ブレードランナー 2049のレビュー・感想・評価
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アンドロイドは電気アルマスの夢を見るか? 偉大すぎる前作と比べるのは酷だが、やはり冗長すぎる…🌀
人造人間(レプリカント)と、彼らを「解任」する者”ブレードランナー”の対立を通して人間の自由と尊厳の意味を描き出すSF映画の金字塔『ブレードランナー』(1982)の正統続編。
LA市警のブレードランナーであるKはとあるレプリカントの秘密についての捜査を進めるのだが、その秘密を狙い世界を支配する巨大企業「ウォレス社」が暗躍を開始する…。
監督は『灼熱の魂』『メッセージ』のドゥニ・ヴィルヌーヴ。
○キャスト
リック・デッカード…ハリソン・フォード。
新たなキャストとして、主人公Kを演じるのは『きみに読む物語』『ラ・ラ・ランド』の、名優ライアン・ゴズリング。
Kの”恋人”ジョイを演じるのは『ノック・ノック』『スクランブル』のアナ・デ・アルマス。
ウォレス社のCEO、ニアンダー・ウォレスを演じるのは『ファイト・クラブ』『ダラス・バイヤーズクラブ』の、オスカー俳優ジャレッド・レト。
音楽を担当するのは『ダークナイト』トリロジーや『インターステラー』の、巨匠ハンス・ジマー。
なお前作の監督であるリドリー・スコットは、今作では製作総指揮を務めている。
第90回 アカデミー賞において、撮影賞/視覚効果賞を受賞!✨
第43回 ロサンゼルス映画批評家協会賞において、美術賞を受賞!
前作である『ブレードランナー』は「ファイナル・カット」版をIMAXで鑑賞。いや凄かった!!
本作と前作との間に起こった出来事を描く短編3作は未鑑賞であります。
40年近く前の映画でありながら、未だに語り継がれている永遠の名作『ブレードランナー』。
そのような作品と比較するのは酷だと思うが、正当な続編である以上、ある程度は前作と比較して批評するのはやむを得ない。
前作は120分にも満たない時間でありながら、荒廃した近未来の世界を圧倒的なリアリティを持って観客に突きつけ、その中で生きるレプリカントの悲惨な宿命を描き出し、さらに緊迫するバトルアクションまで提供してくれた。
映画史に残る衝撃のクライマックス。そしてヴァンゲリスのサウンドトラックの素晴らしさ。どこを取っても一級品である。
生命と自己存在について観客に問いかける哲学的な側面と、ハラハラドキドキするエンターテインメント的側面を併せ持つ、まさに傑作と言わざるを得ない上質な映画である前作。
それに比べて本作はどうか?
荒廃した世界観は前作を思い起こさせる。
冷たい雨が世界を覆っている感じとか、日本語やハングルの看板があちこちにある感じは『ブレードランナー』っぽい。…のだが、前作のようなリアリティがない!綺麗にまとまり過ぎていて、作り物感が強すぎる。
また、今回はLA以外にもラスベガスや巨大廃棄場が登場するのだが、どの場所も映像的な面白さがない。
ただだだっ広いだけに見え、逆に前作よりも世界が狭く感じてしまう。
そして展開が冗長で面白くない。3時間近く上映時間があるのに、やってることは終始人探し。それにサスペンス要素があればまだ良いんだけど、なんかちんたらやってるだけで特別な驚きはない。
うーん本当に退屈…。鑑賞中何度時計を確認したことか。
前作はアクション要素も見どころの一つだったと思うのだが、今回は…。
前作のルトガー・ハウアー率いるレプリカント集団のような魅力ある敵役がいないため、アクション的な盛り上がりは皆無。というかそもそもアクションシーン自体も少ないしね。
アクションの面白さは本作にはひとかけらもありません。
そしてデッカードがただのジジイになってしまっている悲しさ。前作のハードボイルド的なキャラの魅力が完全に消えてしまっている。
クライマックスの水中戦なんて、ただの老人虐待、もしくはドリフのコントみたいで失笑してしまう。
シナリオも所々ツッコミたくなるような点が多く(拷問の為にわざわざ宇宙行くの?LA市警簡単に侵入され過ぎだろ…。いきなり家に娼婦が来たら怪しくないか?などなど…)、決して褒められたものでない。
本作の黒幕であるジャレッド・レトも結局投げっぱなしだし、終盤にレプリカントのレジスタンスみたいなのが出てくるが、別に活躍しないし、なんか消化不良な感じが否めない。
本作は続編ありきで作られた映画なのだろうか?
とはいえ、ライアン・ゴズリング演じるKのキャラクターは演者の演技も相まって非常に良かった。
レプリカントであることから「人もどき」と差別され、ヴァーチャル映像の恋人ジョイを唯一の心の支えとしているあまりに悲しい男。
自分は特別な存在だと思いこみ、そこに希望を見出すが、結局その希望も潰える…。
恋人も消滅するが、そもそも彼女から自分への愛情は作られたプログラムではないのかと、ジョイの巨大なホログラム広告を見ながら思う…。
いくら何でも虚しすぎる…。救いはないんですか…😢
クライマックスで、彼はデッカードを救うという選択肢を取る。命令ではなく自らの意思に従い行動する、彼の姿にこそ真に「特別な存在」を見ることができる。そこはやはりグッと来ます。
Kというキャラクターの魅力は十分にあったと思うので、あとはストーリーがもう少し面白ければ傑作になっていたかもね。
まあ何のかんのと言ってきましたが、本作の美点はこの一点に尽きる。とにかくアナ・デ・アルマスが可愛い!!!😍
そりゃこんなバーチャル彼女がいたら本物の女になんか目が向かんわ!
彼女の姿を拝める、これだけでもこの映画を観る価値は十分にあると思います笑
前作クラスの面白さを期待すると確実に肩透かしを食うであろう。
話自体はすごくシンプルなんだからもっとコンパクトにまとめて、アクション的な見所をバンバン詰め込んだ娯楽大作にしちゃえば良かったのに。ヴィルヌーブってばほんとに真面目ね。
(再鑑賞:2024年1月17日)
前回ハマらなかったのはCMが間に挟まったからかも、と思い、今回はノーカットノーCMで鑑賞。
…やっぱりつまんねーぞこの映画!!この設定でよくここまでつまらない映画作れたなヴィルヌーブ!逆に凄いぞ!!
というわけで評価を下方修正しました。『エイリアン』シリーズみたいにリドスコ御大自身が続編作ってくれないかなぁ…。
映画館に見に行かなくてよかった
ブレードランナーの解説本に「Future Noir: The Making of Blade Runner」というものがありますが、Future Noirというのはブレードランナーを一言でよく表していると思います。そしてブレードランナー2049はFuture Noirではないのです。
薄っぺらい残虐性を見せる悪役、ミサイル攻撃による大爆発、ラストの陳腐な戦いと間一髪での脱出劇、ブレードランナーの雰囲気だけを見せつけたいかのようなオールディーズの選曲など的外れな演出が散見されます。
前作のエルドン・タイレルに相当する人物も陳腐に過ぎます。
なによりブレードランナーにはあったレプリカントの悲哀がなく、レプリカントへの共感は一切抱けません。
劇場公開中にこの映画を見に行こうとチケットの予約をして前払いまでしていましたが、3時間近い上映時間と予約当日の台風のため劇場には行きませんでした。
行ってたら激怒していたと思います。
前作は見てないけど
そこからの続編にあたるらしい。
大量生産の人間型ロボット「レプリカント」を労働力として活用する時代。前作のレプリカントは旧型という扱いで、人への対応という意味で不備があるため廃棄され、新型に置き換えられていた。
しかし旧型は今も逃げ隠れていて、新型レプリカントの主人公は、それを見つけ出し、抹殺する任務についていた。
ある日見つけた、埋葬された遺体。遺体には帝王切開の手術痕があり、赤ん坊が生まれた後で、合併症で亡くなった痕跡があった。さらに分析すると、遺体の骨には製造番号が。レプリカントが子供を?
その子供を巡って展開するSF物。
免疫不全という名目で隔離されている彼女が出てきた瞬間に、オチがすぐにわかった。
でも、HomeXとAlexaみたいな。ホログラフィックディスプレイって言うの?
ジョイが可愛すぎるんだよ。どっちが人間なのか、わからなくなるんだよ。あのメモリースティックが破壊された瞬間に消えてしまったけど、一番人間ぽかった、
名作ブレードランナーのリメイク版かなと思ってみたら、続編でデッカー...
名作ブレードランナーのリメイク版かなと思ってみたら、続編でデッカードが登場して驚いた。
人造人間レプリカントに生殖機能があって「人間よりも優れている!」と歓喜する製造会社を見て、
魂や生命って何だろうなと考えた・・・これがどうもひっかかる
命とは。。。
生殖機能まで持つロボットってありうるのかなぁ、なんて思ってしまう。そうなると完全に人間なんて不要でしょ。人間より賢く、力もある、それで自分たちで繁殖していけるなんて。
そもそもの発想は人間かロボットか判別不可能なものを人間が造ったらどうなるか?が最初のSF小説の発端だと思うのだけど。
でもやっぱりSF好きとしてはこの作品、1作目から好き。荒廃したアジア的な雰囲気、西部劇のようなドンパチしてもおとがめなし(?)、空飛ぶ自動車、滅茶苦茶強いレプリカント。スターウォーズもいろんな種類の宇宙人がいる酒場や空飛ぶ乗り物が出てきてなんでもありの世界観が楽しかった(初期の2作のみ、あとの作品はファンタジー)。言葉にするとチンケな感じになってしまうけど、食べ物でも何で好きか、言葉でいくら説明しても「そこが好き」という人と「そこが嫌い」という人に分かれてしまうのでこの映画もいくら説明しても好き、嫌いは分かれるのだろうな。
ターミネーター2が人気あるのもCGを使った登場人物が液体みたいになったりの視覚的な驚きもあったけど(当時)、最終的に人間とロボットが通じ合うラストにみんな涙したんだと思う。ブレードランナーもSF的な要素で視覚的に面白かったけど、1作目(ロイ:ルトガー・ハウアー、死んじゃったね)も2作目(ジョーとジョイ)もロボットが感情を持ち、そして切ない結果となったところに鑑賞者の感情がmoveしたのではないかと思うのです。
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漸く鑑賞。'82年の前作から35年振りとなる続篇。緻密な世界観に裏付けされた圧倒的で濃密な映像。前作で多かった雨降りの夜景はもとより、くすんだ曇天が多くの舞台となる。前作同様、アイデンティティーの模索がテーマの一つとして全面に突出しており、よりP.K.ディックの原作に近付いている。女性の登場人物達は皆、強く魅力的。描かれているのは遠い未来や現実と懸け離れた世界ではなく、あり得るデストピアでの自己を再確認する物語。M2層・F2層以上の年代の支持が多いのは、前作を懐かしむだけの理由ではない。85/100点。
・鑑賞中、誰がレプリカントで、誰が人間なのかが気にならなくなった。ただ“ラヴ”のS.フークがH.フォードの“リック・デッカード”を護送する際、心を決めたR.ゴズリングの“K(ジョー)”がどの様にして追跡・襲撃出来たのかよく判らない。尚、“リック・デッカード”のH.フォードが本篇に顔を出すのは、100分以上経過してからである。
・濁った薄いグレーやアンバー系の画面が印象深く残った。撮影を務めたR.ディーキンスは、『プリズナーズ('13)』、『ボーダーライン('15)』に次いで監督と三度目のタッグとなる。尚、“K(ジョー)”を演じたR.ゴズリングは、R.ディーキンの撮影とD.ヴィルヌーヴ監督の参加を条件に役を引き受けたと伝えらている。
・R.ゴズリングの役名“K(KD6-3.7)”は、KDプラス6+3+7=16(16番目のアルファベット)=Pとなり、“PKD”──つまり前作の原作者でキャラクター原案としてクレジットされているP.K.ディックを指すと云われている。亦、“K”が受けるポスト・トラウマ・ベースラインと呼ばれるテストはP.K.ディックっぽいが、読み上げ復唱させられる文言は、A.デ・アルマスの“ジョイ”が“K”に薦めたV.ナボコフの『青白い炎』の一節である。
・中盤、鍵となる“6-10-21”から'21年10月6日生まれの男女の双子の内、女児が死亡し、男児が残るとの記録が登場する。P.K.ディックも双子の妹ジェイン・シャーロットがおり、彼女は40日後に亡くなっている。尚、本作はLA、カリフォルニア、ニューヨークで『ファイナル・カット』版が('07年10月5日)公開された十年と一日後の'17年10月6日に米国で一般公開された。
・C.ユーリの“アナ・ステリン”は、抗血管新生ペプチドであるアナステリン"Anastellin"に基づいている。R.ライトの“ジョシ(マダム)”警部補は、「上司」に由来する。亦、“ラヴ”のS.フークスは前作で“ロイ・バティー”を演じたR.ハウアーと同郷のオランダ出身で、孰れもクラマックスで主人公と闘った。雪が降る中、横たわるラストシーンでは、前作で“ロイ・バティー”が雨に打たれうな垂れるシーンと同じヴァンゲリスの"Tears in Rain"が使われている。
・J.レトの“ニアンダー・ウォレス”率いるウォレス社はリンカーン製であり、“K(ジョー)”のR.ゴズリングが操るのはプジョー製である。尚、この二人が顔を合わすシーンは無い。
・プロダクションデザインのD.ガスナーによれば、J.レトの盲目である“ニアンダー・ウォレス”の部屋は京都の清水寺を元にデザインされ、床はシンギングフロア、或いはナイチンゲールフロアと呼ばれる侵入者を足音で知らせる鶯張りが施されている。R.ゴズリングの“K(ジョー)”の住居には“メビウス アパート”との電飾看板があり、これは前作にも大きな影響を与えた仏のバンド・デシネ作家(漫画家)J.ジローのペンネームの一つ“メビウス”に由来する。
・前作同様、劇中では漢字や片仮名・平仮名、ハングル語やロシア語等、多彩な言語の看板や科白が飛び交っており、H.フォードの“リック・デッカード”が隠遁するラスベガスの建物には「幸運」を意味するハングル"행운"の逆文字が見受けられる。“K(ジョー)”のR.ゴズリングに近付くM.デイヴィスの“マリエット”他二名の街娼は"Tää jätkä on Blade Runner. Se on vitun vaarallinen. Annetaan sen olla.(この男はブレードランナーだ。危険なクソなので、立ち去らせよう)"とフィンランド語で話し合っている。この科白はフィンランド在住のK.コソネンが発した。
・当初、監督は“ニアンダー・ウォレス”をD.ボウイにと考えたが撮影前に鬼籍に入った為、断念した。その後、この役はG.オールドマン、E.ハリスが引き継ぎ、最終的にJ.レトに落ち着いた。亦、S.フークスの“ラヴ”役かR.ライトの“ジョシ(マダム)”警部補役で、E.ブラントが考えられていたが、妊娠の為、適わなかった。
・『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー('16)』での“モフ・ターキン”のP.カッシングと“レイア・オーガナ”のC.フィッシャーの合成に満足出来無かった監督は、S.ヤングに協力を仰ぎ、吹替え役のL.ペタに特徴的な歩き方や身のこなし等を徹底的にトレーニングさせた。撮影は“リタ”と云うコードネームの役名で、S.ヤング同席の元、最小限の人員で極秘裏に進められ、トータルで約2分の登場シーンの合成に約一年を費やした。キャンペーンやプロモーションでもS.ヤングの本作への参加は意図的に否定された。
・“ジョイ”のA.デ・アルマス、“ラヴ”のS.フークス、“アナ・ステリン”のC.ユーリ、“マリエット”のM.デイヴィス、“ドク・バジャー”のB.アブディは前作公開時('82年)には、未だ生まれていなかった。
・前作の設定、'19年からの30年間で起こった前日譚として、渡辺信一郎監督『ブレードランナー ブラックアウト2022('17)』、R.スコットの次男L.スコット監督による『2036: ネクサス・ドーン('17)』、『2048: ノーウェア・トゥ・ラン('17)』と三本のショート・フィルムが本作リリースに先駆け、公開された。
・'90年代に何度も本作の企画が持ち上がり、'10年にはC.ノーランが監督に就任するとも噂された。その後、前作のR.スコットが監督すると云われたが、彼は(共同)製作総指揮に留まり『エイリアン:コヴェナント('17)』の製作に入ってしまった。最終的にD.ヴィルヌーヴが監督に収まったが、その際、R.スコットは謎の余地を残すようにとアドバイスしたと云う。製作時には"Triboro"との仮題で進められ、劇場への出荷時もこの仮題が用いられた。
・鑑賞日:2018年1月2日(火)
映像美。前作を踏まえ、更に深まるストーリー
前作は素晴らしい材料を集めていたけれど、それをストーリーとしてまとめきれていないような、プロローグ的な印象でした。本作はそれを上手く料理してくれています。正統な続編に感じました。
独特の世界観を残しつつ、映像の進化も感じさせ、ストーリー性も濃く仕上がっていました。サスペンスのような要素もあり、その点は楽しめました。
本作は前作から30年後の世界です。その間起こった出来事として短編ストーリーが3本作られています。ブレードランナー2049の公式サイトで公開されているので、そちらも観るとより本作の理解が深まると思います。
前作もそうでしたが、本作は特に会話が哲学的というか、要領を得ない表現が多かったです。雰囲気は前作以上に鬱屈としていて、息を抜ける場面が少ないので、見ていて疲れました…長尺ですし。大人の映画という印象です。
前作は間の取り方が好きではなかったと書きました。本作では同様に間を長く取ってあるのですが、不思議と嫌には感じませんでした。なんででしょう…アングルや人物の捉え方の差かもしれません。
前作で急に恋に落ちる2人には違和感を覚えたので、本作で当時のデッカードの心情の補完がされているのは良かったです。それどころか、彼はレイチェルに一瞬で恋に落ちるように造られたレプリカントだという、前提を丸ごとひっくり返すような論を作中で提唱したことに驚きました。その方が納得はいくのですが、それはそれで寂しい…。
もし本当にそこまで仕組まれていたのだとしたら、タイレル社の技術がいかに優れていたかがわかります。寿命の操作に関してはウォレスが上を行きましたが、アナが見つかって研究されても生殖機能の技術が明かされるとは限りませんし。それに繁殖を可能にできたとしても、また大規模な反乱が起こりそうな…ウォレスなら何かしら予防機能を備えつけていそうですが。
そもそもレプリカントが産んだ子供はレプリカントなのか…それともまた別なのか…考えだすとキリがないですね。
アナがウォレスのレプリカントを造る業者の1人というのはおもしろいですね。逆に気づかれなさそうです。
本作ではレプリカントと明言されるKを主人公としたことで、より人間との差がわからなくなりますね。「人間よりも人間らしく」という言葉が作中に出てきましたが、Kはまさしくそのような存在でした。デッカードを殺せと言われたけれどそうしなかった。彼は誰かの命令ではない、自分だけの意志でデッカードを救ったのだと強く思わせられました。K自身、自分とデッカードが似ているように感じたからという理由もあるのではと思っています。
また、ラヴも鑑賞中は恐ろしい存在に見えましたが、後に考えると彼女も辛い立場であることに気づきました。彼女は自分を造ったウォレスに忠誠を誓い、彼に最上の天使と呼ばれることを誇り、アイデンティティにしていました。しかしそこに生殖機能を持つ存在が現れ、ウォレスはその技術を求めます。レプリカントの繁殖は彼にとっての次のステージ、つまりはラヴにとっては自分の立場を脅かす存在です。しかしウォレスの命によって自らその秘密を暴くために動きます。ウォレスは誕生したばかりのレプリカントを前にして「最初に抱くのは恐怖の感情だ」などと言っていましたが、ラヴはウォレスに見捨てられる、最上の天使でいられなくなることをひどく恐れていたのではないでしょうか。自分が最上でいたいのに、命に背くこともできない。内面ではずっとそのジレンマに苦しんでいたのではと考えると、また違った視点で本作を観られそうです。
ジョイはキュートでした。映像としてのおもしろさも生んでいましたし、瞳がキラキラしていて素敵。「あなたは特別」という言葉はストーリー上のミスリードであると同時に、Kの終盤の行動の起点にもなっているのではないかと思います。Kとの関係が切なくて、彼女を失うシーンは一番胸に響きました。
Kの上司、ジョシはなんだかんだKの人間的な部分を好意的に思っているように見えました。Kとの会話や、ラヴとのやり取りを見るに。個人的に彼女のような格好いい女性が好きなので、もっといろんな面が見てみたかったです。
映像としては前作より本作が好きです。光と影のコントラストがとても綺麗でした。黄色ともオレンジともつかない色が印象的でしたね。ラヴの部屋の波打った照明も独特で美しかったです。引きの絵は本当に絵画のような美しさです。ラストの雪のシーンもとんでもなく絵になってました。
前作のVKテストが好きだったのですが、本作でもKが動作確認されている検査シーンがあり、良かったです。ああいうの無性に好きです。
そういえば、ウォレスが再現したレイチェルを見たデッカードが「彼女の瞳は緑色だった」と言いますね。前作を観ると彼女の瞳は黒やこげ茶色に見えます。デッカードの言葉の意味は、瞳の色など本当は関係なく、自分が愛したのはレイチェルであってそのレプリカントではないという意思表示だと思います。デッカードらしい言い方で素敵でした。
結局デッカードはレプリカントなのかという疑問ですが、前作の監督であるリドリースコットはデッカードはレプリカントだと明言しているそうですね。前作にも彼がレプリカントであることを示唆するような描写があります。本作でも、あのような環境で普通の人間が暮らせるとは思えないことから、レプリカントではないかと考えられます。しかし、作中で明言されていない以上、自分の納得できる解釈、好きな解釈をして良いと思います。それがこういった作品の楽しみ方の1つです。
写真や折り紙といった小道具の使い方、そしてキャラクターとセリフは前作が好きです。というかロイが好きです。
本作は前作を踏まえた上でのサスペンス性のあるストーリー、美しい映像、アクションも良かったです。
大変に深みのある作品であることは確かなのですが、なんというか…手放しで好きとは言えず、ただ考察と切なさという深い海に沈んでいくような感覚…。
続編はあるのでしょうか…デッカードとアナはもちろん、ウォレスや地下のレプリカント達のその後…観たいような恐ろしくて観たくないような…。
色づいた芸術的SF(睡眠導入効果と共に)
"ブレードランナー" シリーズ第2作。
Blu-rayで鑑賞(吹替)。
前作から引き続き、雨のロサンゼルスが登場しましたが、中盤から後半に掛けての舞台―半ば砂漠化したラスベガスの目の眩むようなオレンジの素晴らしさと言ったら…。世界観に色がついたようで、新しい物語なんだと云う実感が湧きました。
一枚の絵画のような荘厳な映像に魅せられ、このシリーズには元々芸術的な一面があったのだと改めて感じました。
SF部分がブラッシュアップされているのも好印象。前作の時点から進歩したデバイスや、メカニックの数々が目を引きました。細かいところまで凝られた設定に感心しました。
前作で描かれたテーマを深化させ、我々の常識に挑戦して来るかのような問い掛けに前作に続いてまたも脳を揺さぶられました。レプリカントが出産していたと云う衝撃的な事実が発覚し、人類の存在を根底から覆すストーリーが展開され、予想だにしなかった発展であり、まさに圧巻でした。
[余談1]
いかんせん、長い。集中して観るのは良いことですが、難しいテーマを扱っていることもあってか、だんだん頭が疲れて来て眠気を誘われました。かと言って、目を覚ましてくれるような激しいアクションが繰り出されることも無く、淡々と進行するので瞼が重くなるのを止められませんでした。
[余談2]
アナ・デ・アルマスちゃんがかわいい。美しくてどこかエロい。体中から色気がばらまかれているように見えました。お気に入りの女優さんがまたひとり増えました。
「人間らしさ」=合理的説明ではなく、自らの感情にしたがうこと?
★ポイント:「Kの父親がデッカードである」という期待は、偽りの記憶から導かれた結論だ。そのことが分かってなお、Kはデッカードを守り、子の元へ届ける。Kは根拠にもとづいた合理的説明よりも、自らの期待=感情や情緒、にしたがった。その礎が、"他者"の記憶にあれど。そこに「人間らしさ」が見出されるということなのだろうか。
・・・
フィリップ・K・ディックによる小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(1968)を原作として,リドリー・スコット監督による映画『ブレードランナー』(1982)が製作された。ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による映画『ブレードランナー2049』(2017)は,その続編である。
『ブレードランナー』『ブレードランナー2049』の舞台は、近未来のロサンゼルスである。この世界においてはアンドロイド(レプリカント)が労働力の一部を担う。レプリカントの身体は、機械ではない。生身の肉体を持ち、表皮からから内臓にいたるまで、ほとんど人間に等しい。見た目は人間と区別がつかず、知能は人間と同等,身体能力は人間を超える。軍隊における使役、買売春における性労働への従事など,レプリカントは人間の支配下に置かれている。
レプリカントは自我や感情を持たず,人間の指示に服従する。ところが生産から数年が経過すると自我や感情を持ってしまうという”不具合”の存在が判明する。不具合が発生したレプリカントは,反抗や脱走を行った。そのような面倒を避けるため,レプリカントには4年という寿命が設けられた。一方で,実際に脱走したレプリカントを追跡・処分する役割を担ったのが「ブレードランナー」である。劇中に登場するブレードランナーはロサンゼルス市警所属部署に所属し,レプリカントを発見次第「退役」させる。
『ブレードランナー』における主人公は,ハリソン・フォード演ずるブレードランナー,デッカードである。デッカードは数体のレプリカントの処分を命じられ、任務を遂行するが,最後には女性レプリカントと恋に落ち逃亡する。『ブレードランナー2049』は,デッカードの逃亡から30年後を舞台に,別のブレードランナー”K”を主人公に据える。
『ブレードランナー』の主人公デッカードは人間である。というよりも、デッカードが人間であるという前提にしたがって、鑑賞者は映画を見始める。ところが巷にはデッカードがレプリカントであるという説も存在する。ただしデッカードが人間であるということはわざわざ示されないし、デッカードがレプリカントであるということもまた示されない。デッカードがレプリカントであるという説は公開後にファンの中から出た見方のようで、製作者側が当初から意図していたものではないようである。けれども1982年の第1作公開から35年の歳月が経過し、『ブレードランナー2049』が公開されるにあたって、映画製作者側が「デッカード=レプリカント説」を意識せざるを得なくなった。そういうわけで、『ブレードランナー2049』は、鑑賞者が「デッカードはレプリカントなのか?」と疑いながら観ることのできるよう準備がなされた作りになっている。
(ただし『ブレードランナー』時点で最新型であるネクサス6の寿命は4年だから,『ブレードランナー』後に30年以上生きたデッカードがネクサス6だということはあり得ない。それでもデッカードがレプリカントであるとすれば、ネクサス7か8、あるいは特別な型だということになる。
また、『ブレードランナー』劇中において、タイレル社長の口から「タイレル社製のレプリカントには幼少期の記憶が補完されていない」ことを匂わせる発言が成されている。この発言を聞いたデッカードの反応は、彼には記憶があることを前提とするものに思われる。デッカードが幼少期の記憶を持つとすれば、デッカードはタイレル社によって作られたレプリカントではないことになる。
ネクサス6の次世代モデルである7には記憶が補完されたかも知れないし、『ブレードランナー2049』に登場するネクサス8には実際に記憶が補完されている。しかしネクサス7と8は、デッカードが誕生するよりも後の型番である。したがって30年以上生存可能であり、かつ記憶を有するデッカードが、仮にレプリカントであるとすれば、6と7のあいだの特別な型である。)
デッカードが人間なのかレプリカントなのかを断定する情報が劇中では与えられない(おそらく意図的に断定を避けるように作られている)のに対し,『ブレードランナー2049』の主人公Kは,明確にレプリカントである。彼はレプリカントでありながら同じレプリカントを処分する役割を与えられる。また同時に,レプリカントという被支配階級の存在として,人間から不満のはけ口として扱われる。Kにとっての安らぎは,ホログラム型AI”ジョイ”とのロマンスだった(”ジョイ”は我々にとってのSiriのような存在である)
レプリカントであるKは,はじめから成人男性の姿を持って生まれてくる。したがって彼にとって幼少期は実在しない。しかしながら「人間性の補完」という理由で,レプリカントには幼少期の記憶が補完されている。幼少期の記憶を有することが,レプリカントの精神的安定につながるとされていたのである。
いつも通りの業務をこなすうち、Kは「自分が特別なレプリカントなのではないか」という可能性に行き当たる。それはすなわち「自分が、レプリカントから生まれたレプリカントである」という可能性だ。当時レプリカントには妊娠・出産が不可能とされた。そしてレプリカントには繁殖が不可能であることこそ,劇中において「非生物=モノ」であるレプリカントを人間が支配する根拠となっていた。
Kが発見したのは,女性型レプリカントの遺骨である。この遺骨には出産の形跡があった。そしてこのレプリカントの墓石に記されていた日付は,Kの幼少期の記憶に登場する木馬人形に記された日付に一致したのである。さらにレプリカントの記憶は作りものであるはずにも関わらず,Kは木馬人形を発見する。つまり,作り物であるはずのKの記憶に合致する事実が存在したのである。Kの記憶は本物のものであり、Kには幼少期が存在したのだろうか?(木馬の記憶は、Kの有する唯一の幼少期の記憶だという。我々人間が「わたしには幼少期が存在した」というとき、たった1つの映像記憶とそれに合致するたった1つの事実を以って、そう考えるだろうか?いやそうではない。私たちにはもっと多くの(複数の)記憶(映像や、体験と感情の結びつき)があり、現在存在する事実は過去から連続したものである。たとえば目の前に存在する父親や母親は、過去から連続してきたものである。「過去の記憶が現在も目の前に存在する」ことの確認を繰り返しながら、記憶の上塗りを繰り返しながら現在がある。Kのばあい、幼少期の記憶と現在の環境とは全く乖離しており、実際の人間のばあいとの比較ができない)
さてKが持つ木馬の記憶が本物だという可能性が浮上したが、木馬の記憶は「本物だが他者のもの」だという可能性もある。だが当時の法律で,記憶の移植は禁止されていた。法を犯してKへの記憶の移植が行われた可能性もあるが,その可能性へ明確に言及することなく、Kは「自分がレプリカントから生まれた」という可能性へと傾く。(おそらくここでKに期待を抱かせたのが、レプリカントに対する迫害や、K自身の孤独である)
Kは,埋葬されていた死体が,30年前にデッカードとともに逃亡したレプリカントのものだと調べ上げる。そして、父親であると思われるデッカードの居場所を探し当てる。デッカードがレプリカントであるか人間であるかはわからないが,いずれにせよ彼と交配したレプリカントが妊娠・出産したのだ。孤独なKにとって,デッカードは父親かもしれないのだ。
だがやがて、Kの記憶は「本物だが他者から移植されたもの」だと判明する。Kは結局,一介のレプリカントに過ぎなかった。しかしKは,デッカードの逃亡に手を貸し,追っ手を撃退し、「レプリカントから生まれたレプリカント」である娘のもとへデッカードを送り届ける。デッカードの娘を祭り上げて今まさに起ころうとするレプリカントの反乱を目前に,傷ついたKは雪の中で息絶える。
さて、「自分がレプリカントから生まれたのではない,普通のレプリカントだ」ということを知ったKは,落胆する。ここでKは1度,生きる意味を失う。だがレプリカントの反乱指導者から「証拠隠滅のためデッカードを殺せ」という任務を命じられる。「大義のための死は何より人間らしい」と。
母親の胎内から生まれたわけではなく,作られた存在であるレプリカントは,魂のない存在,生命ではないとされる。しかし魂は持たずとも「人間らしく」あろうとすることが,Kにとっての「人生の意味」として取って代わろうとする。
だがデッカードを殺すことをKは選ばない。むしろ彼を救出し,彼の本当の娘と思しき女性の元へと届ける。それはKが,自分を使役しようとする外的な「大きな存在」からの指令によってではなく,自らの内在的な要因によって行為を選択した瞬間であった。このまま自分にとって外在的な「大きな存在」の大義達成に貢献し続けるのでは,ブレードランナーとして人間の大義に貢献し続けていたのと変わらない。
Kに父親は存在しないと判明したが,1度は自分の父親であるという可能性を感じた男性を,娘の元へ届ける。自分では結ぶことができなかったつながりを,他者と他者との間に結ぶ。自分では叶えられなかったことを,他者によって代理的に叶えてもらう。それは結局,Kが「自分のものではない」記憶を礎にして願いを叶えたということだ。自分のものではないと整合的に説明されてなお,他者の記憶をもとに生まれた「親との繋がりを得たい」「魂を得たい」「人間になりたい」という願望の達成への期待。そのような期待のやり場が,デッカードを娘のもとへと届けることにあった。
「代理」によって、Kは叶えられなかった自分の願望を叶え,失われかけた自分の「生の意味」をなんとか復活させ,維持しようとした。『ブレードランナー2049』は「自らの望みを叶える」という自己決定の物語である。「自らの望みを叶える」ことに、人間らしさが見出されたのかも知れない。
思った以上に面白かった
前作を見ずに鑑賞したが、普通に楽しむことが出来た。ストーリーも意外性というか普通に騙されて、そういった意味でも楽しかった。つまり在り来たりの予想出来る話ではなかったということ。
恋人役の女優さんには終始目を奪われた。今後の活躍に期待したい。
一度観てからブレードランナー観賞、その後二回目見ました
観賞に耐えなかったのは誕生間もない女性レプリカントのお腹をウォレスが斬った場面です。
当に子宮が主題であることを意識して観ていたので、見るに耐えない精神的痛みを感じました。
最後、Kが死んだ!?時に、その切なさに涙しました。
ライアンゴズリング、こういう役多いですね。ちょっと憂いのある可愛い顔なのででしょうか。
Kのとてもピュアな面を、顔の表情でそこはかとなく表現していて素晴らしかったです。
突然変異でKの子供出来ちゃってるんじゃないかな〜!?とか妄想しました。 あり得ないでしょうか?あり得てほしい。彼が、アナの記憶を持っていたのは偶然じゃない、全ては必然。次回作期待してます。
前作を観てから二回目見ると折り紙のこと、繋がりました。 そしてピアノも。そして作品の深みも増しました。
去年公開映画で間違いなく1番です。。
2時間約40分 あっという間でした。
テーマが良いですよ。流石、ハリソン・フォード氏がベタ褒めした脚本だけありますよ。
人間より人間らしい。
お前は奇跡を見ていない。
あなたは望まれてこの世に生まれてきたのよ。
それは製造番号だろ?。名前を聞いているんだ。
台詞、名言ですよ。すべて映画のテーマに繋がる言葉。
そしてハリソン・フォード氏のセリフ。
ライアン・ゴズリングに
『これで良いのか?、君に何が残る?』
みたいなセリフがありましたよね?。ちょっと言葉が違うかも知れませんが。
このセリフからの『娘に会いに行け。』
ライアン・ゴズリング 映画最後のセリフ。
Kが我が道を信じ突き進む、突っ走る姿に愛を感じたら正解です(笑)。
何のために???。
それは、そこに愛があるから、目の前に愛が見えたからですよ(笑)。
自分が何のためにこの世に生まれて来たのか?
その部分に気がついたから……………。
というより自分で自分のこれから先の生き方、自分の進むべき方向、そして最後、寿命が尽きるとき、自分がどう思って死んでいったら本望か?。
悟ったんですねKは、決めたんですよ、自分で。
その部分に、人間コピーも本物の人間も関係ない。
もうこれ以上ネタバレしたくないですね(笑)。
このテーマ+、ブレラン要素が加わってもう……………
これも自分で、鑑賞した人が答えを見つけた方が良いです(笑)。
素晴らしい、楽しくて、愛があって泣けて。
SFはもちろんですけど、ロードムービー、人間あまり登場しませんが人間ドラマ、哲学的要素、とにかく映画好きには溜まらない、正に観る遊園地。見所満載で、これを名画と呼ばずしてなんと呼びますか?(笑)。
良い映画です(笑)。俺はこの映画大好きですね。
この世界観が好きなら良し!
前作映画がとっても好きって訳じゃないがリドリー・スコットが好きなので前作は観てたし本作も気になってた。前作のあの頃にあの映像は当時斬新で独特な世界観も好きだった。今思うとこれ以降の自分の映画観に大きく影響していたとも感じる。
さて本作の話だが、本作も前作の世界観を踏襲しており、この『独特』な『面白味』を感じないとなかなかな映画かと。理解し難いし、どこか盛り上がるシーンがある訳でもないし。私は『面白味』 を感じないと耐えれなかったと思う。
私が思う世界観の『面白味』とは、全編通じた重苦しい色調、静かさ、間であり、そして映像美である。これは監督が長年積み重ね、磨き上げられてきたモノであり真骨頂とも言えるだろう。
つまり本作は本シリーズを愛してやまないファンのために作られた映画かと。これは前に最新作が公開されたエイリアンシリーズにも通ずるところがある気がするのは私だけだろうか。
日本映画じゃ作れない映像はいいね。 是非、ビデオで見るには4Kテレ...
日本映画じゃ作れない映像はいいね。
是非、ビデオで見るには4Kテレビ&Blu-rayで。
前作のヒロインのレイチェルと捜査官デッカードとの間に出来た子供を探す作品。
自分だと思っていた…
そうかと思って観ていたが、そうでなくても驚かない内容。
尺も長いし、デッカードが出てくるまでがまた長い。
あの頃見たあの髪型に未来を感じたのに
今は感じない。
SF作品は旬が命と言うことなのか?
ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督に敬意
遅ればせながらレンタルで「ブレードランナー2049」を借りて観てみました。本当は映画館で鑑賞する予定だったのですが、残念ながら機を逸してしまいました・・っと言うより本当のところは観るのが怖かったのです。
レトロフューチャーやサイバーパンクという造語を作り出し、SF映画の金字塔ともいわれたリドリースコット監督のブレード・ランナー。もうかれこれ30回以上は鑑賞している、個人的に映画の中では一番好きな作品なのです。
今まで誰もこの映画の続編に手をつけなかった...いや、恐れ多くて手を出せられなかったというのが本音かもしれませんが、この「ブレードランナー2049」が公開されるまでになんと30年もの月日が流れていました。
まずは、この映画の監督を引き受けたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督に敬意を表したいです。この映画の上映時間は2時間40分もあります。だいたい、人間の集中力は2時間程度と言われていますので、こんなに長くて飽きないだろうか?と思いましたが実際に見始めると、あっという間にエンディングまで迎えてしまいました。それだけ引き込まれたという事にもなるのでしょうか・・映像的には随所に前作へのオマージュが感じられ、ヴィルヌーヴ自身ブレランのコアなファンである事を感じさせる作品に仕上がっていて、十分に楽しむことができました。途中、サプライズというか年老いたデッカードと若かりし頃のレイチェルが対面する場面があるのですが、思わずショーン・ヤングのそっくりさん登場かと思うほど良くできているシーンで何度も観返してしまいました。これは実際に鑑賞してのお楽しみって所ですが、何はともあれ前作のイメージを崩さずに続編を作り上げたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督に感謝感謝なのでした・・
うーんうーんうーん…
なんとも言えない。悪くはないけど…
これは誰が話を考えたんだろう、脚本の人かねやっぱり?
音楽から何から何まで前作を踏襲しすぎてないか?
ストーリーもなんちゅうか…なんかが足りない気がする。新しい何かというかプラスαというか…
女がかなり活躍してる感じかなあ。
あとはわざとらしく日本のカタカナ看板とか、なぜかハングル文字とか
うどん屋のおやじ、また出せばいいのに(笑)ほんとこの監督茶目っ気ないねえ。もういくつでもたまご入れてくださいよ、知りませんよ!!
ノー。タマゴキライイラナイ!!
とか
少しは笑かしてくれよ
やっぱりさあ、前作のルドガー・ハウアーのレプリカント役の迫力が半端なかったよなあ。
寿命が短く、危険な仕事ばかりさせられてる悲哀も前作のほうが感じた。
ライアン・ゴズリングも思ったより悪くはないけどやっぱりこの人コメディ向きな感じ。
うーん…なんだろなんでこんな感じにしちゃったんだろ。
「ブレードランナーファイナルカット」
のとこに雰囲気が肝とか書いたけど
いやいや、雰囲気だけで作品作ったらダメでしょ。なんかそんな感じ。
ストーリーがいろいろ中途半端に終わった、これだけの長さなのに。
さらに続編つくる気か?
「攻殻機動隊」に感動して「イノセンス」を見に行った後の気持ちに近かった
悪い映画ではない。が、前作と比較すると「凄いモノを見た!」という鑑賞感は薄い。
今作でやりたかったことは前作で最も魅力的だったレプリカントを主人公にし、レプリカントが実存に目覚めること。
主人公Kを取り巻くものは彼女も出自も自分自身も本物でないものばかり。その間の風景は雪。
だが主人公が自分の意思で動き始めると風景は雨になる。
前作より至らなかったと感じるのは以下。
1.本作が前作のリドリースコットの画作りに比べて画の衝撃が劣る。
ブレードランナーがカルトムービーになった理由は画の凄さ。前作は期せずしてリドリースコットの画作りの才能によってカルトムービーになってしまった映画だと思う。そもそも前作はリドリースコット本人は題名を「ゴッサム」とつけたかった。人や物語よりも退廃した未来世界の風景を描きたかった表れだと思う。そのこだわりが圧倒的な映像美を作り出した。
その点、本作は続編ということもあり前作を踏まえざるおえなかったこともあるだろうが、画の独創性が足りないと感じた。どこか既視感もある。
今作は画よりストーリーに重きが置かれており、それは映画として正しいのだがブレードランナーがカルトになった点とは相違しないと感じる。
2.昨今の続編に見られる「前提映画 (前作を見ていることが前提の映画)」だから
前作を見ていることで「知ってる」と観客が沸くネタが散りばめられている。
・バトンとなるデッカードブラスター
・ファーストカットの見開いた目
・生き絶えるレプリカント
・デッカード本人
etc
これは観客と作り手が内輪ネタで共感しあっているのであって、それが作品を面白くしている例は少ない。近年にこの前提を裏切って作った続編の秀作に「マッドマックス怒りのデスロード」がある。
・不発のソードオフショットガン
・すぐ破壊されるインターセプター
etc
前作の因果を断ち切り、この作品を見ている今を素晴らしいものにしようという意思を感じる。
作品単体の面白さを追求するならば、続編でも前作のネタに頼るのは甘えだと思う。
3.ストーリーのミスリードが混乱を呼ぶ。
ビジュアルで引っ張っていた前作と異なりストーリーが作りこまれているが、作りこみすぎたと思う。
途中で実はこれこれこうだったと展開が二転三転するが、やりすぎて途中から追うのがつかれてしまった。
4.悪役の魅力のなさ
本作の敵は殺し屋の女性レプリカントだが前作ロイバッティ程の魅力が感じられなかった。(鑑賞後、記憶に残らなかった)
ここまで否定的なことを書いてきたが、本作は一点素晴らしい要素を持っている。
ライアン・ゴスリン演じる主人公・Kである。ここまで孤独が魅力になっている登場人物は今まで見たことがない。本当に素晴らしい。人間でもない、恋人も幻想、何物でもない、何もない主人公が信念を得て一生懸命生きた。その軌跡を見る映画で良かったのではないか。そこにブレードランナーの要素はいらなかったと思う。
この主人公Kの持つ孤独と悩みは今を生きる人間が抱えている現代的なものだと思う。
とても魅力的な主人公だった。
また前作ヒロイン・レイチェルが「桐島部活辞めるってよ」の桐島のように空白の重要人物として存在させていた。この配置も素晴らしいと思った。
ブレードランナーの続編としてはイマイチだったが、人造人間の生きざまを描く映画としては素晴らしかったと思う。ブレードランナーの続編にしなかった方が良かった作品だと感じる。
すばらしい。正統派続編です。
4DXレイトショーで観ましたが、ブレードランナーの世界にポンと放り込まれたようで、圧巻でした。
映像美は前作同様で、あの世界を見事に描いていてかなり良かったです。前作「最終版」に近いテイストです。
(以下、多少ネタバレあり。要注意!)
ストーリーは、前作の世界観をしっかり引き継いでいて、正統派の後継作品と言えます。
ラストシーン、あの名曲「Tears in Rain」が流れる中、今作は雪の中で、静かに命が消えていくレプリカントの描き方は、美しいの一言につきます。一方、デッカードは大切な人と再会を果たす。まさに前作のエンディングを彷彿させ、ヴィルヌーヴ監督のリドリー・スコットに対するオマージュがヒシヒシと伝わってきます。
音楽は、ヴィルヌーヴ監督の「メッセージ」テイストをブレードランナーの世界にミックスしたイメージです。私としては、もう少し前作の音楽が使われるのかなぁと思っていました。
鑑賞に際しては、前作は必見です。ブレードランナーがお好きな方なら、観に行くことをぜひおすすめします!
最上の天使の涙。
今作のキャラクターについて、普段着のままウッカリSF映画に出演してしまったハリソン・フォードを始め皆様、思い思い語られている事なので、僕はウォレスの自信作、ラヴについて。
ウォレスの右腕となり、顧客対応、クレーム処理、アフターケア、帳簿管理、在庫処分、言葉を少し変えれば非常に有能な秘書だと思う。
いや、良いと思うよ、ラヴ。
初登場時は少しも顔色を変えずに緊急対応をこなして、ちゃんと上司に報告(結果ジョーが目を付けられる)。
駒として動かしたジョーがピンチの時には、ネイル中にもかかわらず、上空から砲弾を浴びせる。後にこれを「ラヴ投入」と命名。
最後の護送シーンではキチンとシートベルトを締め、おすわり。
何度も繰り返されるラヴ様のかかと落としをお受けしたいと思うのは、男子たるもの致し方ないのでは。
そんな出来るOL、ラヴだが、数シーンでなぜか涙をする。ジョーの上司ジョシ(ややこしっ)と対峙するシーンでも涙。
の割に、その直後死体を雑に扱う。
新型が失敗作とわかり、処理されるとわかると瞬間も涙。
冷酷であるはずのラヴが涙するのは何故だろう?
グラスに注がれたウィスキーを眺めながらそれに想いを馳せるのも良いだろう。
p.s. 結局どんな男にも同じ様に優しくするジョイのせいで元カノの悪夢が蘇りました。
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