キット・ランバート : ウィキペディア(Wikipedia)

キット・ランバートKit Lambert、本名:Christopher Sebastian Lambert、1935年5月11日 - 1981年4月7日タウンゼント・p.299)は、イギリスの音楽業界人。ロックバンド、ザ・フーのマネージャーおよび音楽プロデューサーとして最も有名。

生涯

生い立ち~ザ・フーとの出会い

ロンドンのナイツブリッジ生まれニール、ケント・p.54。父親は著名な作曲家で指揮者でもあったコンスタント・ランバートであり、裕福な家庭で何不自由なく育った。10歳の頃に両親が離婚、以降は母親とその再婚相手の元で暮らす。離婚後の父・コンスタントは不遇であり、キットが16歳の頃に飲酒がたたり45歳で死亡している。オックスフォード・トリニティ・カレッジ卒業後、パリの映画学校で映画制作を学ぶ。またブラジルのジャングルを探検したりもしたが、この探検で友人を先住民に殺されるという経験もしている。

シェパートン・スタジオで助監督として働き出した頃、後に共にザ・フーのマネージャーとして活動することになるクリス・スタンプと出会う。スタンプはランバートとは対照的に労働者階級の出だが、実兄が俳優のテレンス・スタンプであり、ショウビズの世界にパイプを持っていたアルティミット・ガイド・p.166。イギリスとアメリカでブリティッシュ・ビート・ブームが沸くと、ランバートは有望なロックバンドを見つけ、そのドキュメンタリー映画を作ろうと、スタンプと共にまだ無名ながら将来有望なバンドを探すため、イギリス中のクラブを旅して回った。

ランバートとスタンプがザ・フーと出会ったのは1964年7月のことだったニール、ケント・p.53。ザ・フーのステージに圧倒されたランバートは即座にスタンプに連絡し、ザ・フーに自分達をマネージメント契約するよう接触する。当時ザ・フーはドアノブ業者のヘルムート・ゴードンと契約しておりニール、ケント・p.49、ゴードンがバンドのパブリシストとして雇ったピーター・ミーデンのマネージメントの元ハイ・ナンバーズと名乗って活動していたがニール、ケント・p.52、ランバートとスタンプは「俺達の方が業界に強力なコネがある」とメンバーを説得。最初は二人のことを疑っていたメンバーだったが、ミーデンのやり方に不満を持っていたこともあり交渉は成功、ゴードンとの契約を破棄させ、ミーデンから250ポンドの手切れ金でバンドのマネージメント権を頂戴したニール、ケント・p.55。

マネージャーとして

ランバートとスタンプはまずバンド名を“ザ・フー”に戻させ、さらにEMIのオーディションを通じ、キンクスのプロデューサーとして有名だったシェル・タルミーとの契約を取りまとめ、バンドの再レコード・デビューを実現させたニール、ケント・p.57。1965年にリリースされたザ・フーの再デビュー・シングル「アイ・キャント・エクスプレイン」は全英8位のヒットとなり、さらに同年の「マイ・ジェネレーション」が全英2位の大ヒットを記録し、バンドは一気にスターダムにのし上がった。短期間のうちにザ・フーを成功させたランバートとスタンプは、メンバーから厚い信頼を寄せられた。

後にロック界屈指のコンポーザーとして名を馳せたピート・タウンゼントだが、デビュー当時の彼はまだ作曲には関心が薄かった。タウンゼントに作曲の才能があることを見出したランバートは、1000ポンド以上もかけて彼に2台のレコーダーを買い与えると、タウンゼントは積極的に作曲を行うようになる。ランバートのことをタウンゼントは兄のように慕い、ランバートの言いつけは何でも守ったニール、ケント・p.74。デビュー間もない頃のタウンゼントは、インタビューで「車は4台持ってる」「服には40~50ポンドぐらいかける」と大言壮語を繰り返したが、これもランバートの指示によるものだったニール、ケント・p.72。

1966年、楽曲の版権をめぐりタルミーと裁判沙汰になり、バンド側はタルミーに今後5年間に渡り売り上げの5%をタルミーに支払うこととなったニール、ケント・p.103。この時の経験からプライベートレーベルを立ちあげる必要性を感じたランバートとスタンプは、1967年、トラック・レコードを設立、バンドを移籍させる。トラック・レコードの契約第1号アーティストは、ジミ・ヘンドリックスだったニール、ケント・p.131。この他、アーサー・ブラウンや「サムシング・イン・ジ・エアー」のヒットで知られるサンダークラップ・ニューマンもおり、さらにジョン・レノンとオノ・ヨーコの第1作アルバム『トゥー・ヴァージンズ』もこのレーベルから発売されている。このレーベルは1978年に70,000ポンドの負債を抱えて事業清算したニール、ケント・p.320。

ランバートの友人で、ヤードバーズやマーク・ボラン等数多くのロックミュージシャンを育ててきた音楽プロデューサーのサイモン・ネピア=ベルは、「キットはザ・フーを世界最大のロックグループにすると決心していた。彼はヤードバーズをマネージメントする私を妬んでいたが、同時に私もザ・フーをマネージメントする彼を妬んでいた。私がヤードバーズのマネージメントを任されたとき、彼らはすでに成功していたが、彼はザ・フーをゼロの状態から育て成功させたんだ」と語っている。ただし、「ビジネス面においては時代についていけていなかった」としており、かなりの浪費家でもあったことも明かしている。タウンゼントも「マネージャーらは“壊れた機材の修理費がかさむからバンドは金欠なんだ”と言ってたが事実ではない。私はいつもギター代は自分の財布から出していた。それにキットは衝動的で金遣いが荒かった」と自著に綴っているタウンゼント・p.135。

音楽プロデューサーとして

タルミーとの決別により、ランバートはバンドのサウンド・プロデューサーを兼ねることになる。タウンゼントは「キットは自然にプロデューサーになったわけじゃない。俺たちが心底プロデューサーを欲しがっていてやらざるを得なくなったんだ」と語っているニール、ケント・p.107。1966年から1970年までに発表されたザ・フーの全作品で、ランバートはプロデューサーとしてその名をクレジットされている。

ランバートはザ・フーの音楽面にも大きな影響を与えた。初期の頃、ランバートはバロック時代を代表する作曲家、ヘンリー・パーセルのレコードをタウンゼントに聴かせた。タウンゼントは「私の作曲家としての人生を変えたレコード」と自著に綴るほど大きな影響を受けたタウンゼント・p.76。組曲風の曲構成を持つ「クイック・ワン」(1966年のアルバム『ア・クイック・ワン』収録)では、ランバートが「短い曲を集めて一つの物語を作れ」と助言したことがきっかけで生まれたものであるニール、ケント・p.104。ロックオペラというジャンルを確立させたアルバム『トミー』も、サウンド面ではタウンゼントが中心となって作られたとは言え、ランバートは物語の筋書きを整理したり、オペラの形式についてアドバイスをするなど、相当な影響を与えているタウンゼント・p.139。タウンゼントは自著で「キットは一緒に仕事をしていて楽しい奴だった。レコーディングを面白いものにしてくれ、サウンドをより音楽的にしてくれた」と彼の働きを讃えているタウンゼント・p.89。

一方でタウンゼントは技術的な面においてはランバートを「アマチュアっぽい」とも評している。1967年のアルバム『セル・アウト』でのレコーディング中、ランバートはマスターの音量を針がレッドゾーンに振り切れるまで上げたりし、この頃にはレコーディングの仕組みについて理解していたタウンゼントは、このあたりからランバートの采配を疑いの目で見るようになったというタウンゼント・p.113。

ザ・フーとの決別

ランバートは1960年代からドラッグを使用していたが、70年代に入るとさらにドラッグの乱用が進み、これがザ・フーのメンバーとの関係が崩壊する一因となった。1971年3月、『トミー』に代わる新作ロックオペラ『ライフハウス』のレコーディングのため、ランバートはニューヨークのレコード・プラント・スタジオを手配するも、彼はヘロインにはまっており、作業をするメンバーの邪魔をするなどの奇行が見られるようになり、これまでのようなプロデューサーとしての仕事が出来なくなっていた。タウンゼントは彼のヘロイン禍がキース・ムーンにも及ぶことを恐れ、さらに自身のアルコール依存症も悪化し始めたため、レコード・プラントでの作業を早々に打ち切るアルティミット・ガイド・p.79。『ライフハウス』は結局完成せず、録音された作品はアルバム『フーズ・ネクスト』として世に出ることになったが、プロデューサーのクレジットにランバートの名はなかった。以降ランバートとスタンプは、部下のピーター・ラッジやビル・カービシュリーに仕事の一切を任せるようになり、メンバーとの関係はますます希薄になっていったニール、ケント・p.254。ネピア=ベルも「70年代に入ってからキットはそれまでのような頼もしさが消え失せてしまった」と回想している。

1973年、アメリカで得られた収益からの印税がメンバーに支払われていなかったことが発覚する。これより1年前にロジャー・ダルトリーが会計監査を使ってバンドの口座を調べており、使途不明金があることを把握していたニール、ケント・p.253。当初タウンゼントはランバートへの忠義心がまだ残っていたこともあり彼と争うことを拒んでいたが、支払われるべき印税の小切手をランバートが勝手に無効にしてしまったことでついに堪忍袋の緒が切れ、タウンゼント、ダルトリー、ジョン・エントウィッスルの3人はランバート、スタンプの二人を告訴した(ムーンはこの争いに加わることを拒否した)。1974年より二人に代わり、ビル・カービシュリーが事実上のバンド・マネージャーとなるタウンゼント・p.226。

ランバートもまた1975年の映画『トミー』の収益から自身に支払われるべき報酬が支払われてないとして、映画製作に携わったスタンプ、カービシュリー、ロバート・スティグウッドを相手に告訴することをニュー・ミュージカル・エクスプレス紙のインタビューで打ち明けた。これによりランバートとザ・フーの不和が公になるニール、ケント・p.285。同年、ランバートとスタンプは正式にザ・フーのマネージャー役から降ろされることとなった。なお未払いの印税は、タウンゼントの楽曲の出版権を管理している会社の社員が、勝手にその一部をアメリカの音楽業界人のアラン・クレインの会社に売り渡していたことが判明したニール、ケント・p.308。1977年1月にタウンゼント、スタンプ、クレイン、ランバートの代理人の4者による協議の結果、クレインに手数料を支払うことで印税の凍結を解除し、さらにザ・フーの楽曲の版権をバンドの関連会社に返却することで解決したタウンゼント・p.261。

スタンプはザ・フーのマネージメントを解除された後もメンバーとの交流を続け、タウンゼントと音楽出版を行ったりタウンゼント・p.441、2008年のケネディ・センター名誉賞授賞式にダルトリーに招かれて夫婦そろって出席するなど良好な関係を保ったが、ランバートはこれを以ってザ・フーとの関係を絶った。その後はチェルシーというパンク・バンドのプロデュースも手がけたが、やがて音楽業界からも身を引き、以後は実家の大邸宅に引きこもり、美少年達をはべらせながら(彼は同性愛者だった)酒とドラッグに沈溺する自暴自棄な生活をおくった。1981年、薬で意識が朦朧とした状態で自宅の階段から転落し頭を強打、4月7日に搬送先の病院で死亡した。奇しくも父・コンスタントと同じ満45歳での死だった。5月11日に追悼式が行われ、タウンゼントが弔辞を読んだ。式ではロンドン・シンフォニー・オーケストラが『トミー』から「序曲」と「ピンボールの魔術師」、ランバートの父コンスタントの作品から「リオ・グランデ」、そしてヘンリー・パーセルの「ゴーディアン・ノット・アンタイド」を演奏したタウンゼント・p.300。

人物

ネピア=ベルは「キットの周りではいつも笑いが絶えなかったが、彼は気持ちの乱高下が激しかった」と回想している。彼の言動や行動はかなり無軌道なものであったらしく、ある時、アメリカである人物と大論争を交わした後、その相手に4文字言葉でいっぱいの電報を送りつけようとしたという。ランバートは同性愛者であったが、そのことについて慎重な態度をとることもあれば非常に率直になることもあったという。ネピア=ベルはランバートと一緒にタクシーに乗っていた時、窓の外を眺めていたランバートが突然窓を叩き「止めろ!あの若い男とヤリたい」と言い出したというエピソードを打ち明けている。

タウンゼントは「キットと私がいかに上手くやっていたかなんて、当人同士でなければわからないだろう」と懐古している『フーズ・ネクスト』デラックス・エディション(2003年)付属のピート・タウンゼントによるライナーノーツより。。タウンゼントにとってランバートは単なるマネージャーやプロデューサーで終わるものではなく、自分の創造性を広げてくれる必要不可欠な存在だった。二人の間に亀裂が入るようになったのは、1971年の『ライフハウス』制作時のことだった。『ライフハウス』は『トミー』を超える新たなロックオペラとしてタウンゼントが考案したものであり、アルバムのみならず映画、劇場といったあらゆるメディアを駆使した壮大なプロジェクトになるはずだった。だが当時ランバートは『トミー』の映画化に執心しており、『ライフハウス』には一切協力せずタウンゼントを落胆させたニール、ケント・p.224。さらに『ライフハウス』制作中、タウンゼントはオフィスでランバートが自身の陰口を叩いていたのを偶然耳にしてしまい、ショックでビルの上階から飛び降りそうになったというタウンゼント・p.191。結果的に『ライフハウス』はランバートとタウンゼントの信頼関係を壊すものとなってしまった 。

ランバートは1973年の『四重人格』の製作の最初の方までは関わっていたが、ここでも奇行が目立ち、タウンゼントが不在時に録音したテープを勝手に消去してしまった。これにはタウンゼントもさすがに激怒し、これを機にランバートを解雇したタウンゼント・p.216。タウンゼントは「キットはおかしくなってしまった。彼は自分の役割を食事の運搬係だと思い込むようになったんだ。奴を殴ってやりたかったよ。実際1度は殴ったかもな」と振り返っている。しかし、それでもランバートの不幸な最期には胸を痛めており、彼の死後、タウンゼントはランバートに捧げる十四行詩を書いているタウンゼント・p.310。

ランバートと『トミー』

ネピア=ベルは、父・コンスタントの不遇の死がランバートに大きな影響を与え、そして父の名誉を回復することを何よりも所望していたとしている。コンスタント人生最後の作品となったバレエ「ティレジアス」は批評家から軽蔑され、彼は失意の中で死亡したが、ランバートにとってはロックオペラ『トミー』を成功させることこそが父の名誉を挽回する何よりの機会と考えていた。『トミー』が全英2位、全米4位の大ヒット作となり、批評家筋からも絶賛されたことにより、ランバートは父を軽蔑した世間への復讐を果たしたのだとネピア=ベルは語っている。

ランバートは『トミー』のレコーディングを始めた1968年当時から映画化の構想を温めており、独自に「TOMMY 1914-1984」と題した脚本を書き進めていた。ユニバーサル・ピクチャーズと映画化の契約も進んでいたが、彼の脚本が一貫性に欠くとして、結局ユニバーサルからの資金提供の話は白紙となってしまう。1972年、バンドに『トミー』のオーケストラ・バージョンを制作したいというオファーが来た時、タウンゼントはすぐさまゴーサインを出したが、これにランバートは深く傷ついたという。アルバム『トミー』製作時、ランバートはオーケストラを起用することを提案していたが、ライブでも再現可能なものにしたいと考えていたメンバーはこれを拒否していたためであるタウンゼント・p.197。しかし、このオーケストラ版とそれに伴うチャリティ・ライブが評判を呼び、『トミー』映画化を実現させる一押しとなったDVD『トミー・コレクターズ・エディション』(2004年)付属ブックレットのマット・ケントによるライナー・ノーツより。。

ヘロイン漬けになりまともに仕事もこなせなくなった1973年の段階においても、ランバートは自身が映画『トミー』のメガホンを取ることを望んでいたというタウンゼント・p.224。しかし、スタンプとカービシュリーが自分を差し置いて、スティグウッドと『トミー』映画化の交渉をしていたことを知ると、彼はその交渉をつぶそうとしたという。『トミー』映画化のために最も尽力したランバートだが、実際の映画ではエンドロールに小さく名前が載せられるだけに終わった。

伝記映画

2012年、Hollywood Reporterがランバートの伝記映画の製作が計画されていることを報じた。報道ではケイリー・エルウィスが監督を務め、タウンゼントとダルトリーが全面協力をすることも明かされている。

2014年、ランバートと相棒のスタンプの二人にフォーカスしたドキュメンタリー映画「ランバート&スタンプ」が公開された。監督はジェームズ・D・クーパー。プレミアは2014年のサンダンス映画祭にて行われた。日本では2016年に公開。2017年にはDVD/ブルーレイでソフト化。映画にはスタンプ本人も協力したが、彼は映画の完成を見ずに、2012年11月23日に70歳で死去した。

注釈

出典

参考文献

  • 『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』(アンディ・ニール、マット・ケント著、佐藤幸恵、白井裕美子訳、シンコーミュージック刊、2008年)ISBN 978-4-401-63255-8
  • 『フー・アイ・アム』(ピート・タウンゼント著、森田義信訳、河出書房新社刊、2013年)ISBN 978-4-309-27425-6
  • レコード・コレクターズ増刊『ザ・フー アルティミット・ガイド』 (ミュージック・マガジン刊、2004年)

外部リンク

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