スティーブ・コックス : ウィキペディア(Wikipedia)
チャールズ・スティーブン・コックス(Charles Steven Cox , 1974年10月31日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手(内野手)である。に横浜ベイスターズに所属した。
来歴・人物
MLB時代
モナーク高校在学時の6月1日に開かれたMLBドラフト5巡目でオークランド・アスレチックスから指名を受け入団。
アスレチックスではメジャー昇格できないまま11月18日にMLBエクスパンションドラフトでタンパベイ・デビルレイズへ移籍した。にはマイナーリーグ3A(AAA級)ダーラム・ブルズで打率.341・127打点の成績を残し首位打者・打点王の二冠王(25本塁打)を獲得してリーグMVPに選出されたほか、同シーズン終盤にはメジャー初昇格・同年9月19日にはメジャー試合初出場を果たし、翌からまで3年連続で100試合出場・2桁本塁打を記録した。特に以降はデビルレイズの一塁手レギュラーに定着し、2002年シーズンは148試合に出場して16本塁打を記録し、同年までのメジャー4年間では通算378試合出場・打率.262・39本塁打を記録していた。
横浜時代
12月9日、日本プロ野球(NPB)のセ・リーグ球団横浜ベイスターズは新外国人としてコックスをタイロン・ウッズ(韓国KBO・斗山ベアーズ)とともに獲得したことを発表したほか『読売新聞』2002年12月10日東京朝刊スポーツC面19頁「横浜が現役メジャーら新外国人2人獲得/プロ野球」、デビルレイズも翌12月10日に「コックスを横浜ベイスターズに譲渡した」と発表した『朝日新聞』2002年12月11日東京夕刊スポーツ面3頁「横浜が大リーグからコックス獲得 プロ野球」(朝日新聞東京本社・ロサンゼルス支局より)。横浜は同年に貧打に悩まされてリーグ最下位に沈んでおり、新監督・山下大輔が左の強打者の獲得を熱望していた。また当初は同年限りでヤクルトスワローズを退団したロベルト・ペタジーニの獲得に動いていたが失敗したため、代わりにコックスを獲得した。
契約内容は移籍金100万ドル・年俸275万ドル(当時の日本円で推定3億円 ないし3億2,000万円)の2年契約(3年目は球団側が選択権を持つオプション)で『中日新聞』2003年11月29日朝刊第一運動スポーツ面29頁「阪神がムーアを解雇 横浜・コックスも」、新外国人の年俸としては当時球団史上最高額であり、4番候補として大いに期待された。コックス本人としても、2002年の年俸28万ドル(当時のレートで約3,100万円)から約10倍となる大幅増であった。なお同時に入団したウッズは年俸5,000万円で、外国人枠(当時4人)の関係上ウッズは同じ一塁手の座を争う コックスの控えとして位置付けられていた。
ところが、宜野湾春季キャンプに参加していた2月7日に走塁練習でスライディングした際に右膝外側半月板を損傷した『中日新聞』2003年2月8日朝刊第二運動スポーツ面28頁「横浜の新外国人コックス膝負傷 手術なら開幕絶望」。その後2月12日に半月板の一部を切除する手術を受け、当初のチームドクターの見立ては「術後2週間でランニングができ、4週間後には実戦復帰できるため開幕には間に合う」というもので『中日新聞』2003年2月9日朝刊第一運動スポーツ面31頁「プロ野球キャンプだより 8日 横浜のコックス右ひざを手術へ 『開幕は大丈夫』」、同年3月14日にはオープン戦のヤクルトスワローズ戦(横浜スタジアム)に出場していたが『東京新聞』2003年3月15日朝刊第一運動スポーツ面21頁「プロ野球オープン戦 14日 斎藤、先発復帰へ要所ピシャリ 横浜 ピンチに併殺、連続三振 ヤクルト4-2横浜」(記者:木本邦彦)、手術で調整が遅れたことにより開幕一軍メンバーからは外れた『東京新聞』2003年3月27日朝刊第二特集面23頁「プロ野球あす開幕 セ・リーグの戦力分析 剛球 熱球 新球 強打 巧打 快打 横浜 投打に厚み増す」。内視鏡手術後の回復が遅く、一軍昇格は5月14日だった『読売新聞』2003年5月14日東京朝刊スポーツA面19頁「横浜のコックス、一軍へ/プロ野球」(読売新聞東京本社)。2003年5月15日の対読売ジャイアンツ(巨人)第7回戦(東京ドーム)でNPB初出場を果たすと『読売新聞』2003年5月14日東京朝刊スポーツA面19頁「140球無念 ヒサノリ、9Kも援護なし/プロ野球 横浜3-2巨人 東京ドーム」(読売新聞東京本社)、5月18日には対ヤクルト第9回戦(明治神宮野球場)で3回表、ウッズが花田真人から満塁本塁打を放った直後に 自身の打席を迎え、初球を右翼席へライナーで運んだ。これが18打席目でのNPB初安打『東京新聞』2003年5月19日第二朝刊運動スポーツ面18頁「セ・リーグ 神宮9回戦(ヤ6勝3敗) 横浜7-3ヤクルト コックス初安打【横浜】」・および初本塁打となる1号ソロ本塁打となった『中日新聞』2003年5月19日朝刊第二運動スポーツ面20頁「セ・リーグ第8節 18日 横浜『3』で連敗止める 横浜7-3ヤクルト 神宮(<9>ヤクルト6勝3敗)」。しかしデビュー14試合目の2003年6月2日・対広島東洋カープ8回戦(福島県営あづま球場)で2回表の走塁中に左脹脛を痛めて途中交代し『毎日新聞』2003年6月2日大阪朝刊スポーツ面19頁「[プロ野球]セ・リーグ 1日 横浜5-3広島 広島、5連敗 ★横浜・コックスが負傷交代」(毎日新聞大阪本社)、15試合目の2003年6月5日・対ヤクルトスワローズ11回戦(横浜スタジアム)にて中村武志の代打で出場したのが最後の出場機会となった。2003年6月22日には「2月に手術した右膝の検査・リハビリのため」米国へ一時帰国したが『毎日新聞』2003年6月22日大阪朝刊スポーツ面17頁「[プロ野球]横浜のコックスが一時帰国」(毎日新聞大阪本社)、そのまま復帰のめどが立たなくなり、同年に年俸5,000万円(自身の6分の1)で入団しながら大活躍を果たしたウッズとは完全に評価が逆転する結果になってしまった『毎日新聞』2003年8月10日東京朝刊スポーツ面20頁「プロ野球 横浜・ウッズ全開、目指せ日韓本塁打王」(毎日新聞東京本社・記者:仁瓶和弥)。最終的な成績は15試合出場・10安打・1本塁打・7打点と「現役メジャーリーガー」としての期待を完全に裏切る結果に終わり『毎日新聞』2003年12月4日東京夕刊スポーツ面12頁「プロ野球 故障続きコックス、横浜が自由契約に--ヒット1本3200万円」(毎日新聞東京本社・記者:仁瓶和弥)、右膝の回復が思わしくなかったことからシーズン終了後の2003年11月28日に契約期間を1年残して解雇され、同年12月2日付でNPBコミッショナー事務局から自由契約選手として公示された『中日新聞』2003年12月3日朝刊第一運動スポーツ面21頁「ムーアも自由契約 名簿公示 コミッショナー公示(2日)【自由契約選手】」(中日新聞社)。
このように全く戦力にならなかったコックスだったが、コックスと横浜の契約は2年契約を前提としたものだったため、コックス側は翌2004年分の年俸支払いも要求した。結局・横浜は2年契約分の年俸と3年目(2005年)の代償金も合わせて、総額で700万ドル以上を支払うことになった。解雇の理由としてチーム運営部長(肩書は当時)・笹川博は「中途半端な状態で置くと現場が起用法に困る」と述べたほか、球団社長・峰岸進も「授業料にしては高すぎた」とコメントしている。また『毎日新聞』記者・仁瓶和弥はこの解雇劇を2003年12月4日東京夕刊記事にて「コックスはヒット1本3200万円と(同年のセ・リーグ)最下位・横浜の低迷を象徴するお荷物選手になってしまい、球団幹部も『不良債権処理』とこぼした」と表現した。
横浜退団後
はどこにも所属せず、同年12月24日に古巣・デビルレイズとマイナー契約したが、翌シーズンはマイナーで19試合出場しただけで5月23日に解雇された。
選手としての特徴
MLB時代は球に逆らわない広角打法を武器に中距離打者として活躍しており、来日当初は球団ファンブックにて「NPBでは年間20 - 30本塁打も期待できるパワー。4番候補」と評されていた『Yokohama BayStars fan book 2003』(発行元:横浜ベイスターズ・雑誌『Yokohama BayStars』2003年4月号別冊)p.38。
詳細情報
年度別打撃成績
TB | 6 | 19 | 19 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | .211 | .211 | .263 | .474 | |
116 | 369 | 318 | 44 | 90 | 19 | 1 | 11 | 144 | 35 | 1 | 2 | 0 | 1 | 46 | 2 | 4 | 47 | 9 | .283 | .379 | .453 | .832 | ||
108 | 378 | 342 | 37 | 88 | 22 | 0 | 12 | 146 | 51 | 2 | 2 | 0 | 2 | 24 | 0 | 10 | 75 | 11 | .257 | .323 | .427 | .750 | ||
148 | 633 | 560 | 65 | 142 | 30 | 1 | 16 | 222 | 72 | 5 | 0 | 0 | 6 | 60 | 5 | 7 | 116 | 15 | .254 | .330 | .396 | .727 | ||
横浜 | 15 | 57 | 50 | 5 | 10 | 1 | 0 | 1 | 14 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 17 | 3 | .200 | .298 | .280 | .578 | |
MLB:4年 | 378 | 1399 | 1239 | 146 | 324 | 72 | 2 | 39 | 517 | 158 | 8 | 4 | 0 | 9 | 130 | 7 | 21 | 240 | 37 | .262 | .340 | .417 | .757 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB:1年 | 15 | 57 | 50 | 5 | 10 | 1 | 0 | 1 | 14 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 17 | 3 | .200 | .298 | .280 | .578 |
表彰
- MiLB
- インターナショナルリーグMVP(1999年)
記録
- NPB
- 初出場・初先発出場:2003年5月14日、対読売ジャイアンツ7回戦(東京ドーム)、5番・一塁手として先発出場
- 初安打・初本塁打・初打点:2003年5月18日、対ヤクルトスワローズ9回戦(明治神宮野球場)、3回表に花田真人から右越ソロ
背番号
- 71(1999年)
- 28(2000年 - 2002年)
- 3(2003年)
関連項目
- カリフォルニア州出身の人物一覧
- メジャーリーグベースボールの選手一覧 C
- 横浜DeNAベイスターズの選手一覧
外部リンク
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/12/01 07:10 UTC (変更履歴)
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