ノルウェイの森

劇場公開日:2010年12月11日

解説・あらすじ

「青いパパイヤの香り」「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」のトラン・アン・ユン監督が、村上春樹の世界的ベストセラー小説を映画化。37歳のワタナベトオルは、ドイツ行きの機内でビートルズの「ノルウェイの森」を聴き、18年前の青春を思い出す。当時ワタナベは、親友キズキの恋人・直子に恋をしていたが、ある日突然、キズキは自殺してしまった。キズキを失った喪失感から逃れるように東京の大学に進学したワタナベは、ある日東京で直子に再会するが……。出演は松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子。

2010年製作/133分/PG12/日本
配給:東宝
劇場公開日:2010年12月11日

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(C)2010「ノルウェイの森」村上春樹/アスミック・エース、フジテレビジョン

映画レビュー

3.5 映画というかたちの読書感想文

2011年11月21日
フィーチャーフォンから投稿
鑑賞方法:映画館

悲しい

知的

ああ、この「ノルウェイの森」は、何て鮮やかなんだろう。それが、この映画の第一印象だった。
自分が読んでいる本を、他の人はどう読み、何を感じているのか。気になるけれど、何となく聞きにくい。それは、学生の頃に読書感想文に悪戦苦闘した記憶や、今でもいざ誰かに尋ねられたら、身構え、口ごもってしまう姿が容易に浮かんでしまうからだろう。
トライ・アン・ユン監督は、(多分)自身が原作を読み感じたものを、ありのまま素直に映像として表現した。それは、私の感じた「ノルウェイの森」とは少し違うけれど、それはそれで新鮮で、原作にとらわれず、映画として純粋に味わうことができた。たとえば、私にとっての緑はもっとちゃきちゃきしているし、ワタナベの寮はもっとごちゃごちゃと狭苦しい。緑とワタナベが初めて出会う喫茶店はこじんまりとして薄暗い。けれども、ワタナベの寮を縦横無尽に踊るように歩き回る緑に寮の空間はぴったりで、彼らが外へ飛び出す姿は躍動感に満ちていたし、カフェテリア風の光に満ちた店も緑に似合っていた。一方、びっくりするくらいイメージ通りのものもあった。たとえば、柄本佑演じる突撃隊。ほんの数秒のワンシーンながら、十分なインパクトがあった。そして何より、彼らの会話。原作にほぼ忠実な言い回しが、活字から声に置き換わっていくさまに、なるほどと感じたり、こうなるのかと驚いたりした。文字だから成立し得ると感じていた言葉たちが、日常離れしながらも芝居っ気をそぎ落とした絶妙の案配で表わされており、なかなかできないことだと感じた。
「ノルウェイの森」は、当時あまりにベストセラーになりすぎて、長い間不幸な扱いを受けていたように思う。例えば一方的な決めつけ、断片的な話題を繋ぎ合わせただけの偏った捉え方。今回の、ごく個人的な・あるひとつの「ノルウェイの森」が、原作をこれまでの呪縛から解き放ってほしいと思う。この映画は、原作のイメージを狭めることなく、豊かなヒントを与えてくれる。それは原作の力であり、映画の力であり、文学作品の映画化における稀有な成功例と言えるだろう。
私はまた幾度となく「ノルウェイの森」を読み返し、またいつかどこかで「ノルウェイの森」を観たい、と思う。

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cma

3.5 デキなきゃ死ね

2011年1月15日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

笑える

楽しい

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しんざん

0.5 「死との向かい合い」と「生きることへの意欲」との交錯

2025年10月27日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

<映画のことば>
おい、キズキ。
お前と違って、俺は生きることに決めたんだ。
そして、俺なりにきちんと生きようと思っている。
お前だって、きっと辛かっただろう。
でも、俺だって、かなりきついんだ。
それというのも、お前が直子を残して一人で先に死んでいったからだ。
でも、俺は彼女を絶対に見捨てない。
何故なら、俺は彼女が好きだからだ。
そして、今よりも、もっと強くなる。
俺は、大人になるんだ。

<映画のことば>
愛するものを亡くした哀しみを癒(いや)すことはできない。
どよのような真理も、どのような誠実さも、
どのような強さも優しさも、
その哀しみを癒すことはできない。
哀しみを悲しみ抜いて、
そこから何かを学びとることしか、
僕らにはできない。
そして、学びとった何かも、
次にやってくる悲しみには、
何の役にも立たないのだ。

語弊を怖れずに、ざっくりと評すれば、本作のキモは、ワタナベの中での「死との向かい合い」と「生きることへの意欲」との、彼我のせめぎあいの「辛さ」、「苦しさ」とでも評すべきなのでしょうか。

本作は、YouTubeでも盛んに情報発信をしている精神科医の「原作は「自殺」と「遺された人」の物語。そして、心を病んだ人にどのように寄り添うのか、愛する人が心を患ったときに何ができるのかという問題を描く。」というコメントに食指を動かされて鑑賞したものでした。

そのコメントのとおり、キズキや直子の死、まったくを以て「身勝手な男」の代表選手とも言うべき永沢との関係性や、その彼女・ハツミの自死。
そして、幼馴染みの直子、直子との繋がりから知り合ったレイコとの出会いと別れなど、登場人物の誰もが「喪失の痛手」を抱えていて―否、むしろ喪失の痛手を抱えている者同士が自然と繋がっていったのか―、そういう周囲の人間関係に翻弄され、ともすれば押し流されそうになりながら、あたかも嵐に弄(もてあそ)ばれる大海の上の小舟のようなワタナベの姿が、何とも、本当に、本当に胸に痛い一本でもあったと思います。

「この世に存在するわれわれ全てに共通することは何だろうかと考えてみた。最も厳然たる事実は、人は生まれ、そして死ぬということだ。生まれたその瞬間から人は死へと向かっているとも言われている。死は万人に平等に訪れる、最もフェアなものという言い方もされている。もちろん医療技術の革新で人は100歳まで生きられるようになるとも言われているが、100歳生きても、それは不老不死ではない。いつか必ず終焉の時が訪れ、その人の人生は終わる。では、生と死の次に、人間が避けて通れないものは何だろうか。筆者は、それが「喪失」ではないかと思う。一生のなかで「何かを失う」体験が全く無いという人はいないだろう。皆、何かを失いつつ、人生の最後の時まで歩んでいく。」[風間書房刊、佐々木格・矢永由里子編著、2018年「風の電話」とグリーフケア こころに寄り添うケアについて)]

生きることと、「喪失」と向き合うことについて、評論子には、深く考えることもできた一本でもありました。
そのようなワタナベの心情を見事に描ききった本作は、文句なしの佳作だったとも、評論子は、思います。

(追記)
<映画のことば>
「7年前になくしたものを取り戻したわ。ありがとう」

直子の死もさることながら、追い討ちをかけるようにワタナベに打撃を与えたのは、レイコとの訣別だったのではないでしょうか。

自力で病から立ち直り、ワタナベの前から去っていったレイコの、ある意味での「力強さ」とは裏腹に、心の内では迷い、さ迷い、悶(もだ)え苦しんでいたワタナベは、彼女のその強さにも、容赦なく、完膚なきまでに叩きのめされたこととも、評論子は思います。

おそらくは、ワタナベとの想い出を心に刻み込むためだったのでしょう。最後の最後にワタナベと一夜だけの体の関係を結び、後ろ髪引かれることもなく去っていった、レイコのその「強さ」に。

すなわち、直子に対するワタナベの想いの手前、自らのワタナベに対する想いを、心の内に密かに秘めたまま、静かに去っていくことのできた、彼女のその強さに。

(追記)
本作に通底するテーマは、一言で言えば「喪失」ということなのだろうと思いますけれども。

本作の緑の父親に関するウソも(おそらくは不治の病で)病床に臥せっている父親への喪失感のなせることではないかと、評論子は受け取りました。
そして、彼女がワタナベの交際の申し出を請(う)けたのも、その喪失感をいくばくかでも埋めようとする彼女の「代償行動」だっのではないかと、評論子には思われてなりません。

そういう受け止めが間違っていないとすれば、本作には、そこにも「死(喪失)」と「生への渇望」との交錯があり、彼女も、その両者のせめぎ合い、あるいは葛藤に苦しんでいた―ということになりそうです。

(追記)
他のレビュアーの皆さんも指摘しているとおり、本作の中の、明け透けな性に関わる表現(セリフ)には、実のところ、評論子も戸惑いを隠せませんでした。

しかし、それは、本作ではそのバックボーンとして随所に見え隠れする「死」に対して、その対極にある「生」(性の営み)を象徴し、浮き彫りにするための意図的な表現手法だったのだろうと、評論子は理解し、受け止めました。

そうは理解しても、評論子とて、やはり(石を投げれば当たりそうな、そこいらへんにゴロゴロと転がっていそうな、世間並みにはスケベ根性を隠しおおせない)ただの男性=オトコであってみれば、仮に女性の側からこんな明け透けな言葉をかけられたと仮定したら、とてもとても、平常心では居られなかったことでしょう。

言う方にしろ、言われる方にしろ、それをどちらもそつなく、淡々と演ずることができるのも、俳優さんであってみればのことなのでしょう。

そして、これも、映画作品というものならではの「表現手法」「表現力」なのだろうとも思います。

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talkie

4.0 偏ってしまうレビュー

2025年10月5日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

言わずと知れた村上春樹さんの代表的な小説
2度は読んだと思うが、映画になればそれは、作り手の解釈になる。
そして、小説に心が揺さぶられた場合、映画の解釈に純粋に焦点を当てることもまた難しい。
非常に悩ましい。

小説の「僕」という一人称に対し、映画も一人称ではあったものの、小説の雰囲気の多くが削り取られ、明確な視点、着地点という無理矢理感は否めない。
個々人の考える余地を、特定してしまっている。
やはりどうしても私自身の解釈と、映画の解釈をミックスするようにしかできないので、レビューは相当偏ってしまうだろう。

さて、
この物語、小説での冒頭 主人公ワタナベ(僕)は国際線に乗ってドイツに到着するが、流れてきた音楽がビートルズの曲、この作品のタイトルとなる。
しかしこの冒頭はどこにも帰結しない。
単にそれが、ワタナベが過去を思い出すきっかけとなっただけだった。
そして映画ではこの部分は削除されている。
その代わりに、最後にキズキと直子は死んだ当時のまま永遠になったことだけが伝えられた。

この恐ろしいほど純粋な恋愛物語を、村上氏は「Sex」というモチーフで表現した。
その是非が好き嫌いを分けるが、この物語においてSexは非常に重要な意味を持つ。

一般的に我々は、恋愛の延長線上にSexを考え、それを受け入れる。
少なくとも物語の「当時」はそうだった。
同時にその次代は多様化の始まりでもあった。

ワタナベは、視聴者の等身大だと思う。
だから、彼こそがキズキの自殺理由や直子の精神崩壊理由を探さなければならないことになる。

直子の深い苦悩は、キズキの自殺という喪失感だ。
ナオコが一度もキズキとSexできなかった理由は、「直子自身」にあった。
それは、誰もが経験する嫉妬のようなものだったのではないかと、この映画から感じた。

3歳からいつも一緒だったキズキと直子は、いわゆるソウルメイトのようなもので、逆に一つのソウルだったのかも知れない。
それは「男女」という関係ではなく、「ひとつ」 つまり「The ONE」だ。

この二人にはSexという一般的なものは不要だったし、ある意味自分と自分がSexするようなものだ。
この「The ONE」と言う絶対感と、人間であることの矛盾感キズキを襲ったのかも知れない。

それが、「浮気」のようなもので、それを直感的に知った直子は、自動的にキズキとSexできない状況になった。
もしかしたらキズキは、直子とする前に勉強しておきたかったのかも知れない。
これが最初のミステイクであり、二人を破壊することになった。

人間であるキズキと直子は、一つのソウルという強く枠で覆われながらも、人間という肉体をまとった矛盾のなかに、キズキのした不貞をどうしても受け入れられない「身体」となった。

直子の初潮とキズキの前でした号泣は、人間故の出来事であり、矛盾であり、不穏であり、予兆であり、神話のようでもある。

後にキズキは自分のした罪を明確に知ることになった。
その時点ですでに彼は、人間として生きていくべきではないと悟ったのだろう。
それが自殺となった。

一方、人間として生きていた直子にとって、それほどの喪失を感じたことなどなく、彼女は身体の勝手な反応という矛盾という苦悩に加え、喪失を味わうことになった。
もしかしたらそれは、長い時間をかけながら、人間としてゆっくり昇華できたのかも知れないが、ワタナベとの再会がキズキを思い出させ、何故できなかったのかという「問い」の答えを引き出していったのだろう。

それは、キズキとは絶対できなかったSexをワタナベとできたことに端を発する。
20歳の誕生日
それは、直子にとって来てほしくない日
理由は、キズキとの答えをまだ出せていなかったから。

しかし、行為後に訪れたじっくりとした理解
ワタナベは道程ではなく、何人の女性としているという直感
同じものを身体の何処かで感じてしまった記憶 キズキのこと

この神話のように絶対に守るべき貞節という「純愛」が失われたことは、その証明のために生まれたはずだという直子の根幹を破壊した。
直子とキズキは、お互いだけに許されたSexという、生前の約束のようなものあったように思う。

これを「純愛」のようなものとして、決して失わないように務めていたから、3歳で出会い、すべてを共有してきたはずだった。
記憶はないから、直感と身体でそれを感じるだけ。
それに気づいたときは、もう遅かった。

これは個人的解釈だが、作家はそこまで作り込んでいるはずだ。

この肝心な部分は語られることなく、他の登場人物を通して語られる。
その一人が礼子さん
彼女の7年前の悪夢は、映画では描かれていない。
しかし、ワタナベとのSexで昇華されたようだ。
礼子さんは形見分けの直子の洋装を着てワタナベを訪問した。
そこに宿っていたのが直子自身であり、Sexは人間としての「赦し」に変わる。

作家は、人間だけが欲求や行為としてのSexを、「感情」がコントロールしている不思議を描きたかったのかも知れない。
動物ではなく、霊的なものであればSexなど不要で、欲求もなければ行為もないだろうが、それに置き換わる何倍もの「喜び」があるのではないかと考えたのだろうか?

霊的な存在の人間と、動物的本能のある人間 この当たり前で矛盾した存在 「人間」
同時に生じる「苦悩」 存在そのものを殺してしまえる「自殺」という手段もまた人間的であるものの、霊的にも動物的にも矛盾している。
この矛盾の根源が、「Sex」という行為

宗教的視点や文化的視点、または教育、その他個人的思惑という色眼鏡によって、「Sex」というものがいかようにも見えてしまう。

そして苦悩に陥るのは、「OOべき」という思考 「あるがまま」を受け入れられず、「OOべき」ことができなかった自分に対する嫌悪感や慚愧の念、自己憐憫…
こうして人は自殺する。

映画では、最後ワタナベがミドリを選ぶようにできていた。
しかし小説では、ワタナベは直子の苦悩を受け取ってしまったかのように描かれる。

冒頭のシーン
あれは、外務省に就職した永沢さんを追いかけるようにドイツに行ったことを描いていたように思う。
それは、初美さんを自殺に追い込んだ永沢さんを軽蔑した自分自身が、結局直子を自殺させてしまったことに繋がってゆく。

初美さんに苦言を言われたスワッピング
心の中では永沢さんのことを軽蔑していながら、ワタナベ自身同じ穴のムジナだったことに気づいた。
ワタナベにはもう縋れるのは永沢さんだけになった。

奇しくも機内で聞いた「ノリウェイの森」によって、忘れるために行くはずのドイツへの旅が、思い出させるための旅になる暗示。
この矛盾
この作品は、とらえどころのない程難しい人間の性とも呼べる永遠の苦悩を描いている。

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R41

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