井上善夫 : ウィキペディア(Wikipedia)

井上 善夫(いのうえ よしお、1941年9月27日 - 2019年12月31日)は、山梨県上野原市プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、62ページ出身のプロ野球選手(投手)。

経歴

日大二高では2年生でエースとなり、秋の東京地区大会決勝に進む。日大三高の千原陽三郎と投げ合い1-0で完封、翌の春の選抜への出場を決める。選抜では、1回戦でこの大会準優勝の県岐阜商に0-9で大敗「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年。県岐阜商には高木守道がいた。同年の夏の選手権にも出場。準々決勝に進出するが、東北高の嶺岸征男、波山次郎両投手の継投の前に2-3で惜敗「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年。8月末からは全日本高校選抜の一員として石黒和弘、朝井茂治らとアメリカ西海岸・ハワイ遠征を果たす。秋の東京国体では決勝で平安高の藤野隆司に投げ勝ち、初優勝を飾った。

翌に西鉄に入団、力のある速球とスライダー、カーブ、シュートを武器とした。から先発陣の一角を任され、わずか1勝と期待を裏切るが、翌年からは先発、リリーフとも安定した成績を残す。のリーグ優勝に貢献、日本シリーズでは第5戦に先発するが敗戦投手となる。5月16日の対阪急戦でノーヒットノーランを達成。これで勢いに乗り、同年は17勝を挙げ、初めて規定投球回(16位、防御率3.23)に達するなど好成績を記録、翌も11勝を挙げる。それ以降は成績が上がらず、に巨人に益田昭雄、吉田勝豊との交換トレードで移籍するが、あまり出番はなく翌に自由契約となる。その後広島に移籍、球威の衰えをコントロールでカバーし、中継ぎとして活躍する。に現役引退。

その後、東京・恵比寿で飲食店を経営。2006年8月10日放送の『笑っていいとも!』のコーナー『夏休み特別企画 我が青春に悔いなし!!』に出演し、久々に公に姿を見せていた。

2019年12月31日に敗血症により死去したことが、西武ライオンズより公表された。

詳細情報

年度別投手成績

西鉄22400001----.00021351.15021603240020183.161.29
411500017----.125458110.1106103006860052463.751.23
521821087----.533674159.21651837381233080673.781.27
361442064----.600479114.2111103132740053443.451.24
60298311711----.6071031247.223417742710640102893.231.24
41255211115----.423702168.2158195030750072663.521.23
291100024----.33327766.26451413330026212.841.17
351000016----.14338694.09041906481030262.491.16
巨人4000000--------225.081000500335.401.60
広島7200001----.000499.1151502810665.792.14
27100011----.50011828.2242816210014134.081.12
25000001----.00010224.2182713900982.921.01
通算:12年37912919824758----.44845111080.21043912911446612904674073.391.23

記録

  • ノーヒットノーラン:1回 (1964年5月16日、対阪急ブレーブス戦、平和台野球場) ※史上30人目
  • オールスターゲーム出場:1回 (1964年)

背番号

  • 11 (1960年 - 1967年)
  • 28 (1968年)
  • 81 (1969年 - 1971年)

関連項目

  • 山梨県出身の人物一覧
  • 埼玉西武ライオンズの選手一覧
  • 読売ジャイアンツの選手一覧
  • 広島東洋カープの選手一覧
  • ノーヒットノーラン達成者一覧

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/06/07 12:09 UTC (変更履歴
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