ジョン・デューク : ウィキペディア(Wikipedia)

第2代準男爵サー・ジョン・デューク(、1632年1月3日洗礼 – 1705年7月24日)は、イングランド王国の政治家。ホイッグ党に所属し、庶民院議員(在任:1679年 – 1685年、1689年 – 1690年、1697年 – 1698年)を務めた。

生涯

と妻エレナ(、旧姓パントン()、1600年またはそれ以降 – ?、ジョン・パントンの娘)の次男(長男は早世)として生まれ、1632年1月3日に洗礼を受けた。1649年5月15日にケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジに入学した。1671年に父が死去すると、準男爵位を継承した。

1671年にサフォークの治安判事と副統監に就任、1677年から1678年まで市長を務めた。市長を務めたことでオーフォードの地方自治体()との伝手ができたため、1679年3月、1679年10月、1681年の総選挙で連続当選した。(1679年3月の総選挙で成立した議会)では王位排除法案に賛成票を投じたが、以降は議会活動が全くなかった。その後は1683年12月に治安判事と副統監を解任されるなどデュークの勢力の切り崩しが始まったため、1685年イングランド総選挙で立候補せず議員を退任した。

ジェームズ2世の治世では1688年6月から10月まで短期間のを務めたが、審査法とカトリック刑罰法の廃止には反対したとされる。オーフォードではデュークの影響力を弱めてトーリー党の影響力を強めるよう自治体の勅許状が新しく発行されたが、同年の名誉革命の後は元に戻され、デュークも影響力を取り戻して1689年イングランド総選挙で当選した。デュークは同年にはサフォークの治安判事と副統監に復帰したが、2度目の議員期では議会活動が全くなく、1690年イングランド総選挙をもって議員を退任した。

1690年代のオーフォードではトーリー党とホイッグ党の政争が一層強まり、1693年には両党がそれぞれ自派の市長を選出する事態が起こっている。このときは法廷闘争の末トーリー党の勝利に終わったが、1695年イングランド総選挙で当選した第3代準男爵サー・アダム・フェルトン(トーリー党所属)の調停が実を結ばず、1696年の市長選挙は1693年と同じ状況になった。デューク自身はホイッグ党を熱烈に支持しており、1695年の総選挙でアダムとその弟(ホイッグ党所属)が妥協して選挙協力したときは2人の妥協を激しく批判した。1697年2月にアダムが死去すると、デュークは補欠選挙での出馬を目指したが、準男爵位を継承したトマスがを出馬させようとしたため、デュークは第8代ヘレフォード子爵エドワード・デヴァルー(トーリー党所属の有力者)の推す候補を支持しようとした。やがてトーリー党からの説得を受けて自ら出馬することを決め、同年3月の補欠選挙で当選した。3度目の議員期でも議会活動が少なく、病気がちになったため1698年イングランド総選挙で出馬しなかった。

以降は党派色が薄まり、1704年には中立の立場をとるようになったとされる。1705年に死去、同年7月24日にサフォークので埋葬された。息子エドワードが準男爵位を継承した。

家族

1670年までに三従兄弟にあたるエリザベス・デューク(、1725年ごろ没、エドワード・デュークの娘)と結婚、1男5女をもうけた。

  • エドワード(1694年ごろ – 1732年8月25日) - 第3代準男爵
  • エリザベス - 早世
  • ジェーン - ジョン・ブリーム()と結婚
  • アン - トマス・タイレル()と結婚
  • アラベラ() - モーリス・シェルトン()と結婚

出典

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2021/06/02 12:16 UTC (変更履歴
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