。
そのラストは美しくも儚くあり、自由である事の脆さを表現もしているようだった。
尊厳ある死であったとしても、それも本人がどお捉えるか。そんな事だったのかもしれない。
かくしてデッカードは奇跡によって生を得た娘と対面するわけだが…ラストカットがハリソン・フォードってのには、どおも納得いかない…。
後半、肩透かしを食っちゃったけど・・・
前作から30年経った2049年の地球・カリフォルニア。
使い捨ての労働力として作られた人間そっくりのレプリカント。
30年前は「より人間に近づけよう」として作られていたが、それはある種の行き過ぎを招き、レプリカントたちは反乱を企てるようになった。
そのため、感情も薄く、人間に従順な新型レプリカントが作られていた。
LA警察に勤務するK(ライアン・ゴズリング)もそのひとり。
彼の役目は、反乱を起こし、その後、地球で潜伏生活を続ける旧型レプリカントを見つけ、解任(始末)すること。
役目を果たす中、Kが見つけた旧型レプリカントの遺骨には、驚くべき痕跡があった。
それは、その遺骨が女性であり、出産した形跡があるというもの・・・
というところから始まる物語で、脚本は、前作の脚本をデヴィッド・ピープルズとともに担当したハンプトン・ファンチャーと、『エイリアン:コヴェナント 』の原案を書いたマイケル・グリーン。
人間とレプリカントを区分していることのひとつが、生殖による個体複製。
生物と非生物の区分線である。
遺伝子操作によってつくりだされたレプリカントであるが、生殖能力を持たないことから「非生物」と割り切ることが出来、それ故、労働力の対象となりえた。
しかし、生殖能力を得ることは、すなわち「生物」とみることが適切であり、したがって、「人間」と敵対する存在となりうる脅威である。
そのような理屈で、LA警察でのKの上司(ロビン・ライト)は、旧型レプリカントが産み落とした子ども(成長しているので、現時点では大人)を探して抹殺せよ、とKに命令する。
一方で、レプリカント製造技術を継承した会社のオーナー兼科学者ウォレス(ジャレッド・レト)は、生殖により制限なくレプリカントを増やすことができると目論み、その子どもを探すよう部下のレプリカント・ラヴ(シルヴィア・フークス)に命じる・・・
と物語は展開していく。
前作が、未来社会を舞台にしたハードボイルド映画として始まり、クライマックスで俄かにSF的有意が屹立したのと比べると、幕開けからSF的有意に満ちた映画になっている。
そして、レプリカントが産み落とした子どもはどこに居、誰であるか、産み落としたレプリカントとは誰で、その父親は誰なのか。
母親と父親は容易に想像がつくし、子どもが誰かも、観客側はおおよそ想像できる。
なので、主人公Kがそれを知った後のドラマがどのように展開するかが、観客側としての興味焦点。
だが・・・
ありゃ、あっさり、想像していたのと違っちゃった。
なんだか、肩透かし。
いや、まぁ、別に、そういう展開でなくてもいいんだけど、こちらは結構身構えて観ていたのでね。
石女(うまずめ)から生まれたレプリカントの救世主、その救世主による創造主殺し(父殺し)・・・
そんな西欧の宗教的観点が入った物語を期待しました。
なにせ、監督は『灼熱の魂』のドゥニ・ヴィルヌーヴだもんね。
と、後半の展開は個人的には肩透かしを食った格好だけれども、そこへ至るまでは映像も語り口も、まずまず満足。
特に、前作の人間とレプリカントの間の愛が、レプリカントとAIとの愛という一段高い次元になっている点などは、興味深かったです。
人間の証明
リドリー・スコット監督の傑作SF『ブレードランナー』。
その30年ぶりの続編が遂に公開! おまけに、
監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ、主演ライアン・ゴスリング、
製作リドリー・スコット、共演ハリソン・フォードという
ファン垂涎、海老8本入り天婦羅うどん並みの超豪華布陣!
(2つで十分なのに!)
2時間45分という長尺にはやや躊躇したが、実際に観ると
その贅沢な映像世界とエモーショナルなテーマに目が釘付け。
...
とはいえ、最初に不満点から書いてしまおうか。
終盤のアンドロイドの反乱が描かれないのは、
この映画がアンドロイド“K”を巡る私的な物語だ
としてもフラストレーションが溜まる。
盲目の創造主ウォレスのその後が描かれないのも
フラストレーションが溜まる。
オリジナルを知る故、「アクション映画ではない」と
割り切って観てはいたが、それでもカタルシスを
得るには最後の海辺の決闘では物足りず、フラ(以下略)。
あとは、アナが自身の記憶を基にアンドロイドの
記憶を制作していたなら“K”以外のそれにも彼女の
何らかの記憶が埋め込まれていたはずで、ならば
“K”以外のアンドロイド型ブレードランナーの記憶
についても触れてほしかった。登場しなかったが、
部隊名がある以上はたぶん居るよね、“K”以外にも。
...
ここからは気に入った点。
まずはその映像世界について。
オリジナルより30年後が舞台ということで世界は
ますます開発と荒廃と貧富二極化が進んだと見え、
2049年の街並みは電子回路のように無機質で、幾何学的で、
降り続ける雪も相俟って質の悪いエナメルのように灰白い。
猥雑な色合いのネオンと巨大なホログラム広告、
そのきらびやかな内容とは裏腹に、街行く人々の
姿はまるでスラムのように汚れてぼろぼろだ。
で、この荒涼たる退廃美にエレクトロサウンドが加わると
「ほあぁ……もっとずっとこの混沌の未来世界と
ズゥンと腹に響く重低音に浸っていたい……」
となる。ならない? なるんである(断言)。
琥珀色の様式的デザインと波の反射光が美しい
ウォレス社内部や、汚染地域のごみ山のような風景など、
『ブレードランナー』続編としての世界観は見事。
オリジナルを知る人間にはニヤリ&仰天のシーンもあり、
デッカード再登場(罠仕掛けすぎ)は言わずもがな、
ユニコーンおじさん(何だその名前)に加え、
まさかまさかのレイチェルも再登場!
(あれはCGだそうだが、ショーン・ヤング本人も
撮影現場でアドバイザーとして参加したらしい)
...
世界観の継承もだが、テーマの継承も肝要だ。
オリジナルで描かれたテーマは、
生きたい、何かを感じていたいと切望する
アンドロイド達を通し、『人間である』ことの
定義とは何かを問うものだったと解釈している。
『ブレードランナー2049』もそのテーマを継承。
主人公がアンドロイドであることを前提とし
(デッカード=アンドロイド説は明確には
示されていなかったしね、今回までは。)、
魂を否定される主人公が自分は何者かを探る展開、
さらには肉体すら持たないAIの感情をも描くことで、
より具体的に『人間とは、魂とは』を問う内容となっている。
...
ジョイについて。
”ジョー”を愛し続けた人工知能ジョイは大量生産品だった。
”ジョー”への愛情もそうプログラムされていたからに過ぎない。
だがそれでも、巨大なホログラム広告のジョイに接した
”ジョー”は、「これは彼女では無い」と感じた筈だ。
そしてジョイ自身も、自分が”ジョー”へ抱く感情が
偽物だとは考えていなかったと僕は思う。
(それはそのままデッカードとレイチェルの関係でもあるから)
極個人として見れば彼女は”ジョー”を本気で愛していたし、
雨粒を、世界を感じたいと(ロイのように)願っていたし、
肉体を持たない自分でも”ジョー”を悦ばせたいと、
自分の心を殺してあんな哀しい手段を取った。
大量生産された感情は本物では無いか。
そんなまがい物の感情には価値も無いか。
本当にそうだろうか。
言ってしまえば人間も、生まれた時からの好き好みは
遺伝子配列であらかじめ設定された結果かもしれない。
だがその先の、『大切なものの為に何を懸けるか』、
それは自分自身の選択なのではないか。
...
映画の最後、
恋人を失い、自身が特別である事も否定され、それでも
”ジョー”はデッカードを救い、愛する娘と引き合わせた。
なぜ俺の為にそこまで?というデッカードの問いに
”ジョー”は答えない。だけど思うに、理由はきっと、
『俺が人間ならそうするから』
誰かを愛し、それを失う痛みを知る。その痛みを
共有した他の誰かが幸せになる為に、己の命を張る。
こんな美しい不条理を為すのが人間でなくて何だと言うのか?
モートン、アナ、デッカード、そしてジョイとの出逢いを通し、
アンドロイドとして産まれた”K”は”ジョー”となった。
AGTC(遺伝子)でも0/1(コード)でも無い。
生まれでも無ければ製造過程でも無い。
人間であるから人間なのではなく、
人間らしくあろうとするから人間。
己自身が何を想い、何を為すかこそが人間なのだ。
...
どうしてもエンタメとしての見応えを求めてしまう性分ゆえ、
前述のフラストレーションは感じた訳だが、
『ブレードランナー』続編としても
『人間とは』を問う物語としても見応え十分。
大満足の4.0判定で。
<2017.10.28鑑賞>
.
.
.
.
余談:
しっかしオリジナルの舞台が2020年だったから
遂に時代が追い付いちゃった訳ですね。ガッデム。
映画ほど悲惨な未来にまだなっていないのは救いだが、
宇宙開発も、自我を持つアンドロイドやAIも、
もうちょっとだけ先の未来かしらね。
車もしばらく、空を走る予定も無ぁさそうさ。
(どっかで聴いたぞそのフレーズ)
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